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<東京怪談ノベル(シングル)>


ヒトである事


 自分が人間なのか、犬なのか、猫なのか、鼠なのか、それとも他の何かなのか――――
 いったい何時まで自分を保っていられたのか。それとも今認識している自分が自分なのか。過去に認識していた自分が自分なのか。今の自分は、元々生きていた自分なのか。いったい何時の自分を“本来の自分”だと、胸を張って主張すればいいのだろうか‥‥‥‥
 何も考えはしない。自分が何者であろうと、関係のない事なのだろう。人間のように陸を歩く事も、人魚のように泳ぐ事も、犬のように眠る事も、何もかもが同格。それぞれのあらゆる意識と行動を比べたとして、優劣など存在しない。何をしていようと同じ生物であり、姿形が変わっても互いに対立する生物でない以上は共存し、繁栄も出来る。
 自分が他の生物に変異したとしても、自分が自分であると認識している限りは、間違いなく自分はそこに居る。海原 みなもと言う少女がこの世界に存在し、生きている証である。たとえ姿形が変わっていたとしても、彼女は自分が自分であると認識している限り、自分はここにいるのだと、今の自分が自分なのだと主張する事も出来るだろう。
 だと言うならば‥‥‥‥
 自分で自分を認識出来なくなった彼女は、いったい誰なのだろうか――――


●●●●●


 何時まで時間を認識していたのだろうか。何時まで時間という存在を覚えていたのだろうか。
 みなもは、子猫の毛を舐めて整え、壁に掛けられた時計の針を見つめていた。

「どうしたの?」
「ううん‥‥何でもない」

 時計をジッと見つめていたみなもに、毛並みを整えられた子猫は怪訝な表情で訊いてくる。しかし時計を見ていた理由など、みなも自身にも分からない。ただ何となく、時々時計を見つめてしまう。体にその行動が染みついているかのように、理由もなく、見つめてしまうのだ。
 あの時計は、確か人間にとっての時間を知らせるための道具‥‥だったはずだ。犬である自分には何の関係もないものなのに、どうして気になってしまうんだろうか?

「まだ見てる。もう! ほら、こっちを向きなさい。毛繕いしてあげるから」
「あ、うん。ありがとう」

 子猫に言われ、みなもは子猫に体を預け、自分の毛皮を舐めて貰う。犬であるみなもの毛は子猫よりも固く、長い。子猫は少し毛繕いがし難そうだったが、「これがお手本よ!」と言わんばかりに、一生懸命にみなもの毛を舌で梳かし、僅かに乱れていた毛を整えていく。

「みなもちゃんは体が大きいから、大変でしょう? あたしも手伝うわ」
「あ! あたしもー!」
「ぼ、僕も舐めてあげげふっ!?」
「雄は向こうに行ってなさい!」

 口々に言いながら、離れて遊んでいた友人の子猫たちが駆け寄ってくる。あっという間に全身に子猫をまとわりつかせ、動けなくなるみなも。しかしみなもは嫌がる素振りも見せず、体を可愛らしい子猫たちに預けて気持ちよさそうに「くぅん」と鳴いている。
 ‥‥‥‥楽しそうに子猫たちとじゃれ合っているみなもを、子犬たちは不満そうに見つめていた。

「おーい! まだ終わらないのかよー!」
「こっちで早く遊ぼうぜー!」

 子猫たちにまみれて毛繕いをされているみなもに、子犬たちが口々に不平を言ってくる。
 元々、子犬たちと遊んでいたみなもの毛皮が乱れてしまったという口実で、子猫たちはみなもを強引に連れ出していたのだ。子犬たちにとっては遊びの途中で子猫たちにみなもを横取りされたようなもので、面白いわけがない。
 無理矢理力尽くで連れ戻そうと思っても、子猫たちを傷つけないようにとみなもから固く言われているために手が出せない。友人云々以前に、体格面で優れているみなもは、子犬たちから見ても明らかに上位の存在だ。遊び相手ではあるが、命令には従わなければならない。
 それをいい事に、子猫は子犬たちを嘲笑うかのように、平然とみなもの毛繕いを続けている。

「もう! 毛繕いの最中なんだから、あっちに行っててよ! ねぇみなも、この後、あたしたちと一緒にお昼寝しない? もうそろそろ眠くなってきたわ」
「あ、ずるいぞ! みなもを返せよ!」
「みなもちゃんの体って暖かいし、一緒に寝てると気持ちいいのよ。ね? あたしからもサービスしちゃうからさぁ」
「うーん、どうしようかなぁ?」
「みなも! こっちに来いって!」

 子犬と子猫が騒ぎ出す。その狭間に巻き込まれながら、みなもは平然と騒ぎを眺め、どうやって仲裁しようかと考えていた‥‥‥‥


●●●●●


 マジックミラー越しに見えるペット飼育室の光景に頷きながら、研究主任は傍らの助手に声を掛ける。

「良い成果が出ているようじゃないか。犬も猫も、種族に関係なく彼女の命令を聞いているようだ」
「はい。先日、子犬と子猫の喧嘩を仲裁していました。以降、牽制する事はあっても、本格的に争う事はありません。大人しいものです」
「ふむ。これは資質かもしれんな‥‥‥‥彼女の前に使っていた女は?」
「依然として意識は不明。体も人間には戻り切れていません」
「首輪を着けている期間が長いと、人間にも動物にも戻れんが‥‥‥‥彼女はどうなるかな?」

 研究主任は、ミラー越しに見えるみなもの耳と尻尾、そして体を包んでいる毛並みを睨め回しながら、楽しそうに頬を歪める。
 みなもに首輪を着けてから、既に一週間が経過していた。その間、みなもはこの研究所の飼育室に泊まり込み、日夜子猫と子犬たちの相手に明け暮れている。
 初日の間に言語機能に支障が生じ、二日目には全身に短い毛が生え始め、三日目で耳の形が変わり、四日目で飼育員が動物扱いしても全く抵抗しなくなり、五日目で尻尾が生え、六日目で耳と毛皮が完全に動物のそれとなり、そして今日には、短かった尻尾が伸びきった。
 みなもは惜しげもなく裸体を晒しながら、子猫と子犬の仲裁に当たっている。全身が毛皮に覆われているために色気も何もなかったが、研究者から見れば非常に興味を引く体となっていた。

「あそこまで人間離れして、人間に戻れなかったら‥‥‥‥親元には帰せんな。研究所で飼わなければなるまい」
「皆は、もうその気になってますよ。首輪を外して、元に戻れなかったらの話なのに‥‥‥‥」
「何しろ呪いの呪具だからな。元に戻れる保証など、最初から無い。いや、これまでの例から見て、無事に戻れる可能性は極めて低い。人間と動物の精神と肉体の境界はあまりに深い。首輪をしている間は、人間の理性も動物の野生も、両方を共存させる事が出来るだろう。が、外せばその齟齬に耐えきれずに、“人間”と“動物”が争うことになる。彼女の中でな。それに耐えきれるかどうか‥‥‥‥いや、そもそも人間は“動物”の範疇にある生物だ。理性の底にも野生はある。本能には逆らえず、彼女も例によって、動物の側に行ってしまうだろう」

 研究主任は楽しそうだが、話を聞いている研究員の顔は、深いに目を伏せている。
 首輪を外した時、首輪をしていた人間には二つの選択肢が与えられる。
 人間に戻る事と、動物で居続ける事。
 この二つのうち、人間に戻る事を選択出来れば、人間に戻る事も出来るだろう。しかし首輪を外した時、首輪をしていた人間は、呪いにより“本能”が解放された“動物”として生きている。
 “動物”が、意識ではなく本能で何かを選択するとなれば、どうだろうか? 人間に戻る事と、動物で居続ける事の、どちらを選択するか‥‥‥‥
 これまでの例では、人間に戻れた者はいない。それはそうだろう。動物は人間と違い、自分に満足出来ないという事はないだろう。自分に不満のない者が、あえて変わろうとするだろうか? まして本能によって、衝動的に選ぶとすれば‥‥‥‥それは今の自分だ。動物として充実し、幸福を感じている今の自分を選び、そのまま戻れなくなるだろう。
 彼女もその例には漏れないだろう。
 それが分かっているからこそ、他の研究員たちは、既にみなもの教育方針について論争を交わしている。

「さて、今日と明日で、結果を出そう。餌を与えてからは、首輪を外せ。明日の午後までに戻る兆候が見られなかった場合は、飼育の準備に移らねば」
「わかりました」

 研究員は立ち上がり、水面と子犬、子猫たちに与える餌を作りに、隣の配膳室へと歩いていった‥‥‥‥


●●●●●


 子犬と子猫の喧嘩を何度も仲裁してきたみなもは、犬猫の仲の悪さに溜息をつきながら、何とか喧嘩の収まった室内を見渡して溜息をつく。猫も犬も、互いに牽制し合うように離れながら、みなもの言葉に耳を貸していた。

「もう、分かりましたから‥‥ほら、ね? ここは‥‥お願い!」
「むぅ、分かったよ‥‥じゃあ、また後でね」

 そう言って説得されたのは、結局の所子犬たちだった。
 まだまだ幼さが残る子犬たちには、社会のルールだとか言うものは理解出来ない。生まれてすぐに親元から引き離された子供たちには、学ぶ機会がなかったためだ。
 しかしそれでも、意思の底に根付いた本能は変わらない。つまり、“自分よりも上位の者には逆らわない”、だ。みなもは体格面から見ても、子犬たちと比べると遙かに上位だ。いくら新人だからと言って、この点は無視出来ない。加えて、元人間(元々は人魚なのだが‥‥)であるみなもは頭が良い。何から何まで自分たちよりも優れている‥‥そんなみなもに、逆らうような犬は居ない。

「ホホホホホッ! ようやく身の程を知ったようですわね!」
「無様ですわ!」
「挑発するだけ挑発しておいて、この子たちは‥‥‥‥」

 対する子猫たちは、反省の色もなく、引き下がっていく子犬たちを嘲笑うようにニャーニャーと鳴いていた。
 犬たちが厳しい縦社会なら、猫はこれと言った決まり事のない奔放な社会である。食べたい物を食べるために日々争い、上の者にも平気で下克上に打って出る。飼い主を引っ掻く猫など珍しくもないだろう。そもそも猫は、野生では群れではなく一匹一匹が縄張りを持って行動するものだ。群れで行動する生き物ではないため、上下関係に厳しい犬たちと同じ常識は通用しない。
 故に、みなもが説得するのは子犬たちの方だ。
 猫たちは、言った所でなかなか言う事を聞かない。ならば従順な子犬たちを説得する方が、よっぽど労力が掛からず安全だ(正直、猫たちと喧嘩をして痛い目を見るのは犬の方だ。犬が噛み付きを得意としていれば猫は爪で引っ掻く事が得意分野だ。子供の間は猫の方が痛い攻撃だろう)。

(でも、そう言っていられるのも今の内なのよねぇ‥‥‥‥)

 猫が優位に立っていられるのも、今の内だけだろう。
 動物はすぐに成長する。犬種には詳しくはなかったが、猫よりも小さな犬というのも珍しいだろう。純粋に体格面で犬の方が優れているからこそ、犬と猫の勝負では犬が勝つと思われているのだ。成人犬なら、最悪猫を一噛みで殺してしまう。
 自分たちが挑発している相手が、そんな犬たちなのだと気付いているのだろうか‥‥‥‥?

(たぶん、気付いてないんだろうなぁ)

 本能で“敵”だと認識していても、知識として“宿敵”や“天敵”と知っていなければ挑発もしてしまう。これも、親元からすぐに引き離されてしまったがために、その手の知識を与えられなかったためだ。

(どうやって教えようかな‥‥‥‥言って聞くような子でもないし)

 まるで母親のように子猫たちの教育方針について考え込んでいたみなもは、カッカッ、と廊下を叩く靴の音を聞きつけ、耳をそばだてた。
 みなもと同じように、子猫も子犬も耳を立てて体を起こし、扉を見る。唯一の出入り口である扉のノブが回され、ガチャリと誰かが入ってくる。
 ‥‥‥‥瞬間、部屋中に広がる香ばしい香り‥‥‥‥
 食欲をそそる香りに舌なめずりをしようとした瞬間、みなもは子犬たちに突き飛ばされて転がった。続いて傍に寄り添っていた子猫たちも、我先にと扉にまで掛けていく。

「ひ、酷い‥‥‥‥」

 つい先ほどまで従順だった子犬たちに轢かれ、みなもは呆れながら涙を流す。
 ‥‥‥‥どんなに厳しい縦社会でも、食べ物の前では通用しない。
 子犬たちにもどんな教育を施してやろうかと思案しながら、みなもはヨロヨロと体を起こし、入ってきた研究員の元へと歩いていった。
 研究員の足下には、集まってきた子猫と子犬が群がっている。大きな器に山盛りにされている餌に、我先にと食らいついていて、すぐ隣に先程まで争っていた相手が居るというのに、見向きもせずに一心不乱に食べ続けている。
 切り替えの早さに溜息をつき、みなもも研究員の足下にお座りをする。

「あなたは大人しくて良いね‥‥はい、どうぞ」

 研究員はそう言うと、みなも専用の器を差し出してくる。みなもは純粋な動物ではないため、それに合わせた餌を調理されている。例えば普通の動物ならばタマネギのような刺激物は毒物でしかないが、みなもはそうではない、等といった違いがあるのだ。

「いただきます!」

 本能に身を任せ、床に置かれた器に直接口を付けて餌を食べていく。
 最初の一日二日は抵抗があったが、それも研究員に躾られる事によって克服した。今では犬たちと一緒に、違和感なく食事を行う事が出来る。
 ‥‥元は人間だった少女が、今は自分の足下に跪いて器に首を突っ込み、野性味たっぷりに食事を取っている‥‥‥‥
 そんな光景に食事を運んできた研究員は恍惚の表情を浮かべていたが、すぐに我に返り、そっとみなもの首に手を回した。

「さて‥‥‥‥食べてるところ悪いんですけど、ちょっと顔を上げてください」

 言われ、みなもは大人しく顔を上げ、研究員に首を差し出した。
 研究主任に言われたとおりに首輪を外し、研究員が言う。

「これで、あなたは元の人間に戻れるわけですが‥‥‥‥まぁ無理だとは思いますけど‥‥‥‥幸運を祈ります。出来れば、元に戻って下さいね」

 研究員はそう言い、立ち上がる。
 その時には、既にみなもは食事に戻っていた。そんなみなもを見て、研究員は苦笑する。

「言った所で、分かるわけがありませんか‥‥‥‥」

 どれほど厳しく躾られても、犬猫と人間の間に会話は成立しない。ここまで“動物”よりに変化してしまったみなもでは、もはや人間の言葉など理解出来ないだろう。理解が出来なければ、人間の言葉など意味不明の鳴き声でしかない。
 一心不乱に食事を取るみなもを見守りながら、研究員は、静かにペットたちの食事が終わるのを待ち続けた‥‥‥‥


●●●●●


 食事が終わってから、一時間ほどが経過した。
 遊び、争い、子犬も子猫も疲労を感じて欠伸をし始める頃、ようやく飼育室は落ち着いた。
 動物とは、己の欲望には忠実に従う生き物だ。もちろん躾れば躾るほどに、その欲望に耐えるだけの力が身に付けられる。餌を目の前にしての「待て」などは良い例だろうが、この飼育室で飼われている犬猫たちには、そんな能力は求められていない。遊びたければ遊び、食べたい時は食べ、眠たくなれば眠りに就く。
 飼育室の動物達は、つい十数秒前まで喧嘩の真っ最中だったというのに、ひとたび欠伸が出たかと思うと、思い思いにお気に入りの毛布やタオルにくるまり、眠り始めた。

「ふぁ‥‥あたしも寝ようかな」

 そんな犬猫たちの睡魔が伝染したのか、みなもも大きな欠伸をすると、ゴロンと床に寝転んでクルリと丸くなる。飼育室の温度は常に暖かく設定してあるため、毛布などに潜らなくても、風邪を引くような心配はなかった。
 そうしながら‥‥‥‥
 考える。静かになった飼育室で、みなもは一人、考える。

(人間、って何だっけ?)

 誤算。研究員にとっての、最大の誤算。
 みなもは、人間の言葉を理解していた。人間の知識を保有していた。ただ何も考えずに行動していたからこそ返事もろくにしなかったが、人間の言葉をしっかりと聞き取り、理解している。ただ、そう‥‥ただ、人間がみなもの言葉を理解出来なくなり、みなもが返事をしようとしなくなっただけなのだ。
 そもそも、首輪の能力は“動物”と意思の疎通が出来ると言うものだ。
人間も、突き詰めていけば動物の一種に過ぎない。ならば、人間の意思も読み取れる。しかし難しい事を考えると頭痛がしてくるため、みなもは努めて何も考えず、思うがままの行動を取るようにしていた。それが研究員たちの目を欺く結果となったのだ。

(人間、人間かぁ‥‥‥‥)

 ウトウトと微睡みながら、みなもは部屋から出て行った研究員の事を思い出していた。
 言葉についてはどうでも言い。戻るとか戻らないとか、そもそも人間の姿で居た事が、既に周りを欺いている事になるのだ。
 人を欺き、人魚の姿を隠してきた。人間であるかのように振る舞い、これまでにも様々な‥‥‥‥奇妙な姿をしてきた。そして、今は動物。犬なのか猫なのか狐なのか、自分では分からない。いや、そもそも人の姿から変身を遂げるような生物は、本来なら存在しないだろう。よって、犬とか猫とか、そんな定義では、今のみなもは計れない。
‥‥‥‥それを言うなら、人魚の姿から人間の姿に変身していたみなもは、常識の中には存在しない生物なのか。この姿になる以前から、みなもは常識外の生物だったのか‥‥‥‥誰に量れない生物。ここにいる研究員たちの前で人魚に変身したら、さぞや驚き、喜んで研究対象として拘束するだろう。
 久しく思考を回転させ、自嘲する。頭を殴りつけてくる頭痛は睡魔に溶けて気にもならない。微睡みの中でだけは、みなもは獣の姿でありながらも理性という機能を取り戻せる。
 しかしそれだけ‥‥‥‥理性を取り戻したからと言って、逃走しようなどと思っていない。
 逃げる必要など無い。逃げる方法など無い。
 こうなってしまったからには、行き着く所まで行くしかないだろう。それに‥‥何だろう。この睡魔に抗うだけの力が、みなもには残されてはいなかった。
 動物として、眠りたい時に眠るのは正しい行動だろう。睡魔を押し殺して働き続けているのは、せいぜい人間ぐらいのもので、睡魔に抗う意志を持っているのも人間だけだ。
 精神も肉体も“動物”としての本能が染みついてしまったみなもには、抗えるわけがない。

(人間になって‥‥‥‥また、泳いでみたいな‥‥‥‥‥‥‥‥)

 微睡みは深く、薄暗い世界へとみなもの意識を連れ去っていく。
 夢の中――――みなもは、懐かしい水の感触を感じていた‥‥‥‥‥‥


●●●●●


「いや、もう準備してるんですか? いくら何でも早すぎでしょう?」
「そうは言ってもなぁ、どうせ失敗だろ? まだ人間に戻るためのメカニズムすら解明出来ていないのに、戻れるものかよ」
「そもそも、私達は補助すらしていませんからね‥‥‥‥まだデータ収集の状態ですから、彼女には良いサンプルになって貰いましょうよ」

 研究員は、軽薄に笑いながら、廊下を歩き、研究室へと入っていく。研究室の雑多な研究資料を整理していた研究室長は、戻ってきた部下を上機嫌な笑顔で迎え入れた。

「ああ、昼食から戻ったのか」
「ええ。彼女は?」
「昼食を食べたら眠ってしまったよ。首輪は予定通りに外した。明日の昼頃までに元に戻る予兆が見られなかった場合、彼女はサンプルとして保管する事とする。異議は?」
「ありません。ありませんけど、素直に“サンプルとして保管”じゃなくて“ペットとして飼育”って言ったらどうですか?」
「何を言う。これは警察や介護、盲動、軍事目的に使われる犬たちをより完璧に仕上げるための実験なのだよ。その為には、あの首輪の解明が必要だ。その為のサンプルなのだから、丁重にだね‥‥‥‥」
「‥‥‥‥ペット用品のカタログを見ながら言われても、説得力がありませんよ」

 笑い合う非情な研究員たち。
 まずは自分の実験と好奇心を満たす事が出来ればそれで良し。結果としてみなもが戻ろうと戻るまいと、どっちに転んだ所で研究員たちにとっては美味しい結果なのだ。
 みなもたちは何も知らずに眠っている。
 研究員たちは、何も知らずに笑っている。
 眠っているみなもの変化に、静かに起こっている変化に‥‥‥‥
 誰も気付かず、誰も気づけない。
 ただ‥‥‥‥理性も知識もない獣たちは、友の体に起こっている変化に耳を揺らし、黙って体を縮めていた‥‥‥‥‥‥‥‥


●●●●●


 ‥‥‥‥時々、水に揺られる夢を見る。
 睡眠とは、その日にあった記憶の整理に使われる大切な時間だ。肉体の疲労云々以前に、まずは脳を休ませる。長い時間を掛けて学んだ事柄を整理し、銘記し、保存する。それが正確に出来れば出来るほど、物事をより確実に覚えていくことができる。
 そんな狭間の中で、夢を見る。
 眠っている当人の願望だったり、過去だったり、妄想だったり‥‥‥‥千差万別の姿に変わっていく。
そんな中で、みなもは水の中の夢を見る。そこは海なのか、川なのか、池なのか、それとも学校のプールなのか‥‥‥‥
思い入れのある場所など無い。泳げる場所は、それだけで居心地が良かった。だからなのか、四方八方、全てが水に囲まれていて、何もない。青い、青い水。不思議と透き通っていて、陽差しに照らされて輝いている。

(夢か‥‥‥‥)

 夢の中にいて、それが夢だと確信する。
 こんなに綺麗な水の中に、入っていた事はない。
 プールのように薬臭くなく、海のように汚れてなく、川のように浅くない。
 ただ、水の中に沈んでいく。泳ぐ事もない。艶やかな裸体を晒し、四肢を力無く放り出し、抵抗もせずに沈んでいく。
 綺麗な水の中に、居心地の良い、水の中に沈んでいく‥‥‥‥‥‥
 本来、人間ならば如何に綺麗な光景だとしても、それは死に繋がる絶望の夢。しかしみなもにとっては、息苦しさすら感じない理想の夢‥‥‥‥

(気持ちいいなぁ‥‥‥‥)

 水の中‥‥‥‥その場所は、人間として地を歩いている時よりも、遙かに心地の良い空間だった。
 その場所に、自分は居る。たとえ夢幻だったとしても、水の中に、確かにいる‥‥‥‥
 チャポンッ‥‥
 音がした。顔を僅かに俯かせ、足元を見る。
 懐かしい尾ビレ。人にも獣にもない、人魚のそれが、みなもの意識を揺さぶった‥‥‥‥


●●●●●


「くぅん。くんくん」

 目覚めは、正直スッキリとしたものではなかった。
 目を薄く開けると、眼前には黒い鼻が広がっていた。

「きゃん!」
「きゃうん!」

 みなもが悲鳴を上げると、鼻をみなもに突きつけていた張本人は、驚いて駆け去っていく。

「ん‥‥あれ?」

 悲鳴を上げて、反射的に起こした体が揺れている。
 重い。あまりに、重い。体を起こすだけでも、あまりにも重労働。
 耐えきれずに、倒れ込む。目を開いている事すらも難しい。もう一度眠ってしまおうか。そう思った時に、再び体に近付いてくる、無数の影‥‥‥‥
 それが、自分を心配して泣きそうになっている子犬と子猫たちなのだと漠然と理解し、みなもは力無く目を開いていた。

「みんな‥‥‥‥」
「くぅん‥‥」
「にゃ‥‥」

 みなもを気遣うように、子猫も子犬も、争うことなく寄り添っている。まるでみなもの事を守るように、みなもと会話をしているように‥‥‥‥
 ガチャリ。
 扉が開く。子犬と子猫は、逃げる事も駆け寄る事もせず、一体となって入ってきた研究者を睨み付けた。

「まさかな‥‥‥‥元に、戻っているの‥‥か?」

 信じられないと言わんばかりに、研究員はみなもに歩み寄り、体を起こそうとする。しかしそれを、何匹もの子犬たちが噛み付き、阻みに掛かった。

「痛っ! なんだ、この!」

 これまで噛み付かれるような経験の無かった研究員は、突然の事態に驚愕し、腕を振り回す。噛み付いていた子犬たちはすぐに振り解かれ、「ウー!」と怒りを込めて唸り始めた。

「くそっ、何なんだ‥‥‥‥」

 研究員は、威嚇し続ける動物達に対処しようと、装備を調えるために飼育室から出て行った。

「みん、な‥‥‥‥」

 みなもは、力無く呟いている。
 体には、もはや長い毛は生えてない。
 耳も、人間のそれに戻っている。
 尻尾も尾ビレもなく、両の足がついている。
 だと言うのに‥‥‥‥
 この子たちは、何故、みなもを守ろうとしてるのか‥‥‥‥

「まぁ、とりあえずは‥‥」

 ゆっくりと身を起こし、自分の体を確認する。
 身体に異常はない。痩せてもいないし太ってもいない。何もかもが、自分の人間の時の状態のままだった。
 夢の内容が内容だっただけに、人魚に戻ってしまっているのではないかと危惧してしまったが、そうでもないらしい。やはり人魚は水辺に、人や動物は陸にいるのが自然なのだ。この地に足をつけている感覚が、人魚ではなく、人である事を選ばせた。
 ガチャリ!
 飼育室の扉が、再び開く。

「この畜生どもめ! 退かないんなら‥‥!」
「キャーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」
「わーーーーーーーー!!」

 みなもの悲鳴に、麻酔銃を手に戻ってきた研究員はもんどり打って倒れ、そこに子猫たちが殺到する。容赦なく引っ掻かれてさらなる悲鳴を上げる研究員。二人の声を聞きつけ、他の研究室から、無関係の研究員たちが集まってきた。

「なんだなんだ、どうしたってんだ?」

 子猫に押し倒された研究員を助けながら、駆けつけた研究員たちは部屋を覗き込む。
 そこに居たのは――――――――

「あの‥‥すいません。服をくれませんか?」

 裸体を必死に毛布でガードしているみなもと、「おまえも見たな? 噛み砕いてやろうか?」とばかりに殺気を漲らせる子犬の集団だった‥‥‥‥




Fin




●●●参加PC●●●

1252 海原・みなも (うなばら・みなも)

●メビオス零の後書きコーナーと思いきや子犬の集団が襲ってきた!●

「わんわんわん!」
「ぎゃー! なにをするげふぐはあべしっ!!」

 倒れ込むライター、メビオス零。子犬たちは勝ち誇ったように吼え立てると、堂々と後書きコーナーを開始するのだった‥‥‥‥

子犬「わんわんわん、わわんわんわんわん? くぅん? わんわん? わんわわんわん!」
訳:今回のご発注、誠にありがとう御座いました。今回の作品は、いかがでしたでしょうか? 僕たち活躍してましたか? 僕たちが主役じゃない? そんなこと気にしたらダメだよ!

子犬「わんわんわんわわんわんわんわわわん! わわわんわんわわんわん!」
訳:作品のご感想、ご指摘などがありましたら、いくらでも送って下さい。では、またの御機会がありましたら、よろしく御願いいたします!!