コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


カバは考えない



 十一月ともなると、身体を包み込む風が冷たい。
 今日のように雨ならいっそう気温は下がり、傘を持つ指がジンジンする。
(………………………)
 雨は少量ながらも止んでくれる気配がなくて、遠慮がちに傘を叩いてくる。
 しと、しと、しと、しと。
(………………………)
 あたしは靴を汚さないように、水溜りを避けて歩く。
 ひた、ひた、ひた、ひた。
(………………………)
 交差点まで来ると足を止めて、信号が青に変わるのを待つ。
 その間に、あたしは肩に落ちた水滴を軽く払った。
(雨の日は頭が働かないって言っていた友達がいるけど――)
 ……今日は、何だか、頭の中がぼんやりするなあ。

 何も考えていなくても、足が勝手に導いてくれる行き先。
 生徒さんたちのいる、いつもの専門学校。
(朝の九時に……だったよね)
 門をくぐってから腕時計を見て時間を確認する。
 八時五十分。
(うん、大丈夫)
 ぼんやりした意識でも、身体はきっちり対応してくれているみたい。
 もっとも、ぼんやりしているからって遅刻する訳にはいかないものね。

「おはようございます、生徒さん」
「おはよう、みなもちゃん。雨降っていたでしょう。濡れなかった?」
「はい。弱い雨だったので……」
 あたしは音がしないようにドアを閉めると、コートを脱いだ。
 教室には暖房が効いているから、外にいたときよりずっと暖かい。
「風邪をひいたら大変だものね。今ココアを淹れるから、一緒に飲みましょ」
 生徒さんの表情も温かい。
 何だかすみません、とあたし。
 気を遣っていただいたことへの感謝の意味だったのだけど、生徒さんには微かに苦笑いされてしまった。
「すみません、か。みなもちゃんらしい感じね」
 その言葉に、今度はあたしが苦笑してしまう。
(あたしらしい、かあ)
 あたしらしいってどんな風なのかなあ。生徒さんたちの目には、あたしってどんな風に映っているんだろう。
(あたし自身はあたしのこと、どんな風に捉えているのかな?)
 頭の中が、ごちゃごちゃしてきそう。
 ときどき……いつもかもしれない……自分のことがよく分からなくなる気がして。
 ヒトであるときと、人魚であるとき。
 完璧なヒトになることも、完璧な人魚になることもなくて、宙ぶらりんな自分。
(だけど)
 ここに来たら、また別の自分が生まれてくるような気がする。
 ここでは今まで色んな生き物になってきたから。
 ――生徒さんたちはあたしを見ながら、新たな動物を想像しているのかもしれない。
(凄く不思議……)
 そしてとても、心地良い。

「みなもちゃんはカバになるのよ」
 柔らかくて、自信に満ちた生徒さんの声。
 それに導かれるように頷くあたしがいる。
「初めてですね。カバさんになるの」
「そうなの。この前のクマをベースにしたやり方でね。新しいこともやって、このメイク方法の可能性を試してみたいのよ」
「わかりました」
 あたしはスムーズに服を脱いだ。頭がぼんやりしていたし、生徒さんの言う“可能性”を早く見てみたかった。
(メイクの上での可能性は、あたしの可能性でもあるような感じがするから)
 その可能性によって、あたしは色んな動物の姿になれるし、そのことで誰かの役に立てることもある。生徒さんがさっき言った「クマ」さんのことだって――少なくとも一人の少女の具合を確かめるお手伝いにはなったのだ。
 ――台の上に仰向けになろうとして、あたしは生徒さんに呼び止められた。
「あのね、みなもちゃん。今回は、最初から四つ這いになって欲しいの」
「え……?」
 ぱちん、とシャボン玉が割られたように、意識が急にはっきりするあたし。
「ど、どうしてですか?」
「だって、ほら。これだもの」
 とカバの写真をヒラヒラと揺らしてみせる生徒さんたち。
 “これ”って、ええと。
 その写真を見るに――……カバさんは凄く重そう。お腹がタプタプしているし、クマさんよりずんぐりむっくりしているというか……足も短いのだ。つまり、二本足ではとても身体を支えきれそうにない。
(理屈としては分かる……けど)
「今の状態で……そんな獣みたいな……」
 胸を隠しながら抗議(?)してみたけど、受け入れられるはずもなく。
「そうですよね……メイクがしやすいようにしなきゃ……ですよね……」
 しなしなと崩れるように、あたしは指示通りにした。せめてと、頭を生徒さんたちに向けて。
「そうそう、仕方ないことなのよ」
 あたしを慰めてくれているのかもしれないけど、生徒さんの声は弾んでいるようにも聞こえる。ううん、本当に仕方のないことなのだけど。

「でね、骨組みから作るのよ。カバなんだから、足を短く、胴を太くしなきゃいけないでしょう?」
 ……なるほど。確かに人間の手足の長さのままでは、カバの体型にあまりに不向きだ。
(前回のクマさんで言えば、口のメイクの要領かな?)
 太い針金でカバの骨組みを作り、あたしの身体に組み込む。お腹の向き――下を特に骨組みで厚くして、胴を太くしている。太股は動くところだから、ここを胴にするためにはギミックを噛ませる必要があって、前回のクマさんで使ったような器械が股から腿にかけてつけられた。中では足を動かしているけれど、外からは胴に見えるようにするためだ。
(これだけだとロボットみたい)
 動物から離れているように思えるのが、おかしな感じで楽しい。これが本当にカバさんになるのかなあ。
 そう言えば、前回のときも同じように不思議だと思ったんだっけ。
「クマさんのときのメイクを応用しているんですね。凄いです……」
「ふふっ」
 生徒さんたちは余裕綽々と言った感じに見える。新しいこともやって、と生徒さんは言っていたから、まだ何かあるのかもしれない。
 次に登場したのはあの粘土素材。前回のときに最初に塗っていた粘っこい新素材は使わないみたいだ。
 四つ這いにしているあたしの足から粘土をつけ、骨組みの外側――つまり外から見える部分――を覆っていく。芯を粘土で覆うことで形を作るなんて、粘土の工作そのままで懐かしい。
 ぺたぺたぺたぺた。
 ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた。
 ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた。
(何だか……視線のやり場に困っちゃう……)
 生徒さんたちの顔が間近なんだもん。呼吸もし辛い気がする。美容室でシャンプーされている間がずっと続いているみたい。前回のときはどうやって過したのかなあ、なんてぼんやりと考える。
(そういえば、クマさんになったあとは記憶がないけど……。これ、重いんじゃないかなあ)
 カバさんってことで、胴を太くされている訳だし。器具はなくなっているから、クマさんよりは軽いかもしれないけど、五十歩百歩かもしれない。
(催眠術にかかっていない状態で、どこまで歩けるのかなあ)
 考えていたら心配になってきて、おそるおそる生徒さんたちに訊いてみた。
 すると生徒さん、待っていましたとばかり「大丈夫よ!」と言う。
「ここが新しい工夫なの。粘土は外側だけ、中にはジェルを入れるのよ。軽くするためと、足の器械部分に粘土をつける訳にはいかないからね。……ほら」
「きゃっ……」
 あたしの唇から小さな声が漏れる。グチャグチャにした冷たいゼリーのような感触が上から落ちてきたのだ。
 ジェルの程良い弾力に肌が包まれていく。ウォーターベッドの中に入ってしまったみたいだ。小さい頃、プルプルしたゼリーの中に入ってみたいって言っていた子がいたけど、その表現の方がぴったりくるかもしれない。
(だとしたら、あたしはカバさんじゃなくてお菓子になっちゃうのかも)
 そしたら、生徒さんたちに食べられちゃうのかなあ。
 くすぐったいこともあって、くすくす笑うあたしを生徒さんたちが興味深そうに眺めている。それから童話を真似て、生徒さんたちはこんなことを言った。
「さあ足と背中を伸ばして。でないと、笑っている間にお腹を閉じちゃいますよ、オオカミさん」

 顔にも骨組みをして、粘土素材で覆う。口だけでなく頬も骨組みするのを忘れない。カバさんの顔って人間と比べてずっと横に大きいのだ。そのまま粘土をつけただけでは、落ちてしまうくらいに。
 口の中には大きな牙を装着した。言っても、実際のあたしの口内には入らないから、メイクで作った口の中につけてある。あたしの本当の口を開くことによって、カバさんの口も開くようになってあるのだ。
 この牙がすごーく大きい。よくこんなの入るなあ……って感心してしまうくらいだ。カバさんって暢気な顔をしているように見えて、案外獰猛なのかもしれない。
 カバさんの顔って、凹凸が結構ある。目のあたりは窪ませておいて、下の鼻にかけてはこんもりと粘土を盛る。小さいながら、耳も自己主張するように乗せて、と。
 そしてそして。
 生徒さんたちが出してきたのは彩色道具。
(カバさんの口の中に色をつけるのかな?)
 と思ったんだけど、それだけではないみたい。
 お腹に皺を描き込んで、ふくよかさを出すのだ。
(そっかあ。カバさんのお腹って、タプタプしてる感じが凄くするものね)
 粘土だとさすがにその柔らかさまでは再現出来ない。お腹に段をつけてはあるけれど、それ以上のことは描き込むことによって表現するようだ。顔の凹凸も同じように。
 念入りな描写によって、写真で見たイメージ通りのカバさんが作られていく。
(ううん)
 あたしがカバさんになっていく――。
 なんとなく、あたしは自分がリリーフになったときのことを思いだした。
 あのとき生徒さんは、リアルさを出すためにあえて実際より派手にやると言って、あたしの身体の凹凸を強めにつけていた。そのやり方を汲んでいるのだろう。
 この口ではまともに喋れそうにないから、黙ったままあたしは考えた。
(凄い、なあ……)
 生徒さんたちのやるメイクのバリエーションはどんどん広がっていく。
 その中にあたしもいて……一緒に色んなことを試している。
 過去には猫さんにもなったし、犬さんにもなったし、架空の生き物にもなったし……。
 雪豹さんやクマさんのときでは、人との出会いがあった。メイクを通して出会った大切な“友達”。海原みなもとしての学生生活の中では絶対に出会えなかった。彼女たちの役に立てることを思えば――ぬるま湯のような助けだったとしても――このアルバイトをやっていて良かったと思う。
(いつかはさよならを言わなくちゃいけない出会いかもしれないけど……)
 ……頭の中が、ごちゃごちゃする。

「さあ、みなもちゃん。鏡を見て」
 柔らかな声に従って、あたしは前を見る。
 そこには一頭のカバさんがぼんやりと立っていた。
 口を大きく開いて、長い長い欠伸をした。
「行きましょうか、カバちゃん。小屋はあちらよ」
 フゴ、と喉から音を立てる。
 人間の声のままに、カバは大仰に足を動かして教室を出て行った。



 終。