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<東京怪談ノベル(シングル)>


【魔性】





 キャンバスに描かれた少女。
 椅子に腰掛け、身体は斜め右を向き、顔はまっすぐ正面を向く。
 ノースリーブのワンピースの色は濃紺。
 大きく開いた胸元と、華奢な腕と、スリットから覗く左足の脚線が白く輝く。
 青い髪は長く、肩にこぼれている。
 穏やかな、柔和な笑みを浮かべている少女。
 画家の男は、少女の唇に筆を入れる。紅を差す。
 目の前のモデルにはない、口紅を描く。
 目の前のモデルにはない、いやらしい笑みを描く。描き直す。
 目の前のモデルにはない、妖艶な眼差しを描く。嬉しそうな、無垢な瞳を半眼に描き直し、視線を左に流していく。まつ毛はより長く、より多く、潤んだ流し目の瞳を縁取る。
 パレットナイフで絵の具を削り、描き直す。
 油彩を重ね、塗りたくり、少女の雰囲気をがらりと変える。
 心がざわめきだつのを、みなもは感じた。

 
 薄暗い、雑然としたアトリエ。
 教室の半分ほどの広さだが、三畳ほどある作業テーブルが二つもあるため、窮屈な印象を受ける。
 何脚ものイーゼルがキャンバスを乗せたまま放置してあり、また壁際の床に立て掛けられたキャンバスは数えきれないほど重ねてある。テーブルの上には、絵の具やパレット、ナイフ、筆、その他さまざまな道具が散らばっており、埃をかぶった卓上ライト、漆喰で作られた胸像や、静物画用の籠や瓶も無造作に置かれている。
 散らかったテーブルをぼんやりと照らすのは、くたびれた蛍光灯の明かりだけ。天井近くの採光窓は、灰色の曇り空を見せるばかり。
 数多くの絵の具があるにも関わらず、鈍色(にびいろ)に支配されたアトリエ。
 その中央で、みなもは椅子に座っている。

 油彩画のモデルを引き受けた。
 椅子に座っているだけの、簡単なアルバイト。
 学校帰りに立ち寄ること、今日で三日目。
 胸の大きく開いた濃紺のワンピースを着て、微笑んでいるだけの仕事。
 光沢のある薄い布地は、波打つ陰影をはっきりと見せ、身体の起伏を露にする。胴のところにブリーツが入っており、膨らんだ胸元から腰にかけてはタイトに絞られ、少女の薄い腹筋や肋骨さえも布の上から分かってしまう。
 左太ももの付け根まで深く入ったスリットが、椅子に座ると大きく開き、白い素足をさらけだす。
 裸婦画のモデルではないが、これもこれで恥ずかしい。
 だがそれも、もうすぐ終わる。
 そう思っていた。
 画家と正対するみなもからは、その手元は見えない。キャンバスの裏しか見えない。
 しかし画家の背後に置いてある、アンティークの姿見にキャンバスの絵が写る。みなもの肖像画が写っている。それが見える。
 自分でも気恥ずかしくなるほどの、穏やかな笑みを浮かべた肖像画。慈愛に満ちあふれ、後光さえ放っているかのような姿。
 「私は、描く対象の本性を切りだす」
 初日、画家にそういわれた。ドキリとした。
 「本性、ですか?」
 訊ねたが、画家は答えないまま、作業を始めた。
 黙々と筆を進め、二十二時を過ぎる頃まで描き続けた。
 会話はない。
 話しかけても応えてくれない。
 そして二日が過ぎて、三日目の今日、姿見に写る肖像画は完成したかのように見えた。
 それを今、描き直し始めたのだ。
 妖艶に。いやらしく。おぞましく。
 とってつけたような迫力ではない。生きている人間の、その躍動、その呼吸、その雰囲気を生々しく描いている。描き足している。


 「人は」
 と画家は口を開く。
 「人はみな、心のうちに聖魔を宿す」
 「聖魔?」
 画家の視線はキャンバスに向けられたまま、みなもをいっさい見ようとしない。
 「無辜なる慈愛と呪われた魔性とは、寄り添い合って離れられない。深い愛を持っていれば持っているほど、その魔性は鮮烈になる。キミは」
 赤の絵の具が、パレットナイフに盛られている。
 ざっ、と鳴った。
 キャンバスの地が鳴った。
 赤の絵の具は、濃紺のワンピースを深紅のそれに塗り替えた。
 魅入られた。
 吸い込まれそうな深みのある赤に、みなもの視線が捉えられた。
 姿見に写る、肖像画に魅入られた。
 「矮狭な愛しか持たぬ人間は、その魔性もまた下らない」
 貝殻のネックレスは、髑髏のそれに描き直された。
 「まばゆいばかりの愛ゆえに、狂おしいほどの魔性を抱く」
 姿見に写る肖像画。
 自分の姿。
 その唇は、滴るような紅をつけている。
 みなもは、唇を舐めてみた。舌先で上唇を、下唇を湿らせた。
 その動作をしたことに、みなもは気づいていなかった。
 絵に魅せられて、身体が勝手に動いていた。
 肖像画と同じように、目を細め、流し目を作っていた。
 潤んだ瞳。
 こく、と飲み込んだ息が、「んっ」という色っぽい声を鼻先から吐きだした。
 「キミの名は」
 「海原みなも」
 答えることが、契約だった。


 いつの間にか、みなもが着ていた濃紺のワンピースは、深紅のそれに変わっていた。
 血のような深い赤。
 画家が描くとおりに変わっていく。変身していく。
 画家が髪を黒く塗れば、みなもの髪も黒く変わった。
 胸を大きく描き直せば、みなもの胸も膨らんだ。
 柔和な眉を、力強いそれに描き直せば、そのように変わっていった。
 そして、変わっていくのは外見だけではなかった。
 心の表面がざわりと波立つ。
 胸の中で、それが心臓を愛撫する。
 新品の歯ブラシで、舌をしごくような痛さ。心地良いくすぐったさ。
 ぞっとするほど、怖くはない。
 ざらついた感触が、心臓を削っていく。その皮をめくっていく。血に濡れていく。
 身体の中にあった、心の中にあった、もうひとりの自分が生まれようとしている。
 それは世に現れようと欲している。
 欲している。
 画家のたくましい指を。
 その思いつめた眼差しを。
 キャンバスに絵の具をぶつける、そのひたむきさを。
 その欲望を。


 みなもは椅子から立ち上がり、ふわりとした足取りで画家へと近づく。
 椅子に座ったきりの画家は、みなもに一瞥もくれることなく手を動かす。
 肖像画の背景に闇を描き、その闇に潜む何かを描いている。
 みなもは右手で画家の頭を撫で、左手の指で顎を触る。
 画家の顔を自分へと向け、その瞳をじっと見下ろす。
 画家の手は止まったが、その瞳はみなもを見ている様子はない。みなもの背後に現れたがっている何かを見抜こうとしているのか、虚空をじっと睨みつけている。
 それが憎い。
 自分を見つめぬ画家が憎い。
 愛おしい。
 胸の内に潜んでいた悪魔が叫んだ。


   自分だけを見つめるように

     画家の心を奪ってしまえ。


 日々の生活に追われ、人間関係を円滑に回していくため無意識のうちに隠していた己の魔性。それが今、真の悪魔と契約した。
 渇望するは、生きる希望。
 それが悪魔の求めるもの。
 それはヒトの求めるもの。
 生きる希望を掴みたくて、そこに辿り着きたくて、画家は描く。
 魔性に満たされ、悪魔となったみなもは感じる。
 画家の希(ねが)いを。その生きる希望を。
 真実の聖を、いや本物の魔を描きたい。ただそれだけの生きる希望。
 みなもの薄く閉じた瞳は、豊かなまつ毛に視界が沈む。そこに見える。画家の身体から発せられる、蒸気のようにゆらめく心を。
 胸の中にとどめておくことができないほど、心が求めている証。対象に向けられては、身体から飛びだしてしまう魂の叫び。
 みなもにはそれが見えた。それを嗅げた。味わえた。
 口のなかに香りが広がる。はちみつよりも甘い香りが舌の奥にまとわりついた。かすかな甘みが味わえた。ああ、噛み砕きたい。
 画家の心を、その希いを、その魂を。
 もとよりヒトの生きる希望は、悪魔の至宝。
 ヒトの願いを叶えるとうそぶいて、その魂を喰らうのである。
 そして今、悪魔は思う。
 生きる希望がなくなれば、画家はあたしだけを見てくれる。
 この世から隠されてきた存在、魔性、悪魔。
 ようやっと表に出たのに、見てくれない。
 
 「やっと会えた」
 画家はいった。
 しかしその目は、みなもを見ているわけではない。
 ただその存在に、魔性の化身、降臨した悪魔だけを見つめている。
 画家が今まで描いてきた絵はすべて、聖魔をモチーフにしている。対象の中に宿る聖なる部分と魔の部分。それを混在させて描いている。そのため絵はおぞましく、いやらしく、嫌悪を感じさせてしまう。
 イーゼルに置いたままになっているキャンバスは、描きかけという未完成であるがゆえの怖さがある。聖にも昇華できるし、魔にも堕落できる。その危うさが恐ろしい。
 「あなたは」
 みなもの声は吐息にからまり、妙に色気を宿している。
 「ほんとうに、”あたし”に会いたかったの?」
 みなもの爪が伸びていく。
 毒々しい紫色になっていく。
 「もちろんだ」
 その爪で、画家の頬を傷つける。
 引っ掻いて血を滲ませる。
 錆びた鉄の匂いが鼻をくすぐる。
 「うそつき」
 半眼の視線で画家の視線をからめ捕る。
 薄暗いアトリエの、鈍色の空気を吸った。画家の心に齧り付いた。
 「誰でも良かったくせに」
 落ちくぼんだ眼窩、やせ細った頬、艶のない髪。色をなくした唇が言葉を発した。
 「違う!」
 「あなたは、存在としての ”あたし”を確かめたかっただけ。”あたし”の魔性がどんなものか、それを知りたかったわけじゃない。”あたし”がどんなモノなのか、知りたかったわけじゃない」
 みなもには分かる。
 今や画家の希いは、生きる希望は、みなもから逃れることだと。
 画家はいった。
 「私はキミにいったはずだ。深い愛を持っているからこそ、その魔性は鮮烈になる。キミは、深い愛を持っている。だからこそ、今ここにその魔性は実在できた!」
 「違うわ」
 みなもは答え、爪の先についた血を、画家の血を舐めた。
 反吐が出そうな心地になった。
 先ほどまでの甘美な気配はどこにもなく、ただの腐った汚物であった。
 「そんな聖人のような子じゃないわ。”みなも”は。普通の女学生なのよ」
 みなもの髪が、墨色から青に戻った。
 爪の色も健康的な桃色に戻っていった。
 乳房の膨らみも、紅を塗った唇も、厭世的なその瞳も、すべてが元のみなもに戻っていった。
 深紅のワンピースは紺色のそれに変わり、軽やかだった自身の身体も、急に重力に引かれたように重くなった。
 その変身の様子を見て、画家は呻いた。
 縋るように手を伸ばした画家の手を、みなもは一歩下がって、それをよけた。
 画家はその場に泣き崩れ、嗚咽を何度も繰り返した。
 みなもは元に戻るその瞬間、なくす悪魔の能力でひとつ分かった。
 画家の生きる希望が今、完全に潰えたことを。



 みなもが悪魔に変身したこと。
 それは、ずっと画家を見てきたアトリエの、姿見の力だったのかもしれない。
 画家の苦悩をずっと見つめ、見守り続け、その想いに、その希いに呪われた、鏡の力。
 キャンバスとみなもとを同時に写す鏡だから、いたいけな天使を悪戯好きの小悪魔に仕立て上げたに違いない。
 その鏡は今もなお、画家を写す。
 みなもを描いたキャンバスに額をつけて、さめざめとなく画家を写す。
 妖艶な小悪魔にすべてを捧げ、頭を下げる画家が、まるで一枚の絵のように写りこむ。
 
 
 
     (了)