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寂しい果実3〜いつかの「さよなら」〜
窓際に立って、いつもの専門学校から見える景色を眺めている。
夏はもう残り香もなくなって、今は秋が深まるばかり。ううん、冬が近づいてきている、と言った方が正しいのかなあ。
(あの子と会ったときは、まだ夏休み中だったのにね)
脳裏にはいつものテーブルと果実、そしてあたしを見上げる大きな瞳が浮かんでくる。催眠術をかけられているあたしには思い出せないことが殆どだけど、頭が勝手に記憶している断片があった。
(きっと今も寂しがっているのかな。クマさんがいないから……)
アルバイトとは言っても、毎日一緒にいられる訳じゃない。あたしには中学生としての生活があって、夏休みが終われば学校に行かなければならないし、家事だってある。
(仕方ないことなんだけど……でも……)
あたしは、ふぅ、と息を吐いた。
自分よりも小さな子に寂しい思いをさせている、という罪悪感を消すことが出来なくて。
「みなもちゃん?」
ドアから声がして振り返ると、お姉さんたちが心配そうにこちらを見ていた。
「あ……生徒さん」
あたしは軽く頭を下げる。
(そうだった)
――今日はあの子と会う日。あたしはクマさんのメイクをするために、ここに来たんだった。
(思い出している時間があるなら、早く済ませてあの子の傍にいてあげた方がいいよね)
「ごめんなさい、ぼうっとしてて。じゃあ、あの、脱いじゃいますね……」
上からか下から迷ったあと、上から脱ごうと決めて手をかけて――。
きょとんとしている生徒さんと目が合った。
「……みなもちゃんって、大胆なのねえ……」
「………………?」
「私たちに見られるだけじゃあ、満足出来ない?」
「……!」
カーテンが開けっ放し!
外から丸見えだ!
「違います、違います、そんなんじゃありません! あ、あたしはただメイクをっ」
「メイクされてるトコロまで見てもらいたいの?」
「もう! 違いますっ」
思い切りカーテンを閉める。鏡を見なくても顔が真っ赤になっているのがわかった。うつむいて顔も上げられない。もう、もう、あたしのばか……。ぼうっとしてて、って自分で言ってる最中もぼんやりしててどうするの。
しっっっかり閉めたカーテンから数歩離れた上で、脱ぎなおし……もとい、仕切りなおし。
「前と同じメイクですか?」
「………………」
「生徒さん?」
首を傾げるあたしに、生徒さんは少し悲しげに微笑んでくれた。
「ええ、大体。口なんかは同じよ」
「?」
どうしたんだろう。何だか歯切れが悪い。
(訊いちゃいけないことだった?)
メイクの内容に対して迷いがあるとか?
それとも心配事?
「あの、素人意見で良いなら、あたしも力になれるかもしれないですし、相談してくださいね」
「ううん、心配しないで。何でもないから」
やっぱり陰りのある笑みを返してくれる生徒さん。
(聞きたい、けど)
あたしにとって親切なことでも、生徒さんにとっては迷惑なことなのかもしれない。
……だったらこれ以上詮索しない方が良いよね。
――裸になったら、まず臭いを変える。
人間の臭いは獣から遠すぎるから。
前回とは違って今度は手順を知っているから、覚悟して瓶の蓋を開けようとした。でも、臭いを外に漏らさないためか、ひどくきつく閉まっていて開け辛い。手で持っているだけでは開かなかったから、肘で瓶を押さえつけて渾身の力を込めて蓋を引き抜いた。
……キュポン!
途端、生温かな臭いが鼻と目に染み込む。
「うぇぇ!」
しゃがみ込んで嘔吐くのを止められなかった。
耐え切れない悪臭に対して、反射的に鳥肌が立つ。その閉じた毛穴をもこじ開けて、臭いは肌の奥に滑り込んでくる気がした。あたしはもう一度嘔吐いた。
「大丈夫?」
口を開ける余裕はなかったから、代わりに頷く。この前だって経験したことだし、臭いが回りきれば問題ないことも知っている――あたしは心の中で自分を勇気付けた。
それに早くメイクを済ませようってさっき思ったばかりなんだから。
(あの子……“友達”のために)
吐き気が治まったところで瓶の中身を身体に振りかけた。嗅覚が麻痺してきているのか、瓶を開けたときよりずっと気にならなかった。
(獣の毛のにおい。それから、獣の……汗のにおい)
驚くほど頭の中は冷静になっていて、あたしは無意識下でにおいを分析していた。
(不思議……)
人間のものではない香りを自分が纏っていること――すでに悪臭ではなくなっていた。懐かしい気さえする。
「どう?」
静かな声で生徒さんは訊いてくる。
あたしはゆっくりと唇を開いて、自分の匂いを吸い込んでから答えた。
「変……な……感じなんです」
「そう……じゃあ次にいけるわね」
生徒さんに後ろから抱きすくめられた。
ザラついた刷毛があたしの首に触れて、冷たい雫が内腿に落ちてきた。指で絡ませるとヌメついている。蛍光灯に照らすと、透明で光っていた。このアルバイトでは何度か見ている新素材だったけど、あたしは小さい頃に雨あがりに見たカタツムリを思い出した。あれも透明な粘液だったから。
(こんなこと思い出すの……匂いのせいかもしれないなあ)
懐かしい、から。
「……んッ」
刷毛が脇の下に滑り込んできて、あたしはビクッと身体を震わせた。腿に乗せていた手が爪を立てている。獣がする本能のように。
「まだ変な感じ?」
生徒さんの問いに、あたしはコクリと頷いた。沈黙しての返事。背中に氷を滑らせたようにゾクゾクして、あまり言葉を喋りたくない気分だった。
複数の手に導かれて、台の上へ寝ころがされる。
新素材をお腹に垂らし込んだ沼の中に、手際良く器具が埋められていく。健康診断のための体重計やら体温計やら心拍数を測るものやら……。
ここから粘土のような素材で――と思っていたけど。
「それ、綿ですか?」
「ええ」
お腹にも背中にも首にも腿にも……踝のあたりまで、綿がつけられていく。柔らかなそれは新素材の中に半分侵入した状態で接着された。クマさんのふくらみは前回よりも増していて、これでは大分太って見えてしまう。
「どうして綿を使うんですか?」
――今度は生徒さんが沈黙する番みたい。
(わからない、なあ)
いつも教えてくれるのに。ううん、あたしに内緒にされていたことは今までたくさんあったけど――生徒さんたちは楽しんで秘密にしている感じだった。小さな悪戯。何かあるけど内緒ね、という微笑みがあった。
なのに今日は何も言ってもらえない。生徒さんの瞳は真っ黒なだけで、寂しさだけが伝わってくる。
(寂しさ? 何故?)
……わからない。もしくは友達の赤い瞳の孤独感と交じり合い、その嫌な予感から目を逸らしたくて、わかりたくないのかもしれなかった。
綿の上……外側からは、前回と同じように粘土素材がつけられた。素人考えだけど、クマさんの感触を保つためだと思う。友達はあたしに触れるし、それが当たり前のことだから。綿ではまるで縫いぐるみのようだもの。
「どんな感じか確認したいの。みなもちゃん、ちょっと立ってみてくれる?」
「はい」
寝かされていた台から降りる。
「……ぅ」
身体が重いっ。
おまけに動き辛い!
(そうだよね)
器具をつけて粘土をつけて……というだけでも重くて大変なのに、今は綿まで追加されているから。身体がふくらみ過ぎてしまって、二本足で立っているのを不自然に感じてしまう。
「……しょっと」
あたしは大儀そうに四つ這いになった。
よしよし、と満足げな声の生徒さん。メイクは順調みたいで、あたしもホッとする。さっきの寂しそうな表情が頭の中にあったから。
(生徒さんに落ち込んで欲しくないもん)
それから、植毛。茶色くてゴワゴワした毛をつけると、つくづく獣なんだなあと実感する。この毛にもあの匂いは染み込んでいるはずなんだけど、今のあたしではもうわからなくなっている。自分の匂いって気づかないものなんだもん。
チャームポイントの(?)尻尾もつけてもらった。鉤爪もつけたし、肉球もしっかりある。カラーコンタクトも忘れずに。こういう細かい点に注意することで友達の安心を得られるんだから。あとは口のメイクだけ。
「さあ、みなもちゃん。教室を一回りしてくれる?」
「はい」
四本足でゆっくりと歩行する。窓際付近では足を速めて……それから走ってみた。
ハッハッハッ……。
体力を消耗するからか、別の理由からか、あたしは口で呼吸していた。唇の内側から獣の匂いが漏れるのが感じ取れる――静止しているときよりも生臭いような気がした。
ずっしりとした重みを感じはするけど、毛が取れることはなかった。身体のバランスを崩して転倒することもなかったし、良い感じかな?
(生徒さんも安心したんじゃないかなあ)
そう思って見上げると……生徒さんは黙りこくってあたしをぼんやり見ていた。
(どうして――)
またよくわからない、わかりたくない不安がよぎる。
怖い。
生徒さんの表情の訳は、メイクの出来と関係ないことはハッキリしている。それなら、友達と関係あることかもしれない。
(だとしたら、あたしは知らなきゃ)
今回のメイクと前回のメイクとの違いを考えてみる。綿以外のところでは前と一緒。口のメイクはこれからだけど、同じだと思う。「口なんかは同じよ」と生徒さんは言っていたから。
じゃあ何なんだろう。綿だけ足したって、太ったクマさんに見えるだけ。クマさんが太る理由……。
(あ…………)
思いついたことに対して、不安が膨れ上がる。
ううん。そんなはず。
生温かい自分の息を飲み込む。
いや。でも。やっぱり。
クマさんが太らなきゃいけないなんて、あたしにはこれしか浮かばない。
「冬篭り……」
生徒さんはポツリと言った。ごめんね、みなもちゃん。
「お別れなんですか? 友達と!?」
あたしは早口で畳み掛けるように返した。こんな言い方、したら駄目だって思っているのに。
理由は想像がつく。ここの窓際であたしが考えていたことと同じ。“ずっと一緒にいられる訳じゃない”。
アルバイトなんだから。友達は依頼人の子供。どこかで線を引かなきゃいけない。それが友達のためでもある。時間的にも心理的にも、傍に居続けることは叶わないのだ。
生徒さんだって、友達とあたしのためを思って言ってくれているんだって、わかってる。寂しそうだった瞳や、言い出し辛そうに黙っていたことが何よりの証拠。友達とあたしの気持ちを慮ってくれていたんだ。
(でもこんなの……こんなの……)
「友達は、まだ傷が深いんです。生徒さんたちの気持ちもわかります。ただ、あたし、どうしたら良いかわからないんです……」
「そうね。……私たちにもわからないかもしれないわ」
顎に口の器具をつけられる。顎の骨を伝わって耳の内側に、ギイ、と音が伝わってきた。人の言葉が、出なくなっていく。
「“クマ”がいなくなっても、アニマルセラピーはやろうと思うの。他の療法も。でもね、もしみなもちゃんが望むなら、…………の……まま……でも…………」
グウ、とあたしは声を漏らした。
駄目、生徒さん。駄目なの。続きが、聞き取れなく、なって、きたの。
…………………………………………………………………………………………………。
大きな瞳があたしを見ている。燃えさかる赤ではなく、消えかけた松明のような色で。
“友達”は不安で仕方ないのだ。あたしの身体と行動に起きた変化が。
――大好きなブドウ、大好きなイチゴ……大好きな生肉。
友達とぼんやり暮らしていたはずの一日の大半を、あたしは食事に費やしていた。誰が用意してくれているのか、朝起きると冷蔵庫には毎日新鮮な食材が次から次へと補充されていた。
食べても食べても足らないと本能が唸る。だから口の中に食べ物を詰め込んでいく。イチゴは鉤爪で潰し、汁やグチャグチャになった実を口の中に仕舞い込んだ。甘酸っぱい味が広がって、それがまた食欲を掻き立てた。
(もっと。もっと欲しい。もっと食べなきゃ……)
家の中に入ってきた昆虫も捕まえようとしたけど、それは友達に強く止められた。
……そう、家。
あたしはここで冬を迎えてはいけない気がしていた。この場所はヒトが住むところなんだから。クマのあたしが暮らすべきじゃない。
(どうしたんだろう、あたし)
友達の傍にいれば、ソトのことは気に留めていなかったのに。
今はソトに出たかった。冬の訪れは早い。今のうちに食べておいて、巣穴作りもしなければならない。あたしは焦っていた。
だけど。
「やだ、やだ!! 行かないで、お願い……」
……そんなこと、言わないで。
あたしは言葉が話せないけど、大体のことは友達と意思疎通出来ていた。でも今は上手くいかない。
友達には泣いて欲しくない。
……あなたのことが嫌いになって離れるんじゃない。
……冬篭りはクマにとって大切で、それは本能なんだよ。
そう言いたいけど、それを伝える手段がない。
(もしかしたら、理由なんてどうでもいいと友達は思っているのかもしれない)
あたしがいなくなること自体―― 一人にされることが友達にとって辛いこと。
孤独は彼女にとって恐ろしいものだから。
一人でいることは、ソトの影に脅かされることと同じ。木目、窓から漏れてくる音がヒトの声でなくても。雷、雨でも。全て友達にとっては恐怖の対象だった。ヒトを想像させるもの、孤独。
(友達の親は何をしているんだろう)
疑問があたしの頭に浮かぶ。
もし自分だったら?
冬篭り中に子供を産むことがあるとすれば。
誓ってその子を守るのに。
親はいないのだろうか? 外敵にやられてしまったんだろうか――。
(頭がぼんやりする――)
あたしの頭では、ヒトのように考え続けることが出来なかった。
友達にお別れする決意を固められず、かと言って冬篭りも諦められないまま、夜が過ぎ早朝を迎えた。
あたしは友達をお腹の上に乗せたまま寝ていたらしい。
ぼうっと窓に目をやり――あたしは閃いた。
(あった!)
双方の願いを叶える……とまではいかなくても、妥協案は出せる!
どうして思いつかなかったんだろう!
あたしは静か〜に床を抜け出し(勿論友達の目が覚めないように降ろしてから)、初めてソトに出た。窓の正面は木々が並んで生えており、傾斜になっている。おまけに秋が深まれば葉っぱで埋まって、窓から木々の根元が見え辛い。
(よおし!)
クマの腕の見せどころでしょうっ。
あたしは自慢の鉤爪でせっせと巣穴作りに励んだ。
咆哮したくなるのをグッと堪える。無理やり友達を起こしたら可哀想だからね。
(それにしても……ふふっ)
クマが笑うっておかしいだろうか。それも嬉しくて笑うなんて。
出来上がりほっかほかのあたしの巣穴。ちょっとこじんまりしているけど、出来上がりはちょっとしたモノなのだ。
窓から巣穴の中までは見えないけど、“ある”のは見えるはず。
これで友達の不安も軽減されるだろう。“いなくなりはしない”とわかるんだから。
あたしからしても都合がいい。友達はソトには出てこられないから、冬篭り中に邪魔されることはないと言い切れる。無防備に近い状態になるんだから、巣穴には誰であれ近づかれたくない。
お腹が空けば家に戻って食べればいい。冬眠とは少し違うから、あたしだってご飯を食べることはあるんだし。
うんうん。
あたしは大満足で、窓の向こうで眠っている友達の寝顔を想像した。
いつまで眠っているのかなあ。おねぼうさんなんだから。
早く起きて、あたしの姿が見えないことに気づいて、窓を見て……そして喜んで欲しいよ。
終。
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