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<東京怪談ノベル(シングル)>


obit

 例えば、それが誕生日や結婚記念日、はたまたウェブゲーム開始一年、なんてものでも本人にとっての記念日、主張しなければ余人には全く意味のない一日は、世に溢れかえっている。
 だから今日が五辻神斗の特別な日であることを、後ろからついて来るサラリーマンが知るよしもない。
 そんな日に何故あんたは酔っぱらって人の後を尾け、延々と社会や世界や宇宙の真理に及ぶまで、愚痴を零し続けるのか。いい加減に勘弁してくれないか。
 そう口にすることはせず、視線はまっすぐ前に向けたまま、神斗は肩を動かさずにひっそりと溜息を吐いた。
「おま〜ぁえぇ、は、知ってんのかあぁ?!」
酔客独特の呂律の回らない声に、ィックとしゃっくりを織り交ぜながら、酔っぱらいは神斗の後うら離れる様子はない。
「今の、なぁ。世の中は、なぁ。ぜえぇぇんぶ! 俺が作ったんだぞ〜ぅ?」
両腕を天に広げて、よれた背広の男は覚束ない足下に、電信柱に縋った。
 そのご大層な主張に、同意しても、否定しても。今以上に面倒になることは必至で、神斗は一欠片の興味を示さず、完全無視を決め込む決意に揺らぎはない。
 バイトが引け、従業員専用口から出た途端、この男は神斗に絡んできた。
 深夜のコンビニにバイトを入れたのが過ちだったか。
 二十四時間営業のコンビニで、深夜の時間帯は暇で楽だと、まことしやかな噂を信じたのがそもそもの敗因だったのかも知れない。
 利用客はアルコールの入った中高年が多く、酔って雑誌売り場の前で寝込む、財布の小銭をばらまける、ない商品を今すぐ出せとがなりたてる、人から理性を剥いだらこんなものかと言う酔客のオンパレードに、店長はいつも泣き笑いで対応している為、早々と辞めることも出来ずにいる。
 休日前、同じ睡眠時間を削っての労働ならば、どうせなら時給のいい場所を選ぼうと繁華街近くの店を選んだのがそもそもの誤りだったか。
 しかし後悔は先に立たず、当面の問題は、こんなのを引き連れて公共交通機関を利用するわけにもいかず、神斗は自宅アパートへの長い道のりを足取り重く歩く。
「だいたい何だ、最近の若造はチャラチャラしやがって。その〜……なんだ、その、棒は。飾りか? え?!」
男がいちゃもんをつけてきたのは、神斗が手にする白絹で包まれた長細い荷に目を付けられ、気に入らない、何だそれはと詰問された時に関係ないとあしらった所為だ。
 男の話は無限ループを繰り返している。
 最初の話に戻って、また何れ世界の構成にまで発展するのだろう。
 壊れかけたレコーダーのように、途中まで行って戻ってまた初めから、男の脳みその中には、愚痴と不満しか詰まっていないだろうことを思わせた。
「おい、おい若造〜、待てよおい〜」
もめ事相手に、待つ必要は微塵たりとて感じない。
 背後からの要請を完全に無視して、神斗は街灯のある道を選んで家路を進む。
 神斗は、ふと足を止めた。
 街灯の続くまっすぐな道、人家も寝静まって、時折カーテンから漏れる灯りもまばらな視界に、ひたすら濃い闇を抱えた場所を見つける。
 樹木が生い茂り、都会人の安らぎとも言えるだろう、公園だ。
 都会は夜も不必要なまでに明るいが、一歩脇に逸れれば、呆れるほどに闇が濃い。その例にも漏れず、公園は音までも吸い込むように黒々と夜の底に横たわっている。
 神斗は、左足を支点に身体の向きを変えると、その闇に向かって歩き出した。
「ぁ〜? なんだそんなトコに〜、解ったオヤジ狩りかー、おまわりさーん、たすけて〜ェ、なぁんちゃってあははー」
何がおかしいのか、男は笑いながらついてくる。
 警戒心があるのかないのか、判じられない相手を神斗は肩越しに一瞥し、進む。
 公園内も街灯がないわけではないが、木立に光が遮られ、可視出来る領域は著しく狭い。
 自転車置き場、緩やかにカーブを作る道なりの向こう、範囲は狭くまばらで、木立の影を透かすのが関の山だ。
 神斗は視界の不自由さに怖じることなく、道の延びる先、おそらくは公園の中心部へ向かっていることを、夜陰に響く水音で判じる。
「くら〜いトコは怖いぞー? 鬼にとって食われても知・ら・な・い・ぞ〜♪」
調子外れな節に適当な言葉が背中にぶつかり、男が喉の奥で不気味に笑った。
 これで自分が女の子だったら、間違いなく交番に駆け込んでいるだろうな、と思いながら、神斗は公園の中央広場と思しき空間に辿りついた。
 円形の場所には、中央に噴水が配され、人のいない時間だというのに水飛沫を上げている。
 噴水の傍まで歩を進め、神斗はくるりと振り向く。
 飽かず、一定の距離を保って付いてきていた男も、そこでぴたりと足を止めた。
「……」
しかし、神斗は無言である。
 誰何するなり、罵詈雑言をぶつけるなり、怒りを表す方法はいくらでもあろうものを、ただ黙って相手を睨め付けている。
 神斗の反応とも言えない反応に、男は、「へへ」と乾いた笑いに肩を揺らした。
「なぁんだよ、帰らないのか〜? 彼女が心配してんじゃね〜?」
「……何故、そう思う」
初めて神斗が発した言葉に、男はにやぁと笑う口元が見える気がした。
「女物のピアスなんかしてさ〜、色男〜」
その言に、神斗は摺り足で大きく一歩を踏み出した。
「……何故、解る?」
昨今、ファッションピアスを身に着ける男性は少なくない。
 小さな紅玉のピアスは、耳元に髪で隠れてほとんど見えず、そのシンプルなピアスが女物だと判じる要素はない。
「そりゃ、解る、さぁ〜」
男の声が、低く、太く、しわがれていく。
「お前からは、あの女の臭いがするからなぁ!」
神斗は、ピアスと同じ紅色の目を見張った。
 その間に、べき、めきと音を立てて、男の輪郭が歪み、筋肉が膨張する。
 額を割って一本尽きだしたのは、黄色く淀んだ色をした角。
 それは、古より伝え聞く鬼の姿に相違なかった。
「……何を知っている」
けれど、神斗は怯えてはいない。
 二回りほども大きくなった男……、否、鬼は神斗に応えることはせず、哄笑と共に醜く節くれ立ち、爪を尖らせた五指で神斗の頭を掴もうと腕を伸ばした。
 が、神斗はそれ寸前で止める。
 手にした白絹、棒状のそれで以て、鬼の人差し指と中指の間だに付入れる形で動きを阻んだ。
「……吐け」
神斗は、歯で白絹の結び目の端を噛み、引く。
 現れるのは、漆の一色に包まれた、日本刀だ。
 指の間を付かれた鬼は、存外に痛かったらしく、手首を抱えて聞き苦しく喚いている。
 その間に、神斗は鞘から刀を抜き放った。
 真珠色の光りを散らす、刀身。
 反射ではなく、刃全体が光を帯びて闇に浮かぶ様に、鬼がじりと後退った。
 神斗は、その分だけ歩を踏み出し、距離を開かせない。
 その動きに、拵えに絡んでいた白絹がはらりと解け、地に落ちるが、手元、共に握り込まれた一部はそのまま揺らめかせて神斗は手に馴染ませるように、刀を振るった。
「……ひ」
切り裂かれた空気は、共に鬼の腕を裂く。
 どろりと粘つく血に、鬼はぎょろりと黄色く濁った目を神斗に向けた。
 相手は、武器を持っている。
 だが、小さい。
 力のある自分に、勝てる筈はない。
 己の利を信じて、咆吼と共に襲いかかる。
 両腕で、左右から掴みかかる手に、神斗は沈むように低く身を屈め、鬼の手が、己を潰す瞬間に、跳ぶ。
 神斗の居た空間を、空しく叩き潰した鬼の両手の上に足を置き、夏の害虫と同じ扱いに、口の端を僅かに上げた。
「……蚊か」
言って、神斗は鬼の腕を駆ける。
 振り払おうとする鬼の動きにすら、揺らぐことなく神斗はただ一点、鬼の眉間を狙って刀の切っ先を向けた。
 避けることは、出来ない。
 その確信は神斗と鬼との双方にあった。
「やめ……!」
鬼の制止を聞くことなく、神斗は一閃、額の角を断ち、落とした。


 四肢をカエルのように広げて、垢じみて薄汚れた冴えないサラリーマンが突っ伏している。
 神斗は、鬼が変じ、また戻った男の傍に近づくと、無言のまま顔の横を鞘で突いた。
 ぴっ、と小さな音を立てて、何かが跳ね上がる。
 一見、芋虫のようなそれは、額に……折れた、角を持つ。妖虫だ。
「……何を知っている」
男に取り憑き、鬼に変じさせていた原因を底冷えする眼で見下ろす。
 神斗の怒気を感じ取り、慌てたように左右にうろつく妖虫は、しきりに頭を下げた。
 曰く、からかっただけだと。前の持ち主の臭いも褪せた物を身につけているならば、女は大事な人間で、別れて久しい。ならば案じているに違いなく、それを匂わせれば容易に食えるのではないかと。
「……そうか」
身に似合わず知恵の回る、相手を神斗は無表情で見下ろすと、何も言わずに鞘の先で潰した。
 白いYシャツの肩を濡らして、雨粒が落ちる。
 見上げれば、いつの間にか重い雨雲が狭い空を埋め、雨の滴を散らし始めていた
 静かに過ごしたい、そんな日に限って妖にからまれ、手がかりを得られると思えば肩すかし、更には雨に降られるるなど、不運としか言いようがない。
 今日は、神斗に取って特別な日だ。
 両親を亡くし、姉の行方を見失ってから、8回目の命日。
 父母は骸を残した。けれど姉はお気に入りの紅玉のピアスを残したのみで、姿を消した。
 神斗は、耳たぶに手をやり、確かめるように、指先で小さな冷たい粒を撫でる。
「……姉さん……」
呟きと雨音に混じり。誰の耳に届くこともなく、消えた。