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<東京怪談ノベル(シングル)>


暮れて往く



 午後ともなれば早々に明かりを点けなくてはならないような、薄暗い、陽光のあまり立ち入らない森に囲まれた家の中で、巴は膝を抱えて丸くなり縮こまっている。
 長い歳月を越えて在り続けているのだという神社には、祭礼の有無に関わらず、途切れることなく参拝客の足音が鳴り響く。けれども神社からほど近い距離に建つ大きな日本家屋の中の一室にあって、巴はなるべく自身を人に悟られぬよう、昼となく夜となく、呼気を押さえかたく目を閉じ続けているのだ。――自分はここに在らぬ者。森の木立の茂みにひっそりと眠る石と同じ。人の目に触れず、誰かの手の温もりなど必要とせずに、ただただこうして目を閉じ続けなくてはならない存在なのだと、己が自身に向けた呪詛を繰り返し繰り返し、言い含めるようにして何度も何度も呟きながら。

 閉め切った障子窓の向こう、さらさらと揺れ動く木立に紛れて、稚い子供の楽しげな声が響いている。時節はもう実りの秋を迎え、やがて七五三を祝う頃合を迎えるのだ。混雑を避け、早々に参拝を済ませてしまうという家も珍しくはない。おそらく、そうした子供が、小さな手を親に引かれながら歩いているのだろう。きっと将来に対し何ら不安を抱くこともなく、陽の燦々と降り注ぐ路の上を、揚々と進んでいるのに違いない。そう思いながら巴は耳を塞ぐ両手に一層の力をこめた。そのとき、
 ――母さま、母さま
 遠く聴こえる子供の声に、ふいに遠く封じ込めたはずの追憶が重なって、巴ははじかれたように顔をあげて周囲を見渡す。視界が映すのは障子を透いて入りこむわずかな光、それによってより際立つ薄暗さに支配された自室の中の風景だった。
 ――――母さま、母さま
 さらさらと揺れ動く木立が不穏な音を落としている。
 母さま、――母さま。うちは要らん子ォだったん?

「そうや、巴。あんたさえ生まれてきぃへんかったら良かったんや」

  ◇

 今度の金曜日には授業参観日があるんだと、担任が話していた。それを報せるための手紙も用意され、ランドセルの連絡ケースにしまってある。
 子供の足にはいくぶん長めに感じられる石階段を駆け上がり、参道となる石畳の上で一呼吸をおいた。夏休みをもうすぐそこに控えた七月の終わりのことだ。参道脇や神社の裏手に広がる鎮守の杜には椎の木や杉の木が深く生い茂っている。その樹林にはりついている蝉たちが忙しなく声を響かせ、蝉時雨は文字通り降り注いできていた。
 額に使う汗を手の甲で拭うと、巴は呼吸を整えてから再び駆け足で参道脇の玉砂利を跳ね上げる。敷地内にある自宅へと向かうためだ。
 夷月家は古くから続いてきた神道の家系だ。主は神職を勤め、それなりに年若い巴の父は神主の見習いとして祖父の下で働いている。将来的には夷月神社の神主を勤めるのだろうが、それはまだ先のことになりそうだ。――もっともそういった事情や背景など、まだ七つの巴が詳しく把握する必要もないことなのだけれども。
 祖父も父も勤めにある中では厳しい部分の強い性格ではあるけれど、勤めを離れれば優しかった。巴は二人があげる祝詞を聴くのが好きだったし、漠然と、いつか自分も二人の手伝いをするのだろうと思ってもいた。
 けれど、今、巴にはその二人よりも先に、参観日の報せを見せたいと思う相手がいた。
「母さま!」
 玄関のガラス戸を開き、靴をきちんと玄関に揃え置いた後、巴は息を弾ませながら部屋の一つひとつを覗いていった。
 玄関には母親のものと思われる派手なヒールが無造作に転がっていた。ここしばらく目にしていなかった靴だ。それは数日ぶりに彼女がこの家に帰宅したということを知らせてもいる。
「母さま!」
 居間として使っている部屋を覗いた巴は、座布団の上に座りビールをあおっている母の栗色の長い後ろ髪を見つけた。心臓が跳ね上がる。
 居間の障子は閉め切られていて、昼であるのに関わらず薄暗く、テレビだけがちかちかと光を放っていた。音声は弱く、ブラウン管の中で笑っている芸能人たちの声はひどく遠くにあるように聴こえる。
 その小さな光に照らされている母の顔はやはり美しく、そして友だちの母親たちに比べ、あるいは比べるべくもなく、とても若かった。むしろ道ばたですれ違う学生たちと比べても何ら遜色ないようにすら思えた。実際に巴の母は年若く、母として妻として家庭におさまるのをよしとする考えに了承するような、つましい女でもなかった。
 巴の父はテレビに出てくるタレントのような顔立ちをしていて、その見目に心惹かれた母がただ好奇心の赴くままに父に近付き、交際をはじめたのだという。彼女にしてみれば、見目の良い男を連れ歩くことによって自身のステータスを高めたかっただけなのだろう。だがひとつ誤算が生じてしまった。妊娠が発覚したのだ。
 母が生気のない、けれどどこか危うい光彩を放つ双眸をこちらに向けたとき、巴は思わず小さく肩を震わせた。――空ろな、およそ温もりといったものの窺えそうにない、冷ややかな視線がこちらに向けられている。
「――母さま、あんなぁ、今度、うちんとこで参観日があんねん」
 注がれている冷ややかな視線に怯えを覚えながらも、巴は学校から配られたプリントを手に、薄暗い居間の中へと足を入れた。
 母が巴に対しきちんと向き合ってくれたことなどほとんど無かった。巴がどれほど懸命に語りかけても近付いていっても、ほとんどの場合、まるで巴の声など聞こえていないかのようだった。まれによほど機嫌の良いときなどには気まぐれに微笑みかけてくれたり頭を撫でてくれたりなどもしたが、それは本当にまれなこと。幼いながら、巴は、自分が母から疎まれているのだということを感じ取っていたのだ。
 その母が、今、座布団からゆっくりと腰を持ち上げている。明るい栗色の、ゆるく巻かれた髪がふわふわと揺れていた。もとが美しい顔には丁寧にメイクが施され、身につけているのはほっそりとした体躯のラインを強調しているようなデザインのワンピースだった。腕や首もとには幾重にも重ねられたアクセサリーがあって、彼女の動きに合わせてしゃらしゃらと涼やかな音を鳴らしていた。
「……参観日やて?」
 母の口が紡いだのは、とても抑揚のない声音だった。けれどもそれに反し、彼女の顔には笑みが貼りつけられていた。静かに、静かにこちらに近付いてくる。
「うん。あんな、先生が、今度は母さまにも来てもろたらええって」
「ふぅん。……それ、参観日のプリントやろ? こっち来て見せてみ」
 生気のない顔に笑顔を貼りつかせている母が、ふと足を止めて小さく手招きを始めた。そばにはテーブルがあり、テーブルの上にはリンゴの入ったカゴがあった。
 巴は母が久しぶりに声をかけてくれたのが嬉しくて、つい今しがた感じた小さな恐怖をすっかり忘れてしまった。ランドセルを背負ったまま、満面の笑顔で母のそばに駆け寄ったのだ。
「あんなぁ、国語やるんやて。うち国語好きやねん。母さま美人さんやし、うち、」
 駆け寄ってプリントを差し出しながら、思いつくままに口を開く。いつもならばうるさいと払いのけられてしまうのに、今日はこうして手招きまでしてくれる。もしかしたら頭を撫でてくれるのではないかと、小さな期待すら浮かぶ。
 母のすぐ目の前で足を止めた巴は、期待に胸を弾ませながら母の顔を仰ぎ見た――そして次の瞬間、胸を弾ませていた小さな期待は脆くも崩れ去った。
 母の顔に貼りついていたのは笑顔ではなく、まるで虫か何かを見下ろしてでもいるかのような表情だった。感情の一片たりとも感じられない、――親が子を見るときのそれとは到底思い難いほどのものに変じていたのだ。
「母さ」
 差し伸べた手を引き込めることも忘れ、巴は母の顔をただ仰ぎ見ることしかできなかった。声はそれきり形を成すこともできなかった。その、次のとき、母親がリンゴのカゴからナイフを取り出し、それを振りかざしたときでさえも。
「あんたが……ッ! あんたが生まれてきぃへんかったら良かったんや! あんたが……! あんたのせいであの人にフラれてしもたやないの……ッ!」
 母は金切り声をあげながらナイフを振り下ろした。それは巴が背負っていたランドセルに当たり、その衝撃で巴の小さな身体は後ろに大きくバランスを崩し、尻餅をつく格好となった。母は再びナイフを振りかざし、何かを喚きながら振り下ろす。もう、母がなにを喚いているのか、聞き取ることはできなかった。ただ、ナイフの切先が巴の頬を深く裂いたのは解った。痛みよりも熱に近いものが頬をはしり、同時に生温いものが顔の半分を濡らし始めたのも知れた。
 そんな中にあってもまだ、巴は母の顔から目を離すことができずにいた。母の美しい顔がぐちゃぐちゃに崩れ、泣いているのか怒っているのか、それともそのどちらでもないのか、どちらでもあるのか――ただ呆然と、母親の顔を仰ぎ見続けることしかできなかった。
「あんたさえいなかったら、こんなとこで……ッ! こんな狭くるしいところで……ッ!」
 巴の頬を撫でたナイフはそのまま畳に突き刺さり、母は懸命にそれを抜き取ろうとしていた。自分の顔のすぐ横でガクガクと震える母親の腕が、生温い何かに塗れた頬や首筋に触れる。巴はただ呆然と母親の顔を見つめていたが、不意に、母の顔がまるで見知らぬ女のものであるように思え、その刹那、喉が張り裂けるのではないかと思えたほどの恐怖を叫んだ。
 母親の顔をした女は未だ畳に突き刺さったままのナイフと格闘している。その間も、まるでそれしか知らないかのように、同じことばかりを主張していた。要約すれば、どうやら女は好きな男に捨てられたらしいのだ。理由の真偽は定かではないものの、少なくとも彼女の主張のみをまとめる限りでは、彼女が“子持ち”だから、というようなものであるらしい。もっとも彼女は『戸籍上では』人の細君なのであり、夫以外の男との関係を結ぶこと自体が不貞なのだけれども。――とはいえ、そういったものなど、彼女には関わりのないことだったらしい。相手の男がどういった意図で彼女を捨てたのか、そういった事情など知る術もないのだし、そもそも幼い巴には女が喚いている心情や背景など、慮ることすらできるはずもないのだけれども。
 巴は女の腕を払いのけてその場を逃れ、居間を後にしようとした。が、巴が押しのけた拍子にナイフが床から抜け出て、女は再びそれを手にして立ち上がった。
 足がガクガクと震えて思うように走ることができない。巴は這うように居間の出口を目指したが、女はそれよりも先に巴に追いつき、ランドセルを掴んで引っぱった。巴は再び悲鳴をあげたが、なす術もなく、そのまま畳の上に転がった。
 覆い被さるような格好の女は母親ではなかった。
 そこにあったのは怖ろしい般若の面だった。
 女が再びナイフを振り上げたのを見て、巴は女の手から逃れるために懸命に小さな身体をじたばたさせた。遠くで玄関のガラス戸が開く音がした。父か祖父か、とにかく誰かが来たのかもしれない。巴は声の限りに叫んだ。
「助けて!」
 その時、その声に怯んだのか、――あるいは誰かが家に入ってきたかもしれない気配を感じ取ったためか、……それとも、あるいは、もっと別の理由からだったかもしれない。
 女は不意に力を弱め、その隙に巴は女の腕を押しやって、再びその場から逃げようと試みた。
 だが次のとき、巴は、思いがけない場面を目にしてしまったのだ。
 女は巴に押しやられた拍子にバランスを崩し、そのまま前のめりになって畳の上に倒れこんだのだ。同時に、女の口から鈍い呻き声のようなものが吐き出され、巴はふと足を止めて振り向いた。
 女は苦しげに呻きながらのたうっている。――その胸にナイフが突き立っていた。
「母さま」
 呻きながら畳の上をのたうち回る女の顔は、般若のそれから母親のそれへと戻っていた。
「母さま、母さま」
 駆け寄って母親のそばに膝をつき、母親の胸に深々と突き刺さっているナイフの柄に手をかける。幼心に、それをどうにかしなければと思ったのだ。
 ナイフは思ったよりも抜き取るのが難しく、巴はひとしきり難儀したが、それでもどうにかそれを抜き取ることができた。それと同時に、父が居間へと辿り着き、娘の名前を口にした。次いで娘の横で倒れている妻の姿を目にし、そうして瞬時に事態の最悪を把握した。
「父さま、は、母さまが」
 それだけ口にすると、巴はようやく大粒の涙を溢れさせることができた。恐怖のため、安堵のため、あるいは目の当たりにしている母の死を悲しむためのものだったかもしれない。もちろん切り裂かれた頬には激痛がほとばしっている。涙が頬を伝うと激痛はより一層痛みを増した。
 父は娘を抱きかかえ、それきり母の姿を見せないように努めた。妻はもう事切れていた。その目がまっすぐに娘を捉えているのが分かる。娘の手にはナイフが握られていて、その頬には痛々しい、深い傷がついていた。――果たして何が起こっていたのかは分からない。けれども、大体の察しはつくような気がした。
 今はまず、娘をこの場から引き離さなくてはならない。病院に連れていき、適切な処置を施してもらうのだ。そして警察にも電話を入れ……
「父さま」
 巴の声が父を呼ぶ。
 巴は父に抱きしめられ、母の姿を確かめることはできなかった。
 ただ、母がすでに死んでいるのであろうことだけは、なぜかとてもはっきりと理解することができていた。
 巴の目には“視えていた”。視界を父の胸で塞がれた状態にあっても、巴には視えたのだ。
 ――畳の上に横たわる母を、青白い無数の腕が掴み、捕らえているのが。 
 
  ◇

 あの時、母の身体を取り巻いていた青白い腕の正体を、大人になった今ははっきりと理解することができる。あれは黄泉からの迎えだ。死した母を連れ去りに来た、常世ならざる者たちの腕だったのだ。あの腕が母の魂を黄泉へと引き込んでいったのだ。それをはっきりと把握したのは、母親の一件以降、度重なり“視”続けてきた人の死によるものだった。人の死に立ち会うとき、決まってあれは現れた。ぼうやりと青白く光る無数の腕が、まるで何かの触手のように、死者の魂を取り込み、引きずり込んでいくのだ。
  
 障子窓の向こう、木立がざわざわと揺れている。その影が白々とした障子に映りこむ。まるであの無数に伸びる腕が障子のすぐそばにあるかのようだ。
 巴は頬に残る傷痕を指でなぞりながら、うっそりとした眼差しで木立の影を見ていた。
 ――いつか、うちも連れていかれるんやろか
 思いながら目を細めた。
 
 母の死は事故として処理されたらしい。父は母の死を悲しみはしたが、娘の傷をこそ危惧してくれていたように思える。頬の傷はむろんのこと、母の死からしばらくの間ずっと続いた悪夢に魘される娘の心の傷を、父はとても悲しんでくれたのだ。
 
 参道に響いていた子供の声はいつしかなくなっていた。今はただ、静寂ばかりがそこにある。
 巴は障子に向けていた眼差しをゆっくりと引き戻し、金色に光る双眸をゆったりと移ろわせた。机の上、そこに置いてある小さなナイフに向けて。
 あの時母の生命を奪ったナイフは、その後、母の形見として譲り受けることにした。父や祖父はそれに反対したが、巴の強い希望もあって、結局それは巴の手の中に渡されたのだった。
 
 母の命を、自由を、未来を、すべてを。奪ったのは、

 目を細め、巴は再び耳を塞ぐ。
 その背で、ざわざわと揺れる木立の影が、得体の知れない生き物の触手のようにうねり、ゆっくりとその色を強めていた。
     


thanks to triad
F.ayaki sakurai/MR