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<東京怪談・PCゲームノベル>


a mistake
あるいは、ある定食屋においての話






 歌川百合子は、運転席を降りて行く兎月原正嗣の姿を見た。
 それから、目の前にある建物を見た。
 小汚い定食屋だな、という印象が頭をよぎった。
「百合子」
 いつまでたっても助手席から降りてこないのを不審に思ったのか、兎月原が開いたドアから顔を突っ込むようにして呼んでくる。「あ、うん」と返事を返し、ドアレバーに手をかけたものの、やっぱりどうにも腑に落ちない、という表情を浮かべた。彼を見る。
 端正な顔立ちをした、どちらかといえば金持ちの、高級ホスト経営者の彼を、見る。
「え、ここなの」
「え、うん」
 とか、飄々と頷いた顔と、目の前の建物を交互に見比べる。
「え、何か、これって」
「うん」
「言っていいのかなあ」
「なに」
「うんじゃあちょっともっかい乗って、言うし」
「はい」
 母親にしかられるのを予感している息子のような表情で、戸惑いながら、運転席に乗り込んでくる。「えーっと、何?」
「ドアしめてみ」
「はい」
 ばたん、と控えめにドアが閉められる音がする。
「兎月原さんさ」
「うん」
「これ何か、私に対するすっごい地味な嫌がらせかな」
「これって?」
「これ」
 百合子は、若干ムキになったような顔つきになり、目の前の定食屋を指さす。「これだよ」
 え? というような表情を浮かべた後、ああ、と納得したような表情になり、ちょっと、笑う。
「笑うな」
「いや、違うって」
「じゃあ何、これ。どういうこと。何であたしわざわざ誘っといてこんなボロっちいところでご飯食べさせようとかすんの、仮にも女の子だよ、あたし」
「ちが、だから」
「しかも、上下ジャージだし。いやもうその時点でちょっとあれ? とか思ったけどさ。いや、ジャージ着てもいいけどさ。毎日お洒落しろとは言わないよ。いいよ別に、着たって。でもさ、何、あたしと出かける時に着ることないんじゃないの。あれでしょ、あたしのこと、馬鹿にしてるんでしょ。コイツなら別にジャージで定食屋でもいっか、って思ってんでしょ」
 口を挟む隙間すら与えず勢い良く話し、やっとそこで息を吸い込む。拗ねたような表情のまま、「いくらなんでも傷つくよ、あたしだって」とか、呟いて、スン、とか鼻をすする。それから、兎月原を見る。
 どうやら途中辺りから反論するのを諦めていたらしく、カーウィンドーの境目辺りに肘をつきながら、こちらを見ていた。憎らしいことに、薄っすらと笑っている。
 人が必死に話してるのに、薄っすら笑うとはどういうことだ、と思わず掴みかかりそうになる。
「今の、可愛いー」
「うわ今すっごい、殴りたい」
「いいよ、殴っても」
 ほれほれどうぞ、とでも言うように、頬を差し出してくる。うざ、と思って向こうへ押しやった。むしろ、苛立つ。
「人の話、聞いてないんでしょ」
「いやごめん何かもう途中から、文句みたいなやつは聞いてなかったけど」
「聞けよ!」
「傷つくよ、クスン、は可愛かったなあ」
「可愛いとか言われても許さないから」
「いやあ、可愛いかった。今年一かもしんない」
「ふうん、だ」
「もっかいやってよ、傷つくよ、クスン」
「やるわけない」
「頼むよー、やってよ」
 にやにやと笑った兎月原が、顔を近づけてくる。また、うざ、とか思って、向こうへ押しやった。でも何か、まんざらでもないなあとか思って、「傷つくよ、クスン」とか、調子に乗ってもう一回やって、どうよ、みたいなちょっと得意げな顔で隣を見やると、物凄い冷めた目で、見られた。
「あれ何それ」
 その反応に、ちょっと、焦る。
「いや、な、何それって、や、やれって言ったじゃん」
「いや言ったけどさ。全然違う。何それ、全然可愛くない」
「え、いや何か、同じように、やったはずなんだけど」
「だって全然可愛くないだもん、えー、何でだ」
「何でだ、って知らないよ」
 濡れ衣を着せられた人はきっとこういう顔になるのかもしれない、と思う。「同じようにやったって」
「いやさっきのが見たいんだって」
 えー、とちょっと考え、同じが分からない、とまた、焦る。
「うわすっごい残念な気分」
 本気で落ち込んだ様子を浮かべ、兎月原がハンドルに額を預ける。そんな本気で落ち込まれたら何か、全然悪いことした覚えとかないのに、物凄い悪いことをしたような気分になってきて、どうしよう、と思った。
 車内がちょっと重い空気になる。
「あれ、どうしよう」
 しおらしく、言った。「何か、ごめんね」
「じゃあ、許してあげるから」
「うん」
「俺のことも許して」
「うん、いいよ」
「え、いいの」
「うん、いいよ、何か、いいよむしろどうでもいいよ」
「百合子ってばお人よしだなあ。だから、好き」
「お人よしって褒められてんのかな」
「だからさ、とりあえずさ、俺が言いたかったのは、あの、違うんだよ。百合子だから舐めてるとかじゃ全然なくてさ、見せたいものがあったわけ」
「見せたいものって、何」
「店員さん」
「店員さん?」
「ほら、今度俺が、アトリエ村にオープンさせる店のさ」
「ああ、バーの」
「そう、そこのバーテンにどうかなって人材を見つけたから」
「はあ」
 とか、何か、いい加減な相槌を打ったものの、店が視界に入ると、こんな店にか、と疑わしい気分になる。「そうなんだ」いるとは思えないけど。
「だから、一緒に入って。大丈夫、味は保証するから」
「まあ、何でも、いいけどさ」
 百合子はバッグを掴むと、助手席のレバーを引いた。「とりあえず行こうよ、何か。ぐちゃぐちゃ言っててもしょうがないし」
 そもそもぐちゃぐちゃ言いだしたのは自分ではないか、ということはすっかり忘れ、あっけらかんと、言う。


 店内に入ると、意外に小奇麗で、安心した。
 外装の印象から、密やかに垂れ下っている蜘蛛の巣を見つけてしまったらどうしよう、とか、前のお客さんの残した食べカスがテーブルの上に乗っていたらどうしよう、とか思っていたけれど、座ったテーブルはきれいにふきあげられていたし、壁の隅に蜘蛛の巣が垂れ下っていることもなかった。
 テーブルの端っこに、お箸などが入った箱と一緒に球形の物体が並べてあって、思わず見やる。
「うわこれ、懐かしくない?」
「え、何それ」
「え、兎月原さん、知らないの」
 まるい球体を手に取り、レバーなどを弄くって、声を上げる。「占いだよ。正座占い、えー、まだこんなん置いてある店あるんだー」
「ふうん」
「あれ、何この温度差」
「だって俺それ知らないもん。懐かしみようがないよ」
「なんか何それ、それさ、逆だったらすごい怒ってるよ、たぶん」
「なに逆って」
「あたしが反対に全然興味とか示さなかったら怒るじゃん、いつも」
「いやいつもは怒ってないよ」
「じゃもういいよ」
「丸投げかよ」
「何かもう面倒臭くなっちゃった」
 球体の物体を元の場所に戻していると、「いらっしゃい」とか突然隣から声がしたので、百合子はちょっと、ぎょっとした。横を見ると、小柄な男性が立っている。染みのついた白衣を着て、銀色のお盆を持ち、テーブルに水を置いているところだった。
 目が合うと、店員さんは、顔を少し前に突き出してきた。会釈のつもりだったのだろうけれど、会釈をするべき時に動かす部分とは、根本的に、間違っているように、見えた。「どーも」と、無精髭に覆われた唇が言う。中途半端に横分けされた黒髪と相まって、それは、無造作なお洒落というよりも残念なことに、不潔な印象があった。
「あ、ど、どーも」
 戸惑いながら、兎月原を見る。
 それでその美貌を目にした瞬間、何かちょっと笑いそうになった。すんでのところで、堪える。兎月原の顔は、むしろ、整い過ぎていて変だ、と感じていた。不自然だったし、不適切でもあるように思えたから、すぐにでもこの美貌にモザイクをかけるか、もしくは、この店員さんが世の中の不平を恨み、不満を漏らし、兎月原を刺そうとしても許してやるべきだ。というよりむしろ、刺された方がいいんじゃないかとすら、思う。
「俺、サバの味噌煮定食」
 手書きのお品書をちらっと眺めて兎月原が注文をする。「百合子は?」
「あ、えーっと」
 メニューを眺めて「コロッケ」と呟く。「あの、コロッケ定食」
 はい、と言ったつもりだったかもしれないけれど、限りなく「へい」に近い発音で頷いた店員さんは、またあの奇妙な会釈をして、立ち去ろうとする。そこを、兎月原が呼びとめた。
 抜き出した煙草を、箱の側面でとんとん、と叩きながら、言う。
「今日、吉田君、来る」
「ああ」猫背の店員さんは背後にかけられた時計を振り返り、また兎月原に向き直る。「もう、来ると思いますけど」
「ああそう、ありがとう」
「どうも」
「吉田君って、誰?」
 店員さんが立ち去ると、百合子は切りだした。
「俺だけの時は水なんて出されたことないよ」
 兎月原はそれには答えず、笑いを堪えているみたいな顔つきで言った。
「百合子が居るからかなあ。気に入られたんじゃないの、可愛いから」
「かもね、ありがたいことに」
「えー、本当にそう思ってるのー」
 嫌なことを言う。
 偽善を指摘されたような居心地の悪さがあった。嫌な男だなあ、とか思うと、無意識に顔が歪んでいた。
「ほんと性格悪いよね、友達とか居ないんじゃないの」
「友達じゃない人に見せないもん、別に、性格悪いところとか」
 何食わぬ顔で言って、水を飲む。
「あたし、映画とか見ててさ。どんなに腹立っても、向かいに座ってる男の人に水はかけないだろーとか、思ってたのね。でも、今、あ、水ありですね、とちょっと思っちゃった」
「うそー、思っちゃったー?」
「思わせて頂きました」
「だって俺、水かけられたこと何回もあるからね」
「あるのっていうか、何回もあるの」
「もう何か寸前の空気で、あ、きますね、とか分かるくらいだしね」
「プロじゃん」
「いやプロって何だよ」
 あれ、そこは乗ってくれないんですね、とか、ちょっと落ち込む。落ち込んではみたものの、その先はないので、店の一角に置かれた雑誌や漫画の棚を漁ってみることにした。いつの物とも分からない週刊誌を取ってくる。テーブルについて、雑誌を開いた。
 巻頭のカラー写真のページをぱらぱらとめくり、白黒ページの記事を読む。
「あ、この事件」
 呟いた声に反応してか、兎月原が「え?」と覗きこんできた。半年前に起きた行方不明事件の記事を指さす。案の定というべきか、兎月原「ああ」と興味なさそうに体を戻した。「それね」
「うわ興味なさそう」
「別に、そうでもないけどさ。何がびっくりって、半年前の雑誌がまだ平然と置いてあるっていうのがびっくりだよね。週刊誌でしょ、それ。どんなけ放置してるんだって」
「結局この人どうなったのかな、友永有機」
 半年前、その事件が話題になったのは、行方不明になった人物の外見が余りに美しかったことも無関係ではなかったと思う。友永有機は魅力的な外見をしていた。何処か作りものめいた印象すら抱かせるような整った顔には、知性と気品が滲んでいた。肩書は作家となっていたが、さほど商業的に売れる小説を書いていたわけでもないらしく、その映像は殆どなかったけれど、何処から引っ張り出してきたのか、家庭用のビデオカメラで撮影されたような荒い画像の映像が、何度も何度も繰り返し登場していた。
「さあ? どうにもなってないんじゃないの」
「本当に誘拐だったと思う? ほら、何か、証言者が現れて話題になったじゃない」
「あのピエロのマスクがどうとかいう奴だろ」
「そうそう」
「話題にはなってないんじゃない」
「なってたよ、少なくとも私の中では話題だったもん」
「じゃあたぶん、百合子だけだよ」
「違うって」
「だいたいあの事件だって、ただの失踪なんじゃないの。状況は限りなく失踪に近い状態だったって、警察も言ってたし」
「誘拐と失踪の両面から捜査する、って言ってたんだよ」
「どっちでもいいけどさ」
「やっぱり、誘拐だと思うよ。テレビで言ってたもん」
 当時の報道を思い出しながら、言う。どんなけ報道を鵜呑みなんだよ、と兎月原が苦笑する。「テレビは暇をつぶすために見るもので、教養にはならない」とも、言った。
「それは不当な扱いというやつだよ、テレビが怒ってくるよ」
「いやテレビは怒ってこないよ」
「じゃあもし、こんな美しい人が失踪したとしてよ。どんな理由があるんだと思う?」
「興味ないね」
 余りにも関心が感じられない兎月原の返答を聞きながら、百合子は、この人がこんなにも知らんぷりをするのは、嫉妬のせいではないか、と思っていた。だいたいが、自分より優れた容姿の男を目にする機会などさほどなく生きてきた、というような節がある。少なくとも友永有機は、兎月原贔屓の百合子から見ても、同等かそれ以上の魅力を持っていた。カリスマ性と言ってもいい。
 メディアはこの美しい男性の行方不明事件に、異常なほどの興味を示した。メディアは常にいろんなことに異常なくらいの興味を示しているけれど、とにかく連日、このニュースについて目にした記憶がある。
 いつの間にか目にしなくなり、すっかり忘れていた。けれどたぶん、まだ解決もしていないはずだった。メディアは興味を示す時も異常な熱気を見せるけれど、冷めるのも早く、あれ? そんなことありましたっけ? くらいの勢いで、次の事件にまた、興味を移していた。
「売れない作家なんかやってるよりも、もっと相応しい仕事がありそうだけど」
「じゃあそう本人に言ってやれよ」
「言えたら言うよ」
「絶対、言わないくせに」
「言うって。何で作家なんかやってるんですか。勿体ないですよ、容姿の無駄遣いですよ」
「ふうん」
 可笑しそうに兎月原が唇を歪める。人を馬鹿にしたように、笑う。「言えたら、いいね」
 その笑いにむかついたので、何か言い返してやろうかと思案していると、「お待たせしました」という声が聞こえた。先程の男性とは違う声だった。百合子は顔を上げる。痩身の青年が立っていた。
 普遍的な印象と、柔らかさのような印象を同時に、感じた。平凡な顔つきの青年だったけれど、野暮ったい印象はなく、どちらかといえば、洗練されたお洒落な雰囲気を感じる。
 真っ黒な黒髪の前髪が、眉の下辺りで切りそろえられていた。
「やあ」
 と、兎月原が軽く手を上げる。まるで、顔見知りに挨拶をするかのようだった。対して、店員さんの返答は、素っ気ないとはいかないまでも、ある一定の距離感のようなものが滲んでいた。戸惑ったような表情で、「毎度、どうも」と頭を下げる。
「彼、吉田君」
 店員さんを指示し、百合子に紹介する。
「あ、どうも」
 はあこれが吉田君とかいう人なんですね、と理解はしたけれど、だから、どうなのだ、と思う。
「彼女は、俺の所で働いてくれてる、歌川百合子さん」
「あ、どうも、はじめまして吉田です」
 所在なさげな様子で、律義に挨拶をする。どうして俺、こんな所で自己紹介とかしてるのかなあとか、考えていたとしてもそれを絶対言いだせないに違いない、というような雰囲気の吉田を見ていると、思わず、「仕事中に、話しかけたら悪いんじゃないの」と、庇護するようなことを言ってしまっていた。それから、ふと、従弟の廣谷俊久を思い出す。のんびりとした、何処か人より一歩くらい出遅れてしまいそうな雰囲気や、それでもそれも仕方ないよね、とか、諦めそうな様子が、彼に似てなくも、なかった。
 そういえば、背格好も同じくらいだ。
「考えてくれた? 俺の店で働くの」
「はあ」
 百合子の忠告などお構いなしに、兎月原が話を進める。
「でも僕には何ていうか、たぶん、勤まらないんじゃないかと。前にも、言いましたよね?」
 すると彼は意外にも、きっぱりと兎月原の申し出を断っていた。振られるなんていい気味だ、と完全に傍観者の気分で、と思う。兎月原は、無反応にサバの味噌煮をより分け始めた。でた、聞こえないふり、とか、笑いそうになる。
「じゃあ、すいません、ごゆっくり」
 吉田青年は、おずおずとお辞儀をすると、さっさと引っ込んで行った。
 ふ、と思わず、噴き出す。
「笑うな」
「いい気味。振られてたね、兎月原さん」
 去って行く店員さんを見送り、お箸を割った。コロッケを掴むと、サクッとした感触が伝わってくる。
「うわ凄い美味しそうなんだけど」
 コロッケを口に運んでほくほくと口を動かしながら、そういえば従弟のトシ君は、今頃何を食べてるんだろうな、まさかまた駄菓子ではあるまいな、などと、考える。



 緑色の丸椅子だった。座面のビニルは、破れている。いつ見ても、安っぽいな、と思う。祖母がまだそこに座っていた頃、座面が破れているということは誰も知らなかった。もしかしたら、彼女自身も知らなかったかも知れない。
 座布団というべきか、あるいは、敷物と呼ぶべきなのか、良く分からない布が敷かれてあったからだ。何重にも重ねられてあるように見え、赤い、というか厳密に言えば赤茶色に変色していたのだけれど、印象がある。
 その、勢いこそないけれど、何処か鷹揚な温かみのある色は、そのまま、百合子が抱く祖母の印象と合致していた。
 ジーンズ姿にサンダルを引っかけて、文庫本を片手に、駄菓子屋の店先に出てきた。緑色の殺風景な座面に腰を下ろすと、軽く、空気の抜けるような音がする。まるで、現在の店の店主を真似したのではないですか、とでもうような、張り合いのない、朗らかさと気弱さが混じったようなその音が可笑しくて、少し、笑う。
 足の先っぽを軽く絡ませ、文庫本のページを開く。ほんの少しの間だけの店番だった。数分か、数十分か。店の奥に続く部屋から、従弟の廣谷俊久がぼそぼそと話している声が聞こえる。電話に向かい話をしているので、相手の声は聞こえない。
 二行ばかり文字を追ったところで、ふと、気持ちの良い風が吹いてきて、百合子は顔を上げた。
 まず目に飛び込んで来たのは、田園の風景の向こう側に広がる、ゆったりとした、大きな空だった。電線が少なく、視界を遮るような高い建物もないためか、やけに広々と雄大に、見えた。小型の鳥が、ひょろひょろと、空を横切って行く。
 百合子はまだ二行しか読んでいない文庫本のページを閉じて、薄く雲が溶けているような、快晴の空を眺める。こんな景色が目の前にあるというのに、文庫本などに目を落としているトシ君は、贅沢な奴だ、と思う。もしかしたら彼もまた、こうして一人の時間に、ぼんやりと空を眺めているのかもしれない。そして飽きたらまた、自分の好きな文庫本を読むのかも知れない。益々、贅沢な奴だ、と思う。
 商品が並ぶ棚の側面に体を預けて、暫しぼんやりと、空を仰ぐ。


「そんな場所に椅子引っ張ってきて座ったらさ、何か売り物みたいだよ」
 背後から呆れたような声が聞こえ、百合子は振り返った。
「何が」
「だから、百合子姉ちゃんが売り物みたいだって」
 百合子は、廣谷の顔をぼんやり眺めた。
「いや、それないよ」
「いや知ってるよ」
「自分が言ったくせに」
「まさかこんな冗談が通じないなんて思わなかったんですよ」
「でもさ、売り物ですって言っても案外、売れるかもね。高値で」
 はあ、とか何か、いい加減な相槌を打ちながら、廣谷が愛想笑いを浮かべる。
「うわ、感じ悪い」
「何がだよ」
「今、売れるわけないじゃんって思ったでしょ、じゅうくうさいの売れ残りのくせにって、思ったでしょ」
「いや、にじゅうくうさいて」
「二十九歳」
「そんなこと思ってないって」
「別に、思われててもいいけどね。トシ君ごときになら」
 百合子の真横に立った廣谷が、もうごときでも何でもいいんですけどね、とでもいうように、押し出すようにもたれかかってくる。「ちょっと」
「なによ、もたれないでよ」
「いや、退いてよ」
「何で」
「何でって、店番するからだよ。椅子、これしかないんだから」
「あれ、出かけるんじゃないの?」
 痩身の姿を横目に見やる。その顔が微妙に歪む。「何で、出かけないけど」
「用事あるって言ってたじゃん」
 廣谷は、面倒臭そうな表情を浮かべたものの、聞こえなかったみたいに知らん顔をした。
「用事あるって言ってたよね、今さっき、電話で」
 百合子は返事を待つ。沈黙が続く。
「あれ? 言ってたよね、今さっき電話で」
「いやもうしつこ」
「無視するからでしょ!」
 百合子が突然激怒したので、廣谷はぎょ、とする。「せめて言ったとか言ってないとか何とか言ったらいいでしょ!」
「いやどんなけ怒ってんだよ」
「何か無性に苛っときたんだよ」
 はああ、とか、何か、呻いた廣谷は、百合子を椅子から立ち退かせることを諦めたのか、隣に蹲った。膝を抱えるようにして、座る。
「もういいんだよ」
「新居君だったんでしょ、電話の相手」
「だからもういいんだって、その話は」
「あ何だ、振られたの?」
 廣谷は、またそういう余計なことを、とでも言わんばかりの目で、百合子を見上げ、また顔を背ける。「そうそう、振られたの」
「二人とも男の子のくせに」
 腕の側面辺りを、脛で蹴る。「何言ってんの馬鹿じゃないの」
「いやアンタが言いだしっぺじゃないですか」
「だいたいさ、もしそれが本当だったとしてさ。自分が振った相手のところに普通に電話してくるって、どんな神経してるわけ。どんなけ空気読めない奴なんだよ、あのへっぽこ絵描きってば」
「いや。へっぽこ、とかは言うなよ」
「あ」
 にやつきながら、拗ねたような顔で窘めてきた相手を見やる。「ちょっと苛っときてる」
「うるさい」
 いやもうまさに、それが鬱陶しいんですよ、とでも言わんばかりの表情で、ハエでも払うかのような手つきをする。
「だってさ、私の可愛い従弟のトシ君を傷つけるなんてさ、黙ってられないじゃない、百合子姉ちゃんとしては」
「別に、傷つけられてないし」
「じゃ何で、好きな人に遊びに誘われてんのに、嘘とか吐いて断ってんのさ。何かないとそういうことしないでしょうよ。何、駆け引き?」
「違うって」
「ほら」
「なに、ほら?」
「トシ君てば、そういう所があるんだよ」
「何、そういうところ」
「ぐだぐだと理屈こねて、結局投げ出すの。トシ君という人はさ」
「投げ出しては。投げ出しては、ないよ。考えてるんだって」
 そこで百合子が、我が意を得たり、というような得意げな顔つきになった。廣谷の表情は逆に不安げに曇る。また何か突拍子もないことを言いだすのではないか、という予感がした。
「いい?」
 さもこれから良いことを言いますからね、とでもいうように、若干、高揚した様子を見せた。「考えるのは駄菓子屋の仕事ではなくて、名探偵の仕事なんだよ。分かる? どう? あたし今、いいこと言ったでしょ」
「まあそうですね」
 棒読みで返事をした。くだらないだけで害がなかっただけましだった、とか、思う。「二十九歳にもなった従姉に、名探偵なんていう仕事はないよ、って教えなきゃならない僕の空しささえ考えなければ、良いこと言ったんじゃないの」
「一体、何をそんなに考えなきゃならないことがあるわけ? 遊んで楽しかったらいいじゃない。一体何をそんなに考えるのさ」
「分かんないけど」
 弱々しく、呟く。百合子は、丸椅子の音だ、と笑いだしたくなるのを堪える。「何か一旦、距離を置きたくなったんだよ」
「え、何で」
 短い問いに、廣谷は一瞬、黙った。膝に顔をうずめるようにして、言い訳するように、呟く。「何か、怖い」
「えー!」
「いやもうリアクション大きいし」
「だってこないだと全然言ってること違うじゃーん」
「そうだけど」
「えー、何、新居君が怖いの」
「何か二人きりになった時の時間が、怖い」
「二人きりの時間が怖いなんて、何処の生娘なんだよ、お前は」
 そこで廣谷は若干の気恥ずかしさを見せた。「そう言われると思ったから言いたくなかったんだよ」と、額をかく。
「だったら言わないでよ」
「聞いといて言わないでよとか、言わないでよ」
「怖い怖いって、一体何が怖いの。あ、ゾンビ?」
 まあ、ですよね、みたいな顔で、廣谷は百合子をちょっと見つめる。「ねえ、隙があればいれてくるよねえゾンビ」
「実は新居君がさ、何か狼男だ、とかゾンビだ、とか言うんだったら、怖がっても、いいよ」
「何か」
 地面を見つめる。「これ以上一緒に居たらどうなるかわかんなくて」
「どうなるって」
 百合子は一瞬呆気にとられたような表情を浮かべた。それから、ニヤニヤとした嫌らしい笑みを浮かべ、そりゃあ、アンタ、と、恥ずかしげに続け、モジモジ、とする。「なるように、なるんでしょうよ」
「そういう顔でそういうこと言うの、とりあえずやめて貰っていいかな」
「ねえトシ君アンタ幾つよ。今時そんなの何処の娘さんだって分かってるよ」
「そういう下品な顔が嫌なの」
「何、下品て。だってさ、そんなの好き同士の二人がさ、長時間二人っきりで居たらさ、やること一つでしょうよ。若いんだしー。そんなの、そんなつもりで来たんじゃないんだ、とか、さ、なしでしょ。ないよ、ないない。そんなかまととぶる女いたらぶっ飛ばすよ、でしょ? ぶっ飛ばしたいでしょうよ、トシ君が逆なら」
「まあ、そりゃないよ、とは思うよね」
「ねえ?」
「でも僕、少なくとも、女の子じゃないし」
「ほらでた」
「なに? でた」
「そうやって理屈こちゃこちゃこねて、結局、うやむやにしちゃうみたいなね」
「別にうやむやには、してないじゃん」
「好きだって言われる前は、楽しいんだよね。それでいざ本当に好きだって言われたら、びびってんの。いやないでしょー、とか。思い出すの、でしょ? そうなんでしょ。こないだまではすっごいテンションあがってたくせに。何、その、感じ。何その、引いた感じ。ずるいよ」
「もうこの話、凄い馬鹿馬鹿しくない? やめない?」
「要するに、身を任せるのが怖いんでしょ」
「ちがうよ、何だよ身を任せるって、任せないよ」
「任せちゃえばいいのに」
 あっけらかんと、百合子が言う。廣谷は、その、要するに人のことなどまるで考えていないに違いない、良く言えば無邪気でおおらかな、従姉の姿を呆れた目で見上げる。
「他人事だと、思って」
「大丈夫だって。そういう時も新居君は格好良いって、キュンとしちゃうって、絶対」
「いやもうこれは格好良いとか格好悪いとかの次元の話じゃないんだよ」
「何、次元とか言って。ルパン?」
「馬鹿じゃないの」
「でもさ、そう考えるとさ、むしろ、拒否られてんの分かれよ、って思うよね。まだ普通に電話してくるなんてどんな神経してるわけ。どんなけ空気読めない奴なんだよ、あのへっぽこ絵描きってば」
「いやだから、へっぽこ、とかは言うなって」
「拒否ったくせに」
「拒否っては、ないもん、まだ」
「あー」
 意地の悪い笑みを浮かべ「なるほどね」と、百合子は頷く。それから、廣谷を指さした。その指をくるくる、と回す。「じゃあもしその時が来たらさ。拒否れないよ、絶対。トシ君は拒否れない。あたしが保障したげるから。今からごちゃごちゃ悩まなくても」
「僕は男なんだって」
 憂鬱げな表情で膝を抱え、地面を見ている。
 その横顔をぼんやりと眺め、そういえば従弟の顔をこうしてまじまじと眺めることなどないよな、と思う。思うけれど、見る。新居というあの絵描きは、と、渦中の青年のことを思い出す。あの絵描きは、この従弟のことを、どのように好きなのかな、とか、考える。実際のところ、二人の間に一体何があったのか詳しいところは知らないのだけれど、もしかしたらキスくらいはしちゃったのかもしれないな、とも、思う。
 その感覚は、はっきり言って理解できないし、女である自分が何をどう頑張ったって理解できないだろうなあ、とも思うので、理解する気もないのだけれど、従弟の心細げな横顔をじっと見つめていると、確かに、色気があるかもしれない、という気になってくるから、不思議だった。
 顎のラインや首筋のラインに、思わず触れたくなるような吸引力がある気がして、そういう目で見ると、ぞくぞくするような気もする。昔テレビで、可愛い子犬に、動物好きを自称する人間が、無理矢理顔をひっつけて嫌がられていたのを見たことがある。あの時は、うわー、明らかに犬が嫌がってますよね、とか思ったものだったけれど、今、ちょっと、あの気持ちが分かった気がする。
 基本的に彼は、華奢だ。身長が低い、というわけではないけれど、痩身という言葉がぴたりと当てはまる。百合子もどちらかと言えばちびっこちゃんだし、どちらかといえば線が細い。なので、これは家系なのかもしれない。
 密やかに眺める視線の先で、彼の柔らかそうな髪の毛が、微かに風に揺れた。白い頬が、印象的に、映る。
 百合子は思わず、その頭をばし、と叩いていた。
「な、何すんだよ」
「ごめん、何か、叩きたくなった」
「は、なんだよ」
「じゃなかったら、チュウしちゃいそうだった」
「は?」
 薄気味悪いものを見るような目で百合子を見る。
「ごめんね」
 しおらしく謝ってしゅんとする。サンダルの足で地面を軽く蹴る。「何かそこのほくろ」
「え?」
「首筋にほくろあるなんて、反則だよ」
「いや知らないよ」
「でもさ。あたしでもこんなに可愛いと思うんだから、新居君が可愛いと思ってもたぶん、許してあげなきゃいけないと思うんだ」
「何かもう、そうやってしんみりとだけは言われたくなかったよ」
「ごめんね」
 いやもう何で謝ってるのか全然わかんない、みたいな表情で、廣谷が軽く首を振る。
「今回ばかりは、あたし多分、新居君の味方だと思う」
 ふーと、鼻から吐き出される長い息が、すぐ隣から聞こえた。見れば、拗ねたような従弟の表情がある。
「だいたい。百合子姉ちゃんが僕の味方だったことなんか、ある?」
「うるさいな。敵だったことだってないでしょ」



「結構、足運んでるんだけど、つれないんだよなあ、吉田君てば」
 煙草の灰を灰皿に落としながら、兎月原は顔を顰める。水の入ったグラスを口に運んだ。
「百合子連れてきたら、乗ってくるかな、とかちょっと思ったんだけど」
「何で、あたしが可愛いから?」
「はい、ええ、そうですよ」
「いや何で敬語なんですか」
「ちゃ何かさ、俺はさ、自分で言うのも何だけどさ、こう、見た目がさ。何か、ちょっとこう、胡散臭いところがあるじゃないか、詐欺師的な、警戒をされるというか」
「あ、そう」
 百合子は食後に頼んだコーヒーを飲みながら、雑誌のページをめくる。
「いやもう最悪、否定はしてくれなくていいから、せめて何か、こう、反応くらい示してくれないか」
「だって仕方ないじゃん、嫌がってるんだもん」
「だから百合子を見れば、ちょっとは考え直してくれるかと思ったわけ。見た目はほら、ちゃんとしてそうだから、百合子って」
「でも変なの」
 見た目だけはちゃんとしてそうだとか、どうせ昔から言われ続けていることなので、聞き流す。
「何が」
「断られたんだから、もう諦めたらいいじゃん。たまに分かんないことするよね、兎月原さんって」
「俺には、考えがあるんだって」
「なに、考え」
「そのうち、分かる」
「あ、そ」
 どうせ考えなどないのではないか、と思ったのでいい加減な返事をしておくことにした。あったとしても、きっとたいしたことではないに違いない。
「何その別に分からなくてもいいよ、的な感じ」
「分からなきゃ分からないで別にいいって感じがこうマイルドに出ちゃったんだろうね」
 相変わらず、あの行方不明事件の記事を読みながら、自分の言葉に自分で納得するように、呟く。
 雑誌の記事を読みながら、あの行方不明事件が進展せず報道も下火になりかけていた頃、何処かのテレビ局が引っ張り出してきていた、「事件の目撃者」なる人物のことを思い出していた。結局その男性も、次第に「もうその話はいいよ」と関心を失っていく世間の動きには逆らえず、事件が忘れ去られていくのと同様に姿を消した。
 確か、あの青年は「僕はパスタを食べていたんですよ」と、言っていた。「僕がパスタを食べていたら、ピエロのマスクを被った男が現れて、あの人を浚ったと告白したのだ」と。
 パスタを食べようとしていたら誘拐犯に遭遇する、などという状況が全く想像できなかったので、そんな馬鹿な、とは思ったけれど、インタビュアーはむしろ、興奮した様子すら見せて、「それから一体どうなったんですか!」などとその青年に更に問い詰めていたような記憶がある。
「僕は、殺されかけたのです」
 と青年は、何処までが本気か分からないけれど、煽られるまま興奮して、述べ、見ている百合子に「テレビって怖いな、人間て舞い上がっちゃうとこうなっちゃうんだな」と、漠然とした失笑を感じさせた。



 フォークに巻き付けたパスタを口に運ぼうとしているところで、向かいに人が腰掛けた。
 カフェテラスは、閑散としている。白木が座るテーブル以外、人の姿はない。店内に、黒いエプロンを巻き付けた店員が、二人、居た。楽しそうに話しこんでいる。そのため、この珍妙な客の姿にはまだ、気付いていない。
 白木は、フォークを宙に浮かせた格好のまま、思わず、その人物をまじまじと眺めた。年齢は分からないが、お年寄りという印象ではなかった。体格から男だということが分かる。どんな顔をしているかは、分からない。
 男は、頭部に、ピエロを模したようなフルマスクを被っていた。ゴム製の、安っぽいやつだった。怖い感じではないが、決して、可愛らしくもない。
 白木はまず、は? と、思った。
 パスタから、汁が滴る。
 そして次に、ああ。と思った。
 脳裏に一人の友人の顔が思い浮かぶ。きっとそいつに違いない、と思った。驚かせようとしているのか、それとも嫌がらせをしようとしているのか、とにかくどっちにしろ嬉しくないので、無視することにした。
 パスタを口に運ぶ。歯の下で潰れるキノコの感触をゆっくりと味わう。
 男は、というか、ピエロは、足を組んだ格好で座り、少し体を斜めにして、白木を見ていた。と、思う。視線の方向までは分からないが、少なくとも顔がこちらを向いていた。
 何かを言われるのを待っているのかもしれない。窘めたりすると喜ぶので、黙っていることにする。パスタを飲み込むついでに水を飲み、店内を見る。店員さん、ここに不審人物がいます、と念じながら、見る。気付く気配はない。どちらかといえば、迷惑なこの友人を警察にでも突き出してくれたらいいのに、と思っていただけに、がっかりする。
「無事、終わったよ」
 突然、マスクの下から、くぐもった男の声が言った。若い声だった。
「え」と白木は思わず、相手を見た。
 言われている意味が分からないからではなく、その声が、友人のものとは違っていたことに、驚いたからだった。
「いやあ参ったよ。何か盗むってそもそも大変だけど、盗むもんがあれだもんね。あんなヤバいもん、大変だったよ。凄い大変。これはもう俺だから出来たことなんだよ、こんなこと他の人じゃあ出来ないよ。俺って凄いよね。あれはとりあえず、こっからちょっと行ったところにある貸倉庫に預けてきたからさ。ほら、あの年がら年中錯乱した絵描きが住み家にしてるあの倉庫だよ。有名だから、知ってるよね」
「はあ」
 その倉庫の事なら知っていたので、思わず、頷いてしまう。錯乱絵描きはアトリエ村の中でも有名で、「俺はいつか有名な絵描きになるんだ、俺はいつか有名な絵描きになるんだ」とか、何か、いつも錯乱して呻いているのだけれど、もう既に彼はここでは有名な絵描きだ。
「そこのBの8に預けてあるから、後で、取りに行けばいいよ」
 あんまりにも軽快に話されていたので、タイミングを逃し、白木は思わず「はあ」と呑まれてしまいかけていたが、「いやいや」とやっと言った。
「え? 何の話、してるんですか」
 男は、というか、ピエロは、「ん?」と小首を傾げ、動きを止めた。じっと、こっちを見ている気配を感じる。
「あれ? 君、井上くんじゃないの」
「ち、違います」
「え、違うの?」
「はい、え? 違います」
「じゃあ、何でこんなところに座ってパスタ食べてんの」
「なんでって。ここのパスタが食べたかったからですよ、別にいいですよね、ここのパスタが食べたくたって」
「いやいいけどさ、こんなピエロのマスクした奴向かいに座ったら、普通、驚くよね、関係ないなら」
「それについては」友人の顔が浮かぶ。残念な気分になる。「僕の事情なので謝るしかないですけど」
「なあんだ、そうか」
 ピエロは拗ねたような口調で言った。「間違えてたのー」
「間違えて、ましたね」
「いやごめんね。何か待ち合わせ場所と時間がばっちりだったからさ、それに、ほら、それ」
「どれ?」
「それ」
 男は、テーブルの上に置かれた単行本を指さした。「その本だよ」
 友永有機という、さほど売れていない作家の本だ。無類の読書好きである兄の本棚から、何となく拝借してきていたものだった。
「これが?」
「目印だったから」
「目印」
「そんなに売れてる本でもないんだろ。その本を目印にしてれば、大丈夫だって」
 何ということだ、と兄の顔を思い出す。そんな偶然があってたまるか、と思った。
「これは目印の本ではありません。違います」
「いやあほんとごめんね」
 ごめんね、と謝られても困る。白木は曖昧に、首を振った。
「いやでも、ほんと俺が間違えといてこんなこと言うのあれなんだけどさ」
「はあ」
「聞かれたからには生かしておけないんだよね、本当、申し訳ないんだけど」
「え、何ですか?」
「いやだからさ、俺が勝手に喋っといて本当申し訳ないんだけどさ、聞かれたらまずいことだったんだよね、今の話」
「はあ」
 確かに、やばい、だとか、盗む、だとか、物騒な単語は聞こえていた気がするし、隠し場所である倉庫の名前まで聞いてしまった気はするが、え、そういう話なんですか? そういう展開になるんですか? と、白木はもう何だか全然わけが分からない。
「だからさ、君には全然責任とかないんだけど、生きていて貰うと後々面倒なことになった時とか、困るしさ。だったら居なくなって貰っといた方が、後々の面倒の心配はなくなるわけでさ」
「そういうことなら、そもそも、もっと慎重に相手を選んで話すべきじゃないですか」
「いやまあそうなんだけどさ」
 ピエロは、無表情に俯いた。落ち込んでいる子供のようにも、悪いことを企んでいる大人のようにも、見える。「でもまあ聞かれちゃったのはまずいけど、聞いた君さえ消せば問題ないわけだし」
 そんな乱暴な仕事の仕方があるか、と思った。
「いや本当、間違えちゃって、ごめんね。でもさ、仕方ないよね。そういうことって、あるし。生きてるといろんな不運が降りかかってくるものだし」
「間違えたくせに、何でそんな偉そうなんですか」
「まあ、そうだよね」
 またピエロはしゅんとする。これまで怒られることがなかった悪戯っ子が、大人に大目玉を食らいました、とでもいうような風情がある。
 話が止まった。
 白木は少し考え、言った。「もし、僕が殺されるのだとしたら」
「たぶん、殺されるけど」
「どうせならその前に何を盗んだのかとか、聞いときたい気はありますよね」
「ああそう」
「そこは教えて貰えないんですかね」
「神様だよ」
 素っ気なく言われ、始めは何を言われているか分からなかった。そもそも何の話をしていたのだったか、と見失いそうにもなる。
「え」
「神様だよ」
「な、何が?」
「神様を盗んでくれって頼まれて、神様を、盗んだんだ」
 白木は、言葉に詰まる。
 それから数ヵ月後に、まさか自分の不用意に漏らした言葉が、予想外の波紋を生むとは想像もできずに、しかもテレビ出演をお願いされ、見たことを話して下さい、と言われてきたにも関わらず、台本を渡され、酷く気恥ずかしい演出に悩まされることになるとは想像もできずに、神様とは一体何なのか、と更に質問を重ねるべきかどうか、悩む。



 百合子は、バックから取り出した手帳のスケジュール欄を眺めていた。
 トイレから戻ってきた兎月原が、向かいに座る。
「今アツシ君のスケジュール見てたんだけどさー」
 煙草を取り出していた兎月原が、「うん」とか何か、相槌を打つ。
「これさあ」
 手帳を見開き指示した。煙を吐き出している彼に向かい、翳す。
 その時、店の戸が開いた。他のお客さんが入ってくる。
 百合子は、ちょうど兎月原の背後を通り過ぎていくその人物のことを、ちら、と見上げた。特に、意味はなかった。何となく反射的に、チラ、と見て、目を戻した。けれどすぐに、え、とか思って慌てて目を、上げた。
 手帳を開き、指示した格好のまま、茫然とその姿を追う。
 あれ? あの人、友永有機ではないですか?
 まさかと思いつつ、あんなに美しい男性を見間違うはずがない、という思いもあり、目が離せない。
「いや、何だよ」
 突然話を止めた百合子を不審がるように、兎月原が言う。
「あ、あれ」
 大っぴらに指をさすことなどできないので、後ろのテーブルについたその人物のことを、ちらちらと目で見て、指し示す。「あの人」
「えー?」
 何だよー、と言わんばかりに面倒臭そうに振り返った兎月原はその人物を失礼なくらいじろじろと眺めて、また百合子に向き直った。
「あの男が、なに」
 声を潜めることもなく、言う。
「い、いや、何っていうか」
 明らかに自分のことを見られたり、話されてる状況だというなのに、さすがというべきか、いや別にさすがでもないのだけれど、とにかく、友永有機そっくりの美しい男性は、全く意に介する素振りを見せなかった。悠然とテーブルにつき、壁に貼られた黄ばみの酷い品書などを、見上げている。
「あ、あれさ。もしかして、あの」
「友永有機?」
 どうでも良さそうにというか、そもそも、そのどうでも良さそうというリアクション自体が、物凄く間違っている気がするのだけれど、つまりはもっと、そわそわしたり驚いたりして欲しいのだけれど、とにかく、まさしく、言おうとしていた名前を言われたので、やっぱり見えるよね、という思いを込めて息をのんだ。
 顔を近づける。「違うかな?」
「まあ、そうだね」
 返事は早かった。そして、短かった。
「え」
「そうだね、って言ったんだよ。友永有機だよ」
「え、友永有機だよ?」
 自分から言い出しておいて本当に申し訳ないのだけれど、こんなことを平然と認めるなんてこの人は頭が可笑しくなってしまったか、あるいは、よっぽどこの話が嫌でめちゃくちゃ過ぎる返事をしてあたしを混乱させようとしているのではないか、と思った。
「なあ、友永」
 その間にも、身を翻した兎月原が男性に向け親しげに話しかけるので、驚いた。
「お前は、友永有機だよな」
 すいません、もう、この相方のアドリブにはついていけません、と職場放棄する芸人のように、何かを指摘することも出来ず、茫然とする百合子の目の前で、男性がゆっくりと顔を兎月原に向ける。
 何ですか、とでも言いたげに小首を傾げた。
「だからさ。お前は友永有機だよなって」
 男性は、どちらかといえばきょとんとした表情で、兎月原と百合子を見比べた。いやもうほんとにすいません、であるとか、いやあ何かこの人頭が可笑しいんですよ、であるとか、口を挟むべきではないか、と思いそわそわしたのだけれど、彼はああ、と何をどう納得したのかは分からないけれど、納得した様子を見せた。
「そうだよ、僕は、友永有機だよ」
 何処か照れくさそうな、失笑にも似た笑みを浮かべ、彼は頷く。「自分で自分を自分だと名乗るなんて、何だか恥ずかしいけど」
「あ、え?」
「仕方ないよ。彼女が疑ってたから」
 薄っすらと笑う兎月原が、百合子を見つめる。
 二人の男性に見つめられ、それはどちらも十人並み以上の美しい男性であったから、百合子は必要以上に狼狽し、二人を見比べる。「あれ? え」
「その人は、兎月原の彼女かい」
「彼女は俺の妹だね」
「君に妹が居たとは知らなかったな」
「言ってないからね」
「顔が全然似てない」
「他人だから」
「どっちだよ」
「どっちでもあるんだよね。他人だけど、妹。妹だけど、他人」
「それはつまり、妹のような人だということだろ」
「そうとも言う」
「そうとしか言わないと思う」
 友永がふわり、と苦笑する。
「え」
 百合子はまた、二人を見比べた。「え、知り合いなんですか」
「知り合いというほどでもないけど、同じ高校の同じ学年に、居た」
「誰と、誰が?」
「俺と、友永が」
「うそ」
「いや嘘ではないよ」
 そんな、と百合子は呻く。「そんなこと一言も言ってなかったですよね」
「あれ、何で敬語」
「そんなこと一言も言ってなかったですよね! さっき!」
「いや。いや別にわざわざ言うとか言わないとかいうことじゃないじゃんだって、しかもあのタイミングで言ったって、どうせ相手にしないだろうし、百合子」
「行方不明だって」
「行方不明中だよ。失踪中だよ、失踪中。なあ? 好評雲隠れ中だよ、だろ?」
「別に、隠れてるわけじゃないんだけどね、もう」
「誘拐じゃ、なかったんですか?」
「ああそうですね」
 百合子の呟きに、友永は柔らかくほほ笑む。何処か自嘲めいた、後悔をするような印象があり、同時に昔を懐かしむような印象もあった。「あれで話がややこしくなってしまった。巻き込まれた青年には、申し訳ないことをしたと思ってるよ。井上君に協力をお願いした僕が、悪いんだけど」
 全然話は見えなかったけれど、はあそうなんですか、とか、とりあえず頷いた。
「そんなことよりさ」
 と、兎月原が口を挟んでくる。
「百合子、友永に会ったら、言いたいことあったって、言ってなかったっけ?」
 組んだ足をぶらぶらとさせながら、意地の悪い笑みを浮かべそんなことを言う。



 文庫本のページをめくった拍子に、ぎっと重そうな鉄の扉の開閉する音が聞こえた。
 重みを持った風が屋上を吹き抜け、振り向いた兎月原の髪をゆらゆら、と揺らした。
 扉から姿を現したのは、どちらかといえば童顔の、髪の短い痩身の少年だった。ある程度、制服を着崩してはいるものの、不潔な印象やいかつい感じはなく、清潔感や爽やかさが感じられた。
 少年は、兎月原の姿を見つけると、先客にがっかりするような様子を見せ、それでも他に行き場所がないからか、屋上の中央まで進んできた。
 鉄柵にもたれかかりながら、遠くの空を見るようにする。
 兎月原は海外の作家が書いた小説の世界に、戻る。数ページ読んでから、顔を上げた。少年が居た方を見る。いつの間にか彼は、そこに腰掛けていた。片方の膝を立てるようにして座り、自分の手に視線を落としている。
 何かを持っているわけでもなく、物思いに耽っているようにも、暇を持て余しているのにじっと耐えているようにも、見えた。暫く眺めて、「こんなところで暇つぶし?」と、声をかけてみる。
 少年が振り向いた。
「ええ、まあ」
「君、何年」
「一年の、吉田です」
 控えめな様子で、言う。
「話しかけられたくなかった?」
 気乗りしない返事に先手を打って、言った。吉田は「いや、そういうわけでは」と、苦笑いを浮かべる。
「今って、確か、授業中だよね」
「はい、そうですね」
「サボったんだ?」
 自分のことは棚に上げ、聞く。
「そうですね、何となく、発作的に、です」
「理由もなく?」
「まあ、そうですね」
 どこかぎこちなく、吉田が答える。もしかしたら理由はあるけど言いたくないのかもしれないし、理由もなく授業を抜けてしまった良心の呵責を感じているからかも知れなかった。
「それ、何を読んでるんですか」
 話を変えたい意思があったのかどうかは定かではないけれど、吉田はそんなことを問うてきた。兎月原は自分が読んでいた本を掲げて、横に置いた。
「見ていいよ」と、言う。
「はあ」
 題名を言えばいいだけじゃないか、とでもいうような表情を浮かべたものの、自分が聞いた手前からか、吉田は、素直に近づいてきた。本を手に取る。ぱらぱらとめくって「カラマーゾフですか」と呟いた。
「そのままで居てね」
「え?」
 よっこらしょ、と兎月原は吉田の腿の辺りに頭を置いた。
「ちょ、ちょっと」
「ちょうど良い枕ができた。それ、読んでていいよ。俺、寝るから。枕があったらいいなあ、と思ってたところだったんだよ。この時間終わったら、起こして」
「えー、いや、嫌ですよ」
「どうせ暇なんだし、いいよ」
「いいよって、いいか悪いかを決めるかは僕ですよね?」
 ぐちゃぐちゃ煩いなあ、とは思ったけれど、喋るのも面倒臭くなっていたので、目を閉じた。
「眠らないで下さい」
 それではまるで雪山の遭難者ではないか、と、ぼんやり思う。


 その日の夜。ショップを出た兎月原は、駐車場に止めてある、原動機付き自転車の元へ向かった。
 レコード屋の名前がプリントされた袋を、座席の下に仕舞う。ヘルメットを頭に乗っけた。エンジンをかけようと、跨ったところで「やあ」と、声をかけられ、兎月原は顔を上げた。
 見知らぬ、いや、顔と名前だけは知っているが話したことのない男が、目の前に立っていた。同じ学年に居ることは、知っている。
「やあって、俺?」
「そうだよ、君だよ」
 黙っていると、温度の通っていないもののような、無機質で冷たい印象すらある男の顔には、にこにこと人懐っこい笑みが浮かんでいた。
「俺が、何」
「僕は、友永と言って」
「知ってるよ」
 別に自己紹介を聞く気もなかったので、先を遮った。
「ああ」
 友永は戸惑ったような笑みを浮かべ、一瞬、言葉に詰まる。「いつ言われても、戸惑うよ。知ってる、なんて。僕はその相手と話をしたこともないのに」
 お前は目立つんだから仕方ないんじゃないか、とか思ったけれど、そもそもさっきのは回りくどい自慢ではないのか、という気もしたので、別に言う必要もないかなとか思い直した。
「で、何かな。俺、帰りたいんだけど」
「そうだったね、悪い、呼び止めて。別に、用はないんだ」
 衒いも恥じらいもなく、清々しさすら漂わせて、友永は言った。
「用は、ない?」
「ただ話をしてみたかっただけだから」
 何だそれは、であるとか、どうしてなんだ、であるとか、言いかけて、やめた。
「あ、そ」と返事を返し、エンジンをかける。ハンドルを何度か回し、正常に稼働しているのを確かめてから、車体を前に押し出す。スタンドを外した。
 バックミラーの中で佇む長身の姿が小さく、なっていく。

 それから友永は、度々、屋上に姿を見せるようになった。兎月原が海外文学を読んでいると知ると、自分も小説が好きなのだ、と本を貸してくれたり、した。人の好意は知らんぷりで受け取った振りをしておくのが一番楽でいい、と思っていたので、貸してくれるというのであれば借りたし、一緒に居たいというのであれば断ることもないな、と思った。屋上では何でもないような会話をぽつぽつと交わす、といった程度で、話が合わない、というほどでもなかったが、奇跡的に合うというほどでもなく、ただ漫然と屋上に居る時間を共有している、という感じだった。
 そしてその日もまた、読書などをしながら二人は時間を潰していた。
 数十分くらい経った頃、屋上の扉が開く音がした。やってきたのは見たこともない男だった。その見知らぬ男は、制服を着ていることから同じ学校の人間なのだろうと想像するくらいで、同じ学年に居たかどうかも分からないような、本当に見知らぬ男で、だから、突然、自分の前に立った男が「お前か」と聞いて来た時には、戸惑いを通り越し、不愉快な気分になった。
「何だよ、お前、誰だよ」
「僕は井上と言って」
「知らねえよ」
 隣で、ぷ、と人が笑いだすような声が聞こえ、何事か、と見ると、友永がさも可笑しそうににこにことしていた。兎月原を見てくる男の顔にも鬼気迫る感じがあったし、兎月原自身も相当不快で、この両者のにらみ合いの場で一体何を笑うのだ、と驚いた。
「何だよお前、何で笑ってんだよ」
「聞いといて知らねえよなんて、兎月原は面白い事を言う」
「何だよ、それ」
「井上君」
 友永はふざけた様子を少しだけ引っ込めて、井上の方を見た。
 井上は、まるで尊敬する先生に呼ばれた生徒のように、姿勢をただし「はい」と返事をした。けれどすぐに、これだけは言わずにはいられない、というような必死さで「友永さん。彼なのですか? 彼がそうなのですか?」と、詰め寄った。
「君が何をどう考えているかは分からないけれど」
「貴方は神様になれる人です。もっと自覚をしなくては」
 友永は困ったような笑みを浮かべて「とにかく、彼ではないよ」と、言った。井上の馬鹿げた発言については、もう何をどう言っても仕方がない、と諦めているように、見え、まるで憐れむようにただ、ほほ笑んでいるだけだった。
「本当ですか?」
「本当だよ。彼じゃない。信用するかしないかは、君の、自由だけれど。僕には、わざわざ君に嘘を吐かなければならない理由もないんだ」
「それは」
 と言葉に詰まり、「まあ、そうですが」と、井上は、しぶしぶ納得する様子を見せた。それから暫く、誰も何も言わなかった。そして、何がどうなったかは分からないけれど、すっかり意気消沈してしまった井上は、そのまま、屋上を去って行った。
「悪いな」
 男の背中を見送ると友永が言った。
「ホントだよ。何だ、あれ」
「僕にも、分からないんだ。彼は、僕が彼を救ったことがある、と言っていたけれど、身に覚えはないし」
「ふうん」
「彼は、たぶん。悪い人間じゃないとは思うんだけど、何ていうか少し、思いつめるようなところがあって」
「神様とか、言ってたぞ、お前のこと」
「分かってると思うけど」
「何を」
「僕は、普通の人間だよ」
 困ったような顔で言うのが面白く、兎月原は小さく笑いながら、何度も首肯した。「俺もそんな気はしてたんだ」
「何をどう間違ったか、普通というのとは少し違うように、勘違いされることが、多いけど」
「ところで、俺がそうだとか違うだとか、あれは一体何だったんだ?」
「彼は勘違いをしているんだ」
「どういう?」
「くだらないことだけど」
 と、恥ずかしそうに前置きをして、「恋をしたんだ」と、言う。「好きな人が居るんだ」と、続けた。
「その相手が俺だと?」
「勘違いなんだ」
「どうしてそう言わないんだ」
「今、言ったよ、勘違いだって」
「相手の名前を教えればいい。その方がてっとり早い」
「それは、できない」
「どうして?」
「見ただろ? 井上君は、少し、僕の認識を間違っているんだ。そんな彼にその人のことを言ったら、どんな迷惑がかかるか分からない。彼とはまだ、友人にすらなれてないんだ。僕のことを、まるで警戒しているみたいに。避けられているのかも、知れない」
「こんなことをわざわざ確認するのは申し訳ないんだけど」
「何だい」
「男であることは、間違ってないんだ?」
「間違って、ないね」
「しかも、この学校に、居る?」
「居るね」
「そんな美男子が、俺以外に居たかな」
「悪いけど、君以上に彼は素敵だよ。まるで小動物のようで、可愛い。どうしようもなく」
「それは、恋だな」
「だから言ったよ、恋だって」
「だいたい俺以上の美男子なんてこの学校には居ないし、見誤りだよ。恋は盲目とは良く言ったもんだ」
「見誤りではないけど、恋だね」
 胡坐の上に片肘をつき、その辺に落ちているゴミをつまんで放り投げる。「何とかして、少しでも、好かれたいよ」
「ふうん」
「でも、彼はもうすぐ転校してしまうらしい。僕だって卒業を控えてるし、時間は余りないんだ」
「そうなんだ、残念だな」
 一応、そのような相槌を打ったのだけれど、兎月原には誰かに少しでも自分を空いて欲しいと思うなんて気持ちは、想像もつかなかった。



 友永有機は、マスコミで繰り返し流されていた映像で見るより、はるかに、美しかった。そもそもあの映像自体が画質の荒い、劣化した映像だったため、顔の細部までをきちんと映し出せていなかったのだろうと思う。どちらかといえば日本的な、繊細さと品格を感じさせる美しさがあった。兎月原と同じ学年に居たということは、三十三歳ということになる。それが妥当な年齢なのかどうか、判断がつかない。
 騒がしさがふっと落ち着いたかのような沈黙が、二つのテーブルの間を漂っていた。
 その頃合いを見計らったかのように、店員さんが注文を取りに来る。兎月原が新しいバーのバーテンダーにどうか、と考えているらしい、吉田青年だった。
「いらっしゃいませ」
 という声に、友永がゆっくりと振り返っている。
「ねえ」
 百合子は兎月原に顔を寄せ、指で手招きした。
「うん?」
「知ってたの? 今日、ここにあの友永有機、さんが来るって」
「いや、偶然だけど」
「だって、そんな偶然がある?」
「ここに、ある」
「ある日、私達がたまたま入ったこの店に、たまたま話題になってた行方不明中の友永有機が、たまたま入ってくる、なんて、偶然が、あるの、ねえ、あるの?」
「行方不明じゃないらしいじゃん、さっき、本人言ってたよ」
「でも、そんなニュース、あった?」
「地味にじんわり戻って来たら、ニュースになんてならないんじゃないの?」
「そんなものかな」
「そんなものだね。それに、この状況だってそんなに驚くことでもないよ。ある日突然、と思うから、驚くんだよ。確かに俺と友永がここで再会したのは偶然だったし、最初に俺がここに入ろうと思ったのはたまたまだったけど、今日ここで友永に会うことは、さほど、驚くことでもない。何せ、俺がここに来るずっと前から、友永はここに通っていたし、しかもかなりの頻度で通っていたから、今日ここにきても別に不思議じゃないんだ。店の人からしたら、また来たか、というくらいだしね。むしろ、百合子の行動こそが、例外だ」
「あ、あたし?」
「突然雑誌を読みだして」
「暇だと読むよね、別に。読むために置いてあるんでしょ、お店の人も」
「そこにたまたま載ってた友永有機の話題に興味を示し」
「だって、だって載ってたんだもん、仕方ないよね」
「この他愛もない出来事を、凄い偶然のように演出した」
「演出してないって」
「まあ、そういうことだね」
「でもさ」
「何」
 そこで百合子は、向かいのテーブルの友永の行動を窺う。彼はちょうど注文を終えたところなのか、去って行く店員さんの後姿を眺めていた。
「何で失踪なんてしたんだろうね」
「本人に聞けよ」
「ってそんな大きな声で言ったらもう、むしろ聞こえてるんじゃないの、この距離なんだし」
「今は何も聞こえてないって、よほど呼びかけないと」
「何それ」
「でも何か、消えたかったんじゃないの、何となく。美形の周りはどうしても、騒がしくなるからね」
「なに何となくって」
「俺も喧騒から逃れたくて、良く授業をさぼったなあ、高校時代」
「うわー」
「何だよ」
「高校の時から小生意気なクソガキだったんだろうなあ、とか思って」
「ねえ、それ酷くない? ねえ」
「あと、それで何でこの定食屋に通ってるのかも、分からないよね」
「何で、って、それ何かとりようによってはこの定食屋を批判してるよね」
「理由が、あるのかな?」
「あいつの好みは、昔から一貫して、変わってないってことだよな」
「何それ」
「すいませーん」
 兎月原が手を上げ、店員さんを呼ぶ。吉田がやってきた。メニューを見ながら「あの俺、からあげ」と、注文する。
「何ファミレスみたいになってんだけど」
「はい、かしこまりました」
「で、さあ。ねえ。考えてくれた? 俺の店で働くの」
 伝票にペンを走らせながら、吉田が、あれ何これ時間、戻ってるんですか、とでもいうような表情を浮かべた。つまり、鬱陶しげだった。
「ですから何ていうか、お断りします」
 言いにくそうだったわりに物凄いはっきり断ったので、百合子は思わず、ぷ、と噴き出す。笑いながら何となく向こう側のテーブルを見やったら、友永がじっと、吉田のことを見ていた。
「じゃあすいません、オーダー通さないといけないんで」
 一礼して、去って行く。
 その拍子、熱心な視線に気づいたのか、吉田が、ふと友永を振り返った。目が合うと、怯えたような、戸惑ったような色を微かに、浮かべた。真意は分からないけれど、少なくとも嬉しげではなく、どちらかといえば迷惑に感じているようだった。
 奥の厨房に引っ込んでいく。あの、最初に水を置きに来た小柄な男性に注文を告げている横顔が、見えた。詳細な声までは聞こえないけれど、何事か、そのあと言葉を交わし、笑い合う。苦笑するような、優しい笑みを、吉田が浮かべる。
 彼はそのあと、調理を始めた男性のことを眺めていた。まさかとは思うけれど、その動作一つ一つに見惚れているようにすら、見えた。
 ほどなくして出来上がった唐揚げがカウンターに差し出された。その際、小柄な男性と、そちらの方を眺めていた百合子との目が、合った。何処か照れくさそうな表情を浮かべ、それはお世辞にも可愛いとは思えなかったのだけれど、とにかく、彼がまたあの基本無視の会釈をしてくるので、百合子もおずおずと、返した。
 吉田が、する、と間に滑り込んできて、視界を遮った。唐揚げの皿を盆に載せている。どんな表情をしているか分からないけれど、小柄な男性の肩を、とんと押し戻すようにしたのは、見えた。無精髭に覆われた唇が、気まずそうな笑みを浮かべている。まるで、母親に怒られた悪戯っ子か、もしくは浮気を責められた亭主のようだ、と思った。
 吉田の体が遮ったので、また、男性の顔は見えなくなる。
「吉田というあの青年がうちの店に来てくれたら」
 向かいで、突然兎月原が話出したので、百合子はびっくりした。
「もれなく、友永もついてくる。もれなく友永ががついてくると、たぶん、アイツを目当てにする客も、ついてくると思うんだけどなあ」
「何でもれなく友永さんがついてくるわけ?」
 兎月原はぼんやりと、厨房の方を眺めていた。「無理だったかなあ、百合子連れてきても」などと、呟いている。
「はいはいどうせあたしは役に立ちませんよ」
「何だよ、怒るなよ」
 百合子はまた、厨房の方を見る。その一瞬前に友永の席を見ると、彼もまた厨房を見ていた。
 視界の先で、唐揚げを運ぼうとしている吉田の姿がある。こちらを向く際、彼は、男性の白衣の染みを撫で、何かを言った。
「でも多分、来ないんじゃないかなあ、彼」
「そうかな」
「何となく。北風でも太陽でも立ちうちできない旅人、って感じ」
「何それ何それ、上手いこと言うね」
 子供みたいに兎月原が食いついてきたので、「そんなに上手くないよ」と、窘めた。
























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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号7520/ 歌川・百合子 (うたがわ・ゆりこ) / 女性 / 29歳 / パートアルバイター(現在:某所で雑用係)】
【整理番号7521/ 兎月原・正嗣 (うつきはら・まさつぐ) / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者】



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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 このたびは当ノベルをご購入頂き、まことにありがとうございました。
 愛し子をお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝を捧げつつ。
 また。何処かでお逢い出来ることを祈り。