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<東京怪談ノベル(シングル)>


■天花の芳香■
 「翡色……いらっしゃい」
これは、まだ翡色が幼かった頃の話。
秋になり庭の柘榴の実がなると、翡色の母は、翡色を膝に乗せて柘榴の実を食べさせてくれたものだった。
翡色は、まるで天から舞い降りてきたかの様に美しい、この母が大好きだった。
それは、いつも良い香りがするから……とか、優しさと美を兼ね備えている憧れの存在だから……という事だけではない。
「ねえねえ。今日もおまじない、教えてくれはるんでしょ?」
「いいわよ。それじゃあ、今日は……」
古くから翡色の母の家系に伝わる、沢山のおまじない。
家族中で翡色にだけ、母はいつも教えてくれたのだ。
母の膝の上で聞かされる、父や姉達も知らない内緒の御伽噺……。
このひと時が、翡色は大好きだった。

 ──25歳の、秋。
もう20年近く経つというのに、柘榴に水をあげているとその時の事を思い出すのだ。
懐かしさに瞳を細めていると、インターホンが鳴った。
「……そうやった。お客様が来る時間やな!」
翡色は、サロンへと訪れた女性を柔和な笑顔で出迎えた。

 「ティエン・ファ・ガーデンへようこそ。ここに、貴女を癒す香りがあります」

 翡色が経営する天花香園(ティエン・ファ・ガーデン)は、都内の晴らしのいい高層マンションに居を構えるアロマテラピーサロン。
店内は、白を基調としたアジアンテイストのインテリアで統一されている。
今のところ施術者は翡色一人で、しかも日本では珍しい男性施術者だが……。
心の篭もった丁寧なサービスで、若い女性から老婦人まで、様々な層に人気がある。
受付、施術をすべて翡色一人でこなしているため、突然の来客には対応できない。
そのため、完全予約制にして、一日に三名ほど受け付けている。

 「最近、めっきり綺麗になりはったなあ。何か良い事ありました?」
今日の一人目の客は、すでに何度か天花香園へ足を運んでいる常連客だった。
翡色がこの女性を褒めたのは、通り一遍の社交辞令ではない。
実際、回を重ねる度に女性は見違えるほどに美しくなっていた。
「実はね、私もうすぐ……結婚するの」
「それはおめでとうございます! お祝いに、とっときのお香を出しますね」
女性を美しくする最大のエッセンスは、『幸福』の二文字だと母が言っていたのを思い出される。
翡色は、この女性が更なる幸福を掴める様にと想いを込めながら、丁寧に香を焚いた。

 「いい香り……」
翡色によって焚かれた香は、この上なく芳しい香りをしていた。
誰もがうっとりとしてしまうような香りを漂わせ、この女性もまた例外ではない。
「気に入ってくれはりました? 今朝届いたばかりの、伽羅を焚いてみたんですよ」
「きゃら?」
女性が、ほんの少しだけ小首をかしげる。
翡色は施術後のサービスとしてお茶をカップに注ぎながら、優しく穏やかな声で説明を始めた。
「伽羅っていうのは香木の名前で……近年採ることが難しくなっている、希少な物なんです」
「まあ、そうなの……」
翡色の涼やかな声のトーンと、伽羅の香りとで、女性は眠りゆったりとして気持ちでお茶を飲んでいた。
その時、無粋なインターホンの音のせいで、彼女は一気に現実へと引き戻されてしまったのだ。
(こんな時間に誰やろ? 次のお客様が来るまでは、まだ時間があるはずなのに……)
なんとも不思議そうに瞳を動かすと、翡色は玄関の扉を開けた。
「どちら様で……」
「ママを綺麗にしないで!」
そこに立っていたのは、年の頃が4〜5歳くらいの女の子だった。
見知らぬ少女の突然の来訪に、翡色は面食らった。
……いや、面食らったのは翡色だけではない。
「どうして家で、大人しくお留守番していないの!」
「だって、だって……」
少女を見るなり慌てて駆け寄った女性と、叱られて涙ぐみ始めた少女。
この二人が母娘だという事は、一目瞭然だった。
今にも大声をあげて泣き出してしまいそうな、その小さなお客様の前に、翡色は膝を突く。
「ここまで、一人で来はったん?」
翡色の問い掛けに、少女は黙って頷いた。
「一人で来るの、大変やったやろ? でも、ママとの約束はきちんと守ってな。約束を守れる子は、友達がたくさん出来るよ」
「……うん」
「よしよし、お利口さんやな」
翡色が少女の頭を撫でると、女性が申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「今日はもう、これで帰るわ。ごめんなさいね……ご迷惑をおかけして」
「何言うてはりますの、迷惑なんて思ってません。お客様を癒す事が、ウチの仕事なんですよ?」
ニッコリと翡色が笑って見せると、女性と少女の顔からも笑みがこぼれた。

 数日後。
翡色は、ガーデニングで植える花を探しに来ていた。
「うーん、どれも綺麗で迷ってしまうなぁ……」
花を見比べていると、先日天花香園に来た少女がいるのを発見した。
「お嬢ちゃん、こんにちは」
「あっ、この前の綺麗なお姉ちゃん」
「……お姉ちゃんじゃなくて、お兄ちゃんなんやけどな。ところで、今日はお花を買いに来たの?」
「ううん、違う……。ママが、新しいパパとお話ししなさいって言うから、家を出て来たの」
「新しいパパ?」
「うん。うちに何回か来たことがある人。ママ、その人と結婚するんだって……」
翡色は、パズルのピースが揃った気がした。
少女が翡色に言い放った『ママを綺麗にしないで!』という言葉……。
再婚の話を聞き、新しく父親になる相手を紹介され、気持ちが不安定になったのではないだろうか。
母親が綺麗になるにつれて、『母親から女性へ』と変わるのを、少女は敏感に感じ取っていたのだ。
新しい環境の変化を受け入れるには、まだ幼いのかもしれない……。
しかし、女性が綺麗になりたいというのは、誰しもが持つ純粋な気持ちである。
その手伝いをする事を、翡色は喜びに感じていたのだが……。
それを少女に咎められてしまった事は、どうにも寂しい気持ちだった。
他人である翡色がそう感じるのだから、母親である当人は尚更だろう。
「お嬢ちゃん……この次の日曜、うちに遊びにこーへん?」
「えっ、行ってもいいの?」
「もちろん。その代わり、一人でな?」

 その次の土曜、翡色は伽羅の香を持ってベランダに出ていた。
「こうして、月明かりにかざすんやったな……」
翡色は、幼い頃母に教えてもらったおまじないをしていたのだ。
伽羅を月明かりの下に一晩中置き、光をたっぷりと吸収させる。
夜が明けた頃に、丹精込めて育てた植物の朝露を一滴垂らし、乾燥させると、このおまじないは完成するのだ。
朝方、母を想って育てた柘榴についた朝露を、伽羅の香に垂らした。

 ──翌日。
少女は約束通り、一人で天花香園に来ていた。
「わあ、いい香り……」
翡色がおまじないを込めた香を焚くと、少女は笑顔になった。
「このお香もな、お嬢ちゃんにそう言ってもらえて、喜んでるみたいや」
「えへへ。だって本当にいい香りなんだもん」
「女の人も、お香と同じなんやないかな?」
「えっ……」
円らな瞳を見開いている少女に、翡色は昔母がしてくれたように、優しく語りかけた。
「誰かに綺麗と言ってもらえると、嬉しくなるんや。お香も女の人も、嬉しくなると人に幸せを分けてあげる事が出来る、素敵な存在なんや」
「ママも……?」
少女の瞳の色が、変わった。
それは今までのような拗ねた様な物ではなく、未知の世界に胸を高鳴らせている物だった。
「そう、お嬢ちゃんのママも。新しいパパに綺麗と言ってもらえる度に、ママはお嬢ちゃんを幸せにしてあげる元気が出てくるんよ。だからママの事……応援してあげてな?」
少女はビー玉のような瞳をキョロキョロとさせた後に、大きく頷いた。
「……うん、わかった!」
「そっか。やっぱりお嬢ちゃんはお利口さんやなぁ」
翡色は何度も、何度も、少女の頭を撫でた。
この香に込めた、『少女が少し、大人になるためのおまじない』が成功する事を祈って……。

 それから少し経った、ある日の事。
インターホンの音を聞きつけて扉を開くと、そこにはあの女性と少女が立っていた。
「二人で来るなんて、珍しいですねぇ」
「いえ、今日は“三人”なんです」
「……えっ?」
女性に促されるように扉の影から出てきたもう一人は、見知らぬ男性だった。
その男性に、随分と少女は懐いている様子である。
「これからね、パパとママと一緒に動物園に行くんだよ!」
「パパ……。そっかぁ、この人がお嬢ちゃんの新しいパパなんやね」
「こうして娘が再婚に賛成してくれたのも、翡色さんのおかげです」
女性と男性は、二人揃って翡色に頭を下げた。
「そ、そんな。ウチは何もしてませんって」
こんな風に礼を言われてしまうと、照れ臭いやら緊張するやらで、どうにも恐縮してしまう。
その誠実そうな人柄を見て、この親子三人は和やかに笑うのだった。

 ──少しの間立ち話をした後、帰り際に少女が翡色の服を引っ張った。
「ねえ、ちょっとお耳貸して」
「ん? 何かな?」
屈んで少女の顔に耳を近づけると、少女が両手を添えてこっそりと耳打ちをした。
「私も大人になったらうんと綺麗になるから、お兄ちゃんのお嫁さんにしてね」
突然の申し出に翡色が目を丸くしていると、答えを待たずに少女は翡色から離れた。
「じゃあまたね、お兄ちゃん!」
親子三人が去った後に、一人呆然と佇む翡色。
急に顔に笑みが込み上げてきて、翡色は小さく笑った。
「少女が少し、大人になるためのおまじない……成功したみたいやな」
翡色は清々しい気持ちになりながら、次の客を迎える為に香の準備を始めた。
天花香園に訪れる客を、癒す為に……。