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<東京怪談ノベル(シングル)>


変質


 面白いアルバイトだと、最初は思っていた。
 久しぶりに長い連休が訪れようとしていた数日前‥‥‥‥
海原 みなもは、友人からアルバイトの誘いを受けていた。

「ねぇ、みなもって、動物は好き? それとも苦手?」
「え‥‥可愛い子なら好きですけど」
「それじゃあ、パンダとかは?」
「大好きですよ。あのふかふかもこもこした体‥‥‥‥抱きしめてみたいですよね」

 友人の言葉に、私は最近テレビで見たパンダの赤ん坊を思い出していた。
 ぬいぐるみがそのまま動き出しているのではないかと、本気で思ってしまう程の可愛らしさ。自由気ままに転がり、歩き、仲間とじゃれている姿などたまらない。もしもペットとして飼えるのならば、是が非にでも欲しがる人はいくらでもいると信じている。

「まぁ、実際は熊の仲間だから、結構凶暴なんだけどね」
「あぅ‥‥でも可愛いじゃないですかぁ」
「それは認める。私も好きだから、受けたんだけどねぇ‥‥‥‥あのさ、私が入ろうと思ってたバイトなんだけど、急に家族と旅行になっちゃって‥‥‥‥」

 代わりに行ってくれないかと、みなもに助けを求めに来たらしい。
 何でも、動物園で働いている知人からアルバイトに誘われ、この連休を利用して受けたものの、突然の旅行で急遽キャンセルしなければならなくなったらしい。
 みなもがアルバイトに積極的であることは、友人間でも有名になっている。
 その為、こういった頼み事をされることも、そう珍しいことでもなかった。

「動物園でのアルバイトですか?」
「うん。親戚が動物園で働いてるんだけど、今度の連休にパンダキャンペーンをするからコンパニオンをしてくれないかって頼まれてたのよ」
「パンダキャンペーンですか‥‥‥‥楽しそうですね」
「私もそう思ったし、やりたかったんだけどね‥‥ね、やってくれない? 二泊三日の泊まり込みのバイトだから時間がかかるけど、その分給料も良いし、ね?」

 結局、そのまま拝み倒されるようにアルバイトの参加を承諾してしまった。
 面白いバイトだと、最初は思っていたのだ。本当に。
 コンパニオンの仕事でなぜ泊まりなのだろうかとか、そんなことは疑問にも思わなかった。友人からの説明だけを聞き、助けになれるのならと、いつものように承諾してしまったのだ。
その時点で、何かの魔力に囚われていたのかもしれない。
 みなもは、自分を包み込もうとしている暗雲には気付きもしていなかったのだった‥‥‥‥




〜一日目〜

 みなもは硬直していた。これ以上ないほど、これまでにしたことがないほどにピタリと体を停止させ、手にした衣装を広げている。

「こ、これは‥‥‥‥」

 開いた口が塞がらない‥‥‥‥なんて、まさか自分でそれを体験することになるとは思わなかった。
 これまでみなもがこなしてきたアルバイトの中に、奇抜な格好がなかったわけではない。
 動物の着ぐるみなど序の口で、魔女っ子やら宇宙人と、奇妙な格好をさせられたこともある。その中で言えば、動物の‥‥ましてやパンダの格好など、大した抵抗もなく着られる自信があった。
 そんなみなもが、手にした衣装に固まっている。
 パンダのキャンペーンをするのだから、当然パンダの衣装を着ることになると予想はしていた。しかし、それはあくまで着ぐるみか耳付きカチューシャ、尻尾を付ける程度だと思っていたのだ。
 まさか‥‥‥‥
 パンダ柄の全身タイツを着ることになるなんて思いもしなかった!!

「こ、これで人前に出るんでしょうか‥‥?」

 誰が聞いているわけでもないのに、みなもは呟いていた。
 この衣装を手渡した係員の人は、更衣室の外で待っているはずだ。思えば、係員の人がこの衣装を差し出してきた時、奇妙な笑みを浮かべていた気がする。なんて表現すればいいのか‥‥なんとなく、可愛らしい動物を愛でる人の、僅かに愉悦の入った顔に見えた。

(でも、今更断るわけにも‥‥いきませんよね)

 これまでにも、多少なりとも恥ずかしい衣装を着てきた経験もある。恥ずかしい衣装というのは、実際に着てみればすぐにでも慣れてしまうものだと自分に言い聞かせて、無理矢理にでも納得しようと覚悟を決める。
一度は受けてしまった仕事だ。まさかアルバイト当日、衣装が気に入らないからと言って投げ出してしまうわけにもいかない。それにここで逃げ出してしまえば、このアルバイトを任せてくれた友人にも迷惑がかかってしまう。

(別に‥‥変なことをされる訳じゃないですしね)

 いそいそと身につけていた衣服を脱ぎながら、そう頷いた。
 ここは動物園だ。コンパニオンとして雇われて、変なことはされない‥‥と思う。少なくとも、お客さんと一緒にお酒を飲むような仕事ではないのだ。商品を勧めたりとか、みんなにパンダを紹介したりとか、そんな仕事‥‥だと信じたい。

「すごい‥‥こんなにピッタリ‥‥‥‥」

 衣装を着込んだみなもは、体を包み込む全身タイツの感触に体を身震いさせる。
 パンダ柄のタイツは、体に合わせたかのように肌に張り付き、余すところ無く吸い付いてくる。これまでに着てきたぬいぐるみやスーツの中にも、相手の体格に合わせて伸縮するような物もあった。しかしこの衣装は、そんな感触とは少し違う。ゴムのように体を締め付けるような不快感もなく、まるで、元々体の一部だったようにタイツは重なってくる。
タイツの上を指でなぞってみても、体を直に触っているようにしか感じられない。タイツに線が浮き上がったりしないようにと専用の下着と薄いレオタードも渡され、着用しているのに、何も身につけていないかのような不安を覚えてしまう。

「はぅぅ‥‥こ、これはちょっと‥‥」

誰が見ているわけでもないのに、みなもは手で体を隠していた。鏡を覗いてみると、羞恥に顔は紅く染まり、パンダらしからぬ色合いとなっている。
 パンダの手足を模した靴と手袋を着け、鏡に映った自分を改めて観察する。
全身に吸い付くようにフィットしているタイツは、体のラインを完全に浮き上がらせている。下着とレオタードは目立たないようにと手を凝らされていることもあり、外から見ている分には、肌に直に全身タイツを着ているかのように見える。
お尻にピョコンと申し訳程度に付けられている丸い尻尾はとても可愛らしく、テレビで見ていたパンダのそれその物にしか見えない。感触を確かめて見たかったけど、手袋に付けられた堅い鉤爪がフワフワしている尻尾を傷つけてしまいそうだったのでやめておく。
足元を見ると、やはり両足にも鉤爪は付けられていた。爪は歩くときに邪魔にならないように工夫され、触ってみると上下左右にと向きを変える。
爪に関しては可愛らしさを半減させていたけど、嬉しいことに、歩いたときに足が痛くならないように配慮してくれたのか、足の下に当たる部分には肉球のような物が付いていて気持ちが良い。よくよく見れば手にも大きな肉球が付いていて、試しに壁に手を付けて“ぷにぷに”と押し込んでみると‥‥‥‥何ともいえない至福の感触が襲いかかってくる。
‥‥‥‥試しにもう一度だけ押し込んでみる。
 ぷにぷに。
 もう一度だけ‥‥‥‥
ぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷ‥‥‥‥

「海原さん? まだでしょうか?」
「え!? あ、はい! もう少し!」

 肉球の感触に夢中になっていたみなもは、慌てて現実に戻り、身につけた衣装を確認する。危ない。もう少しで肉球中毒になるところだった。
 もう一度袋の中を見て、付け忘れている物がないかどうかを確認する。うん。大丈夫。鉤爪OK。尻尾OK。タイツはみなもの体にピッタリと吸い付いているので、ちょっとパンダとしては痩せているけど、そんなに悪くはない‥‥と思う。
最後に袋の中に押し込まれていたカチューシャを取り出し、装着する。想像していたよりかは小さな耳。長い髪の毛は‥‥タイツの中に入りきらないので後ろにまとめておく。

「すいません。終わりました。‥‥あの、どうでしょうか?」

 みなもは更衣室のドアを少しだけ開け、周りに係員以外の人がいないことを確認してから、恐る恐る外で待っていた係員の人に声を掛けた。
 やはり、この格好で外に出ることには僅かに抵抗がある。
 せめて係員の反応を確かめてから、こっそりと担当の場所に行きたかった。

「ええ、よく似合っていますよ。可愛いです」
「そ、そうですか?」
「あとはパンダになりきれるかどうかですね。では、こちらへ」

 係員はニコリと朗らかな笑顔を浮かべながら、みなもを促して歩き出す。みなもは羞恥に身を縮めながら、出来るだけ人と擦れ違わないようにと祈りながら係員の後を付いていく。その間も両手は胸と下に伸び、無駄と分かりながらも隠してしまう。鏡を見たときにはそれほど羞恥を覚えるような格好には見えなかったのに、あまりにも自然に体に馴染むタイツの感触が、どうしても“本当に衣装を着ているのか?”と言う疑問を振り払わせてくれない。
周りからの好奇の視線を意識するとゾワゾワと体が震え、野外から吹き込んで来た風が体を撫でるたびに体を撫で回されているかのような錯覚を覚えて身を縮める。
 だと言うのに‥‥どういう訳か、それらを不快に思うようなこともなかった。
 ‥‥‥‥それはこのタイツの機能によるものなのだと、みなもは自分に言い聞かせた。
野外に出たことで、風は屋内にいた時とは比べ物にならないぐらいに体を撫で回した。小さな下着に薄いレオタード、全身タイツという薄着なのだから寒い思いをすると思っていたのに、暖かいぐらいだ。もこもことしているパンダ風味の手袋と靴が暖かいのは当然として、薄着であるにも関わらず、タイツは風が吹くたびにみなもの体を温めていく。
どうやら、みなもが着込んでいるタイツには、風に当たることによって体を温めるような効果があるらしい。原理は知らないが、ありがたいことだろう。ただ、まるで春の陽気に包まれているかのような感覚は、眠気となってみなもに付きまとい始めていた。

「パンダですからね。毛皮は暖かい物でしょう?」

 唐突に、係員がそんなことを言ってきた。
みなもの心を読んでいるかのような言葉に、みなもはつい「そうですよね」と同意する。

「海原さんは、パンダは好きですか?」
「はい。大好きですよ」
「なら、その大好きなパンダになりきっちゃってください。仕事だとか恥ずかしいだとか、そんなことは忘れちゃって構いません。パンダは仕事なんてしませんし、恥ずかしいなんて思いませんよ。ただパンダらしくそこにいるだけでも良いんです。出来ますか?」
「パンダらしく‥‥ですか」

 どうも‥‥その言葉が引っかかる。
 パンダの演技をすればいいのだろうか。それだと、どうしてもタイヤを抱きしめてゴロゴロ転がっている姿ばかりが思い浮かぶ。後は寝転んでいたり、木に登って転がり落ちたり?

「想像できる範囲で構いませんよ。海原さんにとっての、理想のパンダになってくれれば良いんですから」
「はい。がんばります!」

 みなもはそう意気込んで、係員の後に付いていく。どうやらパンダキャンペーンと言うことで、普段は使われていない場所に特設コーナーを設けているらしい。
 少し‥‥他の檻から離れすぎているような気がしたけど、みなもは深く考えないようにしていた。
 と言うより、深く考えようとは思わなかった。
 体を包むタイツの暖かさは、うっすらとした眠気を呼び起こしてくる。
 それに加え、みなもは係員の「パンダらしく」と言う言葉を反芻し、自分がこれまでに見聞きしてきたパンダを思い出して、どんなパンダを演じようかと考えていた。

「はい。到着しました。海原さん? ここがあなたの職場です」
「は、はい! 大丈夫‥‥です」

 パンダのことばかりを考えていたみなもは、係員の言葉にハッと顔を上げて返事をする。まるで学校で居眠りを指摘されたように恥ずかしい。顔が再び紅く染まるのを感じ、みなもは肉球を頬に押しつけて顔を隠してしまう。
 係員はそんなみなもを見つめながら、笑みを浮かべて「ここがあなたの職場です」と、みなもを小さな小屋の中に招き入れる。
 その中は‥‥‥‥まるで‥‥‥‥‥‥

「動物‥‥小屋? あれ、檻ですよね?」
「檻ですねぇ。どう見ても」

 みなもが職場だと案内された場所は、まるで動物を‥‥パンダを飼育するための檻その物だった。水浴びのための小さな池に、木登りようの背の低い丈夫そうな木、幼稚園にありそうな小さな滑り台に、パンダの定番の丸いタイヤまで転がされている。地面は土と草で敷き詰められ、とても檻の中だとは思えない。
 先ほど、みなもが係員に言われて想像したとおりの小屋だ。みんなして考えることは同じらしい。ただし他の檻と少し違うのは、檻は檻でも鉄格子の檻ではなく、分厚いガラス張りの檻だと言うことだ。鉄格子に邪魔されることなく、中が広々と見えるようにと言う配慮らしい。
 ガシャンと、背後で扉の閉まる音がする。小屋の中に響く重々しい金属音。猛獣を入れておけるように作られた頑丈な扉が閉まり、みなもと外の世界を隔離する。

「あの‥‥これは!?」
「パンダの小屋です。キャンペーンのための特設コーナーですよ」

 外に出ていた係員は、扉の向こう側からそう言った。
 あまりにも堂々とした、または平然とした物言いに、みなもは怒るよりも先に唖然としてしまった。
 パンダになりきる‥‥とは、この事を言っていたのだ。
 言葉通りの意味で、本当にパンダになりきる。ただそれだけのアルバイト。コンパニオンはお客さんを楽しませる接客業だけど、なるほど、確かに動物ならお客さんを楽しませているし、間違ってはいないような気も、する。

「でも、こんな事って‥‥!」
「ここは動物園ですから。パンダも檻に入れないと」
「そう言う問題じゃ‥‥!」
「あなたはパンダですから。丁重に飼育しますよ」
「し、飼育!?」
「パンダは貴重ですから。あ、私が餌とか持ってきますから、遠慮せずにどうぞ」
「本気ですか!?」
「パンダは珍しいですからね。みんなして見に来ますよ」

 聞く耳など持っていない。聞いていたとしても、会話が成立しているのだろうか?
 楽しそうに頷いている係員の目を見て、背筋に冷水でも掛けられたかのような寒気を覚えて身を竦ませる。
 係員は本気だ。平然と、当然のようにこの異常な事態を受け入れている。
 人を檻に入れる? そんなことが許されるのだろうか?
 昔、子供の頃に人魚という正体がバレて檻に入れられる夢を見たことがある。
当時は想像しただけで泣いてしまっていたが、まさかパンダとして檻に入れられる日が来るとは想像もしなかった。こうなると泣くべきなのか笑うべきなのかも分からない。ただ漠然と、あまりの衝撃にそれ以上の言葉を紡ぐことが出来ず、口をパクパクとさせるばかりで言いたい言葉が出てこない。
友人はこれを知っていたのだろうか? 今となっては、友人はこのアルバイトに危機感を覚えて逃げ出したのではないかとすら思えてしまう。
 係員はみなものそんな様子を見て頷き、腕の腕時計を確認して「ああ、時間ですね」と、小さく呟いた。

「時間?」
「開演です。お客さんが来始める時間ですから、パンダになっててくださいね」
「そ、そんな!」
「あなたはパンダなんですよ。パンダのことばかり考えていてくれれば、ちゃんとパンダになれますから」

 「それじゃあ」と軽く手を挙げ、係員は離れていった。
 残されたのは、パンダキャンペーンと目立つ看板の付けられたパンダ小屋。そしてその中にいるみなも‥‥‥‥

(ウソ‥‥‥‥)

 係員の背中を見送り、みなもはペタリとその場に座り込む。
 日常から非日常へ。野生の動物が無理矢理檻に入れられたとしても、ここまでの絶望は感じないだろう。
 こんな絶望的な心境の中で、みなものパンダ生活が始まった。




 昼を過ぎ、太陽が昇りきった頃、みなもは滑り台の日陰に隠れて寝転んでいた。

(ど、どうしよう‥‥)

 すでにこの檻に閉じこめられてから、数時間が経過している。
 太陽はすっかり昇りきり、むしろ沈む側へと倒れてきている。この檻には時計が無く、園内の大時計も見えないため、時間の経過がよく分からない。時刻を知る手がかりと言えば、頭上でみなもを照りつけてくる太陽か、檻の前を通るお客さんだけだった。
 ‥‥‥‥ただパンダの真似をしていればいい‥‥と言われたところで、本当に成りきっているところを見られるのは恥ずかしい。万が一にでも同級生に見られてしまえばと思うと、迂闊に顔を出すことすら出来ない。
おかげで、朝からこの日陰から出られずにいる。
 時折檻の外に人の気配を感じても、出来る限り顔だけは出さないようにしていた。パンダだって、檻の中ではゴロゴロと転がっているだけな事が多い。これでもパンダの真似をしていると言える筈だ。

(おなか‥‥‥‥空いた)

 そう思った時、おなかが「きゅぅ」と小さな声を上げて空腹を訴えてきた。
 もう、赤面するような気にもならない。顔は草のカーペットに埋め、時折ゴロゴロと転がってみる。

(パンダのようにって言われても‥‥‥‥)

 テレビで見ているパンダは、どんな子でも檻の中を歩き回ったり木に登ったり眠っていたりするばかりだった。可愛いことは可愛いのだが、檻の中ですることと言ったらそれぐらいが精一杯なのだ。こうして檻の中に入れられ、動物園の動物達の境遇に同情する。

(おなかすいたぁ‥‥まさか、ご飯も笹とか言われないよね?)

 ふと、その可能性に思い至り愕然とする。
 あの係員‥‥と言うより飼育員なら、あり得る。パンダになりきるというのならば食事もパンダの物に変えかねない。

(せめて果物が欲しいなぁ)

 みなもがそう思った矢先、重々しい音を立てて扉が開き、飼育員が姿を現した。
 手には、銀色の大きな四角いトレイ。みなもは体をガバッと起こし、飼育員を待ちかまえる。
 ‥‥‥‥だと言うのに、飼育員は、扉から動こうとはしなかった。トレイを足下に置くと、ぱんぱんと手を叩き、手招きする。

(そんなぁ‥‥)

 食事が欲しければここ来いと言いたいらしい。ちらりと檻の外を見ると、今か今かと待ちかまえているカメラ小僧の群れが‥‥‥‥

(いつの間に!?)

 動物園では、動物が驚くと言うこともあって写真撮影が禁じられているところが多い。この動物園でも、確か基本的には禁止だったはず‥‥‥‥この檻だけは例外に認定されているらしい。
 つまり‥‥これまでも撮られていたのかもしれない。ずっと顔を背けていたために気づけなかった。

(どうしよう‥‥‥‥か、顔見知りはいないよね?)

 見知らぬ他人だけなら、まだ顔を出しても‥‥‥‥良いかもしれない。ソッと集まっているお客さんを観察する。‥‥‥‥無理。絶対無理。写真撮影を今か今かと待っているお客さんもいれば、動画に撮ろうと撮影を始めているお客さんもいる。下手をしたらインターネットにでも流されてしまいそう。ただでさえ秘密の多いお年頃。妙な噂は立てられたくない‥‥‥‥
 ――――バタッ
 みなもは、その場に倒れた。
 途端に耳に届く落胆の声。檻の外で待ち構えていたお客さん達が、溜息混じりに去っていく。

(ごめんなさい。本当にごめんなさい)

 言葉に出さずに謝罪する。
 見るのが限られた人だけなら、まだこんな格好でも見せる気にはなった。
 しかしこんな大勢の前で見せ物にされるのは、さすがに嫌悪感を覚える。
 それに‥‥‥‥こんな、裸と錯覚するほどに馴染むタイツを着込んでいる今、みなもが感じる羞恥心は、日常のそれとは比べものにならないものだった。

「‥‥ふふ」

 そんなみなもを見つめ、飼育員は満足そうに頷き、トレイを地面に置いたままで、扉を閉めていく。
 再び世界から隔離されたみなもは、静かに、その場で目を閉じた‥‥‥‥




 そして、日が落ち、何もかもが薄闇に閉ざされた深夜‥‥‥‥
 みなもはゆっくりと目蓋を開き、体を起こした。
 すでに檻の外も、中も薄い闇に落ちている。
動物園内には夜行性の動物の鳴き声や羽ばたく音が聞こえ、絶え間なく小さな虫達の大合唱が、所々の草むらから響き渡る。
 静かな夜とはほど遠い音の波。見上げると月が輝き、園内を照らし出している。そのお陰で園内には本当の意味での闇は訪れておらず、みなもが目を凝らさずとも、檻の中も外も、はっきりを見て取ることが出来た。

「ここ‥‥どこでしたっけ?」

 長い眠りの余韻が抜けず、みなもは周りを見渡し、そして「ああ」と小さく呟いた。

「そっか‥‥‥‥あたし、ここに閉じこめられたんだ」

 みなもは自分の置かれている状況を把握しようと考え、そう呟いて沈黙した。
 閉じこめられてからの記憶が曖昧で、上手く思い出せない。
 ここに閉じこめられたのは分かる。だが、なぜ閉じこめられたのか‥‥‥‥閉じこめられてから何をしていたのかが、はっきりと思い出せない。

「何で‥‥だっけ?」

 体が熱い。熱でもあるのか、頭はユラユラと揺れるばかりで思うように思考が回らない。
 ただ、体は余すところなく熱を持っていた。体が重い。気怠さを堪え、何か、冷たいものをと見回して探してみる。
 と、そうして見渡しているところに、銀色のトレイを見つけた。
 月明かりに照らされ、その上に乗っている果物が目に入る。そしてそれを見つけた途端に襲いかかってくる空腹感。それは痛みに似た衝動だった。

(ここに来てから‥‥‥‥何も食べてなかったですね)

 何も食べていないどころか、何も飲んでいない。
 熱を持った体は、いつも以上に水分を要求している。空腹感にも突き動かされ、みなもは何も考えずに行動した。
立ち上がろうと足に力を込め、尻餅をつく。おかしい。思うように立ち上がれない。足に力が入らないと言うより、まるで体が重くなったように感じる。今度は手近にあった滑り台に手を掛けてゆっくりと立ち上がり‥‥‥‥一歩、二歩と歩かないうちに倒れ込んだ。

「あ、ぁれ?」

 おかしい。これまで、風邪を引いても歩くことも出来ないなんて事はなかった。
 なのに、今では歩くことも満足に出来ない。熱を持った体はふらつき、立ち上がると足が震え、体を支えていられない。
 それはまるで‥‥‥‥体が、歩き方を忘れてしまったかのようだった。

(ど、どうやって‥‥‥‥)

 これまで、自分はどうやって歩いていたんだろう
 思い出せない。ふらふらとよろめき、何度も転ぶ。体が汚れ、白黒の体に砂が付く。
 ‥‥‥‥何度転び、何度起きあがったのか‥‥‥‥
 もはや体を起こすことすら億劫になりかけていた時、みなもは地に手をつき、呼吸を正していた。
 おかしい。立ち上がれない。上手く歩けない。朝には普通に歩けたのに、たったの十数時間でここまで変わるなんて‥‥‥‥いったい何が起こったのか‥‥‥‥
 何度と無く倒れ込み、薄汚れた手を見る。堅い爪と柔らかい肉球。そして白黒のふさふさの固い短い毛‥‥‥‥
 手を前に出し、一歩を踏み出す。これまでは一歩を踏み出しただけでもよろめいて倒れ込んでいたのに、その一歩は力強く、しっかりと体を支えている。
 もう一歩。今度は反対側の手を前に踏み出す。体は揺れず、進む。
もう一歩。もう一歩‥‥
 端から見ていれば、それは赤ん坊がハイハイで進んでいるように見えただろうか。それとも‥‥‥‥それは、パンダが歩いているように見えただろうか‥‥?
 みなもには分からない。客観的に自分を見る余裕はなかった。トレイにまで辿り着き、乗せられているリンゴを手に取り、口に運ぶ。リンゴは一口サイズに切られており、大きいパンダの手では持ちにくい。

「あ‥‥」

ポロッと、リンゴはみなもの手から転がり落ち、トレイの上に落下した。
使い慣れない堅い爪が何本も付いた、大きな手。みなもの手よりも二回り以上も大きな手は、小さなリンゴを掴むことすらおぼつかずに大切なリンゴを落としてしまう。指でつまもうとしても、大きな爪のせいで上手く距離感が掴めない。
みなもは慎重に手の平‥‥肉球の上にリンゴを一切れ乗せると、それを口に押し込もうとした。だが、バランス感覚に異常をきたしているみなもの体はゆらゆらと揺れ、手にしていたリンゴをすんでの所で取り落としてしまう。

「だめ!」

 思わず声を上げ、体ごと追いかけるように身を乗り出す。リンゴはトレイの上に。みなもはそのトレイの上に顔を差し出すような体勢で固まった。
 ‥‥‥‥静寂。
 みなもにとっては、その瞬間は確かに静かになった。
周りの虫の声も聞こえない。ただほんの数秒、目の前にあるリンゴを見つめている。
 ただ‥‥聞こえるものがあるとすれば、それは音としてではなく、記憶の中で。誰かの声が木霊のように響いている‥‥‥‥
“パンダになりきってください”
 頭の中で、誰かがそう言っている。
 パンダに、パンダになればいいと‥‥‥‥
 そう言えば、自分は‥‥‥‥
 なぜ、パンダになろうとしなかったのか‥‥?
 思い出せない。思い出そうともしない。

「あ、あぐっ」

 みなもは、目の前のリンゴにかぶりついた。掴めないなら、手を使う必要はない。トレイを手に、頭を下げて小さなリンゴに噛みつき、直接口の中に放り込む。リンゴは丸ごと口の中に放り込んでも咀嚼が出来るよう、ちょうど良い大きさに切り揃えてあった。
誰にも見られていない深夜、みなもは一人、食事をとる。
やがてトレイの上に置いてあったリンゴは、すべて無くなった。
 トレイの上には、小さなリンゴのカスと汁が落ちている。そしてそれに負けないぐらい、みなもの口周りも汚れ、手にもリンゴの汁が付着してベタベタとし始めている。

「‥‥‥‥ああ、そうだ。洗わなくちゃ」

 しばしボウッとしてから、みなもはのろのろと歩き出した。
 歩き出したと言っても、先ほどと同じ四つん這いでの移動。水道を探すようなことはしなかった。探せば清掃用の水道があるかもしれないが、みなもが“手を洗う”と思い至った時、真っ先に思い浮かんだのは、水遊び用の小さな池だった。
 バシャン!
 水音を立てて、みなもは池を波立たせる。手で池を叩き、アライグマのように手を洗う。
 顔は、ほとんど池に直接つけるように近づけてから、両手で水を掛けてこする。冷たい水が心地よく、みなもはしばらくの間、池の水を浴び続けた。
 ‥‥‥‥‥‥
 ‥‥‥‥
 ‥‥そうして、ようやく熱が引いた。
 それまで体を包んでいた熱気が、僅かに引いて思考が戻る。まだまだ体は熱く、気怠さは残っている。しかしそれでも、何度も顔を洗うことによって頭は冷え、自分の行動を顧みるぐらいのことは出来るようになった。

「あたしは‥‥いま‥‥」

 パンダの真似‥‥をしていた?
 抵抗感も何もなかった。ただ夢中で、何も考えずにそうしていた。
 パンダの真似だと意識していたわけでもない。何度も倒れ、熱に浮かされるうちに‥‥‥‥そうすることこそが自然な気がしたのだ。

(何でそんな気がしたんだろう‥‥)

 この格好になってから、自分が自分として見られていないからだろうか。
飼育員からはパンダとして扱われ、もしかしたら‥‥‥‥昼間に集まっていたお客も、みなものことをパンダの衣装を着た少女ではなく、ただのパンダとして見ていたのかもしれない。
 そう思うと、みなもの背筋がうっすらと冷たくなる。
 怖い。漠然とした恐怖がみなもの体を震わせる。
 もしも‥‥‥‥もしも、このままパンダとして扱われ続けたら、いつかは自分で自分のことをパンダとして見るようになってしまうかもしれない。
それを恐れてしまう。
自分が人間(人魚だけど)であると忘れてしまった時‥‥‥‥海原 みなもはいったいどうなってしまうのか‥‥‥‥

「こ、これ脱がなきゃ‥‥!」

 これ以上、自分で自分を見失う前に‥‥せめて誰も見ていないこの時だけは、この衣装を脱いで元の自分に戻っておくべきだと感じ、みなもは手袋を外しに手首に指をかける。

「あれ? あ、あれ?」

 堅い爪は手袋の手首部分を引っ掻くばかりで、手袋に引っ掛かってはくれない。指で手袋の指先をつまんで引っ張ってみても、手袋はそれ自体がみなもの手であるかのようにびくともせず、ピッタリと張り付いて離れない。
 みなもは夢中になった。必死になった。無我夢中で自分の手首を引っ掻き、手袋を外そうと躍起になった。
 外れない。
‥‥外れない。
‥‥‥‥外れない!
 手袋は外れず、手袋が纏っているパンダの毛に引っ掻き傷のような汚れが付くばかりで、めくれるような手応えもない。衣装を着れば肌と衣装の間に段差が出来るはずなのに、それも見あたらない。
 ‥‥‥‥‥‥違和感を感じる。
 この手袋、パンダを模した毛皮でフサフサだったけど、手首までしかなかった毛皮が、今では肘まで広がっているような気が、する。

「こんな事って‥‥」

 勘違いだと思いたい。
だって、あり得ない。こんな事はあり得ない。パンダの衣装を着てお客の相手をするだけのアルバイトなのに、本当にパンダになるなんて‥‥演じているだけだから本当にパンダになるなんて事はない無いはずなのに、気が付いたら衣装自体が自分の肌みたいに感じられて、手を擦ってみたら直接自分の手を触っているような感触がして怖くなる。白黒の短い毛を撫でてみても、髪の毛を触っている時みたいにくすぐったい。
 頭の上に手をやり、耳付きのカチューシャを外そうと指をかける。
 ‥‥‥‥外れない。まるで髪の毛にからみつくように‥‥‥‥元からそこに生えていたかのように、カチューシャはビクともしなかった。

「何で‥‥こんなの‥‥無いですよぉ」

 耳を引っ張るたびに、ビリビリとした痛みが頭に走る。カチューシャを引っ張っただけでこの痛み‥‥まるで本当の自分の耳を無理矢理に引っ張っているかのような痛みだった。
 ‥‥‥‥‥‥
 ‥‥‥‥
 ‥‥
 そうして、いったい何時間たったのか‥‥‥‥
 みなもが目を覚ましてから、どれだけの時間が経過したのか、それはみなもには分からない。ただ朝日はまだ昇っておらず、外は暗いまま。むしろ夜が深まるばかりで、やがてみなもの気力はその闇に飲まれるように、静かに離れ、消えていった‥‥‥‥

(‥‥‥‥‥‥)

 疲れ果て、みなもは考えることさえ億劫になっていた。
 池の前に横たわり、体を休ませながら、ぼんやりと夜の園内を見つめている。他の檻はみなもの檻からはほとんど見えず、自分だけがこの世界に取り残されてしまっているかのような錯覚すら感じさせた。
 虚無感が、みなもの体を支配していた。
 体を引っ掻き続けた指先は、軽い痛みに襲われている。対して引っ掻いていた腕は分厚い毛皮に守られ、汚れてはいても痛みは全く感じられなかった。
 ‥‥‥‥それがみなもの不安を掻き立てる。
 一人でこんな悪夢に立ち向かうのには、もう疲れた。明日、陽が昇ってから‥‥‥‥飼育員に声を掛けよう。この場所から出してもらえるように、頼んでみよう‥‥‥‥
 それが希望。今は眠り、この悪夢とはまた別の、心地良い夢を見ていたい。
 みなもは目を閉じ、再び襲いかかってきた倦怠感に身を委ねる。
 ‥‥‥‥パンダとして、地を歩き回る夢。
 波間を泳ぐ人魚の夢は、ついぞ見ることが出来なかった‥‥‥‥




〜二日目〜

 みなもが動物園に来て、二日目‥‥‥‥
太陽は雲に隠れることもなく輝き、動物園を照りつける。天気の良い休日、絶好の外出日和だと当たりを付けた大勢のお客が、動物園を訪れていた。
そして、特に大勢のお客が集まっていたのが‥‥‥‥

「パンダだってよ、珍しいな!」
「やっぱり動物園って言ったらパンダだよなぁ。でも、この動物園に、パンダなんていたか?」
「昨日入ったんだってよ。パンダキャンペーンだそうだ」

 恋人同士が、家族連れが動物を見に来ている。
 みなもが入っている檻の前には、特に多くの人だかりが出来ていた。
 キャンペーン初日は人はまばらにしか来なかったが、今日は朝から常に、幾人かのお客達がパンダを見ては喜び、「可愛い」と声を上げて笑っている。
 前日はお客が来たとしても、誰も喜びの声を上げることなど無かった。だと言うのに、今ではお客が来るたびに声が上がり、そうして笑って離れていったお客が、さらなる客を呼ぶ広告塔となっている。

(あの、お願いですから‥‥‥‥話を聞いてください!)

 そんなみなもの声は、誰にも届かない。目の前を通り過ぎていくお客も、足を止めてみなもを見ていくお客も、遠慮もなしに写真を撮っていくお客も‥‥‥‥誰一人として、みなもの声など聞こえないかのように笑い、そして離れていった。
 みなもは、その背に向けて声を上げる。
 目の前で笑い合っている恋人達に、助けを求める。
みなもを閉じこめているガラスを力無く叩き、その場に座り込んで俯いた。
 ‥‥‥‥目覚めてから、飼育員に、お客達に声をかけ続けた。
 しかし、誰もみなもの言葉を聞いてくれない。聞いているのかもしれないが、まるで言葉が分からないかのような振る舞いをする。

(どうして‥‥聞こえないの?)

 向こうの声は届いても、こちらの声は届かないのだろうか?
 しかし、お客は「可愛い声♪」などと喜んでもいる。みなもの声が届いていないわけではないはずだ。
 なのに、どうして誰もみなものことを気に掛けてはくれないのか‥‥‥‥?

(もしかして‥‥‥‥)

 ふと、みなもの脳裏に奇妙な想像が浮かぶ‥‥‥‥

(もしかして‥‥‥‥あたしがおかしいの?)

 ふと、みなもはそう思ったのだ。
 おかしいのは、自分を助けてくれないお客でも、閉じこめた飼育員でもない。
 自分なのではないか? 周りの人たちは、ここにパンダを見に来た。飼育員は、ここでパンダの面倒を見ている。
 そして、自分はパンダなのだ。パンダの言葉など、他の誰にも分からない。みなも自身、パンダの言葉など分からない。他のみんなもそうなのだ。だから、誰も、パンダであるみなもの言葉が分からない。
 おかしいのは誰でもない、自分自身なのだと、みなもは思い至った。

(そんな‥‥‥‥あれ? でも――――)

 手を見る。腕を見る。
 何度もガラスの檻を叩き続けた肉球は、少し赤みが増している。まるでそこに、血が通っているような色合いだ。手袋から広がっている毛皮は、昨夜は肘まで、しかし今は肩を超えて、もう目で見えない部分にまで広がっている。細かったみなもの腕は重い体を支えるための柔軟な筋肉と脂肪で覆われ、一回りも二回りも大きくなっているような気がする。
 何で‥‥それに気が付かなかったのか。

(あたしの手‥‥どんなのだったっけ?)

 その変化はあまりに自然で、みなもは気が付かなかった。そうして「やっぱり」と思う。
 これが元の姿なのだ。これまでの自分がおかしくて、それが元に戻ろうとしているだけなのだ。
 なぜ、それを拒もうとしていたのか。みなもは突然恥ずかしくなり、頭を抱えて転がった。途端にお客の喜ぶ声。ほら、あたしが転がるだけで、あんなに人が喜んでいる。あたしが人間なら、誰かが喜ぶなんて事はないよね? パンダだからですよね? パンダが寝転んだり、木に登ったり、そうするだけで、みんな喜びますよね?
 頭を抱えていた指が、耳を引っかける。少し痛い。爪に僅かに血が付いていた。ほら、カチューシャなんかじゃない。ちゃんと血が通ってるし、痛みもある。やっぱりこれが本当の耳なんだ。パンダだもん、こんなに堅い爪で小さな耳を引っかけたら、ケガもするよね。気を付けないと。
 みなもはお客が集まっているガラス面から離れると、木登り用の木によじ登った。
 体は重かったが、苦になるようなことはない。大きな体を枝の間に滑り込ませ、半ばに達したところで枝の根本に腰を下ろして休憩する。
 見晴らしが良い。下にいる時には周りがよく見えなかったけど、こうして木に登ると他の檻もよく見えた。今日はお客さんが多いようで、他の檻にもたくさんのお客が集まっている。

「はーい! そこのパンダちゃん、降りてきなさい!」

 声がかかり、下を見る。外に通じる扉の前に、飼育員が立っていた。手には大盛りの果物を乗せたトレイがあり、途端にみなもは空腹感を覚えて身を乗り出した。

(いたっ! ふぎゅっ!)

 ゴン、ガン、ベシン!
 バランスを崩して木の上から落っこちる。しかし大して痛くはない。全身を包む分厚い毛皮と、筋肉のお陰でケガもない。
 みなもは体のことなど意に介さず、まっしぐらに飼育員の元へと歩いていった。

「ほらほら。慌てなくても大丈夫だから」

 飼育員の言葉なんて聞こえない。これまで、果物がこんなに美味しそうに見えるなんて知らなかった。夢中になってトレイの果物にかぶりつき、甘いリンゴを噛み砕く。と、果物に支えられるように、小さな笹を見つけ、それを手に取り眺めてみる。
 美味しそうとは思わなかった。だけど、これは“食べ物”なんだと確信できる。ついさっきまでは、これは食べ物じゃないと思っていたんだけど‥‥‥‥
 手を止める。これを食べたら、後戻りが出来ない気がする。
 でも――――
 自分は、どこに戻りたかったんだろう?

「どうしたの? 食べないの?」

 食べないなら片づけちゃうよ、とトレイに手を掛ける飼育員。あたしはその飼育員を追い、トレイの上に身を被せてご飯の奪取を阻止しにかかる。

(だめ! 絶対だめ!)

 飼育員は慌ててあたしから離れると、楽しそうに檻の外に出て行った。
 その後ろ姿に安堵し、あたしは守っていた果物を見る。トレイの上に山盛りになっている果物は、どれだけの量になるんだろう。一人で食べられるだろうか? 大丈夫。苦もなく食べられると、根拠もなくあたしは確信し、まずは手に握ったままの笹を口に含んで歯を囓る。

(‥‥‥‥苦い)

 甘くもなく、辛くもない。
 あえて言うなら、苦い。あまり美味しくない。吐き出したいと思ったけど、気が付いたら次の葉っぱを食べていた。

(苦い。美味しくない)

 そう思いながらも、咀嚼する口は止まらない。頭のどこかで、こんな物を食べればお腹を壊すと感じている。でも、そうはならないと分かっている。何故だろうか、みなもはこうして笹を食べている自分に、疑問を抱かなくなりつつあった。
 食事を済ませ、檻の中をテクテクと歩き回り、ゴロンと横になる。
 お腹いっぱいに果物を食べ、満足していた。相変わらず外はうるさく、パンダが興奮するからとフラッシュを焚いて写真を撮るお客を、係員がたしなめている。

(あぁ‥‥‥‥まぁ、いいですよね)

 どうでも良いことだった。
 お客のことなど関係ない。パンダはそんなことは気にしない。あえて気にするとしたら‥‥‥‥ザワザワとうるさいお客のせいで、お昼寝がしにくいぐらいかな。
 暖かい日差しに微睡み、横になったままで目蓋を閉ざす。
 そのまま微睡みに身を任せ、浅い眠りにつく。騒がしい外のせいで熟睡なんて出来ず、夢と現実を言ったり来たりと往復する。
 ‥‥‥‥その夢の中で‥‥‥‥
 あたしは、檻の中に閉じこめられた、泣いている女の子を眺めていた。



 あの子はいったい、誰だったっけ?



〜三日目〜

 パンダキャンペーンの最後の日だと、あたしは飼育員に教えられた。
 何であたしにそんなことを教えるのか‥‥よく分からない。
 あたしに関係のある事じゃない。
そう言ってるのに、飼育員は「今日が最後ですけど、どうします? これからもパンダで居続けますか?」なんて言っている。質問の意味が分からない。だって、あたしはパンダなんですよ? これからも何も、パンダを辞めたらいったい何になると言うのか、あたしにはよく分からない。
 朝を過ぎ、昼を過ぎ、あたしはお客を眺めながら檻の中を歩き回り、滑り台や木登りをして過ごしていた。
 今日も、昨日と同じようにお客さんがたくさんいる。昨日の騒動で係員のみんなも学んだみたいで、檻の前には“写真撮影禁止”なんて張り紙が貼り付けられていた。
 あたしは、お客を前に、歩き回っていた。
 何でだろう。今日は落ち着かない。
 すごく、大切な何かを忘れている気がする。
 池の水をジッと見つめていると、何かを思い出しそうになる。だからか、そのことに気が付いてからは、ジッと池ばかりを見るようになった。
 池の水を叩いてみる。水音と共に波紋が広がり、それを見ていると、ザワザワと胸が熱くなる。
 水に入ってみる。バシャバシャと水を叩いて、泳ぐ真似をしてみる。こんなに浅い池で泳ぐ事なんて出来るわけがないのに、懐かしい感じがした。

「――――!」

 ああ、また飼育員が何かを言っている。
何を言っているのか、もう分からなくなってきたけど‥‥‥‥何をしに檻に来たのかは分かる。手に持っているたくさんの細い竹。笹の葉がたくさん付いていて、すごく美味しそう。
 あたしは池から上がり、飼育員に歩み寄る。
その時には、もう水に触っていた時の感覚など忘れていた。

「――――♪」

 飼育員に声を掛けられながら、笹の葉を口に含み、咀嚼する。



 あ。今日の笹は、なんだか甘くて美味しい。
 二本目、三本目の笹を受け取り、それを夢中で頬張っていた‥‥‥‥‥‥





Fin





●参加PC●

1252 海原・みなも (うなばら・みなも)


●あとがきというライター通信●

 凄まじくお久しぶりです。相変わらず長い文章を書く、メビオス零です。
 非常に長い期間、活動を休止していました。なので、発注を依頼していただいたときには、本当に嬉しかったです。もう忘れられてると思っていましたから、本当にありがとう御座います。
 さて、今回のお話はどうでしたでしょうか?
 ご期待通りの物が書けていたならばいいのですが‥‥‥‥動物へと自分が変わっていく過程、果たして人は、極限状態におかれた時に自分をどこまで保てるのか‥‥‥‥書いてる時に悩みました。ホラーにおいては、ここら辺が難しい所なんでしょうね。上手く書けているかどうか‥‥
 ホラーって、書いてる側から読んでいると、いまいち怖くない物で‥‥自信が持てない。だって先に何が起こるのか全部知ってますからね!
 気になる点があるとすれば、この後みなもさんがどうなったのかどうか‥‥それは木にしない方で。私は、基本的にホラーはBAD END以外は認めない人種なので、良い結果にはなってないと思いますけど‥‥ね?
 では、最後に恒例の文を‥‥‥‥


 改めまして、今回のご発注、誠にありがとう御座いました。
 これからも何とか‥‥なんとか頑張っていきますので、よろしければまた、ファンレターでご感想やご指摘、ご叱責などを下されば幸いです。今後の参考にさせて頂きます。
 また寒くなって参りましたが、風邪など引かぬようにお気を付け下さいませ。
 ではでは(・_・)(._.)