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<東京怪談ノベル(シングル)>


バトルワン


 駆ける影。闇に紛れて消える足音。
 森のざわめきを聞き流しながら、水嶋・琴美(みずしま・ことみ)は走っていた。跳ぶように走る彼女の手には、透明なケースに入れられたCD-ROM。ある施設から逃げるように抜け出したのは今からほんの少し前のことだ。星と月の明かりに輝くこともなく、その艶やかな肢体を誰に見止められることもなく、彼女は駆けていた。
 たとえるなら、滑らかな毛皮に包まれた黒豹だろうか。その速さは何者の追従も許さず、汗でしっとりと湿った腕が、胸が、肩が、不意に差す明かりに波打つ。双眸を凝らし見つめる先には、生きものの気配のない闇。
 さくさくと音を立てる枯葉。深い森は何も語らない。琴美が見上げる頭上には、数え切れないほどの枝が茂っていた。足を止め辺りを見回し、一つだけ溜息をつく。
 夜というのはいつだって物も言わずに空を包み込むものだ。思う通りにならないそれらを自分に一番馴染む方向へ捻じ曲げるのが人間の仕事だ。時間は十分すぎるほどある。あとは、このまま森を抜けるだけ。
 背を預けていた木々から離れ、彼女は再び駆け出した。

 枯葉を踏み、木々の間を縫うように走る。このROMを手に無事に帰還すれば、任務は成功。何度振り返っても追っ手はなく、こちらに向かってくる気配もない。ちらちらと懐中電灯の明かりが見えた気がしたが、呼吸を落ち着けて凝視すればそれも消える。
「簡単すぎますね……」
 小さくぼやいた声も、聞き手はなく。いや、森が耳を澄ましていただろうか? 吹き抜ける一陣の風が彼女の頬を撫でた。生ぬるい空気が喉を舐める。

 夜と闇に紛れる彼女を捕らえられるものなどいない。彼女の心はそれくらいの自信で満ちていた。実際、ここまで彼女を正しい形で見つけたものなどない。混乱と動揺で沸く施設内を抜け出し森を抜けるまで、彼女は誰にも追われないと確信していた。その四肢にはそれだけの力があったし、経験も実績もある。
 忍びには自信が不可欠だ。どれだけ力があろうとも、敵に怯えていては結果を掴めない。すべての暗闇を照らす可能性があるのは自信である。自らが掴んだ力というのは、見誤ることがないかぎり信頼していい。だからこそ、人は正しい勝利を手にすることができるし、ひょんなことで失敗を犯す。

 小さく揺れた枝葉の間から、月明かりが差し込んだ。走る彼女の足元で枯葉が少しだけ舞い、すぐに落ちる。足音らしい足音はひとつもしない。そよ風より力強く、突風より軽く。


 琴美が異変に気付いたのはそのすぐ後であった。まばらに差し込む月明かりが、不意にゆるりと揺れたのだ。反射的に顔を上げ、狭い空を仰ぐ。鳥の声も枝のしなる音もしない。だが、用心するに越した事はない。この広い森林の中に息づくすべての闇を警戒することは無意味ではない。彼女は闇から帰還しなければならないのだ。
「……」
 息を殺し木々の陰を見つめる。追ってくる者はすべて撒いたはずだ。自分の辿ってきた軌跡を思い返し、小さく頷く。

 だが、琴美の意識とは裏腹に、彼女の身体は動かなかった。無意識の内に何かを感じ取り、走ることをやめてしまったのだ。彼女への敵意。月の光を歪ませた殺意。先ほどよりもはっきりと、手にとれるほどの息遣いが、この近くに潜んでいる。
 うかつに飛び出すのは危険だ。感情がようやく感覚に追いつき、彼女の意思がそう語った。今そこにある闇から爪が伸び、牙が伸び、この喉笛を切り裂くかもしれない。緊張と無音が螺旋をえがき耳の奥で渦巻く。

 琴美がその身を闇に沈めた時。鈍い金属音をたて、影が彼女の鼻先を掠めて行った。素早く上半身を捻り、鉄の拳をかわす。樹木がきしむ音。飛び退いて距離を取り、両足で地面を踏みしめ体勢を立て直せば、彼女を襲ったその影がくっきりと視界に浮かび上がった。
「何だァ? 避けたのかよ?」
 琴美の視線を捉えた“それ”は、口の端を吊り上げた。鋼鉄でできた右腕を下ろし、牙のように尖った歯を剥きながら。
「避けなきゃ一発で昇天だったろうによ」
 摩擦と衝撃で歪んだ幹を見上げる。確かに、もし当たったならば無事では済まないだろう。しかし、どんなに重い攻撃であっても、当たらなければ意味は無い。少なくとも、感じた殺意は本物らしい。真っ赤な口をあけてにたりにたりと笑んでいる“それ”を見つめ、琴美が呟く。
「たった一人で待ち伏せですか? これでは、奇襲にすらなりませんよ」
 風が吹き、遮られていた月光が降り注ぐ。琴美と“それ”の影が落ち、枯葉の上を流れていく。
「奇襲は趣味じゃねーな」
「趣味?」
 “それ”の言葉に顔を歪め、思わず溜息を漏らす。
「いや、そののほうが楽しい時もあるか」
 ぎらぎら光る目を細め、喉を鳴らして笑っている。月に照らされた姿を見る限り、先ほどの攻撃を繰り出したとは思えない細身の青年だ。
 命の奪い合いを趣味と言い放つ、その思考が理解出来ない。それが琴美の抱いた最初の感情であろう。何故こんな人物が自分の前に立ちはだかったのであろう? かの組織は、自分の力をこんなにも見くびっていたのだろうか? 苛立ちを感じたが、今は腹を立てている場合ではない。
 帰還せよ。意識が叫ぶ。


 琴美の投げたクナイが音もなくかすめていった。刃が幹に突き刺さる重い音、飛び上がった青年の影。
「ハハッ」
 品の無い笑い声が響く。体重をかけて繰り出された単純な打撃を横飛びにかわし、再びクナイを放つ。
 もしも青年の武器がその拳だけだというのなら、勝機はある。一撃の重さは相当なものだが、どんな攻撃も当たらなければ意味はない。

 両者の目が合う。汗が染みた肌着に、冷たい風が吹き込む。
 唇を噛み、琴見は目の前の敵を凝視した。土気色の肌、落ち込んだような瞳、そこから感じる殺気。小さく震える両腕と足に力を込める。
「(恐怖なんて錯覚)」
 そう、今まで潜ってきた戦いと同じ。芽生えているかもしれない恐怖心は、彼女を悔しがらせ、焦らせた。
 眼前の敵――快楽犯罪者、ギルフォード。彼は、彼女が恐れるには十分すぎるほどの力と存在感を持っていた。彼女がそれを認めないのは、まだ戦いは始まってすらいないからだ。