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蔵に昇る月
久しぶりの休日だった。電話がまったく鳴らないというのは、不景気の所為だと燻っていても仕方がない……。
草間は興信所の留守番を零へ頼んで、出かけてみることにした。当てがある訳ではない。
ゆったりとした時間も、たまには必要である。
「もう、風が変わっていたか……。籠もってばかりじゃあ、分からなくなるもんだな」
着てきたシャツでは少し肌寒く感じた。
目の前の電車へ乗ると、気が向いた駅で降り、喧噪から離れた町を歩く……。
ただ、寂しい商店街の一本隣の筋、造り酒屋があるのは、うっすらと覚えていた。
やはり、ここだ。
新酒が出来たことを知らせる『杉玉』が軒先へ吊され、しかし、季節が移り、すっかり茶色く変わっている。これは、酒の熟成具合を表しているのだと聞いた。
草間が格子戸を、がらりと開くと、麹と酒の芳香が全身を包む……。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。草間武彦さん」
迎える青年がかすかに頬笑み、草間は思い出した。
彼は八神酒造の次男坊、八神・心也(やがみ・しんや)。去年も同じ時期、ここへ訪れて顔を合わせたのだ。
「……あ、久しぶりだね」
「来られる頃かと思っていました。今年の出来は良いですよ。“きき酒”はいかがですか?」
母方の実家から送られてくるという、奈良漬けを薄切りにしたものをツマミとして、原酒、中取り、吟醸、樽酒、発砲酒……。硝子の盃へ注がれる酒を楽しむ。
八神の蔵で造られる酒は、辛口で切れがあり、だが、鼻につく強さは感じない。するりと喉を通り過ぎ、心地良い馥郁(ふくいく)を味わえるのだ。
「八神くん、君が……呼んだのか?」
「……前にもお話しましたが、俺の“夢見”は、今まで一度として外れたことがありません。草間さんが来られるのは、七日前、見たので」
華やかな香りはそこいらへ充満し、草間はほろ酔いのまま頷いた。
「お兄さんのことだね。十年前、行方不明になった」
「……はい。ここ一ヶ月、蔵へ現れる者がいます。この蔵の杜氏たちも“見た”と言っていました。しかし、兄ではなかったそうです……」
草間が以前、八神家の依頼を受けた時、心也はまだ十代だった。当時も、やはり蔵へ“何者かが侵入している”と聞いた。
「月が昇ります。蔵の中で……」
「蔵の天井に、窓か何か?」
「いいえ。蔵の温度を10度から13度に保つため、温度管理しています。その中で、月が昇るのだと……」
心也の涅色(くりいろ)の瞳が灯りを受け、湿っている。
「君は見ていない……?」
「俺は……確かめるのが怖ろしいのです。夢で見たことが起こるのなら、そこに、兄がいるはず……」
時急ぐ世の中で、こういった雰囲気の青年と出会う機会はあまりない。また、彼の話しは決まって奇妙で不思議なことが多く、最初、面喰って訝しがるばかりだったが……。
「君は、お兄さんに会いたいかい?」
「……ええ。でも、俺は臆病者なのですよ」
薄灰の微苦笑……。蔵を守る青年は、悩みを吐露するのが苦手なようだ。
草間は、盃へ溜まる透明な甘露をひと睨みしてから、すべてを飲み干した。
◇◇◇◇◇
長く電車に揺られていると、浅い眠りさえ覚えたが、ようやく目的の駅へたどり着いたようだ。
ここは完全な無人駅。切符の販売機が置いてあるだけで、回収用の箱に塗られたペンキもはげかけている。
店をたたんだのが目立つ両脇で、雑貨と食料品を売っている一軒だけ開いているようだったが、商売をする気配はまったく感じない。
昼の太陽の下、人々の痕跡を残留させながらも、静まった駅前通りを抜け、“宵待商店街”の看板を横目、左隣の筋を入る。
“八伏神社”の近隣に当たる区域は、町家風景が残って情緒があり、時間がゆっくりと過ぎているようだ。
草間が数年前、偶然、迷い込んだと言う造り酒屋は、通りでも一番大きな建物だったので、すぐ見つけることができた。
手入れの行き届いた門は古びた脂(やに)が沈殿しているが、格子戸の木目は真新しく、木の香が漂っていた。
まだ角のある引手に指をかけて横へやると、丸みを帯びた石の敷居を跨ぐ。
一声かける前、右奥の通路から青年が現れた。
「お待ちしておりました。宗・周介(そう・しゅうすけ)様。……初めまして。自分は、八神・心也(やがみ・しんや)と申します。あいにく主の父は会合で明後日まで戻りません。代わってご案内いたします」
隻眼の客人を迎えても、微動だにしていない。
色素の薄い檜皮色(ひわだいろ)の髪は、睫、眉も同じ色、染めているのではないようだ。小声だがよく通るので、聞きこぼすことはなかった。静かすぎる所為かもしれない……。
「初めまして、八神くん。草間さんから聞いたよ。うまい酒を置いているんだって」
「よろしければ……、幾つかお出しいたしましょうか?」
周介はぐるりを見回してから、八神青年の顔と向き合った。
蔵の守人は、見えない殻で覆われている。
「ここの蔵は純米酒を造っているのかい。あるなら、ぜひ、お願いしたいんだが」
周介の言っている純米酒とは、白米、米麹、水だけを原料として製造した清酒で、香味、色沢が良好なものを指す。
使用される白米は、3等以上に格付けた玄米。米麹の総重量は、白米の総重量に対して15%以上とされている。
昭和の初め、日本酒は純米酒しかなかったのだが、太平洋戦争前後の米不足で、増量目的のアルコール添加がはびこり、三倍増醸清酒が出回るという暗黒時代もあった。
この添加方法で、果物のような芳香、“吟醸香(ぎんじょうか)”を持つ吟醸酒ができたのも事実だが……。
本来の姿である純米酒は、吟醸酒や本醸造と比べ特に濃厚さがあり、蔵ごとの個性が強く出るのだ。
八神の蔵がどのようなものなのか、純米酒を飲めばおおよそ分かる。
「ええ、ございます。純米吟醸酒もご用意できますが、試飲されますか?」
添加物なしの吟醸酒か……。
なるほど。次々、蔵が潰れていく中、残ってきただけの誇りはあると見える。
椅子へ腰掛けた周介の前、八神は手慣れた動作で、純米酒と純米吟醸酒を硝子の盃に注ぐ。
「どうぞ」
照らされた二つの表面が白く、下は透明感を保って光っている。
杯をあおると、想像以上に密度がしっかりしている。なめらかで歯切れよく、舌触りと余韻の華やかさは、広がりよりも、むしろ追いたくなるほどだ。
「もっと、重たいのかと思ったが、なかなか……」
「うちの蔵は辛口がほとんどですが……。しぼりたて新酒の活性にごり、純米吟醸の生原酒もございますよ」
「八神くんは、すすめるのが上手いね。きっと、この蔵が好きなんだな」
「……そう……見えますか? でも、自分は、兄が戻るまでの代役です」
言いながら、双眸へ墨水が落ちる。若者らしい服装に身を包んではいるが、そうして、老年のごとき空気を抱えると、とても二十には見えなかった。
「君は立派に蔵を支えていると思うが……」
「所詮は、真似事ですよ。見ているうち覚えただけで……。兄が行方知れずとなったのは、自分が十の時でしたから、丁度、歳が追いつきました。でも、家の時間は止まったまま……すみません。これは、ただの愚痴ですね」
煤が降ったような無理な笑顔は、その奥で燻る煩悶にも思えた。
「別に、謝ることはない」
「あなたが来るのは、分かっていましたから……、初めて会う気がしなかったんです。本当のことを言えば、両親が悲しむので、もう、長い間、兄のことを口にしていませんでした」
彼が“予知夢”をみる体質であるのは、草間から捕捉されていた。周介がこうして現れるのも、あらかじめ夢で知り得ていたのだろう。
「蔵へ向かう前に、聞いて欲しいのですが」
何かを振り払うよう顔を上げ、起こっている現象について話し始めた。
◇◇◇◇◇
敷地内、八神家初代から守ってきた土壁の蔵があるという。奇妙な出来事は、この一番古い蔵で起こっているのだと……。ひと月の間に、次々、目撃する者が出ている。
「八神には杜氏と蔵人が数人います」
「今となっては珍しいな。蔵元後継者が杜氏となるのがほとんどだと聞いたが……」
「そうですね。うちも引退する者が多くなりましたから、体制も変わりつつあります」
時代の流れに逆らうのではなく、沿っていくことを吉(よし)とした姿勢が、求められているのかもしれない。
「誰かが……呼(よ)んでいる。皆、そう言うので、最初、動物が入り込んでいるのではと、全員であちこち見たのですが、異常はありませんでした」
言葉が途絶えると、耳の奥まで寂寥が浸透してくる。そうして、青年は結んだ語尾を再び解く。
「帰って来たのではないか。最初、そう囁く者もいましたが……、というのも、兄が姿を消したのは、その蔵でしたので」
「八神くんは、違うと思ったのかい」
「はい……。自分が夢でみた姿は違います。兄だと感じたのは、残り香のような……幽かなもので」
単なる空言とは思えない。周介は腕組みし、一つ頷くと、八神家が守ってきた最古の蔵まで案内するよう申し出た。
◇◇◇◇◇
事の端である蔵は、隣接する“八伏神社”に一番近い位置で、整備された蔵とは異なり碗を伏せた形状をしている。
「こういった作りは、時と共に崩れてしまうので修繕が大変なのですが、八神のはじまりとして保存しています。新しい蔵は、適温を保つため自動調整されています。でも、ここは何もしなくても長期発酵が出来るほど、年間を通して温度が低くなっているのです」
“し……ん……や、さま……”
「どうぞ、中へお入り下さい。灯りを点けますので」
「電気が通ってるのか」
「はい。あまり使うことはないのですが、電灯は設置していますよ」
乾いた音がすると、蔵の中が暴き出される。
身震いするほどの寒さが両足首へ絡まり、長年かけて溜まった酵母の集団が、そこかしこに湧きかたまっていた。
「出ても消えても、おかしくはない」
八神の背後へ、黒髪の女が立っていた。
観世水着物に黒絹の帯を前で結んでいる。狢菊の扇で顔を隠して、表情は分からない。
“ようやく来てくださったのですね。心也様。お約束、覚えていらっしゃいますか?”
途端、青年から生気が抜け落ち、目に沙幕が入ったかの虚ろさへ変わる。
“あなたの望み、叶えて差し上げます”
女が顔の前の扇を裏返すと、月が描かれていた。電灯が、ふつと消え、薄(すすき)のにおいが立ち籠めて、空へ巨大な月が昇る。
「今は昔、竹取の翁という者ありけり……だな」
周介の声に女は眉を顰めた。睨む瞳は金色で、獣のごとき燐光を持っている。
“お呼びしたのは心也様だけ……。あなた、何者です?”
「男女の逢瀬に水を差す気はないよ」
“……ならば、出て行ってくださいませ!”
異形の女人は、差し翳していた扇を水平にすると、狢菊の絵柄を、ふう、と、吹いて見せた。すると、菊花の混じった大風が起こり、視界が遮られる。風は刃物となって八神家の次男を通り過ぎ、周介へ襲いかかった。
「とんだ“かぐや姫”がいたものだ」
鎌鼬は辺りを切り裂いて、壁や土を抉っていたが、なぜか周介まで到達しなかったようだ。女は目を見張り、唇の端を噛むと毒気づいた。
“人の分際で、気味の悪いやつ……”
そのまま、無抵抗の八神を抱え、後ろへ大きく跳躍する。小柄ながら、身体的能力は高いようだ。
「では、人の身で問うが、どうするつもりだ」
“心也様は、兄上に会いたいとおっしゃっていました。わたくしはその願いを叶える者”
「彼を連れて行くのか」
“お送りします”
「それは困るな」
四間ほど開いていた距離が一瞬で縮まると、周介の手が女の腕を捕らえていた。
異形の者は青ざめながら、振り払おうとしたが敵わない。閉じた扇を振り下ろそうとした時、
「君が本当に望むことなのか」
八神の唇が動いて、何事かを紡ぐ。妖人は打たれた、悲しげな表情で青年を解放しながら、大粒の涙を零した。
“わたくし、諦めませんわ”
御伽草紙に出てくるような大きな月は、人工の灯りで薄まっていった。
◇◇◇◇◇
「覚えていない、だなんて……。少し、可哀相な気もしました」
母屋の縁側で八神が呟くと、周介は苦笑した。
自分を連れ去ろうとした妖しげな者に、憐憫を感じるとは、つくづくお人好しのようだ。
彼が用意した、ふくよかで滋味あふれる燗酒の隣には、奈良漬けとからすみが添えられている。
「居ないと、こうして振る舞ってもらうこともなくなる」
「蔵の酒は、お気に召しましたか?」
「俺の店にも置きたいが……」
薄雲で巻かれた銀盆の月が、蔵の上へ昇っていた。
=了=
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■登場人物■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【 7312 / 宗・周介(そう・しゅうすけ) / 男性 / 25 / バーテンダー 】
★NPC
【 NPC5253 / 八神・心也(やがみ・しんや) / 男性 / 20 / 大学生 】
【 NPC5267 / 狢菊(むじなぎく) / 女性 / 647 / 妖人 】
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■ライター通信■
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お初にお目にかかります。ライターの小鳩と申します。
このたびは、ご依頼いただき誠にありがとうございました。
私なりではございますが、まごころを込めて物語りを綴らせていただきました。
少しでも気に入っていただければ幸いです。
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初めまして、宗・周介 様。
このたびの“酒蔵にまつわる物語”はいかがでしたか?
落ち着いた雰囲気をお持ちの宗・周介 様の魅力を少しでも表現できていましたか?
お酒の話とあって、多少たしなむ私も思わず力が入ってしまいました。
ふたたびご縁が結ばれ、巡り会えましたらお声をかけてやってくださいませ。
ありがとうございました。
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