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天の花、香る園に
──── 少し、昔の話を。
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はあぁ、と漏れた息はどこか間延びしていて、それが感嘆のため息だとは判りにくい。しかし桂翡色の瞳は法悦に見開かれ、眼前の光景に釘付けられている。
無数に咲き乱れる白い花の名を翡色は知らなかった。植物に博識な翡色が思い当たらないのだから、きっと希少な花なのだろう。──いやそれか、そもそもこの光景自体が幻なのか。
「なんやぁ……天の国に、おるみたいやんねぇ」
呼吸すらおざなりにして見惚れていた翡色は、細筆で描いた様な眦をとろりと下げ、陶然と呟く。
腰を屈め、膝ほどの丈の花に鼻先を近づけた。花の形には見覚えがあり、彼岸に咲く花──曼珠沙華を想起させる。
しかし、この花の白はそれとは随分違う。濡れたように潤い、どこか光沢があり、光に透かすとまるで七色。雨上がりの虹をほのかに白に滲ませたような美妙さは、初めて目にするものだ。
名も知れぬ花。この世のものとは思われず。……なんて。
「うちの近くに、こないな所があったやなんて。ケガの功名言うんかなぁ」
苦笑したのは道理で。翡色はつい先ほどまで、家の近所だというのに道に迷っていたのだ。
いつも歩き慣れた道が何故だか今日は異郷に思えて、どうしても帰路を辿れなかった。困り果て、歩き疲れた頃に突然目の前が開けて、そしてここに出会った。
「不思議やねぇ」
柔らかな花弁を指先でつついて、翡色はのんびりと小首を傾ぐ。
生まれ育った邦のせいか、翡色生来の性格か。おっとりとしたペースで日々を歩む翡色は、妙に肝の据わったところがある。多少の奇異など陰か日向の差、それよりも、目の前にある美しい命を愛でるほうが余程重要なことだと思う。
瞳を閉じ、すうと鼻から息を吸い込んだ。芳香はあくまで控えめ、しかし確かな甘さが鼻腔をくすぐる。
“アレ”を思い出したのはその時で、ぱちり、開いた双眸を翡色は瞬いた。もしかしてこの花ならば、あの氷の香炉を溶かしてくれるんじゃないだろうか。
「……ひとつ、お願いしてもええやろか?」
親しげに話しかけても花は答えてくれないが、否、とそっぽを向かれもしない。
翡色は、淡く笑んでこう言った。
「ウチに、手折られてくれはる?」
大陸からこの島国に嫁いで来た翡色の母が、姉達ではなく息子に贈った香炉があった。
母の家に代々伝わるというそれは、恐らく千年近い時を経てきたのだろう、淡い青緑色に化粧された艶やかな陶器。ふくよかな胴を三足の畳付きの上に載せ、開いた口には花弁の形に稜が施されている。
その姿、まるで翡翠から掘り出した花。
余分な装飾を必要としないすらりとした気品に、受け取った翡色は圧倒された。これを自分に、確認したのは一目で心が吸い寄せられたからに他ならない。
そんな彼に、母は頷きながら言い添えたのだ。──この香炉には不思議な謂れがある、と。
『 この香炉を使い、天上に咲く花で作られた香を焚けば、焚いた者の前に天女が舞い降りる 』
御伽噺のような言い伝え。翡色は一瞬きょとんとして、それからはんなりと笑んでこう思った。
ならば、天女を呼び出すという香は、さぞ芳しいのだろう。
それこそ、花のように。
名も知らぬ白き花を幾本か、大事に大事に腕に抱えて、翡色は我が家に到着した。
花を摘んだあと道に出てみれば、先ほど迷っていたのが嘘のようにすんなり帰れた。不可思議、というか、むしろ作為すら感じる。もちろん、悪意ではなく善意の。
ならば香炉を想起したのも必然なのだろうと、荷物を置くのもそこそこに、翡色は床の間へと直行した。母に譲られて以来、すっかり調度として景色に溶け込んでいた翡翠色の花。手に取るのは久しぶりだったが、滑らかな肌は幾許も衰えていない。
「……ああ、せやね。千年を越えてきた物にとって、数年なんて瞬くほどの間やねんなぁ」
爪で弾けばガラス質の澄んだ音がする。これも譲られた頃と全く変わっていなくて、翡色は満足そうにふふと笑む。
過去何度か、天女を呼び出すというこの香炉で、翡色は香を焚こうと試みた。
しかし結果は皆無。火がすぐに消えてしまって、香りが燻るに至らないのだ。使った香を別の香炉に移してみれば、滞りなく煙が立ち昇った。だから問題は香炉の方にあるらしい。見た目からは判じられないが構造上の問題か──それとも、香炉が香を選んでいるのか。
“天上に咲く花で作られた香”だなんて、文字通りならば地上で暮らす翡色には手に入れる術がない。途方に暮れた翡色はひとまず諦め、黙して語らぬ美しい花を手許に飾っておくことにした。
そうして早、幾年か。
「無理なんかなぁ、思ぉてたけど」
香炉を一度台座に置き、傍らに束ねた白い花へと目を遣る。
この花は、暫く思考の埒外にあった香炉を思い出させた。偶然と思わず意味を添えたほうが多分、花のように綺麗だ。
「天女、ウチに会いにきてくれはるやろか?」
鈴を鳴らすように、翡色は喉でころころと笑った。
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死を意味する赤き花。
されど二つ名、天上の花。
仏の御座は白き花。
天の御園に咲く花は、
白く柔らか、香りも豊か。
命を包み、慈しみ、愛でる。
芳しき胎。美しき華。
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練香を作る手順を用いて、精油の代わりに花弁を合わせる。日を置いて乾燥させ、出来上がった香を検めて翡色は目を細めた。
虹を孕んだ白。あの花の美妙な色合いが香に滲み出ている。普通に考えてまず在り得ない事象だが、翡色にはすとんと腑に落ちた。だって天女を呼び出す香だもの、人の考えの外をいってしかるべきではないだろうか。
「楽しみやねぇ」
晴れた日の午後だった。蒼穹にちぎれ雲がまばらに浮かび、部屋に差し込む陽光は暖か。膝頭をきっちり揃えて香炉の前に座した翡色は、炉の中の香へと燐寸の火を灯した。
じっと赤い火を見守ることしばし──あぁ、と小さく吐息を漏らしたかもしれない。いつかのように火は消えず、少しずつ煙がゆらりゆらり、翡色の目の高さにまで立ち上ってくる。
途端広がる、あの花の香。数日前、花園でそっと吸い込んだ甘い香りが濃密に部屋を満たしていき、まるで思考に蜜がかかった様にくらりとする。ほんま天の園におるみたいや、とひどく心地好い浮遊感に包まれながら、翡色は蕩けた視線で煙の行く末を見上げた。
────それが、眼前で翻った。
「え?」
ぱちぱち、と瞬きを二度する。しかし視界の捉えた光景はますます明確になっていき、翡色は半眼だった瞳を大きく瞠った。
曖昧なはずの煙がはっきりとした形となり、今は微風にそよぐ裳裾に見える。横に広がった部分は棚引く羽衣、目で辿るとたっぷりとした袖、そこから伸びる手は腹の前で組み合わされている。
しなやかな指先が色付いているように見えて、それは桜貝の爪。胸元の襞はしどけなく開かれ、しかし露な肌からは艶よりも清らかさを感じる。鎖骨の辺りで揺れるあれは、翡翠の首飾りだろうか。青緑の石の管を連ねた三連の輪の中にほっそりとした首があり、その横で緑なす黒髪がそよと揺れていた。
美しい人が、翡色の眼前中空に、佇んでいた。
「……あぁ」
彼女、と目が合った。伏し目がちに自分を見つめる金色の瞳と、見つめ合った。
薄紅色の唇は微笑を象ったまま開かれない。しかし、言葉をひとつも受け取らなくても、翡色にはわかった。──多分、知っていた。
「……おおきに」
ふわり、と彼女が淡く微笑んだ気がした。
それを見て、翡色の眦も蕩けた。
「ウチに、会いにきてくれたんやね」
強烈に感じたのは懐かしさだ。郷愁の念にも似た気持ちが止め処なく湧き上がり、いっそ泣きたくなるほどの想いが胸を塞ぐ。穏やかな感情をもつ翡色にとっては、まるで嵐のような乱暴さ。堪らず彼女に手を伸ばした。すると鏡のように彼女も組んでいた指を解いて翡色を求め、
────それが、一瞬でかき消えた。
「え?」
ぱちぱち、とまた瞬きを二度する。しかし今の今までそこに在った姿はもう見えなくて、乏しくなった煙が残り香のように漂うのみ。香炉に視線を転じると、香はもうほとんど燃え尽きかけていた。
翡色はしばらくぼうっと惚けていたが、やがてぽつりと呟く。
「言い伝え通りに、舞い降りてくれたんやんなぁ」
夢か現か判然としないほど短い逢瀬だった。しかしきっと、見つめ合った彼女は本当に自分の目の前に現れ、自分に向かって手を延べてくれたのだと思う。────そう信じられるのは、瞼に残る彼女の微笑が、とても温かだったから。
胸に手を当て、そこにじんわり灯った甘さと熱を静かに味わう。全身を満たす安らぎに心まで委ねながら、ふと、窓の外に空に目を遣った。
その時、気がついた。
「……もしかして」
立ち上がり、箪笥の中から手鏡を取り出す。覗き込んで、今度こそあぁれと驚いた。
先刻出逢った天女の顔が、鏡の中で眼を丸くしていた。
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────そんな、少し、昔の話。
店頭に掲げた掛け看板を見上げて、翡色はあの日のことを思い出していた。母の香炉で、何故か自分の貌そっくりの天女を呼び出した日のことを。
芳しき煙の中から刹那の間姿を見せた彼女の印象は、天花の香と共に翡色の記憶に強く焼きついた。アロマセラピストとして都内に店を構えるに至って、屋号を「天花香園」としたのはその思い出のためだ。心からの寛ぎと安らぎ、綺麗で甘く、大切なひと時。翡色が施術者として提供するべきものは、天女と出逢ったあの快い空気そのものに他ならない。
だから、「天の花が、香る園のように」──ティエン・ファ・ガーデンと、自らの園にそう名付けた。
「ぴったりやねんなぁ、思ぉてるんやけど」
はにかむように肩を竦めた翡色は、棚の上の時計を見てはっとした。そろそろ予約してくれた客が来る頃だ。
「用意用意……て、まあ、そんなすることもないやんなぁ。今日は、どないな人が来てくれはるんやろ」
問わず語りに呟きながら、竹のベンチに並べたクッションを揃えてみる。まだ時間があるようならハーブティーの在庫でも確認しようかと考えた時、玄関で扉の開く音がした。
振り返れば、扉の隙間から控えめに覗く若い女性が一人。翡色と目が合うと軽く会釈をした。どうやら、待ち人着たり、らしい。
「いらっしゃいませ」
翡色は、あの日の天女と同じ花の微笑みを唇の載せた。
「ティエン・ファ・ガーデンへようこそ。ここに、貴女を癒す香りがあります」
了
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