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<東京怪談ノベル(シングル)>


 Secret mission part3

「ひゃははは! ざまあねえなあ!」
 目の前で声を上げて笑い狂喜する男――ギルフォード。
 その声を地面に伏したまま耳にする苦痛に表情を歪めるのは、水嶋・琴美だ。彼女は耳に反響する声に必死に堪えるよう唇を噛みしめた。
 その反動で、唇を伝って血が入り込んだ。舌の上に落ち鉄の錆びたような味に眉を潜める。
 何処が切れているのかもわからない。もしかすると唇自体が切れたのかもしれない。それを確かめようにも身体が動かなかった。
 全身の至る所が、ギルフォードが与えた攻撃によって傷つき、動かそうとすれば軋む。まるで自分のものではないような、そんな感覚に襲われる。
「さあて、止めを刺しちまおうじゃん」
 舌なめずりして近付いてくる相手。その足音が地面を通して直接耳に伝わってくる。
 ゆっくり、ゆっくりと大きくなる音。その音に琴美は全身で息をしながら顔をあげると、鋭い視線を相手にぶつけた。
「なんだ。まだ意識があるのかぁ?」
 ゲラゲラと笑いながら靴先で顎を掬い上げる。そうして寄せられた顔には、悦に入った表情があった。
「――お生憎、さま」
 そう呟いて鼻で笑い、顔面に唾を吐いた。
 今までこんな下品なことをした記憶がない。それほどまでにギルフォードの仕打ちが耐えられなかったのだろう。
 だが耐えられなかったのは、相手も同じだった。
 顔面に掛けられた唾を手の甲で拭い、眉を吊り上げる。その口元は笑っているが、目は冷笑を湛えていた。
「美人が下品なことするのを見るのは大歓迎だけどよぉ。されんのは大っ嫌いなんだよっ!」
 顎を掬った足で顎を蹴り上げる。その容赦ない攻撃に琴美の身体が地面を転がった。
 完全に口の中が切れて、唾液に血が混じる。それを吐き出したその上で、もう一度身体を動かそうと腕に力を込めた。
「ぃッ! ……ぅ、ハッ……」
 すぐさま崩れ落ちる身体を、壁に手を着いて支える。縋るように身を寄せて立ち上がると、壁に頬を寄せた。
 ひんやりと冷たい感触に思わず苦笑が漏れる。
「……鏡……見たく、なぃ、な……」
 きっと頬が腫れているせいで心地よく感じるのだ。琴美は苦々しく呟くと、何度か息を吐きだして呼吸を整えた。
 その度に、大き過ぎるくらいに豊満な胸が上下に動く。着物のような衣服の前も肌蹴かけ、それを指で持ち上げるように直してから、自分をここまで追い込んだ相手に視線を向けた。
「なんだ。まだ立てんじゃん」
「ふ、ん……勝負、は…これから……ッ」
 気丈に振る舞って見せるが、どう見ても満身創痍。壁に凭れて立つのがやっとの状態で何ができるのか。
 琴美は自らの虚勢に鼻で笑ってしまった。
 そしてその思いはギルフォードも同じだったようだ。
「ひゃははは! 面白れえ女っ! こんな状態でも、んなこと言えんのかよぉ!」
 心底楽しそうに笑って、琴美のことを眺める。その目がニイッと笑いの形を取った。と、所の瞬間彼の足が地面を蹴り、物凄い勢いで迫ってた。
 その速さが尋常ではない。
 咄嗟に壁から手を離して防御の為に腕を構えた。
 そこに今まで感じたこともないほど重い打撃が叩き込まれる。その刹那、腕がミシミシと音を立てた。
「――ぅあッ!」
 激痛に耐えきれなくなった琴美の防御が解かれる。そこにギルフォードの次の打撃が襲いかかった。
 今まで左手だけで彼女の相手をしていたギルフォードの右手――義手で黒光りするそれが振り上げられたのだ。
 本能が危険だと告げている。だが防御を張る暇はなかった。
「ジッ、エェ〜ンド!」
――ドゴッ。
 鈍い音が響き、目の前ではニヤリと笑う嫌な顔がある。その顔を見た直後、琴美の意識は飛んだ。

 その場に崩れ落ちた琴美を横目に、ギルフォードの目が自らの義手に向かう。
 綺麗に磨かれた自慢の義手。そこに浮かんだ僅かな曇りに顔を寄せる。
「こいつは使う気が無かったんだけどなぁ。この女、やるじゃん」
 満足そうに呟いて曇りを舌先で拭う。その上で彼の目が周囲に向いた。
 腕を下して壁の一角に歩み寄る。その足をある壁の前でピタリと止めると、彼は目の前の壁に向かって叫んだ。
「この女を地下室に入れとけ。素性を調べ上げるまで殺すんじゃねえぞ。こいつは俺の獲物だ」
 彼が叫んだ先には監視用のカメラが埋め込まれている。極めて小さく、壁と一体化しているために容易に発見することはできない。
「わかったら、さっさと連れてけぇ!」
 高笑いしながら琴美を指さした彼の声に反応するように、数名の作業員が駆け込んできた。
 そして琴美を起こさないように数名でそっと持ち上げる。その姿を確認してから、ギルフォードはその身を翻し歩き出そうとした。
 それを遮るように声が響く。
「ギルフォード様、どちらへ」
 戦闘の後片付けをしようと作業を始めていた人員の一人が問いかけた。その声にご機嫌な様子の彼が振り返る。
 その目に一瞬殺気が覗いた。
――ドガンッ。
 凄まじい音が鳴り、声をかけた作業員が壁の中に沈む。
「俺は今最高の気分なんだ。邪魔すんじゃねえ!」
 叫んで、振り上げた足を下した。
 攻撃を受けた作業員はピクリともしない。それを確認して、ギルフォードは再び高笑いを零した。
「すっげえ飛んだ、お前も最っ高じゃん!」
 指を突きつけ、舌を出して喜ぶ相手に、全ての作業員の顔が蒼白に染まる。この直後、ギルフォードを刺激しないように注意して作業は再開されたのは言うまでもないだろう。

   ***

――ガチャッ、ガチャガチャ……ドドンッ。
 耳を打つ重い音。その音に瞼が揺れる。
「……、…………ぅ」
 琴美は頬を襲う冷たい感触に、身じろいだ。その動きに全身を刺すような痛みが襲う。
 まるで何かに封じ込められかのように動かない身体を動かそうともがく。だがそうすればそうするほど、全身に鋭い痛みが走った。
「――……わた、し」
 掠れた声が口を吐き、まつ毛が細かく揺れて瞼が上がる。
 霞む視界に映る、僅かな光に照らされる室内。汚れた部屋にはカビ臭さが充満し、琴美は僅かに眉を潜めた。
「――負けた」
 敗北感とでも言うのだろうか。胸の奥から湧き上がる感情に唇を噛みしめる。頬を熱いものが伝い、それが傷に染みて更に溢れ出る。
「っ、く……」
 徐々に覚醒してくる頭で思い出すのは、対峙した相手の強さ。そしてそれに敵わなかった自分の弱さだ。
 初めての負け。初めて対峙した、自分よりも強い相手。思考が戻る中で強くなるのは敗北感に混じる恐怖。動かしたくないのに小刻みに震える身体がその証拠だ。
 琴美は顔をうつ伏せると、瞼を閉じて唇を噛みしめた。
 そうして声を殺して涙を流し、どれだけの時間が過ぎただろう。やがて涙は枯れたように止まり、全ての感情を押しこめたように静かな瞳が瞼の底から覗いた。
 その目に唯一浮かぶ感情は――決意。
 彼女は痛みで動かない筈の身体を奮い立たせて起きあがった。
「ぅああっ! ぁ、……」
 バタンッと物のような音をたてて崩れ落ちる。それでももう一度、足を、腕を、身体全体を動かした。
「ハッ、……動きなさい。動きなさいよっ!」
 叫んで自らを叱咤する。
 そうして立ち上がった足はふらふらで、立つだけで上がった息に辟易する。全身を濡らす汗にも苛立ちが募る。
 だが感情に流される前にしなければいけないことがある。
「――ここから、出ないと」
 そう呟いて、震える手で乱れた衣服を整えると、彼女の目は室内を見回していた。


――To be continue…