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<東京怪談ノベル(シングル)>


世界が変わる時


●●●●●

 ‥‥‥‥人の世界は、ほんの些細な切っ掛けで変化する。
 道を歩いて躓き、大怪我をする。何気なく入ったお店で強盗に巻き込まれる。強面のお兄さんに目を付けられ、気付いたら借金にまみれている。
 大きなイベントはいらない。ほんの些細な、小さなことで人を取り巻いている世界は劇的に変わるのだ。それも致命的に、後の人生など消えるほど完全に‥‥‥‥

「やれやれ。予想の範疇ではあったが‥‥‥‥やっぱり会話は成立しないか」
「くぅん?」

 早々に自身の世界を壊してしまった少女を見下ろし、白衣を着込んだ研究員の若者は、目の前の少女‥‥‥‥海原 みなもに語りかけた。
 二人が居るのは、真白い壁に囲まれている研究室。事務机が一つに様々な資料が収められている棚が二つ並び、簡素なベッドが一つだけ用意されている。一見すると医務室のようにも見えた。
 そして事実、現在みなもは、研究員に健康診断を受けている。首輪の呪いによって体に起こった変化を調べるため、体温や脈拍、体毛や爪の変形に至るまで調べ上げる。詳細な箇所は女性研究員に任せるとして、みなもと相対している研究員は、みなもが人間の言葉にどのような反応を示すのかを調べている。

「わぅん」

 みなもは、研究所に来た時の格好のままで跪き、研究員の言葉に首をかしげている。研究員の言葉を理解しているのかいないのか、みなもは「くぅん?」と子犬のように可愛らしい声を出すばかりで人間の言葉を話さない。つい数時間前までは人として会話をしていたというのに‥‥‥‥今では何一つとして会話が成立しない。そもそも、みなもが何を言おうとしているのかも分からない。

「参ったな。お手上げだ」

 研究主任から、意思の疎通が出来るかどうかを試しておくようにと言われていたが、みなもの言葉を何一つとして理解出来ないままに降参する。“動物と意思疎通が出来る”と言う触れ込みの呪いの首輪だが、やはり人間同士でだけは意思の疎通が出来ないようだ。

「海原さんは、他の動物とのコミュニケーションに成功しているようですが‥‥‥‥どうもそっちに引っ張られているようですね」

 厄介な物を研究対象にしちゃったなぁと、研究員は肩を竦めた。
 呪いという物に、科学的な理屈は通用しない。その為、研究員はみなもの現状をおおよそで把握する事は出来ても、呪いを解析する作業は遅々として進まなかった。
 みなもが着けている首輪が動物との意思の疎通が出来る‥‥と言うよりも、むしろつけた生物を、周囲の動物と着けた生物の原型を足して二で割ったような、中間の生物へと変化させる事は分かっている。しかし原因は不明。“動物と意思の疎通が出来るようになる”という触れ込みで大勢の主を転々としてきた首輪は、首輪を着けた人間を何人も廃人に追い込んできた。中には、確かにペットとの意思の疎通が出来たという者もいる。しかしどんな理由でその飼い主が生き残れたのか、どんな理由で人間が人間でなくなるのか、何も解明されていない。
 よって、研究員にとっても“なんとなくそういう物なんだろう”程度の認識でしか、首輪の力を量れていない。みなもの変化を観察している研究員にしてみれば、“人間を獣ッ子に変える呪いの首輪”ぐらいにしか思えなかった。

「はぁ、どうしよう?」
「わふっ?」

 研究員が首を傾げると、つられてみなもも首を傾げる。
 その仕草があまりにも可愛らしく‥‥‥‥
 研究員は、みなもを抱き締めてあんなことやこんな悪戯を行いたいという欲望を、必死になって押さえ付け、悶え続けるのだった‥‥‥‥‥‥




『はぁ、どうしよう?』
「そんなこといわれても、どうするんですかぁ?」

 と、みなもが返答しても、研究員は身を悶えさせて苦悩するばかりで、返答への返答は何も言おうとはしない。みなもは溜息の代わりに欠伸をすると、身悶えしている研究員を眺め続ける。
 研究員の言葉を、みなもは聞き取り、理解していた。研究員は理解出来なかったようだが、研究員が何かしら喋るたびに返答も行っている。
 しかし、その返答はことごとくが無視された。いや、研究員が自分の言葉を理解出来ないのだと、みなもは“なんとなく”感じ取っていた。
 ‥‥‥‥思考を費やした成果として気付いたわけではない。みなもの思考は停止したまま。思考をしたとしても、単純な計算や周囲の状況を把握するために思考するのみに止まり、研究員の不振な動きや言動を疑問に思い、追求するような思考は全く行っていなかった。

「ふはぁ‥‥‥‥ねむい」

 研究員の前だというのに、みなもは退屈そうに欠伸をしてから、ウトウトと目蓋を下ろし始めていた。アルバイト中に欠伸をした挙げ句に眠ろうとするなど、普段のみなもならばあり得ない。しかし首輪の呪いによって理性を押さえられ、思考を止められ、動物の習性が伝染しているみなもは、欲望に忠実に、本能の赴くままに眠ろうとしている。

『失礼する。どうだ? 何か‥‥‥‥何してるんだ?』

 と、そんなみなもの眠気を払ったのは、研究室に入ってきた研究主任の声だった。
 一応、みなもは研究主任に雇われ、この研究所にアルバイトに出向いてきた事になっている。既に人の頃の記憶など朧気にしか思い出せないが、それでもみなもが長年培ってきたアルバイト経験が、雇い主の出現に反応して見事に眠気を吹き飛ばす。
 ‥‥‥‥たとえ精神を洗脳されたとしても、アルバイト魂を忘れないみなもであった。

『もふもふしたい! ああ神様! この状況は私にエロイベントを起こせと言うお告げなのですか! ‥‥‥‥って主任!? いつの間に!!』
『‥‥‥‥君は今後、海原君と二人きりになる事を禁ずる。と言うより、研究から外れてくれないかね?』

 無防備なみなもを目の前にして悶え、妄想の世界へと旅立っていた研究員に、研究主任は冷ややかな目を向けながらそう言った。その目はまるで害虫を見るが如く冷え切り、手元に殺虫剤が在れば躊躇うことなく噴射していそうな程冷たい目である。
 みなもはそんな研究主任を見ながら、「あ、ごはんをよこどりされそうになったいぬさんのめだ」などと考えていた。

『な、なんですって! さては主任! 私を遠ざけておいて、みなもさんを一人で可愛がるつもりですね!』
『な、何を言っている! わわわ、私がそんな事をするはずが無かろう!』

 目を逸らす研究主任。しかし研究員は、研究から外されて堪るものかと食い付き、追求する。
 研究員も研究主任も、すぐ側にいるみなもを忘れ、互いに相手の前言を撤回させようと躍起になって喚いている。みなもには自分達が何を言っているのかが分かっていないと信じ込み、みなもの前で言い争いをする事にも躊躇いがない。
 みなもは二人のやりとりをジーッと眺めながら、「ねむたい‥‥‥‥しずかにしてくださいよぉ」などと呟いていた‥‥‥‥


●●●●●


 みなもが研究所に泊まり込み、二日目の朝‥‥‥‥
 初日と変わらずの飼育部屋で、子犬と子猫、そしてみなもが目を覚ます。子猫や子犬達と同じように毛布にくるまり、床の上でゴロンと丸まって眠っていたみなもは、凝り固まった体をほぐそうと大きな伸びをする。
 みなもの中に残っていた人間としての意識と記憶が、本音を言えば暖かいベッドの上で眠りたいと訴えている。アルバイトとしてみなもを雇っている研究員達に要求すれば、ベッドや部屋を用意して貰えるだろうか?
 そんな事を考えていたみなもは、奇妙な頭痛を覚えて思考を切り替え、眠そうに欠伸をした。
 複雑な思考は出来ない。この首輪を着けてからと言うもの、“思考する”という行為を行わない事に慣れてきた。始めの方こそ頭痛に追い遣られて思考を停止していたが、今では意識せずに思考を止め、何も考えずに行動出来るようになった。
 ‥‥‥‥あまり褒められた事ではないが、そうでなければとっくに精神が壊れてしまっているであろう事を思えば、仕方のない事だろう。本能で行動出来るようになれば、そんな事を気にする事もない。実際、みなもは自分で自分に起こっている変化に、関心すら持たずに過ごす事が出来るようになっていた。

「あさごはんなにかなぁ?」

 寝床よりも今は食い気。そして眠くなってからまた寝床の心配をしよう。みなもは眠そうに体を左右に大きく揺らしながら、目を半ば閉じて唸る。
 がちゃっ。
 そんな所に、毎度おなじみの白衣を着た研究員が現れる。

『おーい! 朝食だぞ! 起きろ!』

 徹夜でもしていたのか、研究員は機嫌悪そうにそう言い、台車に乗せていた皿を床に起き始めた。
 子犬と子猫は、同じ餌が配られる。よって、餌のお皿は、子猫と子犬の争奪戦となる。その争奪戦が体に染みついているのか、研究員が餌を持って現れた瞬間には飼育室に散らばって眠っていた動物達は一斉に目を覚まし、臨戦態勢に入り、そして‥‥‥‥

「うわぁぁぁああ!」

 全員が一心不乱にお皿を目指し、殺到する。
 早くお皿に駆けつけ、そして朝食に口を付けなければ自分の分が無くなってしまう。それを思えば、友も上下関係も関係なかった。仲間を押しのけ、敵を押しのけ、朝食に食い付き咀嚼する。とても寝起きのテンションとは思えない食べっぷりだった。

「みんなたいへんだなぁ」

 そう言いながら、みなもは一人だけ特別大きなお皿に盛られた食事を口に含み、もぐもぐゆっくりと咀嚼していた。朝食のメニューはおにぎり、中身は塩鮭や昆布とバリエーションがある。
 いくら動物化してきていると言っても、体は人間。子犬達と同じ物は食べにくく、研究員はみなもの食事だけは、人間と同じ物を出してきていた。これはみなもの体を気遣っての事ではなく、恐らくは研究対象のみなもに、体を壊されでもしたら大変だからだろう。
 みなもは一人、ゆっくりと食事を終えると、お皿を回収しに来た研究員にお礼を言った。言葉は通じていないだろう。しかし研究員も、みなもが何を言っているのか察しているのか、「はいどうも」などと言いながらお皿を回収し、子犬達のお皿も食べ終わった物から取り上げていく。

『‥‥‥‥ん?』

 しかしその途中‥‥‥‥研究員は、思い出したかのように顔を上げると、ジッとみなもを見つめてきた。

「な、なんですか?」

 ソッとみなもの顔に手を伸ばし、頬を撫でていく研究員。
 まるで髪の毛を撫でられているように、頬を撫で付ける研究員の手がくすぐったい。みなもは思わず顔を背けて研究員から逃れるが、研究員はそんなみなもの反応を気にする素振りすら見せずにマジマジとみなもを見つめ、立ち上がった。

「なんだったんだろう‥‥‥‥?」

 空になった食器を回収して飼育室から出て行った研究員を見送り、みなもはキョトンとした表情で取り残される。

「ねぇねぇ! どうしたのさ」
「うん? なんでもないよぉ」

 じゃれついてきた子犬達に、みなもは溜息混じりに答える。食事が終われば、もはや恒例となりつつある子犬達との遊びの時間だ。子猫達は、基本的に子犬達と関わろうとしないので一緒になって遊ぶ事はない。と言うよりも、体格の大きなみなもを敬遠している子猫達が多いのである。

(なんだか、ほいくえんみたいだなぁ‥‥‥‥)

 苦笑しながら、みなもは笑っている。
 普段なら、悲鳴を上げてもいい場面かも知れないが、みなもはこの状況に何一つとして抵抗感を持っていなかった。動物として、仲間と触れ合う事が楽しくて仕方がない。人間であった時では、考えられなかった幸福感。互いの体が増え合うだけで、子犬達の温かな体温が伝わり、柔らかな感触に自然と頬が綻んでしまう。
 そんな幸福感を感じていて、抵抗する理由もない。
 みなもは飛びかかってきた子犬達の山に埋もれ、子犬達が満足するまでの遊び相手にされるのだった‥‥‥‥




 みなもが子犬達に揉まれて引っ張り回されている時、食器を片付けて研究室に戻った研究員は、何かを考え込むようにし俯き、沈黙していた。時折マジックミラー越しに見えるみなもに目を向けては、微かに唸りながら思考に没頭する。

「どうかしたのか?」
「ああ、うん。ちょっとね‥‥‥‥なぁ、あの子‥‥‥‥女の子、だよな?」

 問いかけられた研究員は、怪訝な表情で同僚を見返した。

「訊くような事か? それ」
「ああ。訊くような事じゃないかも知れないが、一応‥‥な」
「女の子だろ。て言うか女子校の制服を男が着てたら、俺は泣くぞ」
「その気持ちは分かる。でもな、そう言う話じゃないんだよ‥‥‥‥結構深刻な話」
「‥‥‥‥‥‥まさか」

 思い当たる節があったのか、話しかけられていた研究員はマジックミラー越しに見えるみなもを一目見てから、それまでに首輪を着けていた者達の資料を漁りに掛かる。

「人間から動物へと体を変化させる事は、これまでにもあった。だが、最短でも一週間はかかったはず‥‥‥‥彼女が首輪を着けてから、まだ三日だ。変化をするには、早すぎる」

 それまでの被害者(本人が望んでなった者もいるので、被害者と言えるかどうかは分からないが)の資料には、時間経過における変化の写真が貼り付けられ、証言が書き込まれている。
 これまでに首輪を着けてきた人間が、動物的な姿へと変貌を遂げると言う事は、無かったわけではない。深い暗示を掛けられた事によって肉体を変化させると言う事は、昔からある事だ。科学的に見ても、否定はしない。しかし首輪によってもたらされる変化には、一定のパターンが存在していた。
 まず、言語機能の変化、意識の変質、体質は深く慕っている動物へと近付き、気付かぬうちに食性すら変え、体毛が生え替わり、そして最後に形態が変わっていく‥‥‥‥
 これらの全ての変化が終わるには、おおよそ二週間から三週間ほどの時間が掛かる。少なくとも、これまでの持ち主はそうなった。

「首輪を着けてから三日目の朝で、髭が生えかけてる。まだ産毛程度だが、それが顔全体に‥‥‥‥恐らく、外から見えない場所にも満遍なく生えているだろうな」
「本人は気付いていないのか?」
「今のところは。人間としての意識が残っているのかも分からんが、鏡でも見ない事には分からないだろうな」
「ま、感触や違和感で気付こうにも、あんなに子犬達に揉まれていたら、気付けないか。それにしても、何でこんなに早く変化してるんだ?」
「知るか。これまでの飼い主よりも、よっぽど動物に思い入れがあったのか‥‥‥‥」

 言葉を切り、研究員は目を細める。
 まるで、興味深い実験動物を目にしているように、子犬に揉まれて顔を紅くしているみなもを見つめ――――

「――――首輪を着ける前から、別の生物に変異するような素質を持っていたのか‥‥‥‥だな」

 あり得ないとも思いつつ、それを否定する事が出来ない。
 研究員は瞬きする間も惜しむように、みなもの行動を観察し続けていた‥‥‥‥


●●●●●


 みなもが研究所に来てから三日目‥‥‥‥
 みなもは、ようやく自分の体の変化に気付き始めた。

「‥‥‥‥うる‥‥さい」

 目を覚ましたみなもの第一声である。
 子犬達は、まだ目を覚ましていない。猫も目覚めていない。飼育室で目を覚ましたのは自分一人だ。動いているのも、床に倒れて耳を塞いでいる自分一人だ。誰も動いていない。誰も声を上げていない。室内は薄暗く、苦しげに耳を塞いで毛布の中に避難しようとしているみなもを気に掛ける者など誰もいない。
 それもそうだろう。
 室内の電灯は、夜から朝になるまでの間は、このように薄暗くなるようにセットされているらしい。つまりは深夜か、早朝なのだろう。周りの動物達は誰も助けてはくれないし、研究室に研究員が居るかどうかも分からない。

(なにこれ!? なんなのこれ!!)

 毛布の中で丸まり、必死に耳を塞ぐ。
 ドクンドクンと響き渡る、心臓のような鼓動の音。
 空調が空気を吸い込み、そして吐き出す風音。
 布が床を擦れ、動物達が身動ぎする微かな音までもが、みなもの耳を責め立てる。絶え間なく響き渡る未知の音。普段ならば、聞き止める事すらないような音の波が部屋に溢れ、みなもに叩き付けられる。
 ‥‥‥‥未知の音が聞こえるだけならば、まだ気味が悪いだけで済んだだろう。しかし僅かな衣擦れに音でさえも爆音のようにみなもの体を責め立てている現状では、ただ不快なだけではなく、体と精神を侵し、焼き切ろうとする危機だった。

(いたいいたいいたい!!)

 耳が痛い。頭が痛い。
 自分に何が起こったのかが分からない。それが恐怖となり、みなもの精神を圧迫する。
 痛みはみなもの神経を焼き切ろうと体中を走り、意識を揺さぶり、再びみなもを眠らせようと力尽くで襲いかかってくる。それに抗う術はなく、みなもは目蓋を精一杯閉ざし‥‥‥‥

(――――! ――――!!)

 いったい、自分に何が‥‥‥‥
 みなもは思考すら掻き消す痛みに耐ようと藻掻きながら‥‥‥‥やがて、その意識を手放した‥‥‥‥




「‥‥‥‥も‥‥ねぇ‥‥‥‥みなもちゃん!」
「う‥‥うん?」

 激痛を覚え、意識を手放してから何時間が経ったのか‥‥‥‥
 気を失い、毛布の中で苦悶の表情のままで倒れていたみなもは、小さな子供の声で目を覚ました。

「ああ! めをさました!!」
「よかった! だいじょうぶ!?」
「みん‥‥な?」

 体を起こし、周りを見渡す。自分の周りには、まるで見守るように子犬と子猫達が立ち尽くしていた。口々にワンワンにゃあにゃあと声を上げ、みなもが目覚めた事に歓喜している。

「みんな‥‥しんぱいかけて、ごめんね」

 首輪を着けているみなもには、ただ動物達が自分を取り囲んでいるのではなく、ここに集まっている全員が、みなもを心配して見守ってくれていた事が理解出来た。みなもが笑顔を浮かべた事で、動物達は安堵の表情を浮かべてみなもに抱きつき、甘えてくる。
 抱きついてくる子犬達。大人ぶって「しんぱいかけないでよね!」と離れていく子猫達。人の輪の中でも、まず得られないであろう友人達に、みなもは心の底から感謝していた。
 ‥‥‥‥しかしそんな動物達の反応が、夜の間に襲ってきたあの痛みが、幻覚の類ではなかったのだと思い知らせてくる。
 現象は、必ず理由があるために発生する。
 あの痛み、耳から通してくる尋常ではない音の波の原因が分からなければ、安心は出来ない。
 あんな痛みが毎晩のように襲いかかってきたら、みなもの精神も身体も保たないだろう。これまで数々の痛みを経験してきたみなもだったが、あの“音の痛み”は耐えられる自信がなかった。や、耐えられなかったからこそ気絶したのだ。あれ以上耐えていたら、本当に壊れてしまっていたかも知れない。

(なんで、あんなおとがきこえたんだろう‥‥‥‥)

 みなもは子犬達に構いながら、ソッと自分の耳に触れてみた。
 そしてそのまま、三秒間制止する‥‥‥‥

「あれ?」

 自分の耳が、何か自分の耳でないような気がする。
 感触はある。しかし自分の耳は、こんな形をしていただろうか? まるで狐のように尖り、短い毛が生え揃っている。鏡で見ずとも、指先の感触でよく分かる。それまで触った事のない感触。これまで何百何千回と触ってきた自分の身体の感触が、これまでに味わった事のない未知の物に変化している。
 ‥‥‥‥違う。未知の物ではない。
 この感触は、この子犬達と遊んでいる時に飽きるほど撫で続けた毛皮の‥‥‥‥

「うーん‥‥‥‥ふにゃ?」

 思考を巡らし、自分の変化を探ろうとしていたみなもは‥‥‥‥そこで、唐突に自分の身体から力が抜けるのを感じた。
 いや、正確には、身体から力が抜けたのではない。
 力が抜けたのは頭。つい一秒前まで思考を巡らせていた頭から力が抜け、それまで考えていた事が宙に舞う。つい数秒前まで記憶していた何かが抜け落ちていく‥‥‥‥

「‥‥‥‥‥‥」

 この研究所に来たその日、初めてこの首輪を着けた時‥‥‥‥
 動物達の言葉を上手く理解出来ず、苦しみを味わった。
 考える事すら出来ず、激しい頭痛に襲われ、気絶すらしそうになった。
 その経験から、複雑な思考はしないようにと心掛けていた。頭から力を抜き、何も考えず、遊びたい時に遊び、眠りたい時に眠り、本能に身を任せ、それまで味わった事のないような幸福感に満たされた。
 そしてその行為が‥‥‥‥みなもの変化に、拍車を掛けた。
 動物は、複雑な思考などしない。みなもの人間性と動物の野生に齟齬は大きく、それは痛みとなってみなもを襲った。
 ‥‥‥‥その痛みを感じることなく、みなもは意識すらせず、自分で気付かぬままに思考を止めた。
 それは‥‥‥‥みなもの人間性が、薄れてきている証ではないのか‥‥‥‥?

「‥‥‥‥なんだったっけ?」

 それまで自分が考えていた事が思い出せず、みなもは抱きついてくる子犬達との遊びに夢中となった。

「みなも、どうかしたの?」
「ううん。なんでもないよぉ」

 みなもは無邪気な子犬達と笑いながら、お互いの毛皮を舐めあった。慣れない毛繕いに、子猫達が参戦してみなもを叱咤し、毛繕いのコツを徹底的に伝授する。自分達も幼いだろうに、まるでみなもよりも年上のように振る舞い、子猫達総出でみなもの体中の毛を繕う。
 そんな子猫達の舌の感触が、酷く心地良い。つい先日までは痛いぐらいだったというのに、今では痛みなど微塵もない。髪の毛を櫛で丁寧に梳かされているような心地良さで、みなもは子猫達に身体を預け、「ふにゃ〜ん」などと声を上げてしまう。
 ‥‥‥‥もはや、変わり果てた耳の事など思考の外だ。いや、記憶にすら無いのかも知れない。
 動物は、深く物を考えない。何かを覚えていたとしても、必要がなければ忘れるのが常だ。野生ならば、過去に囚われる事はない。ただ生きるために、目の前の事象のみを解析していけばいい。

(まぁ、いっか♪)

 思考した所で、答えなど出てこない。ならば思考するだけ無駄なのだ。
 子犬達の鬼ごっこ。ソファーの裏に隠れている子犬の物音を聞きつけ、発見する。遙か彼方の廊下を歩く研究員の足音と食器の音から、朝食が来た事を察して待機する。隣の部屋から聞こえてくる物音に、誰かがそこに居るのだと判断する。

「すごいすごい! みなもちゃん、そんなことができたんだね!」
「えっへん」

 子犬達に尊敬のまなざしを向けられ、みなもは胸を張る。
 自分に何が起こったのかなど、もはや興味もない。ただそう、自分の身体がより一層便利になっただけだ。不自由になったわけでもないのに、考える必要なんて無い。
 みなもは子犬と子猫、双方と交互に遊びながら、短い尻尾を揺らして飼育室の中を走り回った‥‥‥‥


●●●●●


 ‥‥‥‥やりすぎたかと、最近では思う所がある。
 マジックミラー越しに見える飼育室。そこには、元は人間の少女だった獣と、多くの動物達。そして、みなもに服を着せようと奮闘する女性研究員が居る。

『ああもう! 大人しくしていてよ!』
『ふぎゃん!』

 研究員に、みなもは激しく抵抗していた。
 この研究所に来てから三日間、同じ服を着せたままにしておくのはあんまりだと主張する女性研究員の案により、新しく用意された衣服をみなもに着せる事になった。
 それは良い。悪い案ではない。ただでさえ子犬や子猫達に囲まれているのだ。激しく動き回る事によって汗を掻いている事を考えれば、遅すぎるぐらいだろう。
 もはや身体を美しい毛皮に覆われていたみなもから衣服を剥ぎ取った女性研究員は、手早く用意した服を着せようとした。用意されたのは大きめのTシャツとズボン、そして白衣である。研究員が予備として持ってきていた衣服なので、色気の欠片もないのは仕方がない。
 しかし‥‥問題は、衣服を用意して着せようとしてからだった。

『ふぎゃぁあ!!』

 脱がされる時には一切の抵抗をしなかったみなもは、頭からシャツを被せられようとした所で抵抗し、逃げ出したのだ。
 ‥‥‥‥それまで食事の時や検査の時にも大人しかったみなもの変貌に、女性研究員は面食らって驚いていた。何しろ、服を脱ぐ事を拒む人間は居ても、着せられる事を嫌がる人は早々居ない。そもそもそれまでは汚れた服をずっと着込んでいたのに、新しく用意された服を嫌がるなど想定の範囲外だったのだ。

『観念しなさい!』
『にゃあーー!』

 みなもに抵抗され、意地なっているのか‥‥‥‥女性研究員は、広い飼育室の中を走り回り、みなもを捕まえようとしている。しかしみなもは女性研究員の腕を右へ左へ上へ下へと巧みにかわし、まるで猫のような身のこなしで逃れ続けている。
 最初の時こそ、マジックミラー越しに手に汗握って観戦していた研究仲間も、今では関心を示さずに研究資料を漁っている。

「やれやれ。身体がああなった海原さんに、体力で敵うはず無いのにな‥‥‥‥」

 無駄な事をしていると、研究員の一人が肩を竦めた。
 飼育室で過ごし続けたみなもは、もはや元の面影こそが間違いだったのではないかとばかりの容姿へと変貌していた。
 まず、頭髪は綺麗な黒髪から黄色掛かった茶色に変色し、全身は同じ色の毛並みに覆われている。耳は尖り、短いが尻尾まで生えている。手の先には爪が伸び、足の指も少しずつ伸びて人間のそれよりも、犬猫の足に似通った形に変わってきている。
 もはや人間だった頃の面影はない。顔まで毛に覆われてきているので、今では人相すら分からない。つい数日前は、「こんな子ならいくらでも手を出すのになぁ!」などと邪な事を考えていた研究員も、今のみなもには食指が動かないのか、全裸のみなもに見向きもしない。

「懐いてくれたら可愛いだろうけど、あれじゃあな」
「あれは、人間が嫌いなのか?」

 飼育室で逃げ回っているみなもを眺めながら、研究員の一人が首を振った。

「動物にとっては、衣服を着るなんて必要も習慣もないから抵抗してるんだろ。ただでさえ暑苦しい毛皮に包まれてるんだ。そこに服なんて着たら‥‥むず痒くって仕方がないだろうな」

 人間にしてみれば、コートの上からコートを着込んでいるような物。動きにくいし暑苦しいし、メリットなど何もない。人間がペットに衣服を着せて、「動物虐待だ!」等とネットの一部で騒がれていた事を思い返し、研究員は苦笑を浮かべた。

「なるほど。それは抵抗しますね」
「あのままだと、無理矢理着せても破り捨てそうだな‥‥‥‥もういい。引き上がらせよう」
『いい加減に着なさいよ!』
『ふぎゃあああ!!』
『痛っ! ひ、引っ掻かないでよ!!』

 野生に磨きが掛かったみなもから、距離を置く女性研究員。
 意地になって冷静さを欠いていた研究員も、猫のように爪を出して警戒しているみなもには脅威を感じるらしい。ジリジリと間合いを開け、やがて扉の所にまで後退した。
 実際にみなもは、これ以上追いかけられるようならば本気で反撃をするつもりだったため、それは正しい判断だった。離れていく女性研究員をジッと見据えたままで、「フッーー!」と毛を逆立てている。
 流石にこれはまずいのではないだろうか‥‥‥‥?

「行ってくる。研究主任に、飼育の際の注意事項を報告しないとな」
「ああ。報告書を書いておくよ」

 女性研究員とみなもの戦いを見守っていた研究員達は、溜息混じりにそれぞれの仕事に取りかかった‥‥‥‥


●●●●●


 そして五日が過ぎ、六日目に達した所で、みなもの変化が終わりを告げようとしていた。
 耳は五日目で変化を終え、狐のような形態で落ち着いた。ペンギンのように短かった可愛らしい尻尾は、今ではフサフサとした毛に覆われた、犬とも猫ともつかない形に変わっている。全身を覆っていた短い毛並みも、今では飼育室のどの動物よりも綺麗に生え揃っている。

「ふわぁ‥‥‥‥ねぇ、おひるねしない?」
「やだっ! もっとあそぶの!」

 そんな身体の変化に、当の本人であるみなもは、全く関心を持っていなかった。自分の変化よりも、子犬達の教育方針を考えることの方が、よっぽど有意義に思えるのだ。
 生え揃った綺麗な毛並みは、子猫達にも子犬達にも大人気だ。みなもの身体の変化に関心を持っていたのは研究員ぐらいなもので、動物達はみなもの変化など気にも止めず、相変わらず自由気ままにみなもにじゃれつき、ワガママを言っている。
 そんな動物達を相手にしていて、自分の身体の変化に気を回す余裕など、みなもには与えられなかった。一日に数回眠り、そして目を覚ますたびに身体が変化を遂げている。
 変化の規模は、聴覚が鋭敏化した晩のように、劇的な物ではない。
 体毛が一ミリ伸びた。尻尾が少し長くなった。鼻が利くようになった。走り回っていても、前より疲れなくなった‥‥‥‥
 以前の自分と、何がどう違うのか‥‥‥‥それを実感する事は難しい。
 もちろん、自分が変化をしているという自覚さえあれば、些細な変化にも気づけたかも知れない。しかしみなもには、自分の身体が変化をしていっているという自覚は微塵もない。眠り、目覚め、自分の身体を丹念に見渡すような事も、鏡を見つめる事もない。それまで以上に懐いてくる子犬や子猫達が可愛らしく、誘われるがままに遊び、暮らしていく事が楽しくて仕方がない。

「ん‥‥‥‥あれ?」

 しかしそれでも、何か‥‥‥‥大切か何かを忘れているような気がして、立ち止まってしまう時がある。
 時計を見る。テーブルを見る。ソファーを見る。鏡を見る。扉を見る。研究員を見て、声を聞いて、何かを言おうとして口を閉ざす。
 子犬達が、自分達の総大将を見つめて首を傾げている。
 子猫達が、自分達の妹分を見つめて首をひねる。

(なんだったっけなぁ‥‥‥‥なにをわすれたんだっけ?)

 忘れた事。忘れた行為を思い出そうとして、思考が止まる。子猫と子犬の仲裁を行おうとしている時には回転する思考が、まるでそこだけを避けているかのように止まり、そして何を思い出そうとしていたのかを忘れてしまう。

「ねぇねぇ。もっとあそぼうよぉ」

 そんなみなもに、子犬達が声を掛けてくる。

「うん‥‥‥‥そうだね」

 思い出そうとしていた思考を止め、みなもは子犬達とじゃれついている。
 過去を思う事はない。回転しない思考などいらない。ただ目の前の、この友人達の事さえ思う事が出来るのならばそれで良い。みなもの事を慕ってくれているこの子犬と子猫達がいれば、それで幸福、それ以上は望まない。
 変わり果て、変貌した世界を受け入れる。
 元の世界とは似ても似付かない動物の世界。しかしそこに幸福を感じられるのならば、それはみなもを取り巻く正常な世界となる。
 しかし‥‥‥‥身も心も呪いに侵されたみなもを、まだ人間に繋ぎ止めておく何かが、確かにある。たとえみなもが忘れても、血に刻み込まれた歴史が、声も立てずに訴えている。

(なんでだろう。そとで‥‥もういちど、およぎたい)

 ‥‥‥‥みなも自身には分からない。不自然な欲求。
 それは、呪いによってもたらされた本能に覆い隠されてはいたものの、確かにみなもの中に留まり続けていた‥‥‥‥




 ――――そして運命の七日目、海原 みなもの世界が再び揺らぐ――――



Fin



●●●参加PC●●●

1252 海原・みなも (うなばら・みなも)

●メビオス零の後書きコーナー●

子猫「にゃにゃ! にゃーー!!」(何よ! 私達の出番が全然無いじゃない!!)
メビオス零「知るか! 猫には引っ掻かれた恨みしかないんだよ!!」

 猫も犬もネズミも大好きですけど、懐かれた記憶はないメビオス零です。
 本当に‥‥なんで懐かれないんだろう。あんなに可愛いのに。撫でたいのに。遊びたいのに。田舎で飼ってた猫には引っ掻かれるは噛み付かれるわ威嚇されるわ‥‥‥‥友人の家の犬には吼えられて追いかけられるわ‥‥‥‥鼠(ハムスター)は‥‥うん。あれはそもそも懐くような生き物じゃないですね。
 ああ、一度で良いからモフモフしてみたい。子犬に揉みくちゃにされてみたい。呪われても良いデスヨホント。
 ‥‥‥‥まぁ、どうでもいいことですよね。すいませんでした。
 さて、今回のお話はどうでしたでしょうか?
 前回では省略されていた、みなもが変化していく一週間のお話‥‥‥‥自分の体が、眠るたびに変化していく。よくよく考えたら怖いことですが、それに気付くことが出来ないのが一番怖いです。自分で自分を見ても、変化を疑問に思わない。“思考”って大切なことです。それを放棄したら、何が起こっても受け入れてしまいそうですからね。
 受け入れるのも善し悪しです。過去を思い起こすことすら出来ない程に“考える”事が出来なくなったら、自分が自分であるとすら思えなくなるのではないでしょうか?
 自分の体の変化に恐怖を感じることがなかったみなもさんは、それはそれで幸運だったかもしれませんが‥‥‥‥まぁ、自分の変化を受け入れられないのなら、さすがに途中で首輪を外していたと思いますが。みなも以前の首輪の持ち主も、全員体の変化を疑問に思わずに末期状態に到達したのでした。

 ‥‥‥‥それでは今回はこの辺で。
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 では‥‥これからも、出来れば宜しく御願いいたします(・_・)(._.)