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<東京怪談ノベル(シングル)>


暗く深い水の底へ


 実を言うと、何故この場に来てしまったのか‥‥‥‥
 海原 みなも自身、自分の記憶に自信を持つ事が出来なかった。

「どうして、何だろ」

 目の前に広がる光景に、みなもはしばし呆然とする。
 視界一面に広がる水槽。足下から両隣、そして頭上にまで広がる水槽は、本当にみなもを包囲するかのように広がっている。
 そしてその水の中には、多種多様な魚達が泳ぎ回っていた。
 色取り取りの熱帯魚。子供でも飲み込みそうな大きな魚に、ユラユラと揺れるイソギンチャク。フワフワ途中を漂うように流れに乗っているクラゲに、見ていて楽しいのかよく分からない大きな貝がこれまた大きなヒトデに襲われている。
 そんな水族館の一角に、みなもは静かに立ち尽くしていた。
 つい先日、動物園でアルバイトをしていたはずなのに、そのときの記憶が酷く曖昧で、時々気分が悪くなるようになった。動物園の園長や飼育員に、ちゃんとアルバイトが出来ていたのかと聞いても、誰も彼もが「良くやってくれていましたよ」というばかりで、どんな仕事をしていたのかを教えてはくれなかった。
 薄気味悪さもあり、深く追求はしなかった。体に傷を負っているわけでもない。走っても跳んでも泳いでも、これまで通りに体は動き、違和感など感じない。違和感を感じるとすれば、まるで‥‥‥‥時々自分が自分ではなくなるような、そんな気分になる。
 アルバイトをしていた時のことを思い出そうとしても、まるで夢の内容思い出そうとしているようで、思い出せそうで思い出せない。
 しばらく、アルバイトは休む事にしよう‥‥‥‥
 休みが明け、学校へ行き、友人と遊び、勉学に励み、気を紛らわせる。
 日常を送り、日々の生活を過ごしていれば、動物園での事などすぐに忘れる。
アルバイトから離れ、日常を送っていれば‥‥‥‥確かに忘れる事も出来ただろう。アルバイトなど無くとも、みなもの日常は忙しい。友人知人、家の用事を済ませているだけでも、動物園での出来事など簡単に埋もれてしまうほどに濃い日常を過ごしている。
 しかし、それなのに‥‥‥‥
 何故、こんな水族館に来ているのか。
 遊びに来ているわけではない。今日は、一人でこの水族館にまでやってきた。ずっと以前から約束をしていたように、ここに来るのが当然だと‥‥‥‥つい先日、誰かから頼まれたアルバイト、水族館でのコンパニオンの仕事をするのが当然だと、みなもはここに足を運んでしまっていた。

「はぁ‥‥もう! あたし、まさかこんなに若くしてアルツハイマーとか、そんなオチじゃないよね?」

 そんなオチだったら色んな意味で致命的だが、幸か不幸か、そんなオチではない。
 みなもを迎えてくれた従業員の話では、何でも動物園でのコンパニオンの仕事が非常に好評だったので、是非とも水族館でも、と声を掛けられたらしい。
 正直に言うと、声を掛けられた記憶はない。しかし気が付いた時には、みなもの足はこの水族館に向いていた。水族館の従業員も、みなもの事を快く向かえてくれた。手帳の予定表を開いてみると‥‥‥‥確かに今日、この日のアルバイトが入っている。
 メモを取った記憶もない。みなもが自分の記憶に自信を持てなくなるのも仕方がない。
 従業員から、午前中は水族館の見学でもどうぞ、と勧められて水族館を回っていたというのに、みなもは満足に水槽を見て回る事もせず、この入り口以外を全て水槽で固めてある不思議な部屋に入ったきりで足を止めていた。
 心配そうな目で見つめてくるウミガメに手を振り、みなもは足下に置いていたバッグを手に取り、小さなガッツポーズを取って気合いを入れた。

(うん。考えてても、仕方ないですよね)

 自分の記憶がどうであれ、仕事は仕事だ。既に仕事に入る事が決まっているのならば、それをすっぽかして家に帰るわけにもいかない。多少の不安など、仕事に専念していればすぐに忘れるだろう。
 そう考える事にして、みなもは早々に事務所にまで行く事にした。


●●1日目●●


 事務所にて簡単な説明を受けた後、みなもは更衣室に案内された。
 既に従業員は全員が出払っているらしく、人気はない。てっきりプールのような微量の薬品臭か、水臭さが漂っているかと思っていたが、清潔感を出来る限り保つように努めているらしく、カビやシミの一つも見当たらず、空気は澄んでいる。

(この職場は‥‥期待出来るかな?)

 多くのアルバイト先を見てきたみなもは、この更衣室を使っている従業員を、実に高く評価した。お客から見えない部分までしっかりと清掃されている職場は、管理している人たちがそれだけ頑張っているという証拠である。
 そうして、頑張っている従業員に混じって働いていると、みなも自身の気も自然と引き締まる。そんな職場で働く事は、アルバイトの身でありながらも、みなもにとっては小さな充実感を得られる貴重な時間となるのだった。

「さて、今回の衣装は‥‥‥‥」

 ゴソゴソと袋の中を探り、渡された衣装を広げに掛かる。

「うわ‥‥‥‥これはなんとも」

 思わず呟き、しげしげと衣装を見詰めてしまう。広げた衣装はピラーンと垂れ下がり、ユラユラと揺れては、足先に付いた尻尾が床を叩いている。
 尻尾‥‥‥‥といっても良いのだろうか。どちらかというと尾ビレのようにも見える。というか尾ビレその物。先ほど水槽の中を泳いでいた大きな魚のよりも、さらに大きな尾ビレが付いている。
 色鮮やかな魚の衣装。しかしその衣装は、魚の下半身(?)だけを模した物で、上半身‥‥‥‥いや、魚のではなく、みなもの上半身を覆う衣装までは作られてはいない。
 これを着たら、まるで‥‥‥‥人魚のように見えるのではないだろうか?

「‥‥!!?」

 ドッと背中に冷たい汗が滲み、胸が高鳴る。期待にではなく、得体の知れない恐怖に胸が高鳴り、思わずキョロキョロと周りを見渡し、周りに誰もいない事を確認する。
 悪い冗談だ‥‥と思う。
 水着の衣装を着て、お客の相手をすると聞いていた。説明に嘘はない。水着は魚を模した物だと言っていたし、これで泳げと言われれば出来ない事はないだろう。“普通の人間”だと少々泳ぎにくく感じると思うが、みなもならば全く苦になりそうにない。

(まさか‥‥‥‥あたしが人魚だって、バレてませんよね?)

 みなもが不安を覚えたのは、その一点についての不安だ。
 海原 みなもは人魚である‥‥等という事は、誰にも言っていない。こんな仕事が来たのはまず確実に偶然でしかないはずなのだが、しかしそれでも、みなもの心を乱すには十分すぎる破壊力を持っていた。

(バレてない。バレてない‥‥‥‥大丈夫ですよ。落ち着いてあたし。この水族館だって初めて来たし、従業員さんにも知った顔はなかったし、何より人前で人魚になった事なんて全然‥‥無いはず。うん。偶然よ。偶然)

 自分に何度も何度も言い聞かせ、いそいそと服を脱いで衣装の“下着”を着込む。
 さすがに、人魚の衣装を着てプールにまで歩くわけにはいかない。歩く人魚など人魚ではない。それではもはや魚人である。文字が入れ替わっただけと言われるかも知れないが、この違いは非常に大きい。
 水族館の従業員も、同じように考えていたのだろう。袋の中には、衣装の下に着込むための水着が入っていた。真っ白な、純白のビキニタイプだ。胸に当てる部分が‥‥‥‥貝を模したデザインなのが少々気になったが、人魚の衣装を着込むのならば、まぁ、不自然な格好ではないだろう。公共のプールで貝殻水着など着ろと言われれば全力で拒否したい所だったが、今回はあくまで仕事の衣装として渡されているのだ。突っ返すわけにもいかない。

「‥‥‥‥なんだか」

 以前にも、こんな事があったような‥‥‥‥
 奇妙な既視感。つい先日、似たような事があったような錯覚。
 むろん、こんな感覚は錯覚以外の何物でもない。
なぜなら――――コンナコトガアッタキオクハナインダカラ

「まぁ‥‥‥‥いいですよ、ね」

 思考の片隅で、誰かが警鐘を鳴らしている。
 しかしその誰かは、堅い檻の中にでも閉じこめられているのか‥‥‥‥鳴らしている警鐘も、微かに耳に触る程度で、みなもを揺り動かすには余りにも弱い力だった。

「あの、出来ました。こっちの水着は、プール出来れば良いんですか?」

 更衣室の扉を開けて、外で待機していた従業員に声を掛ける。従業員はこれからの作業の手順を確認していたのか、手にパンフレットのような冊子を持って、壁に背を預けて待っていた。

「ええ、はい。そうですよ。あ、プールはすぐ側にありますが、気になるんなら水着の上に何か羽織っても良いですよ」

 従業員は親切にそう言うと、「では‥‥」とみなもをプールにまで案内する。
 案内と言っても、本当にプールは更衣室のすぐ側にあった。従業員が水に濡れるようなイベントを行う時に使われている特別なプールらしく、すぐに着替えが出来るようにと配慮されているらしい。ついでに、シャワー室は更衣室の隣にある。そのまた隣には、従業員用の仮眠室。数多くの魚達の面倒を見ているため、常に何人かの従業員が待機しているのだそうだ。

「すごい広いプール‥‥‥‥ですね?」

 扉を開けて案内されたプールを見て、みなもは思わず声を上げ‥‥ようとして、声を落とす。
 イメージしていた場所とは、少しずれている。水族館のプールと言われて、まず思い浮かぶのはイルカが曲芸をしているような、広いプールだろう。プールの外には映画館のように客席が並び、子供達が間近で魚と触れ合えるような、そんな空間をイメージする人が多いはずだ。
 それ以外のプールなど、なかなか思い浮かぶ物ではない。それが“水族館”という特殊な空間だからこそなのか、それとも‥‥‥‥こんな、プールの上に何枚もの通路となる金属の板を乗せてあるような空間をプールとして見る事が出来ないのは、みなもだけなのだろうか?
 プールの中を覗き込む。綺麗な澄んだ水が満たされたプールの中には、小さな魚達が泳いでいる。底を見れば珊瑚礁に、綺麗に磨かれた砂利や岩が広がっていて、よく見るとイソギンチャクまで揺らめいていた。
 ‥‥‥‥どう見ても水槽である。
 それも、先ほどまでみなもが眺めていたような水槽。さすがに鮫の類はいないようだが、それでも‥‥‥‥こんな場所にコンパニオンの少女が入るなど見た事がない。せいぜい見る機会があるとすれば、ウェットスーツを着込んだ従業員が、水槽の掃除や餌やりをお客に披露する時ぐらいだろう。人魚の衣装を着込んでこんな場所に入るなど、本気で言っているのだろうか?

「あの、ここに入るんですか?」
「ええ。このプールに入って、過ごして貰います。午後の七時に閉館しますので、それまでは入りっぱなしですかね」
「でも、これは‥‥‥‥水槽ですよね?」
「温水プールですよ。長時間入っていても大丈夫なように、ちゃんと水温も調節してありますし。ああ、ちなみに中で泳いでいるのは熱帯魚ばかりですから、食べられたりはしませんよ」

 事も無げに言ってのける従業員。自分の言葉に疑問など感じていないのか、表情はさわやかな笑顔‥‥‥‥だが言っている事はかなり凶悪で、当事者となるみなもにとっては無視出来ない問題だった。

「これってコンパニオンの仕事なんですか!?」
「もちろん。以前にも、何回かこのイベントは行っていて、ファンもついているんですよ」
「な、何回もやっているんですか?」
「ええ。まぁ、毎回人魚を泳がせるのもマンネリなので、一回だけ人魚ではなく魚人に泳いで貰いましたけど。今回はその名誉挽回のチャンスなので。気合いを入れて泳いで貰いたいのです」
「不評だったんですね」
「お陰で当館の来客数が十分の一になりました」

 それは虫の息ではないか?
 思わず突っ込みそうになったみなもだったが、本気で憂鬱そうに視線を逸らしている従業員を見ると、とても出来るものではなかった。

(前にやった事がある人が居るなら、心配もいりませんね)

 従業員の話を聞いている限り、このイベントは毎年恒例のように行っているようだ。長く続いているイベントなら、妙な事も起きないだろう。
 みなもはそう納得し、水槽の縁に腰を下ろし、手にした人魚水着を履き始めた。

「泳ぎにくそうですね」
「そうでしょうねぇ。毎回泳ぎの達者な人を見つけるのに苦労するんですよ」

 しみじみと頷く従業員。
 みなもは衣装を着込み、水槽の縁に手を掛け、下半身だけを水に浸けてみた。人魚の衣装は水に入った途端に冷え込み、まるで直に足を浸けているような感触を覚える。
 そのままパシャパシャと動かしてみた。本当の人魚として泳いでいる経験があるからか、人魚の尾ビレは自然に動き、大きく動かしても違和感を覚えない。これなら、多少狭い水槽の中でも、自由に泳ぎ回れるだろう。

「人魚っぽくないので、酸素ボンベの類はありません。息継ぎには気を付けてくださいね」
「はい」
「“上がり”の時間は、頃合いを見て伝えに来ますので」

 従業員の説明を聞いてから、みなもは頷き、水の中に潜っていく。従業員はその姿を、嬉しそうに見送っていた‥‥‥‥


●●●●●


 水槽の中は、従業員の言っていたとおり、温水プールのように暖かだった。水温は二十度後半。全身を沈めても苦にはならず、みなもの体を包んでいる。

(懐かしいな。この感触)

 水槽の中を潜り、泳ぎ回る。上から見ている時には分からなかったが、水槽の中は思ったよりもずっと広く、学校のプールほどの広さはあるように思われた。もちろん奥行きはさほど無かったが、廊下と平行して伸びている長い水槽は、泳ぎ、ターンし、また泳ぐ。一直線に泳ぎ回る事しかできないが、普段泳いでいる学校のプールよりも、不思議と落ち着いて泳いでいる自分がいた。

(これを履いてるからかな‥‥‥‥)

 普段、隠している人魚の尾ビレ‥‥‥‥
 たとえ紛い物でも、こうして慣れ親しんだ遊泳を楽しんでいると、日常の自分を忘れそうになる。人間としての自分ではなく、誰に気兼ねする事もなく泳ぎ回る、人魚としての自分をさらけ出せる‥‥‥‥
 水槽の外で見ているお客に手を振り、みなもはクルクルと回ったり、魚とじゃれてみたり‥‥‥‥様々な行動でお客を楽しませ、笑い合った。
 これほど笑っているのは、いつ以来だろう。動物園のアルバイト以降、友人と笑っていても、心の中では暗雲が立ち込めているかのように不安が燻り、こんな開放感は得られなかった。
 今度、暖かくなったら海にでも行ってみようか‥‥‥‥
 イソギンチャクに隠れている熱帯魚を突っついてからかいながら、みなもは時間を忘れて楽しんでいた。

「――――」
「うゆ?」

 何か、音のような物が聞こえてきたような気がして、みなもはハッと顔を上げた。
 ここは水中。外の音など聞こえるはずもないのだが、しかし振動として音というものは伝わってくる。もちろん言葉としては伝わらないが、何かしらの音が響いているという事は理解出来た。
 ザワザワと、水槽の外で見ているお客の反応が変わっている。
 それまで物珍しそうに見ていたお客は、互いに顔を見合わせ、時折みなもを指差しては首をかしげている。会話をしているようだが、言葉が伝わらないのがもどかしい。みなもの方から声を掛けようにも、水槽の中、特に水中では外にまで声を伝える事など出来はしない。

(何かあったのかな‥‥‥‥)

 周りを見渡してみても、特に変わった事はない。
 どれだけの時間が経ったのかは分からないが、数時間前と取り立てて変化している様子はない。魚や貝が動き回っている程度で、そんな事はお客が騒ぐような事でもないはずだが――――

(――――!!)

 久々に思考に没頭し、結論に達した時には、みなもは水上に顔を出していた。

「ぶはっ! あぶ、危なかった!」

 ゲホゲホと咳き込む“ふり”をしながら、みなもは辺りを見渡した。

「すごいですねぇ。あんなに長く息を止めていられる人、初めて見ました」
「ふみゅ!」

 背後を振り返り、声を掛けてきた張本人を見る。そこに居たのは、ここに案内してくれた従業員だった。手にはお弁当らしい包みを持って、楽しそうに笑みを浮かべている。

「もうそろそろ閉館ですけど、こんな時間まで息継ぎなしで潜っているなんて、人間業とは思えませんね」
「い、いえ! ばれないように息継ぎをしていたんですよ!」

 ブンブンと手を振り、慌てて誤魔化すみなも。
 水槽に入ってからの数時間、あまりに楽しかったため、ついつい“水中で息が出来ない振り”をするのを忘れていた。いや、問題はそれだけではない。普段、人間で居る時に水中にいると、ちゃんと苦しくもなる。しかしそれが、知らず知らずのうちに解除され、部分的にでも人魚としての力を解放してしまっていた。水中でも息が出来たがために、息継ぎを忘れて夢中で泳ぎ回ってしまった。
 ‥‥‥‥みなもの事を長い間見ていたお客は、違和感を覚えただろう。中には異変に気付いたお客も居たかも知れない。そんな不安が、みなもの胸中を掻き乱す。

「本当です。本当に‥‥‥‥人間が、そんなに何時間も潜っていられるわけが無いじゃないですか」

 耳に手を当て、そこに“人間の耳”が付いている事を確認しながら、みなもはそう言った。
 いつから‥‥‥‥自分は人魚になり掛かっていたのだろうか。
 元々、みなもは人魚である。その為か、人間から人魚への体の変化があまりに自然で、気付く事が出来なかった。普段ならば人魚になる時、人間になる時は完全に自分の意志で決定している。こんな、気付かぬうちに変身し掛かっていたなんて事は、今までにはなかった事だ。
 従業員は楽しそうに、「そうですよね。人がそんなに長く、潜っていられるわけがないですよね」と、みなもの言葉に同意した。

「ああ、これはお弁当です。もう閉館なので、あがっても良いですよ」
「ありがとうございます」
「掃除とか後片付けは、私たち従業員で行っておきますので、海原さんは‥‥‥‥着替えが済んだら、外に買い物にでも、仮眠室に行って貰っても構いません。テレビやゲームとかもありますし、退屈はしないと思いますよ」

 泊まり込むようなイベントは、それほど珍しい事ではないらしい。仮眠室には、従業員が退屈しないようにと色々な物が用意してあるようだ。
 何とか話題を逸らす事が出来た事への安堵もあり、みなもはホッと一息つき、水槽から上がった。人魚の尾を取ろうと腰に手を当て‥‥‥‥

「あれ‥‥?」

 手が、止まる。
 腰に手を当て、脱ごうとする。ズボンを履いている時のようにスルリと抜けるかと思ったが、泳いでいる間に馴染んだのか、なかなか人魚の尾は脱げてくれない。それどころか、まるで肌に張り付いているかのようにピッタリと吸い付き、脱げる気配が微塵もない。

「どうしました?」
「いえ、この衣装が脱げなくて‥‥‥‥」
「そうですか‥‥では、お弁当はここに置いておきます。私は仕事がありますので」
「はい。色々、ありがとうございます」

 弁当を水槽の上に渡してあった橋の上に置き、従業員は外に出て行った。
 残されたみなもは、何とか衣装を脱ごうと躍起になる。しかし衣装に付けられている鱗はツルツル滑り、擦るように手を滑らせて脱ごうとしてもビクともしない。指を掛けようとしても繋ぎ目が見えず、みなもは途方に暮れてしまった。

「おかしいですね‥‥‥‥着る時には、ちゃんと‥‥‥‥」

 着る事が出来たのならば、脱ぐ事が出来なければおかしい。そもそも、着る時にはちゃんと脱ごうと思えば脱げそうな様子だったのだ。むしろ、泳いでいる間に脱げてしまうのではないかと心配になったほどで、こんなにピッタリと吸い付いているとは気付きもしなかった。
 何で気付く事もなかったのか‥‥‥‥
 肌に馴染む人魚の尾。肌に張り付いている事に違和感を感じず、まるで元からこうであったかのように‥‥‥‥まぁ、確かに本来は元からこうなのだが、それにしても作り物の尾ビレが肌に馴染むなど、本当にあるのだろうか?

(人魚になった時と、全然変わらない‥‥‥‥何で?)

 人間から人魚へと変わった時、人間と人魚の体の違いに戸惑う事もある。咄嗟に変身した時など特にそんな事があったが、作り物であるというのに、この衣装にはそう言った違和感が何もない。
 落ち着いて衣装を脱ごうとしていたみなもだったが、数分後には必死に、そして今では、半ば諦めながらお弁当に手を伸ばしていた。

「まさか人魚だからって、変な物が入っていたりしませんよね‥‥‥‥?」

 誰が聞いているわけでもないが、みなもは呟き、不安そうにお弁当の包みを解く。理由があるわけではないが、従業員から渡されたお弁当に、みなもは不安意外に何も感じる事が出来なかった。
 従業員に悪印象を抱いているわけではない。しかし本当に、何となくではあるが‥‥‥‥お弁当の中には、魚の餌が入っているように思えてならない。人魚が普段何を食べているのかは知らないが(みなもも海に住んでいるわけではないし‥‥)、イメージに合わせた物が入っているような気がする。
 まさかヒトデなんて事はないと思うが‥‥‥‥
 パカリと蓋を開ける。
 中には、エビや魚肉で作られた団子が規則正しく並んでいた‥‥‥‥


●●●●●


 その夜、みなもは疲れた顔でベッドに入り、眠ろうとしていた。
 結局、従業員から渡されたお弁当を食べてから再び衣装を脱ぐ事に専念し、一時間以上もの奮闘をする羽目になった。
 お陰で着替えを済ませて仮眠室に入った時には、既に外に出かけるような時間ではなかった。テレビを付けても面白くもない番組ばかりが流れており、みなもは疲れを癒そうと仮眠室の隣にあるシャワールームへと足を運び、汗を流してベッドに倒れ込む。
 ゲームや本を読んで暇を潰そうとは思わなかった。
 夢中で水槽の中を泳いでいた時には感じられなかった、暗鬱とした空気が漂い、みなもの周囲を取り巻いている。まるで深く潜りすぎて、水圧に潰され掛けているような気分だ。
 みなもをそんな気分に追いやったのは、あの不可思議な衣装だった。人魚を模した衣装を着込む事には、それほど抵抗は感じていない。元々の姿に近いだけ合って、むしろ着心地が良いほどだ。
 問題なのは、あの衣装があまりに着心地が良かったからか‥‥‥‥こうしてあの衣装を脱いでからというもの、体が落ち着かないというのが問題だった。
 人間の体で居る事が、こんなに苦痛な事だとは思わなかった。
 ベッドに横になりながら、足を揃えて動かしてみる。まるで尾ビレがそこにあるような感覚。しかしあの衣装とは違い、違和感がある。これは尾ビレではなく、人間の足だ。足が尾ビレの真似をしているに過ぎず、本物の尾ビレではない。あの衣装とは違うと、あの衣装をもう一度履きたいと思ってしまう。しかしあの衣装こそ、本物を真似ただけの紛い物ではなかったのか。本物の人魚であるみなもが、何故あんな物を求めなくてはならないのか――――

「ふぁ‥‥うぅ‥‥‥‥」

 いっそ、あんな偽物の記憶を、本当の人魚の記憶で上書きしてしまおうか‥‥‥‥
 あの水槽の部屋には、鍵が掛かっていなかった。従業員も、少し前に帰宅している。警備員にさえ見付からなければ、あの水槽の部屋で、本当の人魚として泳ぐ事も出来るだろう。
 出来る。今なら、人魚として泳ぐ事が出来る。
 奇妙な衝動。これまで、こんな事は意識した事がない。確かに人魚として泳いでいる時には、妙に満たされた気分になる。しかし陸上に上がったからと言って、こんな、泳ぎたくて堪らないという衝動を覚えた事はなかった。人の体を足枷のように感じた事など、無かった。

(‥‥‥‥‥あ、そうだ)

 みなもは体を起こし、フラフラと廊下を出て、更衣室へと向かう。
 持ってきた荷物は、全て仮眠室に置いてある。自分の荷物を取りに行くわけではない。
 この更衣室は本当に着替えをする時にのみ使用しているらしく、私物の類は誰も置いておらず、ロッカーの類もない。だからか、誰もいなくなったというのに鍵も掛かっていなかった。
 中に入り、見渡し、目的の物を発見して歩き出す。
 そこにあったのは、みなもが先ほどまで着ていた衣装だった。あれから従業員によって洗濯され、明日に備えて干してある。尾ビレの先端を洗濯バサミで止められて逆さまに吊されている様は、巨大な魚が吊されているようで‥‥‥‥何故か酷く、不快に見えた。

「‥‥‥‥」

 洗濯バサミを取り、衣装を抱き抱える。もう一度更衣室を見渡し、こっそりと更衣室を抜け出で仮眠室へと舞い戻った。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ‥‥‥‥」

 外へ盗み出そうとしているわけでもない。犯罪を犯しているわけでもないのに、みなもは緊張で汗を滲ませ、肩を上下させていた。

「何でこんな物が‥‥」

 抱き抱えていた人魚の衣装を眺める。
 どう見た所で、作り物の衣装。本物の人魚であるみなもと比べれば‥‥‥‥まぁ、理想を追い求めて作られた衣装だからか真に迫る物があるが、それでもこれは作り物だ。紛い物である。だと言うのに、そんな衣装が、どうしてこんなに愛おしく感じられるのだろうか‥‥‥‥
 人魚の衣装を着込んでからベッドに横になり、シーツで隠してようやく落ち着く。
 先ほどまでの不安が嘘のようだ。

(人間で居るのも、悪くなかったのに‥‥‥‥)

 人魚で居る時よりも、人間で居る時間の方がずっと長い。その筈なのに、不思議と人間で居る時間を忘れるほど、人魚の姿で居る事が心地よくて仕方がない‥‥‥‥
 目を閉じ、深い眠りに着く。
 深い闇の中へ。夜の波の中に潜っていくように、深い闇の中へ、意識を消していく。
 波に漂っているのは、夢か、現か、幻か‥‥‥‥
 体に触れる水の感触に、みなもは水槽で泳ぎ回る夢を見続けていた‥‥‥‥


●●2日目●●


 水の中にいる事が、こんなに心地の良い事だとは思わなかった‥‥‥‥
 水槽の中を泳ぎ、既に何時間が経ったのだろう。
 時間の感覚など無い。水槽に時計など無いのだから当然と言えば当然なのだが、それを気にする素振りも見せず、みなもはいつまででも泳ぎ続ける。

(ああ、本当に気持ちいい‥‥)

 人の体では、幾ら早く泳ごうとした所で魚に追いつく事は出来ない。しかしこの姿なら、難なく追い抜き、捕まえる事さえ用意だった。
 もはや、周りの事など気に止める事はない。
 何故気にしなくてはいけないのだろうか?
 確かに、人がこんなに水の中を泳ぎ回れる事は、奇妙な事かも知れない。しかし今は、人魚イベントの真っ最中だ。みなもは人ではなく人魚として呼び出され、人魚としての役目を与えられている。この水槽で泳ぎ、お客を喜ばせる事、それがみなもの役目であり、それだけだ。
 それはみなもにとっては願ってもない役目であり、こうして泳ぎ回っている今となっては‥‥‥‥どうして、これまで人間で居続けたのかが分からなくなる。
 水の中を泳ぎ回り、水槽の狭さに歯噛みする。
 ここは大洋の真ん中ではない。少し泳げば壁にぶつかり、外に出ようとすればガラスにぶつかる。二度、三度とぶつかり掛けて危ない目にあった。
 不安を上げるとすればその点か‥‥‥‥しかしそんな不安も、水の中で少し休めば、すぐに忘れる事が出来た。珊瑚や海草の影に身を潜め、目を閉じてしばし休憩する。疲れが堪っているからから、目を閉じてから眠りに就くまで、それほど時間は掛からなかった。厚いガラスが外の音を遮断してくれているお陰で、外の騒音がほとんど聞こえてこないからだろう。
 コンコンコン‥‥‥‥
 水を通して、何かを叩く音が波紋に混じってみなもに届く。最初の方こそ波紋として伝わってくる音に戸惑いはしたが、慣れてきたお陰か、それは地上で使うあらゆる言葉よりも鮮明にみなもに届き、意志を伝える。
 それに、この音が何を示しているのか、水上に上がって確かめる必要もなかった。
 水に何かが落とされる音が伝わり、水面を見上げる。小さな団子状の何かが、いくつも水中に投げ入れられている。水槽の中で好き勝手に泳ぎ回っていた熱帯魚たちが不意に顔を上げ、その団子状の物体に突進していった。
 考えるまでもなく海草の森から抜け出し、みなもも熱帯魚と共にその団子を手にし、迷うことなく口にする。以前、食べた事のある味。エビや魚肉を丸めて固めたシンプルな団子は口内に広がり、みなもは思わず頬を綻ばせた。
 パシャリ!
 フラッシュが焚かれ、魚が驚き一斉に動き出す。それまでに食べていた餌を吐き出し、一目散にその場を離れて隠れ出す。
 水槽の外を見ると、カメラを手にしたお客が一人、従業員に咎められていた。
 魚へのストレスを考え、水族館でのカメラ撮影は禁止されている場所が多い。この水族館でもそうだった。従業員に咎められ、マナーのなっていないお客は退場する。
 しかしみなもは、そんなお客を見送る事もなく、他の魚が散っていったのを良い事に、魚肉の団子を二つ、三つと手に取り口に運ぶ。餌は少なく、お腹一杯にはほど遠い。

(‥‥あれ?)

 水面の向こう側に、誰かが居るような気がする。
 目を凝らす。餌を落としてくれた人だろうか?
手に何か、箱のような物を持っている。魚への餌なのか、箱を包んでいた包みを解き、中身を水槽に落としている。水槽の水面は絶えず小さな波で波打っているため、箱も包みも、ハッキリと見る事は出来ない。ましてや餌を落としている人間の顔など‥‥‥‥見えてこない。

(別に良いかな)

 どこかで見たような気がしたが、みなもは水上に出てまで確認しようとは思わなかった。
 今はそれより、落とされてきた魚肉団子と恐る恐る出て来た熱帯魚達への餌付けが楽しくって仕方がない。団子を小さく千切り、魚達が食べやすい大きさに変えてから分けてあげる。人魚は人間よりも近付きやすいのか、魚達はみなもを恐れる事もなく寄ってきた。
 魚達と戯れ、笑う人魚の少女に、お客達は見入っていた。
 魅入られ、魅入らせ、人型を取る異質な魚に、人々は心を奪われる。
 何も考えず、目の前に光景に目を取られる。いつしかその水槽の前には、大勢のお客が立ち尽くすばかりの奇妙な光景が作られていた。
 誰も話しもせず、動きもせず、ただ目の前に光景に目を奪われ、動かない。

 ――――伝承に寄れば、人魚の唄を聴く事で、多くの人間が海へと静かに消えていったのだという。

 みなもは何かを唄っているのだろうか? 人間にはみなもの声は聞こえず、みなもにも人間の声は聞こえない。大地と水とを隔てるガラスは境界として役目を果たし、互いの世界を隔絶する。
 ‥‥‥‥気付きはせずとも、それはみなもにとっては幸運であっただろう。
 外でみなもに魅入る人間は、一人として瞬きすら止め、みなもを見続けている。それはあまりに異様な光景。みなもを見る事もなく水槽を通り過ぎていくお客は、皆そうして足を止めているお客の異常さに気圧され、その場を通り過ぎていく。誰一人として言葉を発さず、誰一人として足を動かさず、ただ呆然と佇み、一人の人魚を見続ける‥‥‥‥
 みなもはそれに、気付きもしなかった。
 人間になど興味はなく、ただ魅入っている者は魅入らせたまま、ただ人魚としてその場に存在し続ける。泳ぎ、休み、魚と戯れ、水の中で眠る。
 自らがここにいる理由、するべき事など思考の片隅にすら存在させず、みなもは思うがままに在り続けた。
 ただ、時折――――

(ん‥‥‥‥あれ? 何か‥‥何であたし、隠れてるんだろう)

 海草の森から抜け出し、思う存分に泳ぎ回る。
 時折、みなもは不意に姿を隠す。自分で意識しているわけではない。ただ何となく、いつの間にか姿を隠す。そうしなければいけないような‥‥‥‥人魚の体を、人に見せてはいけないような気がして、隠れている。何故そんな事を思うのか、みなも自身にもワカラナイ。
 分からない。分からないから‥‥考えない。
 思考など、気が付いたら停止している。何も考えずに楽しみ、有意義な時間を過ごし続ける。
 自分がここに居る理由など覚えてもいない。何を忘れているのかも意識しない。それは人魚だからか、何かから逃れたいがための逃避なのかは分からない。意識すらしないのだから当然だ。外で見ている人間など、もはや眼中にすら存在しない‥‥‥‥
 ‥‥‥‥だからなのか、外にお客が誰もいないと気が付いたのは、水槽の中が薄暗くなってからだった。

「あれぇ? だれもいなくなっちゃった?」

 間延びした声。廊下は暗く、明かりは落とされて人影など一人たりとも存在しない。
 先ほどまでみなもに魅入っていたお客など幻のように消えている。それを不思議に思い、みなもは辺りを見渡し、そして不意に脳裏を過ぎった重い感触に、口を開いて欠伸をする。
 ‥‥それが眠気であると思い出したのは、少し経ってからだった。
 ああ、だからこんなに、体が怠くて仕方がないのか‥‥‥‥
 そして思う。
 外にいた人たちは、眠くなったから帰っただけなのだ、と――――

「じゃあ、あたしも眠――――」

 海草の森に体を沈め、静かに目を閉じようとして‥‥‥‥
 頭上を見上げる。誰かが居たのだろうか? 何となく、陸上が気になった。いや、そうではない。陸上も既に真暗く染まり、明るく照らされているのは水中だけだ。生物の気配がするのは水槽の中だけで、陸には誰もいない。気配もせず、静かな暗闇が広がるばかりである。
 気にする事など無い。陸の事など、水中で生きる者にとっては何一つとして関わりのない事だ。向こうにとってはこちらの事は気にする事でも、こちらから気にしても仕方がない。
 なぜなら‥‥‥‥
 少なくとも人魚は、陸は歩くような事など‥‥‥‥無いからだ。

「ん‥‥‥‥」

 違和感を覚える。
 尾ビレを動かし、軽く波を立ててみる。水槽に敷き詰められていた砂利が軽く舞い、それが体を叩いている。鱗にぶつかる砂利の感触が心地良い。しかしそれも、陸に上がればただ重く、邪魔になるだけの魚の半身‥‥‥‥
 何故、そこに違和感など覚えたのだろうか?
 陸になど、上がる事も上がった事も――――ナイハズナノニ――――
 元からこうだった。これが本来の自分。偽りの体を忘れ、偽りの体で得た事など気にする事もない。これで良い。大洋を泳げないのは残念だが、しかしこの狭い水槽の中でも、退屈はしない。泳ぎ、戯れ、眠る事が出来る。仲間の魚達も大勢居る。寂しい思いもしないだろう。
 ここに来る前の事など‥‥‥‥考えも、しない。
 海草の森に身を埋め、静かに、暗い闇の中に落ちていく。
 波に揺られ、海草に守られ、温かい水に包まれて心地の良い眠りに入る。
 ‥‥‥‥薄暗い照明から逃れるように、海草の中に隠れて眠る、一人の人魚。
 水槽の外には、一人の従業員が、楽しそうに頬を綻ばせて佇んでいた‥‥‥‥


●●  日目●●


 どれほどの時間が経ったのか‥‥‥‥
 時間の経過など、みなもにとっては関わりのない事だ。
 ただ、最近は楽しいと思う時間が減ったと、眠る時間が増えていった。
 相変わらず、外では列を成すようにして人間が立ち尽くし、ジッとみなもを見詰めている。
 しかしそれだけ。声を上げて歓声を上げる事も、カメラを持って撮影をする事も、何もしない。ただみなもに魅入り、そこに立ち尽くすだけ。みなもを見る事が出来ない者達は、ただその異質な空気の漂う廊下を、足早に通り過ぎていくばかり。みなもを見る事が出来た者達は、一様にして足を止め、水槽の前に呆然と立つ。そしてそこから動かない。瞬きもせず、何時間もみなもを見続ける。まるでそこに打ち付けられてしまったかのように、みなもに魅入り、そこに在り続ける。
 そんな人間達の様子など、みなもは気にしていなかった。視界に入れば不快にもなる。それでも、何時間何十時間と同じ光景が続けば慣れる。如何に異質でも、あの人間達は“自分とは全く違う生き物”なのだから、自分と関わる事はない。
 ただ‥‥‥‥気になるとすれば、これまでもこれからも、あの人間達は明かりに集う虫のようにこの水槽の前に居続け、やがて果てていくのだろうか? 
フラフラと揺れる一人の人間。バタリと倒れ、動かない。
 やがて従業員がやってきて、まるで荷物を扱うようにどこかへと連れて行った。その間、集まっていた人間達は一人も動かず、みなもを見詰めている。
 人が倒れても、何が起こっても、人間達は動かなかった。やがて暗くなった頃に従業員に追いやられ、名残惜しそうにその場を去っていく。
 ‥‥‥‥そして今度は、その従業員が、水槽の前から動かなくなった。
 しかし、その従業員と集まっていた人間達とには、決定的な違いがある。
従業員は、笑っていた。それまで集っていた人間のように無表情に、無気力に、まるで夢を見ているように立ち尽くすわけではない。従業員は笑い、時折水槽に手を当て、何かを言っている。

「ああ‥‥‥‥やはり良い。あなたは――で居るよりもその姿こそが」

 頬を綻ばせ、恍惚とした表情で水槽に手を当て、食い入るようにみなもを見詰める従業員。
 伝わる波紋。何か、昔聞いたような信号に、みなもは薄く目蓋を開く。
 しかし水を伝わる信号は、魚達が使うものとは余りに懸け離れ、理解が出来ない。妙に懐かしい感覚を覚えて記憶を手繰るが、それはすぐに暗く閉ざされ、糸が途切れたように消えている。

(――――――――?)

 手繰る事すら出来ない記憶など、苦労して意識する事もない。そんな記憶よりも、もっと広い場所で、広い海で泳ぎたい。そんな理想を、夢として見続ける。
 ‥‥‥‥しかしそれも、ほんの数秒で終わりを告げる。
 海とは何か――――
 人魚とは何か――――
 狭い水槽。その全てがみなもの世界。
 これ以上の世界など知らないはずなのに、眠りに就くと、奇妙な記憶が頭をもたげて夢を見る。


 ‥‥‥‥暗い水の底から、光に照らされる陸の夢‥‥‥‥
 叶わぬ願い。
 失った世界を夢に、人魚は静かに、そこに在り続ける‥‥‥‥




Fin






●参加PC●

1252 海原・みなも (うなばら・みなも)


●あとがきっぽいライター通信●

 立て続けにご発注して頂き、誠にありがとう御座います。メビオス零です。
 前回の作品も何とか及第点を頂いたようで、ホッとしました。今回も似たような‥‥というかほとんど同じ発注内容だったので、前回と被らないようにと気を使いましたが、いかがでしょうか? 気に入って頂けると良いのですが‥‥
 しかし前回のあの状態から、一体どうやって抜け出したのか‥‥‥‥みなもさんは洗脳状態ですね。今回もBAD ENDですが、そこは気にしない方向で。

 改めまして、今回のご発注、誠にありがとう御座いました。
 また次の御機会を頂けるのでしたら、頑張って仕上げさせて頂きますので、よろしく御願いいたします。また、作品へのご感想、ご指摘、ご叱責などが御座いましたら、遠慮容赦なく送って下さいませ(・_・)(._.)