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フェードアウトライト
「おはようございませんか?」
瞼の向こうで、たくさんの光が通り過ぎていくのを感じた。たとえば、電車が通り過ぎたとか。たとえば、高速道路の車のヘッドライトとか。懐中電灯を持った人々の行列。街を駆けるように走るネオン。ごてごてした装飾の看板。細く伸びるスポットライト。
走る光に、純粋なものはほとんどない。かつて流れ星の存在を皆が信じていた時、純な闇の中にはおなじく純な光があった。深沢・美香(ふかざわ・みか)の場合は、それは幼さであり、家族の絆であり、友との団欒であった。かすかな明かりのほうがむしろ暖かさを見出せるものである。成金の指に輝く宝石からある終焉を連想できるように、無骨な明かりはいつだって“はやとちり”をするのだ。
だが、まばたきを忘れられるくらい美しく、かつほのかな明かりはどうか? それが終焉を願っていないかというと、話は別になる。一面の銀世界を思い浮かべて欲しい。磨き上げられたばかりの鏡よりもやわらかく、ろうそくの炎よりやさしく、しかし星明りより目を刺すあの光を。じっとそれを見つめた時、目からあふれる涙は、はたして感嘆のそれであろうか? あの雪たちは、あらゆる瞳を焼くために生まれてきたのではないか?
「おはようございましょう。おはよう、おはよう」
美香の耳元で繰り返し囁かれる挨拶。彼女はその声を聞いたことがなかった。自分の足が地面を踏みしめているのを確認し、それが小さく震えている事も感じ取る。あたりを見回しても、何もない。なんのことはない、美香はその両目を閉じたままであったのだ――
「おめざめください、お嬢さん!」
声がはっきりと響き、彼女は驚いたように目を開いた。自分が瞼を閉じていた事にすら気付かなかったのだ。先ほど逃げるように飛び出した扉の先、いまおそらく目の前にある“なんともいえないもの”を目にしてから、瞳は何もとらえることはなかった。かすめるように飛んでいったいくつもの光以外は。
「おめざめください、お嬢さん!」
今までになく調子を増した声は絶え間なく頭に飛び込んでくる。それはまるで両開きの扉をぶち破ってくる稲妻や洪水の轟音だ。
頭の中をがつがつノックされたような痛み。鉛のドアノブ。錆びついたそれが開く時、赤い鉄くずが床に印をつけた。耳を破るために生まれてきたような音。意識を目覚めさせるには、この音が必要だった。
開けた視界には想像より遥かに薄く広い光たちが浮かんでいた。足元から伸びる影が水平線まで大地をふたつに割っている。
どうやらここには遠近というものがないらしい。ずっと向こうにあると思われた高速道路は目と鼻の先に横たわっていたし、覗き込めば往来の車が行き来するのがよく見えた。運転手は見えないし、顔が見えたとしても美香の知らない人物ばかりであった。
「おはようございますね」
顔を上げれば、白のワンピースが翻る。男性とも女性ともつかないその人影は、美香を見ると嬉しそうに笑った。
「おめざめは夜でございました。泣く必要はございません。さあ」
彼は先ほどまで美香がいた喫茶店の店員であったから、知らない顔はしていない。ぼさぼさの頭髪を撫でて、そういう言葉を並べる。一体どういう意味をもたせていたんだろう。一度バラバラにして再び寄せ集めただけの言葉にまだ意味はない。子は生まれてはじめて形ある意味を持つ。
「どこなんですか、ここは」
ずっと頭を渦巻いていた疑問をようやく口にする。薄い美香の唇はやはり薄い声を漏らした。
「私、喫茶店にお邪魔していたんですよね」
目の前の人物がそれに答える様子はなかった。ただかすかにかぶりを振った程度だ。その口や瞳が美香の望むように動く事はなかった。
「あなたは眠ったということです」
ようやく意味が通じる言葉が発せられる。彼が片手を持ち上げ、彼の目の前でひらひらと振った。
「その眠りがやや特殊であるのです。だから目覚めよということです」
美香が目を見開いたのは、彼の手に鈍く光る包丁が握られていたからではない。目の前に広がっていた淡い光が、時間が経つにつれその形をはっきりしたものに変えていったからだ。それは明らかな星明りであった。星雲とか呼ばれているものや、天の川のような星の群れではなく、一個の小さな――まさしく、夜空にひとつだけまたたく一番星のごとき――ただの星。砂粒ひとつより一回り小さなそれが、この世界を照らしている。すべてを白く染めている。大地を切り裂く美香の影を除いて。
「さあ、目覚めなさい。あなたの帰るべき場所を思い出すんです」
美香が歩き出したのはそのすぐ後だ。はたはたと立体感のない足音を立て、彼女は歩きつづけた。いくら走っても星の光は大地を同じ角度で照らしていたし、先ほどの店員もちっとも動かなかった。
だからその歩くという行為は美香の目覚めに全く関連性がない行動であったのだろう。どれだけ歩いたところで夢は覚めないのだろうし、この星や店員から離れる事は出来ない。何故歩き出したのかということさえ、彼女にはわからなかった。ただ弾けるように歩き出したという事実だけはあった。
店員がそろそろと歩き出し、彼女の目の前に歩み寄ってきたのが、それから数十秒ほどあとのことだ。美香がようやく彼の手に握られている刃物に気付き、はっと息を呑んだ。
「あなたは? あなたは何をしようとしているんですか」
「おそらくあなたが想像しているとおりのことでしょう」
光に照らされてもきらりともしない刃は、美香の表情をよく映した。
「あなたはこんなにぼんやりした顔ができるのですね」
店員が肩を小さく上下させた。それは笑いの形を取っていたが、どう見てもどう聞いても彼の笑顔には思えない。感情表現が似合わない人物であった。いや、感情表現が似合わないのは彼だけではない。この空間の何もかもは、温度や表情というものと無縁であった。店員と、彼の笑顔や楽しさは結ばれないし、美香と彼女の虚ろな表情はなんの関連性もない。そこに恐怖があるはずもない。
ただ、きわめて端的な光のようなものはあった。それの震えから、かすかに彼らのこころの動きが伝わってくることはありそうだ。
包丁が鈍く輝いたが、美香はそこから逃げることはしなかった。先ほどの歩みだって、ここから離れるための移動ではなかった。この瞬間からの美香の歩みは、あきらかに目の前の人物に近づくためのそれであった。足音は重く、地面は柔らかい。はたはたと言う音は地面から鳴っているらしい。その弾力は下手をすれば足を取られてしまうほどぐにゃぐにゃしていて、美香は細く小さな足を地面に沈まぬよう大またに動かした。
「私を元の場所に帰してください」
歩みながら声を上げる。
「あなたがここに連れてきたんですよね?」
目の前の人物も声を張り上げた。
「半分はそうです。しかし、ここはあなたが眠ってからできたものです。私にできるのはあなたを目覚めさせることだけです。あなたが帰らないと意味はありません」
身に覚えがない以上、美香は首を横に振ることしか出来なかった。ここには何の思い入れもないし、ここに来ようと願った事もなかった。足元で地面がふにゃりと沈む。
「言われなくても、私は元の場所に帰りたいとばかり思っています。……どうやったら帰れるんですか!」
次の瞬間だ。
がくん、と音がした。いや、音はしなかった。大きな振動には轟音が付きものだから、音もしたように感じただけだ。重力がぐんと美香を潰しにやってきた。肩と膝とが信じられないほど重くなり、すぐに軽くなる。エレベーターが急停止するよりはひどくないが、電車の揺れとは比べ物にならない。
一体何が起きたのか? 世界が一回上下に振られただけ、かもしれない。
突然の振動に目を瞑りかけた美香は、暗闇にまどろむ暇もなく目を開いた。
風を切る音。素早く捻った上体の、耳元を掠めたのはあの包丁だ。白いワンピースをカーテンよりもひらひらさせながら、店員は美香のすぐ隣に立った。
夢という場所に慣れないうちは、全てに順応する能力を誰でも持っている。美香は飛ぶように顔を上げ、そこから距離をとった。地面はコンクリートより固く、先ほどの弾力を失っていた。足音は少しも鳴らない。裸足で廊下をかけても、かすかな音が出ないのと同じだ。
目の前の人物は先ほどまでと同じ顔つきをして美香を見ていた。異様なところはひとつもない。心が別のものにそっくり移り変わったと思えば理解しがたいこともない。足を肩幅より開き、両腕をだらしなく下げて、こちらをじっと見つめていた。
肩の力を抜き両手を胸の前に翳し、戦闘態勢を取る。美香には力があった。同じ世界に住む同じような生き物を下せるほどの力。それを自分でもよく知っていたし、目の前の彼を倒すのは難しいことではないことも知っていた。例えただの人間が武器をいくつか持っていたところで、武術を得た美香を殺すのはたやすいことではない。それが包丁一本であるならむしろ、返り討ちに合うのが目に見えていた。いままでそういうことは数えるほどあったし、そのたび美香は勝っていた。
護身というのは生きて逃げ延びれば勝ちだ。彼から逃げていけば、帰る道は見つかるに違いない。ここには彼しかいないのだから。
地面を蹴り飛び掛ってきた彼をかわし、その腕を掴む。ある点を狙い片手を叩きつければ、手から零れ落ちた包丁はふたりの間の地面へ落ちた。無音の落下は無機質で不気味であった。色もなく光る刃は無表情で、掴んでいる腕から伝わる温度はない。
下級の妖怪退治やならずものとの喧嘩であれば、ここで相手が音を上げて終わりである。
つまりは、店員は人間でもなかったし、そこらにごろごろいる妖怪とは違うものだった、ということだ。
左手で掴んでいた彼の腕はおそろしく細かった。その違和感に顔を上げた時には、彼は腕だけを彼女の手の中に残し、包丁をゆっくりと拾い上げていた。その静かさと遅さは消音のスローモーション映像よりおかしく、地味であった。
ふたたび振り下ろされた包丁を避け、掴んでいた棒切れのごとき腕を放す。彼の右足――それは鶏の脚によく似た義足であった――が金属特有の反射光を放ち、ぎちりと音を立てた。
刃をかわし、突き出された腕を掴む。しかしやはり温度も抵抗もない。包丁が地面に落ちたころには、それはまた彼の肩からしっかり外れ、そこから新しい腕が生えていた。柄に伸ばされた手は白く滑らかな肌に覆われていて、生え変わるたびに戦いを忘れていくらしかった。
「いや、あれは私の手」
美香が心の中で呟いた。自分の右腕とすっかり同じものが、目の前の人物に添えつけられていた。彼はその声に答えるように頷いた。声は少しも聞こえなかったが。
彼が人間であるということを忘れなかったのは何故か?
おそらくその腕のせいである。人間たる自分の腕が他人の方についていること、それ自体に対する疑問がすっかり抜け落ち、自分の腕は人間のものであるという事実だけが残っている。
自意識と自己分析の結果に対する疑問の余地はない。
美香が自分を人間であると信じる事に根拠はない。たとえ他人についた自分の一部であったとしても、それを人間でないと認めることはない。そういう世界だった。
しかし、逃げない理由にはならない。生き延びる為には彼と戦わずして逃げるしかない。
大振りな一撃を避けた後、彼女は弾かれるように逃げ出した。
無論ここに感情はなく、一歩踏み出した先に壁がなかった故とった行動と考える方が、彼女らにとって納得がいくだろう。恐怖や畏怖などを今彼女らに説くことはできない。彼女らに付されているのはもっと別の常識だった。
星が輝いている。光が地平線を作り出している。美香の影はその真ん中に伸び、大地を右と左に分けている。美香自身はどちらにも属していない。それが境界の役目。彼女はすべての力を持ってして走りつづけていた。足は軽く、それが踏み出す一歩はおそろしく大きい。
粉雪のようなものがぱらぱらと降った。
「おめざめください!」
声に振り返ることはなかったが、目を伏せる余裕はあった。
「おめざめください、お嬢さん!」
目を伏せた先に彼はいた。真っ直ぐに右手をこちらへ突き出して。
全速力で走っていた美香は、突き出された彼の――否、美香の――右手に携えられていた包丁へ、自ら突き刺さった。足を止める事は不可能であったから、目を伏せてからここまでの時間は数えるよりも短いものだ。胸を突き抜ける刃はなんの迷いもなく背を通り抜け、星へと伸びていた。
包丁と店員と星と美香だけでできた世界は消滅した。なんの前触れも音もなく。
とんとんと肩を叩く優しい感触。美香がまつげを揺らし目を覚ましたのは、小さな喫茶店の小さなテーブルの上。どうやら、机の上に突っ伏してそのまま眠ってしまったらしかった。
「おはようございます、お嬢さん」
顔を上げると、そこにはその喫茶店の店員が微笑んでいた。黒い瞳はかすかに潤んでおり、美香を見つめる視線はどことなく揺れていた。
「このままだと寒いですよ。早く帰らないと」
ぼんやりした意識を覚まそうと被りを振った彼女に、彼はそう言った。
「私、眠っていたんですか」
「ええ、昏々と」
「……今、何時ですか?」
店員が時刻を告げ、美香は身を起こす。テーブルに乗ったコーヒーカップが小さく音を立て、ほんの少しだけ残っていたコーヒーが揺れる。
「終電、間に合うかな」
窓の外に光る踏切を見つめ、肩を落とした。駅は近いですから、と小さく言う店員に頷き、時計を確認する。文字盤が表す時刻に溜息を付き、新しい夜と次に昇る朝日のことを考えた。
瞳を焼くのは光である。通り過ぎた電車のライトの瞬きに、美香は目を瞑った。
夢と言うのは忘れるべきものである。それが現実より滑稽であってはならない。現実より重いものであってはならない。目を覚ました後のまどろみはいわく言いがたい甘美な香りがするものであるが、それは振り払うべきものだ。うつつの幻想よりも痕にならないそういった夢想は、つなぎ止めておくためのものではない。
あの世界に名前を付けてはならない。幻は幻であるから存在しているのだ。帰るべき場所は変わらない。おめざめなさい、と、声がしなくてもだ。
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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PC/深沢・美香/女性/20歳/ソープ嬢
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ライター通信
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こんにちは、はじめまして! 北嶋と申します。この度は発注ありがとうございました。
ソープ嬢……全く知識がなく、馴染みがない職業でした(ごめんなさい!)。
いったいどんな世界なのか、という興味を覚えながら
きっとこんなふうな夢を見たとしても、その「仕事」より辛いことはないのかもしれないと
想像100%で執筆させて頂きました。夢も、案外、生々しさを含んでいるものですし。
もし少しでも印象に残るものになっていれば幸いです。
またお会いできる日を楽しみにしております。
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