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<東京怪談ノベル(シングル)>


【もうひとりのあたし】





 「ひゃに、ひょえ?」
 三島玲奈(みしまれいな)は右の頬を押さえながら、「なに、これ?」と訊く。
 目の前には鍵屋智子(かぎやさとこ)。セーラー服の上にダークパープルの白衣を着込んだ少女がいる。
 二人の足下に、体操着一式が散らばっている。
 それについて問いただそうとする玲奈だったが、いま、口の中では唾液がどんどん出てきている。
 ゴクリと唾を飲み込むと、違和感を不意に感じる。
 今朝、突然痛み出した親不知。しかも上下左右の計四本。注射一本で親不知が抜けるという、科学者・鍵屋の言葉を真に受け、彼女特製の注射をしてもらったのは、ついさっき。嫌いな注射を我慢したかいがあり、痛みは収まり、四本の親不知は見事に抜けた。だが、なぜか同じところに塊が広がっていく感覚。
 舌の先で、親不知があったところを確かめる。
 血の味がする、ぬるっとした歯の感触。抜けたはずの歯。
 注射一本で抜けた歯は、四本とも床に落ちた。
 玲奈の口では小さすぎて、四本もの歯はふくみきれずに吐き出した。
 自分で吐き出したから、間違いない。抜けている。
 そしてその落ちた歯が、変容したのだ。
 帽子、靴、タンクトップ、ボーイレッグショーツという、体操着一式に。
 「緊急時の着替えね」
 鍵屋は答える。
 「必要なときに自分で注射して作るといいわ。すぐに歯は生えてくるから。脱ぎたがりの貴方も安心ね」
 鍵屋はクスリと笑う。
 玲奈はスカートのポケットから鏡を取りだし、確かめる。
 生えてる……
 抜いてくれ、って頼んだのに。
 「あとでアンプルを何本か渡すわ」
 唾液は収まってきたものの、怒りに近い呆れが沸き立つ。
 また勝手に実験して……この子は。
 さすがに何かいってやろうと玲奈は思う。
 一方、鍵屋は床に散らばる衣服を見下ろし、顔を上げて玲奈を見つめる。そしてまた視線を下ろし、また玲奈に戻す。組んだままの腕をほどく素振りも見せない鍵屋に、玲奈は気づく。
 あたしが拾うの?
 ひざをついて拾うことは躊躇われた。
 土下座に近い姿勢を取ると気づいた玲奈は、ミニスカートをふわりと揺らし、腰から曲げて服を拾う。
 新体操部の部室でなければ、女子しかいない場所でなければ、できない姿勢。きっと後ろに立っていた部員には、スカートの中が見えてしまっているだろう。でも同性だから大丈夫。
 「痛み、収まったでしょ?」
 「ええ」
 頭を下げているときに訊かれ、顔だけ上げる。まるで鍵屋に見下ろされているよう。
 「良かった」
 鍵屋は再び、クスリと笑う。
 相手は中学生、相手は中学生。
 鍵屋少女の微笑みが、腹の黒い何かに思えてしまうのは気のせいよ。気のせい。うん。
 「ってか、これ男子用じゃない!?」
 拾い上げたタンクトップを、玲奈はセーラー服の上に重ねる。
 よくよく見ると、脇が広く開いている。開きすぎている。これでは脇から胸が見えてしまう。
 「あれ? 間違えた?」
 玲奈は意地の悪い笑みを浮かべる。
 「いいえ」と鍵屋。「私が間違えると思ってるの?」
 「じゃあ、なんで?」責めるような色を込める。
 口の端に笑みを浮かべたまま言う鍵屋の口調は、淡々としている。
 「だって獣化直後は貴方。胸、ないじゃない」
 言われ、玲奈は顔中、いや全身が赤くなる。
 目の端にうっすらと涙を浮かべ、わなわなと身体を震わす。そして一言。
 「ばかぁっ!」




 今日は体育祭。
 体育館が併設されている総合競技場にやってきた神聖都学園高等部。
 玲奈は新体操のエキシビジョンに参加する。
 新体操部に割り当てられた控室で着替え始める。
 「それにしても、なんで来たの?」
 セーラー服を脱ぎながら、玲奈は鍵屋に訊ねる。
 「今日は非番なんだから、付いて来ることないのに」
 上を脱ぎ、スカートのチャックに手をかけ、ず、と下ろす。
 下ろしたところで、鍵屋に言われた。
 「副作用が突然起きたら、大変でしょう?」
 「……」
 チャックをつまんでいた手が、びく、と震えた。
 スカートは床に落ち、はいていたブルマと素足が露になる。
 えーっと。
 玲奈は心を落ち着かせる。
 自分の身体を勝手に弄(いじ)くられる不快感、怒り、不安、恐怖。
 「あなた」玲奈はゆっくり口を開く。「また何かやってるの?」
 「やったのは、貴方。河童を倒したいからって、水母化できるよう遺伝子を変えたんですって? 術後の経過を見るために、半年間は厳重監視しなくちゃいけないの」
 「そんなの今までなかったじゃない」
 「先日、暴走しちゃった子がいてね。それでガイドラインが変わったの。面倒な話ね」
 言って、白衣のポケットに両手を突っ込んだままの鍵屋は、小さな肩をひょいとすくめる。
 そして背を向け、玲奈からは見えないところで舌を出す。
 本当は、内緒で投薬した新薬の結果がちっとも出てこないから。その成否を確認したいためである。
 「そ。なら、いいけど」
 ブルマの体操服姿となった玲奈は、脱いだ服を綺麗にたたんでロッカーに入れる。
 「三島さん?」
 突然、呼ばれた。
 振り返ると、知らない女性が立っている。
 タンクトップにハイレグショーツという出で立ちは、陸上部の部員らしいと想像させる。最近の競技用ユニフォームは、露出のきわどいものが多い。引き締まった太股とふくらはぎ。かなり短いショートカット。
 「助っ人、ありがと。改めてお礼を言うわ」
 「は?」
 目を丸くする玲奈に、陸上部員は手に持っていた着替えを渡す。彼女が着ているものと同じ、部のユニフォーム。
 「時間にはまだ早いけど、渡しておくわね」
 「ちょ、ちょっと」
 玲奈はユニフォームを押し返しながら言う。
 「そんな話、聞いてません」
 「ええ?」
 陸上部員は困ったような顔をする。
 「さっき控室に来て、あなた、自分からやるって言ったじゃない」
 「それ、ほんとにあたしですか?」
 「覚えてないの?」
 怪訝な顔付きで言われ、玲奈は不意に不安になる。
 「副作用?」と鍵屋がつぶやく。
 「えっ!?」
 玲奈は鍵屋へ振り返る。
 「まさか」と鍵屋。「本人も気がつかないうちに意識を失い、もうひとりの人格が現れて勝手に行動を起こした?」
 「そ、そんな!」と玲奈。
 驚いた隙を付き、陸上部員が玲奈の腕にユニフォームを押しつけた。
 「あっ!」
 「それじゃ、頼んだわよ。もうエントリーしてあるんだから、ちゃんと来てね。陸上部が部対抗リレーに人数不足で出られないなんて恥ずかしいからさ。お願いね!」
 「ちょ、ちょっと待って!」
 呼び止めながらも、鍵屋に確認するほうが先だと思い、追えなかった。
 「でも」と鍵屋。「私たち、朝からずっと一緒にいたわよね」
 「副作用、ウソじゃん!」
 「嘘、という言葉は違うわね。私は可能性のひとつを提案したにすぎないから。その可能性がなくなっただけ。仮説を多く立てられる科学者は優秀なのよ?」
 淡々と言う鍵屋は、「それで」と玲奈を促す。
 「どうするの? あの人、あなたを当てにしているようだけど」
 「とりあえず」
 むー、と頬を膨らませて玲奈は、手渡されたユニフォームを広げる。
 おへその見えるタンクトップと、ハイレグショーツ。
 「これじゃ、あたしの翼が邪魔になって走りづらいわ」
 玲奈が普段着ている体操服とブルマは、伸縮性の高い素材が使われている。そのため翼と尻尾をうまく収納、隠すことができている。
 「翼、ね……」
 鍵屋はつぶやき、アンプルを一本取り出す。
 「え? それ、なに?」
 「動かないで」
 玲奈の細い首筋に針が刺さる。ちくっとした感触のあと、その部分が熱くなる。そして背中がモゾモゾしだす。
 体操服で押さえつけていた翼が小さくなった。
 大きく膨らんでいた背中は縮み、見た目、普通の人と変わらない。
 自分では背中を見ることはできないが、体操服による翼への圧迫感が著しく減り、翼の先が肩甲骨にぺたりと張り付いた感触で察知できた。
 「あなた、すごい……!」
 「前も小さくする?」
 「前? ま、前はいい! 今だって、そんなに……って、なに言わせるのよ!」
 「あら、そう」
 鍵屋は指先で注射器をくるりと回し、つまらなそうに鞄にしまう。
 「とにかくっ」
 言いつつ、玲奈はブルマを脱ぎ、ハイレグショーツに足を通す。その上にレオタードをはく。
 「陸上部の部室に現れたあたしが何者なのか、それは確かめないと」
 レオタードの下からショーツが見えないように、股とお尻の部分の布を引っ張り、フォルムを直す。
 「重ね着、好きね」と鍵屋。
 「んー? 新体操のエキシビジョンは陸上部の競技よりも先だからね。終わったらすぐ脱げるようにしておくのよ」
 「でも、エキシビジョンまでは、もうちょっと時間があるわね」
 鍵屋は右目にかけたモノクルの位置を直し、二つ折りのプログラムから視線を上げる。
 「貴方の偽物、見つけに行きましょ」
 「ええ、もちろんっ!」




 結局、レオタードのまま外に出るのは恥ずかしいため、その上に体操着とブルマを着込む。
 陸上部の控え室へ行くと、先ほどユニフォームを持って来た女子部員がいた。
 「あら、どうしたの? 忘れ物?」
 「いえ、違います」
 「それにしても」と女子部員。「着替えるの速いわね。今出ていったばかりなのに。もうそんな格好」
 「今、出ていった?」
 「ええ。セーラー服で。どこで着替えたの? ここで着替えてもいいのに」
 ニコッと微笑む女子部員を前に、玲奈と鍵屋は顔を見合わせる。
 部室を出た二人は頷きあう。
 「あたしの偽物がいる」
 「それは前提。今さら確認することじゃあないわ」
 「一個一個、確認してくの。そうしないと混乱しちゃう」
 ふぅん、と鍵屋は馬鹿にしたように目を細め、ついと視線を反らす。
 こいつぅ。
 どーせ、あたしの頭の回転は、あなたの足下にも及びませんよー、だ!
 プンプンと唇をとがらせる玲奈に向かって、鍵屋は振り向きもせず声をかけた。
 「貴方がいるわね」
 「は?」
 「あそこ」
 玲奈は鍵屋の視線の先を追う。
 グラウンドの向こう、セーラー服を着た玲奈が、壁沿いを歩いている。
 その玲奈がこちらを向いた。
 にこりと微笑む。
 思わず玲奈も笑顔を返す。
 偽物の玲奈。
 その笑った口は、ありえないほど開いていく。耳まで裂ける。
 目を剥いて、真ん丸い眼球を肥大化させる。
 「あんたぁっ!」
 本物の玲奈は叫ぶ。
 自分の姿を汚された。
 怒髪天を貫いて、全身の血が、その遺伝子が、野生の力を呼び起こす。
 「なにやってんのぉっ!」
 駆け出した玲奈は獣化し、狼に変身する。
 服は破け、レオタードはちぎれ、その襤褸をグラウンドにばらまきながら、玲奈は敵に殺到する。
 一方、偽物の玲奈も変身する。
 膨らむ身体は焦げ茶色の羽毛に覆われ、セーラー服をはじき飛ばした。伸びた首、とがった口。くけ、と鳴く声。
 ダチョウとなった玲奈は逃げる。
 狼となった玲奈が追う。
 グラウンドから、客席から、あちこちから悲鳴が叫ばれ、競技場は騒然となった。
 二匹の禽獣はグラウンドを縦横無尽に駆け回り、一年生男子による棒倒し競技は一時中断。
 「……」
 その様子を鍵屋は興味深そうに眺めていた。
 「ダチョウの方が速いのね」
 つぶやき、鞄からアンプルを出す。
 玲奈に手を振り、来るように促す。
 猛る玲奈の首をさすり、その狼の太い首に注射を射つ。
 すると玲奈の身体は即座に変身。
 狼の毛は抜け落ちて、しなやかなチーターの毛に生え変わる。
 「イヌからネコ……うまくいった」
 鍵屋はフッとほくそ笑む。
 サンキュウ、鍵屋。
 これなら、行けるっ!

 両の腿に。
 脇腹に。
 力が貯まっているのが分かる。
 それを伝える筋肉がある。
 牙を生やした口に吸う、浅い呼吸が酸素を取り込む。
 心臓は強く打ち、血脈が躍動する。
 全身に、四肢に流れる。
 新鮮な呼吸と熱い血が行き渡る。
 地を走る。
 四本の足で大地を弾き、宙を跳ぶ。
 背を反らし、大地をしっかと爪で掴む。
 そして跳ねる。
 弾け飛ぶ。
 弾丸のようにチーターは駆け、あっという間にダチョウを捕えた。
 その口で咽喉に噛みつき、食いちぎる!




 グラウンドの一角は、ダチョウの血で赤く染まる。
 突如展開した野生の惨状。
 気の弱い生徒が次々と卒倒するなか、玲奈はさっさと姿を隠した。
 「見つけた」
 体育館の二階、人があまり入っていない客席の隅に隠れていた。
 鍵屋は全裸の少年にビキニの水着を放り投げる。
 「ありがと」
 礼を言う玲奈は、その水着がいつも身に付けている特殊加工の水着だと気づく。
 気が利くじゃない。案外。
 そして数瞬後、玲奈の身体は元の姿に戻っていった。
 「良かったわね」と鍵屋。「新体操のエキシビジョンには間に合いそうよ?」
 体育館の一階フロアを見下ろして、鍵屋は言った。
 「うん。楽しみにしてたんだ!」
 玲奈はビキニを身に付けながら、ふと不思議に思う。
 「なんでレオタード持ってきてくれなかったの?」
 「貴方が獣化したときに破ったアレ、最後の一枚なんですって」
 「……」




 「そんな格好で出せるわけないでしょっ!」
 ビキニ姿で控室に現れた玲奈は、新体操部の部長に怒られた。
 「父兄の方も見にいらっしゃるんですからね!」
 あうー、と落ち込む玲奈。
 その後ろ姿を、鍵屋はうふふと微笑みながら眺めていた。
 「ちょっと三島さん!」
 鍵屋を押しのけ、陸上部の女子部員が現れた。
 「出番よ! 急いで!」
 「え?」と玲奈。「まだ時間じゃ……」
 「グラウンドに動物が乱入したせいで、競技がいくつか中止になったの。それで繰り上がったのよ」
 「え? ええー!」
 玲奈の手を取り、女子部員は駆け出した。
 「あたし、これ、水着!」
 「着替えてる暇なんてないわよ!」
 「ちょっと!」
 女子部員は玲奈を引っ張りながら、ちらりと振り返る。
 「大丈夫。速く走れば、ユニフォームに見えないこともない!」
 「ええーーっ!?」

 よく晴れた空の下、グラウンドのトラックをビキニ姿で走る少女。
 部対抗リレー。
 水泳部女子はワンピースの競泳水着で走るため、やはり玲奈ひとり浮いている。
 「は、はずかしぃーっ」
 はたから見ると泣いているのか喜んでいるのか、分からない顔で走る。
 客席からは歓声が沸きおこる。小さいままの翼がまるで、天使のようで可愛らしく、それも話題になっている。
 「水着よね? どう見ても」
 鍵屋は走り終えた女子部員に訊く。
 「そうね」と頷く。「悪いことしたわね」
 淡々と答えた女子部員だったが、こらえきれなくなったのか、ぷぷっと噴き出す。そして鍵屋も、にやぁと微笑む。
 一周四百メートル。
 ビキニで走る玲奈のゴールは、まだもう少し先だった。
 「もー、はずかしいよーっ!」
 涙声の玲奈の叫びが、競技場に木霊した。
 
 
 
 
 
     (了)