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◇白秋流転・陸 〜霜降〜◇
「うーん……」
ハクに招かれて足を踏み入れた『本邸』――その、自分に割り当てられた一室で、杉森みゆきは思いに耽っていた。
ここで過ごすようになって、今日で7日目。その間、みゆきはあまりハクと顔を合わせていなかった。
連れてきた張本人なのに、と思わないでもないが、何やら事情があるらしいというのは説明されずともわかるので――何せ、会う度ハクは心底申し訳なさそうに謝ってくるのだから――みゆきとしても強く言えない。
(やっぱり、儀式とか一族とかの方で色々あるのかな……)
始めてこの邸に来たときのことを思い返す。
(明らかに、何か含みありそうな目してたし)
事前に連絡をしていたのか、みゆきが邸内に入ること自体はすんなりとできた。けれど、一歩足を踏み入れた途端、言い様のない居心地の悪さを感じた。直接的に何があったわけではない。ただ、向けられる視線が――。
(冷たいって言うか、何て言うか)
すれ違う人々は、皆ハクに頭を下げた。それは恐らく、ハクが『封破士』であるからなのだろうけれど、その一瞬前に向けられる視線に込められたものは、明らかに良いものではないように思えた。
こっそり観察していたところ、彼らは大体、まずハクを見、その隣のみゆきを見、そして再びハクに視線を戻してから礼をとっていた。自分に向ける視線は、ただの確認のような、感情の伴わない――あるとすれば僅かな好奇くらいだろうか――視線だったが、ハクに向ける視線は刃のように鋭く――どこか、蔑むような色を宿していた。
(いやーな感じ、だよねぇ……白露のときのうわ言のこともあるし、どう考えてもハク君にとって良い環境だとは思えないなぁ――なんて、ハク君には言えないけど)
溜息を吐く。
『できる限りをする』と言っていた通り、ハクは何くれとなく気を遣ってくれているし、特に不便は感じない。退屈は退屈だが、暇つぶしの道具などもハクが調達してくれたため、とりあえずそれで時間を潰すことができるし。
みゆきが自由に動き回れるのは、この部屋のある区画と部屋に面した庭だけだ。別に明確に禁止されているわけではないのだが、『一族の者と顔を合わせるとあまりいい思いをしないだろうから、できるだけそこから出ないで欲しい』と言われたのだ。あえてそれをはねのける理由もないので現状に甘んじているのだが、まったくと言っていいほどハク以外の人物に会わないのはどういうことなのだろう。別段不自由は感じないのだが、少し不思議ではある。立ち入り禁止にでもなっているのだろうか。
「ハク君、どうしてるかな…」
呟くのと同時、廊下の方から足音が聞こえてきた。ここに近づくのはこれまでの経験からして一人しかいない。――…もちろんハクだ。
少しして、足音がみゆきの居る部屋の前で止まった。そして予想通りの声が襖越しにかけられる。
「みゆきさん、今大丈夫? 入っていい?」
「うん、大丈夫だよ」
返答したすぐ後に、襖がすらっと開けられる。何かが載った盆を手にしたハクがそこに立っていた。
「ちょっと時間空いたし、せっかくだから一緒におやつでも食べたいなー、って」
にこにこと笑いながらハクが部屋に入ってくる。ちゃっちゃと机の上に盆に載っていたものを並べるのを見つつ、みゆきも机のそばに移動した。
「じゃ、いただきまーす」
「いただきます」
手を合わせ、食べ始める。ちなみにメニューは団子と煎茶だ。
「ホント、なかなか来れなくてごめんね。何か変わったこととかなかった? 何回も言ってるけど、欲しいものとかあったら言ってね?」
申し訳なさそうな表情で告げられた言葉に、みゆきはちょっと呆れた顔になる。
「特にないよ。っていうかハク君は気を遣いすぎ!」
「いやだって連れて来たのボクだし。できるだけ快適な環境で過ごして欲しいし、さ」
『連れて来ちゃったボクが言うのもなんだけど』と決まり悪げに呟くハク。
そんな彼を見ながら、みゆきは考える。
(『儀式』まで、確かあと一週間くらいだったよね…)
「ね、ハク君」
「ん? なーに、みゆきさん」
「その、……『儀式』の方は、どうなの? 準備とかあるんだよね?」
「んー? あるにはあるけど、そんなにたいしたことはしないよ。何回も行われてることだから、段取りとかもわかってるし」
「ボクがしなきゃいけないこととかはないの?」
「特にはないかなー。ここまでくると、もうほとんどお膳立てはできちゃってるし。後はもう『儀式』当日――」
ハクが、不自然に言葉を途切れさせる。何事かと見れば、どこか迷いを宿した目で、彼は続けた。
「ボクを『殺して』もらえばいいくらいで。……って言っても、前言った通りに、刃物でぐさっとかそういう風なことをしてもらうわけじゃないんだけどさ。『儀式』は『封印解除』の延長線上のものだから」
「……じゃあ、『儀式』では何するの?」
これまでの『封印解除』の内容――明言はされていないが、恐らくこれだろうと思われるものたちからすると、今度もまた、なんらかの『接触』によってそれがなされるのだろうが……。
(だんだんエスカレートしてる――っていうと、言い方が悪いけど…まあ、そうだよね?)
先日など、抱き寄せられたというか抱きしめられたというか、そんな感じだったし。
などと考えていると、ハクが微妙に言いづらそうな表情で口を開いた。
「んー…ぶっちゃけちゃうと、キス、だね」
「…………え?!」
「ああ、や、大丈夫、口にじゃなくていいから。あ、希望があれば聞くよ、場所」
「き、ききき希望って!」
そんなもの聞かれても。意味なくわたわたしてしまうみゆきに、ハクが苦笑した。
「あー、じゃあ当たり障りなさそうな場所がいいかな。手の甲とか頬とか」
『口付け』ならホント場所は問わないからさ、と言うハクを視界に納めつつ、驚きからか何なのか自分でもよくわからないけれど鼓動が速くなっているのを落ち着けようとするみゆき。内容をまったく予想していなかったわけではないが、実際ハクの口から聞くとやはり色々と、その、うん。
「うん、まぁまだ時間はあるし。当日にでも言ってくれればいいよ。――ってことでボク、そろそろ戻んなきゃだから」
ごちそうさま、とハクが手を合わせるのを見て、みゆきも慌てて同じように手を合わせた。「じゃ、持ってくねー」という言葉と共に、皿と湯飲みが来たときと同じように盆に載せられる。
「それじゃ、ね。また時間見つけて来るよー」
そう言って、ハクは部屋を出て行った。
「…はぁ……」
残されたみゆきは、色々な思いを込めて、深い溜息を吐いたのだった。
◇ ◇ ◇
「――…ハク」
みゆきの部屋からの帰り、呼び止められたハクは、声の主を認めて、思わず眉根を寄せた。
「何の御用ですか」
「そう、睨まないでくれるかな。君の願い通り、彼女に接触はしていないだろう? 一族にも触れを出したし」
「ええ、それには感謝しています。念のため結界は張っていますが、何が起こるかはわかりませんから。……それで、何の御用ですか」
あからさまな警戒を含んだ問いを向けられた『当主』――式は、穏やかな、しかし底知れぬ笑みを浮かべて答えた。
「一応、釘を刺しておこうと思ってね」
「……釘?」
「そう、釘だ。念のため、ではあるのだけれどね。…君はとても、『ヒト』らしいから」
「――それは、どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ。ただ、それは良くもあり、――恐らく、悪くもあるからね」
「何が言いたいんです?」
訝しむような視線を真っ向から受け止めて、式は告げた。
「……君は、迷い始めているだろう?」
「――ッ!」
息を呑んだハクに、式は笑顔のまま続ける。
「それはそれで、『器』としては歓迎すべきことと言えなくもないのだけれどね……その『迷い』の行く末が、私にとって望ましくない方向に転がってしまう可能性もあるだろう? だから、念のため、釘を刺しておこうと思ったんだよ」
あくまで穏やかに語りかけてくる式に、ハクは努めて無表情を装い視線を返す。
「私の願いを――叶えてくれるだろうね?」
「…………」
震える拳を握り締め、一度強く目を瞑って――ハクはその問いに、答えた。
◇ ◆ ◇
『儀式』当日。
(うう、ついに来ちゃったよ、この日が…)
溜息を吐く。最後にハクに会ったときに、『当日は迎えに行くから』と言われたので、大人しく部屋で待っているのだが。
(すっごく落ち着かない…)
『儀式』の後、ハクがどうなるのかを知っているのだから当然だ。平常心を保てるわけがない。
(結局ハク君ともあんまり会えなかったし)
元々あまり会えていなかったのに、ここ数日は朝昼夕の食事を持ってきてくれるときくらいしか顔を合わせることがなかった。それとなく理由も聞いてみたのだが、曖昧にはぐらかされた…ような気が。何だか様子も少々おかしかった気がする。
(一族の人に何か言われたとかかな…悩んでるみたいな感じだったし)
そんなことを悶々と考えていると、ここに来てからの日々で聞き慣れた足音が聞こえてきた。
「おはよー、みゆきさん。起きてる? 準備いい?」
「おはよう、ハク君。起きてるよ」
「失礼しまーす」
そんな言葉と共に襖が開けられる。その向こうに居たハクの姿を目にし、みゆきは思わず言葉を失った。
白一色の、どこか神職につく者を連想させる、和装。――そしてそれは、死装束にも似ていた。
『ボクを殺してくれるかな』――初めて会ったときに言われた言葉が、現実味を増して迫ってくるような、そんな心地がした。
「? どうかした? 気分悪い?」
不思議そうに首を傾げたハクに、みゆきはハッと我に返った。慌てて首を振る。
「ううん、ちょっと、なんて言うかびっくりして」
「びっくり? ボクなんか変かな――って、ああ、もしかしてこの服?」
首を捻りつつ自分の姿を見下ろしたハクは、合点がいったように頷いた。
「これ、『儀式』の正装なんだよね。なんでも最初の『白秋』が――ああ、ボクが『降ろす』当主の大昔のお仲間さんのことなんだけど――神職についてたから、正装がこれになったんだって。季節ごとに微妙に意匠違うけど、みんなこんな感じ。色はそれぞれの季節で決まってるんだけどさ。でも白一色って微妙だよねぇ。他の季節は単色じゃないのに秋だけこれなんだよ。まぁ銀とか使われても、それはそれで微妙なんだけどさ」
そう言って笑うハク。その瞳に一瞬昏い色が過ぎったのを、みゆきは見逃さなかった。
「……ハク君、どうしたの? なんか、おかしいよ」
「おかしいって、何が? ボク、普通にしてるつもりなんだけどなぁ……まぁ、『儀式』当日だからいつも通りってワケにはいかないけどね?」
笑みを浮かべ、明るい声でハクは返す。……けれど、その笑みが貼り付けられたものだということを、みゆきは感じ取っていた。
確かにハクは元々笑顔の――軽い態度の向こうに本音を隠すようなところがあった。彼に関わるうちに、みゆきもそれを知ってきてはいたが――今のハクは、それまで見てきたのとはまた違う感じがした。どこがどう、とは言えないものの。
「これでお別れかもしれないんだからさ…」
ハクを真っ直ぐ見据えて、みゆきは続ける。
「最期ぐらい君の本音を聞かせてよ。……本当に、これで幸せ? 生きる事に未練とか、無いの…?」
ハクが、僅かに目を見開いた。そしてそのまま視線を下に落とす。束の間の沈黙。
「……どうなの、かな……」
どこか、途方に暮れたような声音だった。
「ボク、『封破士』に――『器』に選ばれたとき、嬉しかったんだ。フツーに。でも、何だかだんだん、それでいいのかなって思うようになって。――ボクは、ボクを必要とされたかった。ボク自身、って言えばいいかな。『器』としてとかじゃなくて、ボクそのものを、必要とされたかった。……母様も父様も、兄様たちも、みんなボクを、要らないって言ったから。誰でもいいから、肯定して欲しかったんだ。ボクが居ても、いいんだって」
淡々と、まるで独り言のようにハクは語る。
「『封破士』に選ばれて、ボクはそこに、ボクの居場所があるんだと思った。……でも、違った。だって『封破士』は、ボクじゃなくてもよかったから。一族の中でね、『白秋』に属する者は一番多いんだよ。他にも、『封破士』になれる――『器』になりうる者は居たんだ。たまたまボクが選ばれたってだけ」
自嘲するような笑みがハクの口元に浮かぶ。みゆきはそんなハクから目を逸らさず、じっと見つめていた。
「それでも、ボク達一族の存在意義を知ってたから――役目を全うするのが当然だって、思ってた。逆らう気とか、なかったし。……だけど、ボクの前、『朱夏』の封破士が、『違って』たから」
「……『違って』た?」
「うん。当主を…当主の命を、願いを、至上のものとするのが一族の『普通』なんだけど。――今回選ばれた『朱夏』の封破士は、違ってて。『朱夏』の封破士って双子なんだけど、当主よりお互いを大事にしててさ。『異端』って言っちゃえばそれまでなんだけど、何か、気になってて。そうこうしてるうちに、ボクの――『白秋』の番になって」
今思えばそのときから色々もやもやしてたんだけど、とハクは呟いた。
「みゆきさんに会ったときはまだ、当主の願いが――与えられた役割が一番だと思ってた。でも、なんでかな、みゆきさんがあんまりにもボクに『普通』に接してくれたからかな? 何かボク、自分が『普通』のヒトみたいな気がしてきちゃったんだよね。――そんなはず、ないのにさ」
紡がれた言葉に反論しようと口を開きかけたみゆきは、しかし寸前でそれを思い留まった。
みゆきにとって、ハクは出会いこそ普通じゃなかったものの、ただの年下の男の子にしか見えない。けれど、みゆきの知らないハクの事情はたくさんあるのだろう。迂闊なことを言って、傷つけてしまわないとも限らない。
そんなことを考えるみゆきをよそに、ハクは苦笑を浮かべて続ける。
「覚悟、できてたはずなんだけどなぁ。……っていうか、覚悟とかそういうの、要らなかったし。それが『当然』だったから。まぁそれだけ、みゆきさんに会って、ボクが変わったって事なんだろうけど。あっという間だった気がするけど、実は初めて会ってから結構経ってるしねぇ」
そう言うと、ハクはくすりと笑った。目を細め、まるで過ぎ去った日々を懐かしむように。
「ああ、でも、――ホントのとこ、言うなら。もうちょっと、みゆきさんと遊びたかった、かな?」
からかい混じりの声音と、茶化すような笑み。けれどそれは冗談などではなく、本心からの言葉だと、何故かわかった。
『もっと遊びたかった』――それが『もっと生きていたかった』と、そう聞こえた気がした。
だからだろうか、その言葉は、するりと口から零れた。
「――…逃げよう、ハク君」
「……え?」
虚をつかれたように、ハクは間抜けた声を漏らした。
「逃げようよ。こんな家の為に今まで散々無理してきて、死ぬ時まで我慢する事ないよ。存在意義は今から見つければいいんだから」
「え、いや、でも――」
「……逃げようよ。やっぱりボクは、ハク君に死んで欲しくない」
「みゆき、さん……」
『命はたった一つしかない大事なものだから』――そういう、一般論とも言えるものだけが理由ではなく、ハクに触れ、言葉を交わし、彼という人物を知ったからこそ、死んで欲しくないと――生きて欲しいと、願う。
それはきっと、当主に言われたように、誰もが持つだろう願いなのだろう。
「でも、……逃げ切れるとは、思えないよ? 絶対に、みゆきさんにも害が及ぶ。逃亡生活とか、流石に無理でしょ」
そう言ったハクの顔は伏せられていて、その表情は読み取れない。どこか、搾り出すような声音だったのが、妙に印象に残った。
「でも、逃げられる可能性だってゼロじゃないよ。逃げなかったら――『儀式』をしちゃったら、ハク君は絶対死んじゃうんでしょ…?」
「そ、う……だけど、でも」
「いいから! 逃げようよ、ハク君が少しでも、まだ生きたいって思ってるんだったら…!」
一瞬、今にも泣き出しそうに顔を歪めてみゆきを見たハクは、唇を噛み締めて、何かを決意するように目を閉じた。
そして目を開けたときには、その瞳は妙に凪いでいて――みゆきは、言い知れぬ不安を抱く。
(ハク、君……?)
「……本邸から直接、外――結界外に出るための『鏡』がある。そこからなら、逃げられるかもしれない」
「っ、じゃあ…!」
「うん、ボクも、死にたいってワケじゃないから、ね。みゆきさんを巻き込んじゃうのは、気が引けるけど――」
「それは今更だと思うよ、ハク君」
「……それも、そっか」
困ったように笑ったハクに、みゆきもまた、笑みを返した。――どこか、ぎこちない笑みになってしまったことには、気づかないふりをした。
◇ ◆ ◇
件の『鏡』は邸の奥まったところにあるらしい。行き交う一族の者達に見咎められないよう、慎重に先を進む。
どちらともなく繋いだ手が、緊張からか冷たく湿っている。
「もう少しで着くよ」
曲がり角の向こうを確認していたハクが、小声で囁いた。みゆきは僅かに頷く。
安全だと確信したのだろう、ハクが一歩、角から足を踏み出した。みゆきもまたそれに続く。
瞬間、聞こえてきた声に、ざっと血の気が引くのを、みゆきは感じた。
「――やぁ、二人とも。仲睦まじく連れ立って、どこに行こうというのかな」
……そこに居たのは、以前と変わらぬ底知れぬ笑みを浮かべた人物――式だった。
「当主……」
ハクが呟く。みゆきを庇うように立ったその顔は見えない。
「こちらは『儀式』の場ではないよ? ……などということは、承知の上なのだろうけれどね」
息を呑む。――当主は、ハクとみゆきがここにいる理由を、知っている。
何を言うこともできずにいる二人に、尚も当主はにこやかに語りかける。
「十中八九、逃げよう、としているのだと思うけれど――本当にそれが、可能だと思ってのことかな。もしその場の勢いで出てきた、などということならば、私としても多少は大目に見てあげてもよいのだけれどね。……もちろん、今からきちんと『儀式』を遂行することが大前提ではあるけれど」
「それ、は――」
何かを言いかけたハクを遮って、みゆきは彼の前に出て口を開く。
「『儀式』をしたら、ハク君は死んじゃうのに、そんな風に言うんですか。あなた達にとって只の道具でも、ハク君の心も身体も、本来彼の物です。どう扱うかは彼が決める事で、誰も口出しできる事じゃありません!」
睨むように式を見据えるみゆき。けれどそれにも笑顔を崩さず、式はハクに視線を向けた。
「――…だ、そうだけれど、ハク。君はどうするつもりなのかな。私は一度、『忠告』をしたと思うのだけれど。その上で、君は何を選ぶ?」
(……忠告?)
やはり笑顔を浮かべたままの式が紡いだ言葉に、みゆきは眉を顰めた。
どのような内容だったかはわからないものの――何故だか、嫌な予感がした。
小さく、ハクが息を呑むのが聞こえた。するり、と繋がれた手が解かれる。ずっと感じていた嫌な予感がいや増して、みゆきは振り返ろうとしたが――それは、正確な意味では成し遂げられなかった。
「――…ごめんなさい、みゆきさん」
不意に聞こえた言葉と共に、何か柔らかい物が口の端を掠めた。一瞬見えたのは、どこか泣きそうに歪んだ――銀の瞳。
息を呑むみゆきの目前で、銀の光が爆発した。
◇ ◇ ◇
『私の願いを――叶えてくれるだろうね?』
あの問いに、即答できなかったときから、わかっていた。
自分はもう、決定的に変わってしまったのだと。
それが、悪いことだとは思わない。
『迷う』ことも、『願う』ことも――全ては彼の人に関わったことで得たものだから。
『殺してもらう』ために出会った――選んだ人。最初から、自分の行く末は決まっていた。そのはずだった。
自覚のない燻りはあっても、それは表には出ていなかったから。
自分に強い感情を抱いてもらう――そのために、深く関わることがあろうとも、何も変わらないと思っていた。
けれど、関わるうちに――いつしか『嫌われたくない』と、そう、思うようになっていた。
『封印解除』で行われる行為によって、避けられることも想定内だったはずなのに、いざ避けるような素振りを見せられたら、自分でも驚くくらいショックを受けた。
正の感情を抱いてもらったがための『封印解除』の内容を、告げなかったのは怖かったから。
ああいう『接触』を、嫌がられたらどうすればいいのかわからなかった。
誰かに『触れる』こと。『触れられる』こと。
それはそれまでの自分の生の中で、最も縁遠いものだったから。
害意を持っての接触なら、あった。殴られたり、蹴られたり――暴力によるものなら。
『封印解除』のため――それは確かにあったけれど、いつからだろう、それは自分にとって『確認』に等しくなっていた。
彼の人が、どれくらい自分を『許して』くれているのか。
面と向かって『確認』するのは怖くて、最後まで不意打ちのような形になってしまったけれど。
それでも――『拒否』されなかったことが、嬉しかった。ヒトでない自分が、そんな風に思うことが、浅ましいと知りながら。
彼の人と、生きられる未来を、夢見たかった。叶わないと、知っていても。
……言わなかった、言えなかった、『儀式』の末さえなければ。
『儀式』――『降ろし』の後、己の身体は『白秋』の器として生き続け、魂は消える。
そして、『儀式』に関わった一族外の人間――彼の人のような『相性のいい者』は、殺される。
それが何故なのか、なんて知らない。ただ連綿と続く歴史の中、そうされてきたから、今回もそうする。それだけ。
けれどそんなの、彼の人を大切に思うようになった自分には、耐えられなかったから。
逃げることも、考えた。一族の者たちならばどうにかする自信があった。当主については、結界外にさえ逃げることができれば何とかなると思っていた。
――けれど、当主が。
『彼女は、君を生かすためなら、己の死さえ厭わない心積もりのようだよ?』
そう、言ったから。
当主と彼の人との関わりは絶った。けれど、『本邸』は当主の領域だ。強い想いは、否応なしに彼に届く。
……当主は、偽りは口にしない。つまりそれは、彼の人が本気でそう考えているということで。
そこまで、自分を想ってくれる事が嬉しかった。――だからこそ、本気で逃げることはできないと思った。
万が一にでも、彼女に害を及ぼしたくない。……自分のために彼の人を亡くすなんて、尚のこと。
だから、ひとつ、当主と取引を交わした。
『降ろし』は、どんな形であろうと成し遂げる。代わりに、彼の人の安全を。
一族の者が許可なしに結界外に出ることはできないから、結界の外にさえ逃がせれば安全だ。当主に関しては、取引さえ交わせば問題ない。
状況によっては、彼の人の記憶も――消して欲しい、と。
乞うた己の声は、きっと震えていただろう。
『逃げよう』と言われて、心が揺れ動いたのは、本当。
だけど、逃げたいと――彼の人と生きたいと、そう思う心を押し込めて、外界へ繋がる『鏡』へ向かう最短ルートを選んだのは、ひたすらに彼の人の安全のため。
『逃げられたら』と、思った。
『逃げられるかもしれない』と、思った。
だけど、やはり当主は現れて。
自分に、選択を迫ったから。
唇に触れた、あたたかさとやわらかさを思い出す。驚きに見開かれた、瞳も。
どうせなら、ファーストキスとか捧げちゃえばよかったかな、などと冗談交じりに思って、結局自分が彼の人に向けていた感情がわからずに苦笑する。身体の感覚はないから、実際に笑えたわけではないけれど。
大切だった。
失いたくなかった。
――…笑っていて欲しいと、思った。
慕わしい、と、そう思っていたのは自覚している。けれどそれが、親愛なのか恋情なのかは、自分でもわからなかった。
ただ、確かなのは。
己のことを忘れてでも、幸せになって欲しい、ということだけ。
意識が、薄れていくのを感じる。
不完全な『儀式』だから、どうなることかと思ったけれど、どうやら成功したらしい。
よかった、と胸を撫で下ろして、彼の人を思う。
(怒る、かな……)
(それとも、泣く、かな。泣いてくれるかな)
(ボクはキミを、選べなかったけど、)
――…『逃げよう』って言ってくれて、嬉しかった。
その思考を最後に、ハクの意識は、途切れた。
◇ ◇ ◇
数秒か、数分か、それとももっと長い時間の後――呆然とするみゆきの前で、銀の光は収束した。そして響いたのは、不思議な『声』。
『ホントに、バカだね、キミは』
頭に直接響くような、そんな声だった。その主――ハクであって、ハクでない――そう、否応なしに感じさせる人物の姿は、燐光に包まれている。…まるで、この世在らざる者のようだった。
「……白秋」
搾り出すようにして、当主が名らしきものを呟く。
『何を驚いてるの。キミが望んだんでしょう、ボクを現世に引き戻すことを。こんな、バカな真似までして。…あんまりにもこの子――“器”の持ち主が必死に呼ぶものだから、つい降りてきちゃったよ。何言ったのさ、キミ』
軽い口調――けれどどこか責める響きのある声音で、『白秋』と呼ばれた彼は言う。……ハクの声で、姿で。
それは、『儀式』が完了してしまったということ――ハクの言っていた、『死』が訪れてしまったということ。
みゆきは、目の前が真っ暗になったような心地がした。
「私は、……私、は」
『ま、どーでもいいか。時間もないことだしちゃっちゃと用件済ますよ? あんまり“器”に負担かけたくないし。……それじゃまず、お嬢さん』
唐突に声をかけられて、茫然自失の体だったみゆきは肩を跳ねあげる。それを見た『白秋』が苦笑した。
『そんなびっくりしなくても。大丈夫、とって喰ったりはしないよ』
その顔は『ハク』のものと寸分違いないのに、浮かべる表情が違う。――やはり、ハクではない。
この目に映っているものは、現実なのだろうか。『ハク』であって『ハク』でない…そんな人物が目の前にいるなんて。
混乱なのか何なのか、自分でも判断のつかない感情によって、言葉を返すことすらままならないみゆきに、『白秋』は困ったように首を傾げた。
『その様子だと、勘違いしてるっぽいから先に言うけど、この子――この“器”の持ち主、えーと、“ハク”だったかな? その魂、まだ消えてないから。生きてるからね? ボクが“器”から出れば、ちゃんと“ハク”の意識が出てくるよ』
「……え…?」
『儀式が不完全だったっていうのもあるけど、この“器”が――“ヒト”に、限りなく近づいた。もう“ヒト”ではないボクが降りることで、負担がかかるくらいには、ね。だから、かな。…元々馴染みにくくなってるから、ボクが意識すれば、ちょっと憑依するみたいな――所謂イタコとかの霊媒がやるような口寄せっぽい感じにできる、っていうかできたんだよね。だから安心して』
(――じゃあ、ハク君、まだ生きてる、の…? 生きられる、の?)
告げられた事実をまだうまく消化できないながらも、それだけは理解する。その様を見届けて、『白秋』は式へと視線を戻した。
『――…で。ボクが言いたいことはわかってるよね? っていうか朱夏も言ったのに、何やってくれちゃってるのかな、キミ。もう終わらせるべきなんだって。ホント、駄々こねるのも大概にしなよ?』
呆れたように溜息を吐いて、『白秋』は続ける。
『随分、引き延ばされちゃったけど。今度こそ、お別れ、だよ。これ以上“理”に逆らうのは、いくらキミでも無理。朱夏も輪廻に還っちゃったしね。――さて、と』
区切りをつけるように深呼吸して、にっこりと笑った『白秋』が、式へと近づく。
『それじゃあ最後に一言、ってね』
そう言って、式の耳元で何事かを囁いたかと思うと――その身を包む燐光が、すぅっと消えた。そのままくずおれるのを、予期していたかのように式が支え、そっと床に横たえる。
「……ハクはもう、『封破士』でも、『器』でもない」
ぽつり、と式が言った。
「私に必要だったのは、『封破士』であり『器』であるハクだった。だから、ハクはもう私にとって必要な存在じゃない」
淡々とした声音だった。何の感情も読み取れない、声。
式が立ち上がる。そして踵を返した。
「目は直に覚めるだろう。……貴女がハクを――その存在を望むというのなら、連れて行くといい。ハクが『外』を望むなら、私に止める道理はない。どこでどう生きようと、私はもう看過しない――そう、伝えて」
そう言って、式はその場から立ち去った。
みゆきは横たわるハクに近づき、そっとその傍らに座した。
規則正しい呼吸が聞こえる。恐る恐る触れた肌からは、温もりが伝わってきた。
(生きてる……)
じっと見つめていると、ふいに閉ざされていた瞼が僅かに痙攣した。それは、目覚めの予兆。
声無く見つめるみゆきの目の前で、その瞳はゆっくりと開かれ――。
「……あれ、みゆき、さん……?」
ぼんやりとした声で、ハクはそう呟いた。
「――…っ!」
衝動のまま、みゆきは覆い被さるようにして彼を抱きしめる。
「え、え、……あれ、夢? …じゃ、ない……?」
間の抜けたことを言う声を聞きながら、みゆきは滲む涙を堪えてさらに強く抱きしめた。
色々と言いたいことも、勝手なことをしたことに怒りたい気持ちもあったけれど――何より先に、その生を確かめるために。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0085/杉森・みゆき (すぎもり・みゆき)/女性/21歳/大学生】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは、杉森さま。ライターの遊月です。
「白秋流転・陸 〜霜降〜」にご参加くださり有難うございました。お届けが遅くなってしまって申し訳ありませんでした…!
最終話、如何だったでしょうか。
色々ありましたが、とりあえず、『白秋流転』はこれにて終幕ということになります。
とはいえ、生ある限り、ハクと杉森さま、2人のお話はまだまだ続いていくことでしょう。
最終話までお付き合いくださり、ありがとうございました。
ご満足いただける作品になっていましたら幸いです。
それでは、本当にありがとうございました。
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