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望まれる世界
静かに雨は降り続いている。
ただほんの僅かな時間、雨宿りをしているだけだった。
だと言うのに、いったいどれだけの時間をこの館で過ごしてきたのだろうか‥‥‥‥
「海原さん。どうしましたか?」
「あ‥‥いえ、すいませんメイド長。なんでもありません」
窓の拭き掃除をしていた手を止め、外を眺めていた海原 みなもは、厳しい声で話しかけてきたメイド長に頭を下げた。
「そう‥‥‥‥疲れているかも知れないけど、もうすぐ定時だから、それまでは頑張りなさい」
「はい。ありがとうございます」
みなもが再び頭を下げると、メイド長はカッカッと廊下を靴で叩きながら去っていく。
その後ろ姿は、長年館勤めを果たして経験を積んだ、本物のメイドのような威厳めいた雰囲気を纏っていた。
「‥‥‥‥なんなんでしょうね、ここは」
そんなメイド長に違和感を覚えるのではなく、みなもはこの館という空間に疑念を覚えていた。
数週間前にこの洋館に訪れてから、みなもはメイドの一人としてこの洋館に出入りをしていた。
最初はただ、この洋館に雨宿りとして滞在していただけだった。しかしそれが、いつの間にかメイドとして働く事となり、今では定期的にこの洋館に訪れるようになっている。
誰に言われたわけでもない。自然に、そうした方が自分のためにもなるのだと思ったのだ。
(ここに来た人たちは、みんながそう)
この洋館に流れ着いた者は、みなもだけではない。先程話しかけてきたメイド長と、他に十数人のメイド達がいる。まずはみなもがメイドとして働き始め、数日と経たない間に多くの女性が集まった。
何故、彼女達がこの洋館に辿り着いたのか‥‥‥‥それは誰にも分からない。雨に降られ、前も見えずに走り続けて彷徨った挙げ句にこの洋館の前にいた。この雨では帰れないと門を叩き、気が付いたら‥‥‥‥メイドとして働いていたのだ。
まるで最初から働くために、この館に訪れたようなものだった。この洋館に踏み込んだ瞬間から、全員が頭の隅でメイドになる事を望み始める。そしてシャワーを借り、メイド服を着込み、掃除の手伝いを始め、食材を管理し、庭の草木を剪定し、お菓子を作り、メイド同士で団欒し、この館での時間を有意義に楽しんでいる。
それが不自然だと思わない。何故か? それはみなもにも分からない。この館は、誰の物でもない。主となる者が居ない館に、メイドだけが集まり機能を保っている。それを何故不自然だと思わないのか。何故不安を覚えないのか‥‥‥‥
(考えても、誰も答えられませんよね)
こうして考えているみなもですら、疑念を抱く事はあっても誰かに相談しようとは思わない。
違和感を覚える。不安もある。奇妙な現象に巻き込まれているのだと、自覚もある。しかしそれを、気にしない。気に出来ないのだ。それを指摘しようとか、口に出そうという気になれず、ズルズルとここから離れられずにいる。
「帰ろうと思えば、いつでも帰れるんですけどね‥‥」
みなもは呟きながら、綺麗に磨いた窓を満足げに眺め、掃除道具を片付けに掛かった。
広い洋館の廊下を歩く。普通ならば、長い廊下の清掃を行うならば二人、三人で同時に行うものだろう。効率が悪いし、広大な屋敷を清掃しようと思えと時間が掛かりすぎる。
だと言うのに、あえて一人だけで廊下中の窓を拭いていた理由は‥‥‥‥単純に、人数が揃わなかったためだ。現在、この館の中にいるのはほんの数人だけ。偶々そう言う“時間帯”に来てしまったらしい。
こうして廊下を歩いていても、極々稀に、片付け中のメイドと擦れ違う程度のものである。仕事中の私語は禁止されているため、会話らしい会話もない。館中がシーンと静まりかえり、部屋に閉じ籠もっていると、まるで館の中にいるのは自分一人なのではないかと感じてしまう。
むしろ、館に対する不安よりも、孤独を感じる不安の方が遙かに大きい。だからか、この館で働くメイド達は、休憩時間になるたびに集まって話し合い、笑いあっている。
「あ、海原さん! これから休憩なんですけど、一緒にどうですか?」
「お誘いありがとうございます。ですが、あたしはもうそろそろ帰らなければなりませんので‥‥‥‥」
「そう、残念ね。今度はご一緒して下さいね」
出会ったメイドに話しかけられ、断りを入れる。話しかけてきたメイドは残念そうにしてはいたが、気分を害した様子もなく鼻歌など歌いながら、休憩室に歩いていった。
(本当に‥‥‥‥ここに来ているみんなは、いい顔をしますね)
掃除用具を片付け、上機嫌で去っていったメイドを思い起こす。
ここに来た当初、訪れた女性達は、一様にして疲れ切った顔をしていた。
雨に降られたからとか、そう言う次元ではない。全身から疲労を滲ませ、人生を達観して諦めてしまっているような雰囲気すら感じさせた。
そんな女性達が、この館でメイドを始めてから、いい顔をするようになったのだ。
理由は、分からない。ただそうした彼女達の中には、“外”に帰ろうとせずに館で住み込み、暮らしている者が多く居る。この館で過ごす時間こそが救いになるのだと、本気で思っているのかも知れない。
(まぁ、人の事情に首を突っ込む事も‥‥‥‥よくありませんよね)
みなもは、他人の事情を詮索しようなどとは思わない。助けを求められれば手を貸すが、基本的に他人の過去や状況を詮索する事は悪い事だと思っている。
誰でも、忘れたい事、逃げ出したい事はある。それを根掘り葉掘り聞く事は避けたいのだ。
‥‥‥‥掃除道具を片付けたみなもは、小さく溜息をつくと、静かに自室へと戻っていく。
自室と言っても、貸し出されているだけの部屋だ。あるのはクローゼットにベット、机だけ。実にシンプルな部屋だが、それだけでも十分すぎる。そもそも、この館に“使用人のための部屋”など必要ないだろう。
メイド服を脱ぎ、手入れをしてからクローゼットの中に仕舞い込む。下着姿だけになったみなもは、恥ずかしげもなく肌を晒してベッドに入り、ソッ‥‥と目を閉じた。
‥‥‥‥‥‥
‥‥‥‥
‥‥
そうして、みなもは自室へと帰宅した。
目を開いた時、そこにあるのは一台のパソコンだった。ウィィィンと静かに起動音を立て、ディスプレイには色鮮やかな洋館の画像が映し出されている。その下には『ログアウト』の文字が光り、『ID・PASS WORDを入力して下さい』と表示されていた。
‥‥‥‥みなもが居るのは、正真正銘、海原 みなもの家の自室である。
パソコンを前にして眠っていたみなもは、呻きながら体を起こして気怠げに欠伸をする。
「‥‥‥‥疲れた、かな」
みなもは一日中館で働き、凝り固まった体を解そうと伸びをした。続いてパソコンに表示されている時計を読む。19時30分。あの館に出向いてから、おおよそ一時間ほどが経過しようとしていた。
「何で、こんな場所に何度も入ってるんだろう」
みなもは自問自答する。
先程まで訪れていた洋館‥‥‥‥そこは、ホームページの中にあった。
最初にログインした記憶はない。洋館で働いてから数日後、ふと「帰ろう」と思いながら眠りについた時、みなもは自宅に帰っていた。
そのときに開いていたのが、この洋館のホームページである。
みなもは、帰宅した記憶もなければ、ホームページを開いた記憶もない。薄気味悪くて恐怖すら覚えた。しかし‥‥‥‥恐怖すら覚えたというのに、再びホームページで“ログイン”し、洋館にて働いてしまう。まるで魔法にでも掛かってしまったような気分だった。事実もしかしたら何か、魔法じみた呪いでも仕掛けられているのかも知れない。
だがそれでも、みなもは“少しぐらいならいいよね?”と、不安を感じながら洋館に通っている。
‥‥‥‥どんな原理が働いているのかは分からない。しかし、どうやらあの洋館での一日は、現実での一時間に当たるらしい。いつでも気軽に行く事が出来る。現実での一時間を消費する事で、洋館での一日を体験する事が出来る。
一時間‥‥‥‥現実での代償と言えば、この時間程度のものだ。
不思議と、それが抵抗を無くさせる。いつでも行ける。いつでも帰れると、みなもは洋館から離れられずにいる。今日も、学校から帰宅し、アルバイトがないからと洋館に出向いていたのだ。
他のメイド達も、恐らくは同じようにログイン、ログアウトを繰り返しているのだろう。
館に住み込んでいる人達は、二十四時間で二十四日もの時間を過ごしている事になる。既にこの洋館に関わってから数週間という時間が流れている。一日で二十四日もの時間が流れるのならば、二週間と少しで一年を過ごす事になる。
途方もない時間‥‥‥‥みなもがメイド長の役職を住み込みで働いているメイドに譲ったのも、これが理由だった。住み込みで働いているメイド達は、みなもよりも数十倍の時間を館で過ごしている。
「現実にも、やる事があると思うんだけどな」
洋館の世界が虚構の世界であるのか、否かは分からない。
しかし、みなもに箱の現実でやりたい事がある。やらなければならない事もある。だからこそ館の世界に入り浸る事は出来ない。あの館で住み込んでいる人々を羨ましくも思うが、しかし同じになろうとは思わない。
‥‥思わない。本当に‥‥‥‥あの館に住みたいなどとは思わない。
館で働いているのはあるバイトのようなものだ。館では楽しい時間を過ごせるし、ちゃんと給料だって貰っている(差出人不明のメールに、電子マネーの番号などが載っていました‥‥‥‥誰から届いているのでしょうか?)。
ただ、なるべく館の世界には踏み込まないようにしようとは思っていた。
そう心に決めて‥‥‥‥
‥‥‥‥次の日、みなもは帰宅してから、静かに館のホームページを開いていた。
(別に‥‥悪い事をしている訳じゃないんですけどね)
何故か罪悪感じみた、後ろめたさを感じる。
差出人不明のメールを開き、そこに記載されているIDとパスワードを入力する。
館の世界にはいるのは実に簡単だ。入力してから、“ログイン”のボタンをクリックすると‥‥‥‥館の自室にて目を覚ます。みなもは以前、この館で眠っていた下着姿のままだった。
「さて‥‥今日も一日、頑張りましょう!」
気合いを入れてベッドから飛び降り、クローゼットの中に仕舞ったメイド服を取り出した。
誰かが、みなもが居ない間に部屋を掃除してくれていたのだろう。三週間以上(二十数時間ぶりのログインですから)放置されていたにも関わらず、部屋には埃が積もっていなかった。それどころかメイド服は洗濯され、埃が積もらないようにカバーまで掛けてある。
メイド仲間達の心遣いに感謝しながら、メイド服を着込んで仕事モードに突入する。
ここに来る前までに考えていた悩みなど、この洋館に来た瞬間には忘れられる。頭の中は、既に今日の仕事のことで一杯となり、余分な事に回す余裕はない。
「今日は厨房の担当ですか‥‥」
みなもは頷き、自室から外に出る。
その日にこなす役目は、この館に入った瞬間に分かっている。館に入っている人達の名前、与えられている役割、館の清掃状況、材料の保管状態‥‥‥‥館に入った時に、必要な情報が与えられている。
どんな仕事を割り当てられたとしても、その仕事をこなすための知識や技術も与えられていた。だから仕事に対しての不安もない。
(それでは、まずは皆さんに挨拶に行きましょう)
館の中を歩く。
今日、館に来ているメイドは十数人。
これだけの人数がいれば、仕事もはかどって手も空くでしょう。
「あ、海原さん。久しぶりぃ♪」
「はい。今日もよろしくお願いします」
厨房のメイド仲間に会釈し、にこやかに挨拶する。
甘い香りが厨房に漂っている。お茶会のためのお菓子を焼いているみたい。たぶんチョコクッキー。紅茶には何を出しましょうか?
「今日は久しぶりの大人数だし、気合いを入れて用意するよ♪」
「そうですね。では、あたしも頑張らないと」
お茶会に参加出来るのは、頑張って働いたメイドだけです。仕事をちゃんと頑張ったメイドへのご褒美ですから‥‥ちゃんと参加出来るように、仕事を頑張らないといけません。
「今日はすごいよ? なんとあの伝説のケーキがこの厨房に!!」
「ほ、本当ですか!!?」
「食べたければ通常の三倍の速度で働きなさい。はい。これ片付けてきてね」
「分かりましたぁ!」
渡された調理器具を片付けに掛かり、忙しなく厨房を走り回る。
見ると、皆して負けじと忙しそうにしている。手の空いたメイドは他の部署を手伝いに行っているらしく、とにかく伝説のケーキを食べるためにと全力を尽くしていた。
(まぁ‥‥‥‥館への不安なんて、この楽しさに比べたら大したこと無いんでしょうか?)
実際、こうして働いているみなもの頬は綻んでいる。
楽しくて仕方ないのだ。人を引き付ける力が、この館には備わっているのかも知れない。
‥‥‥‥決して食い意地なんかじゃありません。ありませんとも。
「競争率が高そうですね‥‥」
考え事など、しているような時間はない。とにかく仕事。まずは仕事が最優先。
雨が降り続いている陰鬱とした世界で、館の中はそれまでにないほど騒がしくなる。
‥‥‥‥今日のお茶会は、賑やかな集会になりそうです。
Fin
●●一見すると後書きに見えてやっぱり後書きなコーナー●●
毎度おなじみメビオス零です。本当に、毎回毎回ご発注ありがとうございます。
今回のお話はいかがでしたでしょうか? 作り物の怪しい世界。しかしそこから抜け出せない人々。辛い現実に帰るぐらいなら、作り物でもなんでもいいからそこで生きていたい! なんて人達が住み込みで働いています。ネットゲームとかしてると「この世界に入りたい!」なんて思いますからね。そんな人達ですね、きっと。嫌な事でもあったんですよ。
まぁ、この館の世界では、必要な物は気が付いたら補充されているし、必要な技術や知識は必要な時に与えられるしと、至れり尽くせりの環境ですから‥‥‥‥気持ちは分かるなぁ。
前回、私が“割烹着派”であると言った事で、気を遣って頂いてすいません。でも割烹着の女性は出しませんでした。何故か? だって洋館だもん。メイド服ばかりの館に何故に割烹着があるのか? と思ったので。いや、この館の設定上、たぶん使用人が望めば支給されるんでしょうね。こら館。甘やかしすぎですよ。
‥‥‥‥なんて言いつつ、長くなったのでこれぐらいにしておきましょう。
今回の作品は、本当にいかがでしたでしょうか?
色々とご指摘、ご感想、ご叱責等々、言いたい事があると思います。そういう物は、またファンレターとして送って頂けると幸いです。毎度楽しみに読ませて頂いております。
ではこの辺で‥‥今回のご発注、誠にありがとうございました(・_・)(._.)
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