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【魔性】
あなたはどこにいるのかな?
鏡の中に? 血の中に――
瞳の中に? 夢の中に――
あたしはどこにいるのかな?
頭の中に? 血の中に――
体の中に? 世の中に――
サンダルウッドの精油が香る。
太古の樹林の気配が満ちる。
明かりを消したバスルームに、湯気に混じった仄かな香り。
白くけぶる蒸気が囁く。
心優しき水の子が、己に還れと囁きかける。
本能が首をもたげる。
香気が鼻腔を這って、咽喉をすぎる。胸をくすぐる。
草の香りなんかじゃない。
木、ただ一本だけでもない。
荘厳な山々を、その山脈の懐を、万を越える大樹が支える。
万を越える年月が育んだ、深い、深い森の香り。
生き続け、継がれ続けた命の香り。
苔むした大樹には虫の死骸が、リスのフンが、鳥の巣が息づいている。
その幹には寝床を求めるキツネの親子が、腹をすかせた狼が、山の人が一晩の命を預ける。
幾億もの命が行き交う森の中。そこで育まれた大樹の香り。
心を原始へ落ち着かせる。
太古の空気があたしを惑わす。
懐かしくも、そら恐ろしい、その香り。
ひとつ嗅いで胸は驚く。
ふたつ嗅いで森を感じる。
みっつ嗅いで首から肩の凝りはほどかれ。
よっつ嗅いで胸がすく。
ぽっかりと空いてしまう。
胸がすく。
そこに森の空気が満ちる。
それを心落ち着くと、人はいう。
けど、あたしは、そのすいた心に異様を感じる。異質を感じる。
ざわめく心が腹の中へと落ちていく。
肚の中で渦巻いている。
窓から差しこむ、かすかな月光。
ライトを消して入った湯船。
お風呂の蓋を半分だけ閉じ、そこにアロマを差した皿を置く。
湯気に煽られ、霞のように漂ってくる。
いや、湯気を染め上げ、バスルームの空気を変える。
胸まで浸かった湯の熱が、肩と顔から汗を出させる。
その汗が湯気と混じる。
香りと交わる。
あたしの身体は汗を通じて、湯気を通じて、密閉されたバスルームで、深い深い森の気配にさわられる。さらわれる。
始原の情緒に翻弄される。
解放される。
社会という名の、世の理りから。
理性という名の、しがらみから。
あたしはあの子を解放する。
そう、もう一度会いたかった。あたしの悪魔。
すいた心に顕れて、じっとりと拡散する。
心臓の拍動に乗り、循環する血に乗って、全身に行き渡る。
両手両足、首、顔、頭。
汗となって吹き出るかと思うほどに、肉の表面、その皮膚までを侵してくる。
あたしがいった。
「うれしいわ」
なぜだか口が動いていた。
咽喉の奥から、囁くような、ねっとりとした声だった。
呟いた口を閉じ、その唇を右手で触れた。
上唇に爪を感じた。
伸びている。
爪がいつの間にか伸びている。
薄暗い月光の中に見た。爪は紫色になっていた。
湯の水面へと視線を下ろした。
紅い線が湾曲している。微笑んでいる。
闇色の水面に映る。
画家のアトリエに現れた、妖艶な魔性を宿したあたしが映る。
「また会えたね」
本性は血に宿る。
そして理性は血を計れない。
血そのものを感じることなどできはしない。
身体の中をこんなにも行き交っているというのに、血そのものを見ることは滅多にないし、血の痛みを感じることなどほとんどない。血が病いに侵されているとしても、それは肉の痛みでもって、その病いを知るだけだ。
心の中でそう告げて、あたしはうっすらと笑みを浮かべた。
だから人は――理性を知り、それがもたらす安堵を知ってしまったヒトは――あたしを知らない。本当のあたしを知らない。
眠たげにまぶたを下ろし、すこしだけ目を開けて、湯気がけぶるバスルームの闇を眺める。
水面を叩く。
ぱしゃん、と鳴って、静寂が砕け散る。
そしてまた音がなくなる。元に戻る。
すべてのモノが無意味だった。
ずっと隠されてきたあたしにとって。
すべてのモノが可笑しかった。
何の用にもならないのに、そこにあるから。
だから悪魔(あたし)は冷笑する。
だから悪魔(あたし)は破壊する。
どうせまた、この世から隠されるだけだろうと分かっているから。
けど、今この時に。
触れたかったモノに触れる。
その喜びに心が満ちる。
憧れていたモノと語らう。
その嬉しさに心が踊る。
だから愛する。
愛おしくなる。
あたしが還るべき場所に、持って行きたくなってしまう。
あちら側に。
ねえ、みなも?
右手で左の頬に触れた。湯気と汗に濡れている。
呼気が手のひらに包まれて、その香りが鼻をくすぐる。
甘い甘い華の香り。
自分の息に誘われる。
魂の、漏れた欠片に誘われる。
鼻から吸いこむ息は、あたし。
あたしの肚から、いいえ、血から。
肉に染み出て、汗となって、蒸気となって、気配となって。
あたし自身の情緒を侵す。
あたしの気持ちを塗り替えていく。内側から。
発した息に心惹かれる。
その香りにこそ引き込まれる。魂が身体の中に引き込まれる。
つれていく――
ぞくりとした。
耳の奥、光の差さない身体の中から、囁くような闇の声。
ずっと、ずっと憧れていた、あなたを。
みちづれとして、つれていきたい。
つれさりたい――
湯船の中で後ずされば、背中がタイルに触れていた。
冷めた湯気が小さな水玉となり、壁のタイルを覆っている。
それが冷たい。
肌は粟立ち、その感覚に全身が覚醒する。
いつもより膨らんでいる乳房、持ち上がっているお尻、伸びた髪、頬に触れる豊かなまつ毛。
軽く跳ねれば、そのまま浮かんでしまうのではないかと思うほど軽い身体。
身体はすでに入れ替わってた。
あたしはすでに囚われていた。
理屈でも理性でもない。
様々な情念渦巻く、感情の泉の中に。
毒々しい血の色をした、水の中に。
外から中は見えないが、中にいればよく分かる。
あたしの気持ちがよく分かる。
せっかくだから、しばらくここにいようと思った。
今、表に出ているあの子が、どんな気持ちでいたかを知りたい。
憧れていた表なのに、もう怖がって戻りたくなってる、あの子の気持ち。
いいえ、これはあたしの気持ち。
さあ、行きなさい。
もうひとりのあたし。
ずっと閉じ込めていた、あたしの魔性。
あなたは、なにがしたかったの?
バスルームの窓を開けて、身を乗り出す。
裸体は月光に照らされて、神秘的に光り輝く。
薄闇を衣に変えて、それを纏った。
淫妖なワンピースに身を包み、あたしは夜の街へと飛び去った――
(了)
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