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<東京怪談ノベル(シングル)>


十五夜
 丸い月を見ていると腹が減る。
 特に今夜のような、白くて微かに黄味色を帯びた月ならなおさらだ。

(今夜の月は本当に団子のようだな)

 中秋の名月とかで、主が朝から十五夜の用意に勤しんでいたが、そんなもの人でない俺には関係のない事だ。
 風情を理解できない訳ではないが、どうしても気持ちはススキの隣に積み上げられた白くていい香りのする団子に向いてしまう。

「……なんや? あんた、今食べたらあかんで?」

 鼻をひくつかせていると、俺の視線に含まれた感情を正確に読んだ主にそう釘を刺された。
 馬鹿にするなと強がって、住居から離れ神社の境内まで来たが、甘い香りはまだ微かに漂っている。

(そこいらの獣と狗神である俺を一緒にするなと、主には何度いえば分かるのだ……誰が見境なく団子に……確かに興味は少し……大分あるが……)

 自分の鼻が人よりも鋭敏にできている事を、今夜ばかりは怨みたくなった。
 手の届く場所にあるというのに、食べられないというのは結構な拷問だ。

(……ふん、つまらん)

 夜といっても最近では暑くも寒くもない。本殿の階段下に寝そべると、心地よい風に毛が梳かれた。

(まったく人間というものは、季節によってあれこれと……)

 考えていても仕方が無い。こんな時は寝てしまうに限ると、俺は目を閉じた。

『***』

 浅い眠りの縁を漂っていると、はるか昔に呼ばれた名前が、頭の奥にその頃の音声を伴って再現される。
 そのリアルな感覚に、俺は目を開けると油断なく周囲を見回した。

(夢? いや、当り前だな……すっかり忘れていたと思っていたが)

 苦笑して見上げると茄子紺の夜空に、白砂を散らしたような星が見えた。

(……空はあの頃と少しも変わらない)

 まだ俺がただの無知な獣であった時の事は、記憶に蓋をしてしまったのか、曖昧な画像でとぎれとぎれにしか思い出せないが、色のついた感情なら詳細に思いだせた。



 俺が貰われたのは狗神使いの家で、今の主とも繋がりのある家系だった。
 そんな家に飼われた時点で、運命などほぼ決まったようなものだったが、愚鈍な意識しか持ち合わせていなかったその頃の俺には気づける筈もない。
 毎日は楽しみに溢れており、主は信頼に値する人間に見えた。
 そう、あの日までは……。



 与えられた小屋でうつらうつらとしていると、明けきらない夜の闇の中で足音が聞こえた。
 それは不審者のモノではなく、普段から聞きなれた主の立てる音で、眠かった俺は本能が異常を知らせるのを無視して眠り続けた。
 それが間違いだったと気がついたのは、首だけ出した状態で袋に入れられ庭の黒土に埋められた後の事だ。

(どうして?)

 青天の霹靂だった。
 優しくしてくれた主が自分にこんな仕打ちをするなんて、誰が思うだろう。
 後ろ足で踏ん張り、前足で必死で土を掻いて抜けだそうとするが、布袋がその動きを殺し徒労に終わらせる。
 俺は蟲毒に使われた他の獣と同じように戸惑い、鳴くしかできなかった。
 埋められて数日は、自分が何かして主を怒らせたのだろうと、迂愚にも俺は考えていた。
 餌や水が、自分の舌が決して届かない場所に、これ見よがしに置かれるのも、きっと何かの罰なんだ。
 そのうち怒りが解ければ、この固く冷たい土の中から出してもらえるに違いない。
 頭を撫ぜて、抱きしめられて、また駆け回れる日が来るのだと俺は信じていた。
 しかしそんな日は、いくら待っても訪れなかった。
 主は俺を土に埋めた日と同じく、何かを堪えるような目で俺を見るだけだった。

(俺が何をした? こんな責をせずにはおられないほどの、何を?)

 必死で絞り出した声は飲まず食わずで掠れ、か細い笛の音のようだったが、正面に立った主には届いたはずだ。
 ぴくりと主が俺の鳴き声に反応する。
 やっと分かってくれたと思ったのは一瞬だけだった。
 主は無言で立ちあがると、俺に背を向け母屋の方に立ち去った。
 その時の気持ちをどう言ったら一番ふさわしいのだろう。
 この世で俺の気持ちを一番理解してくれるはずの主。それが自分に仇なす存在になったのだと確信した瞬間のあの気持ち。
 体が傷つかなくても痛くて苦しい事があるのだと、俺はその時始めて知った。
……それからまた何日か経った。
 飢えと渇きで意識がはっきりとしない。憎しみと怒りが今まで優しくされた分増幅されて、腹の辺りで黒い炎を上げて渦巻いている気がした。
 主だったモノの足音が、飢餓で研ぎ澄まされた耳に届く。
……獣だった最後の日を思い出す前に、俺は意識を今の時間に引き戻した。

(思い出して何になる)

 過去は変えられないと分かっているのに、感傷に浸るなんて人間のする事だ。
 頭を振って目を開けると、周囲が随分と明るくなっているのに気がついた。少しのつもりが、思いもかけず長考をしてしまったようだ。
 遠くの稜線に朝日の強い光が見え始め、俺は思わず目を細めた。
 刺すような光に涙腺が刺激される。

(……ばかばかしい)

 例え話に今さらすがった所で何になる。
 無知なただの獣で年老いていく事は、今の自分には想像もつかない事だったが、それはどこか胸の奥に焼けつくような感情を芽生えさせた。

(まったく、人じゃあるまいに……腹が減っているとろくな事を考えないな)

 この時間なら主を起こしても文句は言われないだろう、俺は立ち上がると住居の方に歩を進めた。