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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


SOUP


 商店街のショーウインドウ。さまざまな店が軒を連ねるこの場所に、一人のちいさな影が迷い込んだ。製造番号S04・愛メ璃、通称 愛メ璃(アメリ)。あどけない瞳と、りんごのようなかわいらしい頬を持つ少女――を象った、ラブドールだ。覚束無い足取りでアーチを潜り、店の傍を行ったり来たり。まるで夜のような、なんの気配も感じさせない黒い瞳の奥に、覗き込めばやっとわかるくらいの好奇心の光を湛えて。
 まるでショートケーキのように縁取られたアンティークショップの窓、レンガの道に置かれたかぼちゃの馬車のようなワゴン、どこかの国のお姫様のような衣装に身を包んだマネキン。まんまるい瞳をくりくりさせ、愛メ璃はすべての商品に見入った。
 彼女は、まるでおとぎ話の本から飛び出したような“もの”たちを、コスモスの香りをかぐ小鹿のように覗き込んだ。レンガとウインドウと人形の少女。“もの”たちは、見つめられている間だけ、本来あるべきそのおとぎ話の中に帰っていく。
 しかし――
「“キョウカショ”は置いてないのネ」
 愛メ璃はほんの少しだけ瞳を曇らせた。
 彼女が今欲しいのは……教科書に革靴、スクールバッグ、筆箱とそれに入れるシャープペンシル、そして消しゴム――桃色のペンで名前を書いて使い切れば、好きな人と両思いになれるという、よくあるおまじないに適したもの――つまり、学校に通う生徒たちが持っているようなありふれたものであった。
 愛メ璃がこうした街に降り立ってから、時間はそれほど長くない。だからそういうものが、レースのカーテンのついた扉が迎えるファンシーショップや、フリルをあしらったワンピースの飾られた洋服やにあるわけではないことを理解していなかった。辛気臭くじめじめした薄暗い文房具屋は、愛メ璃の視界にほとんど入っていない。もし例えば、その軒先にピンク色でハートの刺繍がしてあるポーチでもあれば別だったかもしれない。

 商店街の入り口より少し離れた場所、電気屋で誰に見てもらうでもなくドラマを流すテレビ。
「アメリも、こんな恋がしてみたいワ」
 彼女がそれを見たのは今からすこし前のことだ。画面に映る、セーラー服の少女と学ランの少年。毎週この時間にやっている、学園ラブコメドラマの再放送。彼らは三十分の間に渚を駆け回り、電車に隣同士で座り、手を繋いで帰り道を辿るのだ。少年の口は甘い言葉を紡ぎ、少女は頬を赤らめてそれに頷く。恋人たちは通学路を歩き、浮いた気持ちで授業を受け、屋上でごはんを食べ、放課後にはカフェへ寄り、キスをして、名残惜しそうにそれぞれの家路を辿る。そこには、手に取れるほどのきらきらした青春とほろ苦く甘酸っぱいロマンスがあった。
「とってもステキな恋よネ」
 ふっくらした唇がさくら色に染まる。
「きっと、アメリもこんな恋ができるワ」
 ガラスに映る自分の姿を見つめ、瞬きをする。お気に入りの黒いセーラー服は、画面の向こうにいた少女のそれとそっくりだ。
 ただ、足りないものはたくさんあった。彼らが持っていたおそろいのバッグも、授業中に開く教科書も、少女が大切に使っている消しゴムも、愛メ璃の手元にはない。何より、愛メ璃は学校に通う男の子を知らなかった。テレビの中にいる少年は、小麦色の肌によく目立つ真っ白な歯を見せながら笑っていた。

「ゼンブ、探しに行かなくちゃネ」
 そうして商店街のアーチを潜ったのが、今から数十分前、ということだ。靴の爪先をとぽとぽと鳴らし、彼女は足りないものを商店街を隅から隅まで探した。しかし、消しゴムもシャープペンシルも、制服を着たはにかみ笑顔が似合う少年も、愛メ璃の目には留まらなかった。それは本当にどこにもなかったり、あったとしても彼女の視線の端を偶然のように通り過ぎていった。
 時計塔が十時時を告げる。レンガを歩いているハトたちが、首をふりふり道を横切っていった。

「アラ」
 不意に愛メ璃が顔を上げたのは、ハトが羽音を鳴らして羽ばたいた後であった。
「ガッコウがあるワ」
 見上げる先には、神聖都学園。行き交う学生たちは、休みを堪能すべくそれぞれの道を辿る。校舎はまるで城壁のように聳え、あらゆる窓からは教室と生徒たちが覗いている。
 愛メ璃の顔が輝いたのは言うまでもない。その両足はゆっくりと動き、彼女は学園の校門をくぐった。


 休み時間には、たとえ午前であれ教室の外に出る生徒が数多く居る。
 井出・利(いで・とおる)も例外ではなかった。窮屈な教室をそっと抜け出し、新鮮な空気をすうべく廊下を抜ける。日差しは決して眩しくなく、しかし目の端にちらちらと白い光線を伸ばしていた。
 午前の講義というのはどうしてこう退屈なのだろう? 否、午後の眠たさには勝る事のないものだが。偶然見つける宝石のように、ばったり居合わせた楽しい講義というのは、あるにはある。しかし、自分の興味をひくテーマを扱ったものですら、空気の隙や気持ちのうたたねとでも言うか、ある種の倦怠感は絶対に存在するものだ。すれ違う男子生徒の間の抜けたあくびを聞き流し、利はエントランスを横切った。行き交う人々の顔が映るほど磨かれた大理石の床は、靴底とこすれて小さな音を立てている。
 両腕を大きく伸ばし、指の先まで伸びをする。中庭の芝生は目が覚めるほどの緑色をしていた。すずめの影がちょこちょことあたりを飛び回り、涙を拭う利の頭上を通り過ぎていった。

 ふと、視界の隅に見慣れない人影があることに気付く。半そでのセーラー服に身を包んだ、齢十六前後の少女だ。
 ――お嬢さん、ここは大学部だよ?
 心の中から語りかける利の声に無論気付くはずなく、彼女は校舎をぽうっとした顔で見上げていた。

 からんからんと予鈴が鳴り、生徒たちは校舎へ早足で戻っていく。
 ――ほらほら、早く戻らなきゃ。高等部の子でしょ?
 彼の思いに反して、少女は周りと足並みをそろえることなく、相変わらずの表情で校舎を眺めていた。すれ違う学生たちに気をつける様子もなく、高等部に歩いていく素振りは少しも見せない。黒いセーラー服はゆるい風に揺れ、小さく開けた口をにわかに動かした程度だ。
 そうか、見学に来た子だな。だから、急ぐ様子もないし、校舎を眺めるだけなんだ――
 そう結論付ける前か後か、利は生徒の影を避けながら少女に近づいていった。遠くに見つけた知り合いに挨拶をしながら。

「ね、お嬢さん、どの学科の希望者?」
 愛メ璃が顔を上げると、そこには屈託のない笑顔を浮かべた少年がいた。
「もう講義は始まってるけど、見学したい?」
「ケンガク?」
 利の言葉に、彼女は小首を傾げるのだった。
「エエ、ガッコウ、見て回りたいワ」
 こくんと頷く少女を見て、利は同じように頷いてみせる。
「いいよ、俺が案内してあげる。見たい講義はあるのかい」
「コウギは知らないから、見たくないワ。でも、キョウシツは見てみたい」
 目をぱちくりさせ、彼女は二階の窓を指差した。「空の見える、キレイなキョウシツはある?」
「あると思うけど、今は入れないんじゃないかな」
 やや常識を外れた返答に意表を付かれた利であったが、ふしぎな子だなと首を捻りつつもそう答えた。高等部はそれほど馴染みがない場所であったが、一年の教室がどこにあるかくらいは解る。ただ、今行くと授業の邪魔なのではないだろうか。
「ジャア」
 少女は丸い瞳を逸らすことなく続けた。「トショシツでもいいワ」
「図書室なら大丈夫だろうな」
 図書室を使う授業がないことはないが、静かにしていれば問題はないだろう。うんと頷き、利は愛メ璃に手招きした。教室で授業が始まるのとちょうど同じくらいのころ、二人は連れ立って歩き出した。


 あらゆる学校の図書室がそうであるように、神聖都学園のそこも静かで広く、すこしかび臭かった。扉を開けば、やはり利用している生徒はいない。受け付けには本が数冊とバーコードを読み取る機械があり、パソコンの電源も入っていたが、案内する教師はいなかった。
「外の人に貸し出しは出来ないと思うけど」
 表情ひとつ変えることなく部屋を見渡す愛メ璃に目配せをしつつ、椅子を引く。
 だが、椅子に座る暇はなかった。少女はじっと一点を見つめたまま、頬をぴくりともさせずに言った。
「お兄さんアリガトウ、もう十分見たから、いいワ」
 さすがの利も呆気に取られた。冗談でしょ、と、彼女の瞳を覗きこむ。
「ここでガクセイさんは本を読んで、好きなオハナシを教えたりするのネ」
 彼女は動じていない様子だった。部屋の真中あたりを細く白い指で指し、そう呟く。
「そうだね、そうかも」
 曖昧な返事だったが、少女は満足したようだ。まばたきをして、もう一度部屋を見渡す。

「次はオクジョウに行きたいワ」
 窓から差し込む日の光に照らされて、彼女の瞳はすこしだけ動いたようだ。「屋上もステキなところよネ」
「屋上が好きなの? どんなところが?」
 椅子を元の位置に戻し、即頭部を掻く利。ゆっくり案内をするつもりで講義をさぼっているのに、肩透かしを食らった気分だった。
「わからないワ」
「解らないの?」
「行ったことがナイんだもの」
「それなのに好きなんだ」
「ソウよ」
 高校生にもなって、屋上に行った事がないなんて。規則にガチガチに締められた生徒だったんだろうか。それにしては、法則性すらないふしぎな言動の方が多いのではないか。暖簾に腕押しというか、ぬかに釘と言うか……打っても打っても響かない、そんな言葉が似合いそうな少女だ。一体どこから来たんだろう? ここに来て、何をするつもりなんだろう? 学校に来たんだから学ぶためだろう、なんて結論付けるにはあまりにも……。
 愛メ璃は相変わらずきょとんとしていた。
「それとも、ココは、屋上のないガッコウなのカシラ」
「いや、屋上はあるけど」
 鍵も閉まっていないはずだし。もごもごと口を動かす利は、ようやく彼女のことを疑い始めていた。彼女はどうやら入学希望者というわけではないらしい! しかし、学校を案内されて嫌だ、というわけでもないらしい。
「見に行きたいんだよね?」
「見に行きたいワ」
 やれやれ。小さな溜息が口を突いた。嘘をついている様子はないし、悪さをするつもりでもないのだろう。移動した分時間は経ったから、今更講義に戻るわけにもいかない。何より、ここに彼女をひとり置いていくわけにはいかない。

 結局、利は彼女を連れて屋上へと上ったのだった。太陽は頭上からあらゆる屋根へ光を降らし、雲もまばらな青空が両手一杯に広がっている。飛行機雲が端から端へ白い軌跡と共に飛び去っていく。二人の髪を撫でるそよ風は冷たく、ほんの少しだけ前髪を揺らしたあと、音もなくどこかに消えていってしまった。
「ここでお弁当を食べたりするのネ」
「うん、まあ」
 どこまでが有効な返答なのか、利は両手をズボンのポケットに突っ込んだまま頷くのだった。愛メ璃はと言えば、やはりあたりをするりと見回し、「ステキなところ」と呟くだけだった。喜んでいるのか無感動なのか図れない表情は、しばらくの間空を見つめた。
「次はどこに行くんだい?」
「まだ見ていたいワ」
 声をかければこちらを振り向く。屋上を気に入ったのだろうか、フェンス越しにビルを眺め、頭上の青空を見上げ、飛行機雲をなぞるように片手を翳した。その動作はぎこちなく、だがおそらく――と言うのは、やはり彼女の顔から感情が読み取りづらかったからなのだが――隅々まで好奇心で満たされていた。指の先は感動によって小さく震えていたし、目の奥には星くずのようなきらめきがあった。利の溜息は、いろいろな感情が入り混じったものだったに違いない。諦めや、ある種の好意や、呆れ。学校をこういう風にして楽しむ人間は、学校の外からやってきたものだけだろう。

「ネエお兄さん、アメリと手を繋いで、一緒にオ空を眺めて欲しいワ」
 “急なお誘い”であった。我が耳を疑った利は、すっとんきょうな声を上げていた。
「はい? お兄さんって、俺のこと?」
「そうよ。ネ、一緒にオ空を眺めて欲しいワ」
 愛メ璃の声色は変わらなかった。
「俺は利。……空を眺めるって、わざわざここで?」
「そうよ、トール。あのコたちもやっていたの、手を繋ぐのよ」
「あの子……って、友達のことかい」
「イイエ。ガクセイの二人のコトよ」
 首を振る少女を眺め、今度は呆ればかりの溜息をつく。
「また今度でもいいワ」
「そう。それならいいんだけど」
 彼もいきなり恋人の真似事をさせられるとは思いもしなかっただろう。このような発言もしてくるとは、侮れない少女である。
「えーと、アメリちゃん」
「何カシラ」
「他に回りたいところはある?」
 ずっとここに居たら、同じようなことを頼まれてしまうかもしれない。頭を掻きながら、利が目配せをした。「教室はたぶん授業中だし、図書室はもう行ったし……他にも見たいところはあるんでしょ? えーと……カフェとかあるけど」
「そこでいいワ」
 あっさりと快諾した愛メ璃を見て、胸を撫で下ろす。
「それじゃ、降りようか」
「エエ」
 ドアを開き、風が吹き込むのと一緒に校舎へ戻る。太陽が真上に移動し、時計は昼を告げていた。移動しているうちに授業も終わり、昼休みに入るだろう。自分の腹の虫も鳴いていることだし、昼食を取っているうちは手を繋げとは言ってこないだろう。一緒に食べられるようなもの――例えば、「あーん」して食べさせることが出来そうなパフェやケーキ――でなければ、問題はない。
 何より、利はここのカフェが好きだった。紹介するのも悪くはない。
「アメリ、パフェが好きなの」
「うーん、パフェは高いから奢れないかもしれないな」
 こうして危ない選択肢を回避すれば大丈夫。愛メ璃目の前の愛メ璃という少女に対する謎は深まるばかりであったが、放って置けないのも事実だ。
「ここのカフェのランチは美味しいよ」
「じゃあ、同じのでいいワ」
 階段から廊下に差し掛かり、鐘が鳴るのを聞く。教室はざわつき、早くも足音が響き始めた。


「ああ、あのドラマの再放送のことなんだね?」
「一週間に一回、見れるの。アメリ、あの学校がとても好きなの」
 カップスープとサンドイッチ、コーヒーのセットが二人分、テーブルに並んでいる。オープンテラスのあるカフェに入った二人は、明るい空の下で向かい合って座っていた。
 黙々と食事を続ける愛メ璃に、利はいくつかの質問をした。解ったのは、“ガッコウ”に憧れてここに来たということ。“ガクセイ”の恋人たちを羨ましく思っていること。その恋人たちは、ドラマの中にいること。そのドラマは、毎週同じチャンネルでやっていて、彼女がそれがとても好きであること。
「女のコも男のコも、すごくステキなの」
「へえ、どんなところが好き?」
「わからないワ」
 先ほども繰り返した台詞だったが、どうやら恋愛そのものを好いている、ということは理解できた。おそらくこの学園を選び、利を選んだのも偶然なのだろう。学校と学生を追いかけここに辿り着き、こうしてランチを食べている彼女は、傍から見れば十分に学生らしくなっているが。
「何が足りないのカシラ」
 ぱちくりと瞬きをする彼女と向き合い、利はうーむと唸った。彼はもちろん、そこに足りないのはバッグでもペンでもなく、両思いの恋人である――ということを十分解っていたのだが、それを説明するにはある程度心を整理しなければならないし、真面目に語るにはやや恥ずかしい話題でもあった。

「トールは、ガッコウに、好きな女の子はいるの?」
 そう切り出した愛メ璃の顔はやはり無表情で、またもや唐突な質問に利はあやうくスープを噴出すところだった。
「『ガクセイさん』は、ガッコウで、恋をするモノなのよネ」
「うーん、まあ……そうでないこともない、けど」
 やはり語ることでもない。もちろんその話題を好いている学生がいるのは間違いないが、恋愛に対する利の免疫はよくも悪くも普通。持ちえている話題も多くはない。同じ学年に恋人同士の生徒はいるだろうし、両親はもちろん恋人同士だったろう。だが、愛メ璃に話すべき恋の話となると、そういう憶測が多分をしめる恋の話は不適切のように思われた。彼女が望んでいるのはドラマのような恋愛だ。
「初恋だって覚えてないのになぁ……」
 弱ったように首を傾げ、腕を組み考え込む。コーヒーの香りが小さな息で散り、風がまつげに触れた。目の前に居る愛メ璃がサンドイッチを食べ終えたのを見ながら、もはやアルバムの裏に隠れてしまった恋の記憶を探る。幼い頃の恋は本当に純粋で淡くきらめいていた。そういう話ならば喜んでくれそうだが、不確かな思い出をどうやって言葉にしようか? いっそのこと本屋で少女マンガでも買って読んでやろうか、とも思った。
 カップの中のスープが湯気を立てている。コンソメのにおいが鼻腔をくすぐった。

 うむむと考え込み、うろ覚えの絵本のあらすじでも構わないだろうか、と相手の顔を覗き込んだ時だ。
「寝ちゃったの、アメリちゃん?」
 愛メ璃がこくりこくりと舟をこいでいた。顔を俯かせ、まるでコーヒーをじっと眺めているかのようだ。
 いや、本当に眺めていた。――と言うより、目を開いたまま彼女はぴたりと止まってしまった。
「アメリちゃん?」
 目の前でひらひらと手のひらを振ってみても返事はない。しかも、じっと目を凝らして彼女の顔を見れば、その肌はまるで人形のような質感をもち、瞳は真っ黒なガラスのように何の色も映しておらず。
 利が椅子から飛び上がるように立ち上がったのは無理もない。彼女は本当に人形になってしまったのだ!
 隣のテーブルから、脚が不審そうに覗き込んでいる。通りがかりの生徒がちらりとこちらに視線をよこし、ウエイターが訝しげに二人を見つめている。
 事情はともあれ、このままでは何かとまずい。等身大の女の子の人形と一緒に食事をしている青年を見て顔を引きつらせない人間がいるものか! 夢でも見ているのか、誰かに騙されたのか、ぐるぐると疑念が頭の中で渦を巻いていたが、今は一刻も早く彼女を連れてここを離れるべきであろう。
 大声でウエイターを呼び、会計を済ませる。愛メ璃だったラブドールを背負い、利は一目散に校舎へと駆け戻った。

 ばたばたと玄関を駆け、行き違う生徒の視線をいやと言うほど浴びながら、人形を運ぶ場所を探す。同じ学年の友達が肩をすくめ、何やらいいたげに笑っている。
「違うんだ、誤解だって!」
 悲痛な叫び声が響き渡る。
「女の子は興味本位でどっちかって言うと男の人の方が気になるし……って違う待って本当に誤解なんだあああ!」
 かっと目を見開き、全力で言い訳を続ける。どちらにしろ、動揺したままの頭ではいい弁解など出来ないが。下手をしたらさらに誤解を深めてしまうだろう。がむしゃらに走り、心の中で号泣しながら、彼は走り回った。利の性癖について深い理由を知るものも知らぬものも、走り去っていく彼の後姿をなんとも言えぬ表情で見送っていた。


「キミは一体何者なの?」
 無人の保健室。ベッドで目を覚ました愛メ璃を覗き込む利は、見るからにぐったりとした様子だった。彼の言葉に愛メ璃が瞬きをし、丸く厚い唇を開く。
「アメリは、お人形なの」
「そうみたいだね」
 いやと言うほど理解させられた、と息をつく。
「神様がネ、アメリに“いのち”をくれたみたい」
 上半身をゆっくりと起こし、人形から少女へ戻った(あるいは、人形から少女に変身した)彼女が、呆気に取られたままの青年を見つめ返した。
「ダカラ、アメリは“いのち”がある限り、この世界をたくさん楽しむの」
「神様が“いのち”をくれたから?」
「エエ」
 何も疑う余地はない、と、首を立てにゆっくりと動かす。「好きな人を作ったり、恋をしたり、美味しいものを食べたりするの」
「そっか」
 呼吸がようやく整い、汗で濡れたシャツをぱたぱたと仰ぎ、利が項垂れる。素直で無垢な彼女に振り回され、芯まで疲れきってしまったのだ。せめて、眠ったら元に戻ることを言って欲しかった。と言うより、眠らないで欲しかった……。
 起きてしまったことは仕方ないとは言え、こんな偶然を喜ぶべきか否か?
 彼女に勝るとも劣らない数奇な事件に巻き込まれこの性を手に入れた青年は、はたと考え込んだ。
「アメリちゃんが元人形なら、俺は元女ってことか」
「女のコ?」
「そう。色々あって……アメリちゃんが言う神様のお陰かな、俺も男になったんだ」
 理由を深くは語れないけど、と、口をつぐむ。
「アメリと一緒なのネ」
「一緒、かな」
「一緒だワ」
 彼女は納得したらしかった。何度もぱちぱちと目を瞬かせ、首を傾げて髪を揺らしている。
「トールは女のコに戻りたいの?」
「そうだなぁ」
 腕を組んで虚空を仰ぐ彼は、汗で額を僅かに湿らせたまま、目を伏せて考え込んでいた。

「運命の王子様のキスがあれば、きっと元の姿に戻れると思うワ」
 いつもの調子で言われたその言葉に、利は目を伏せたまま答えた。
「背格好が男のままでも?」
「エエ」
 愛メ璃は真剣だったし、彼もそれをよく解っていた。彼女は嘘はつかないし、本当に思ったことはしっかり口に出す。おそらくそうなることをしっかり願い、利が女に戻りたいと望んでいることも見越して、そう言ったのだ。
 誠意からくる言葉を不快に思うことは難しい。
「そうなるといいな」
「きっとそうなるワ」
 鐘が鳴り、昼休みの終わりを継げた。空は相変わらず青かったし、雲はゆっくりと流れている。飛行雲だけは跡形もなく消え、ほんの少しだけ空を白く染めているように思えた。



 午後の授業が始まり、校舎は静まり返った。校門に二人が辿り着いたのは、静寂がゆったりと寝そべるその時だ。愛メ璃がお辞儀をし、「楽しかったワ」と唇を動かした。頬が小さく震え、おそらく彼女なりの微笑をそこに浮かべたのだろうということが感じられた。
「今度はキョウシツを見て、オクジョウで手を繋ぎたいワ」
「考えておくよ」
 でもそれは男の子と一緒にね、と、青年が笑う。
「あとヒトツ、いいかしら」
「いいよ。ただし、簡単なことだよ」
「消しゴムが欲しいの」
 トールの名前が書いてあるやつよ。愛メ璃がその指を動かし、消しゴムの形をなぞった。利は少し困ったようだったが、思い出したようにポケットから小さくなった消しゴムを取り出した。カバーには黒いサインペンで『TORU IDE』と書かれている。
「俺の名前、忘れないようにするんだよ。次に学園に来たとき、この名前の生徒を呼ぶように頼むんだ」
「忘れないワ」
 もう半分しかない消しゴムをポケットに入れ、少女は再び「アリガトウ」とお辞儀した。


「文房具屋の場所、教えれば良かったかな」
 彼女の背を見送り、青年は小さく呟いた。
 放課後を知らせる鐘が鳴るまで、まだ大分時間がある。来た時と同じ様に、少女はとぽとぽ歩いていった。小さく膨れたポケットを、一度だけ大切そうに見つめて。