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<東京怪談ノベル(シングル)>


過信の代償



 深い森は、何を隠すにしても便利な場所である。
 何百何千を数える木々の檻は、昼間であっても直接陽が差し込むような事はない。樹齢百年を軽く超える大樹は見る者に威圧感すら与え、森を住処にする獣達は、侵入者が無防備に寝入る時を、今か今かと待ち構えている。
 頭上を見上げれば、枝葉によって染められた暗緑の天井。昼夜を問わず、陽も星の光も見えぬ魔の領域は、方角すら見失わせて入り込んだ者を不安に陥れる。あらゆる場所を見渡した所で、在るのは草木が延々と広がる光景ばかり。目的地へと迷うことなく進んでいたつもりでも、気付けば道を逸れて見知らぬ場所へと誘われる。
 迂闊に入り込んできた者を迷わせ、やがて骸へと変えていく異界。
 古今東西、あらゆる者達が世界中の樹海に挑み、命を落とした。それは現代科学の発達したこの現代においても同じ事。たとえ近代技術の結晶を持って万全な準備を整えたとしても、生きて帰れる保証などどこにもない。
 それだけに、自殺志願者か無知な阿呆か、はたまた数々の経験を積んだ専門家か‥‥‥‥せいぜい踏み込む者がいるとしたら、その程度だ。
 ‥‥‥‥常に死が付きまとう死の樹海は、闇の世界の領域だ。
 それだけに、闇の暗部で蠢く輩が好む場所でもある。
 深い森なら、一国の調査機関でさえ滅多には踏み込まない。踏み込んできたとしても、そこに隠れ潜む物を発見出来る確率などたかが知れている。
 だからこそ潜むのだ。たとえ樹海に潜む自分達が危険に晒されようとも、樹海ほど人によって暴かれにくい場所もないのだから‥‥‥‥

「‥‥‥‥」

 ガサガサと草を踏みながら、数頭の鹿が森を歩いている。
 昨晩に降っていた雨が足下の枯れ草を濡らしていたため、僅かに歩きにくそうだ。ベシャガシャと腐葉土へと変化し始めている地面を踏み付け、注意深く歩き続ける。
 一際大きな雄の鹿かがリーダーらしく、先頭を歩きながらも後ろを歩く子鹿を気に掛けるように時折振り向き、道を選びながらゆっくりと森を進んでいく。時折耳をピクピクと動かしているのは、草木に隠れて自分達を狙ってくる捕食者達を警戒しているからだろう。広大な樹海の中では、人間よりも野犬の類の方が遙かに恐ろしい。走りづらい地形を、何キロ何十キロと追跡される恐怖は、人でなくとも避けたい所だろう。

「‥‥‥‥!!」

 突然、先頭を歩いていた鹿が耳をピクピクと動かしながら立ち止まった。
 周囲を見渡し、耳を動かしながらあちらこちらへと首を向ける。自分達とは別の生物の音を聞きつけたのだろう。音の出所となっている生物が捕食者ならば、全力で逃げなければならない。
 しかし、音の出所が分からない。強いて言えば、目の前にある岩場か。しかし多くの岩が積み重なり、岩と岩の間に土が入り込んでいるその場所には、生物が潜んでいるようなスペースはない筈だ。
 敵の姿が見えず、不安が鹿達の胸を早打たせる。
 鹿達は落ち着きなくグルグルと回りながら、やがて‥‥‥‥
 ガタガタ‥‥ガシャン!!
 不意に襲いかかった甲高い金属音に、鹿達は飛び上がらんとばかりに驚き、大慌てで森の中を走り始めた。

「けほけほっ‥‥‥‥ふぅ、やっと外に出られましたね」

 手にした鉄格子を放り出し、水嶋 琴美は十数時間ぶりに出る地上の光景に、安堵の溜息をつく。岩場の影から身を乗り出し、「よっ」と小さく掛け声を掛けて一息に体を外に出す。

「んっ‥‥‥‥」

 冷たい森の外気に触れることで、琴美の豊満な体がブルリと震え上がる。それまでいた空間が温かな場所だったからか、静謐な森の空気が肌に痛い。胸を寄せ上げる様に体を抱き締め、柔らかな肌を摺り合わせて暖を取る。
 しかし、新鮮な空気を吸い込んだ口元は自然と綻び、空気の冷たさなど微塵も感じさせない微笑みを浮かべていた。

「これで、この森ともおさらばですね」

 琴美は、放り出した鉄格子を念のためもう一度手に取り、自分が這い出した“出入り口”に嵌め込んだ。そして鉄格子を嵌め込んだ穴が外から見えないようにと、手近な石と枝で隠しに掛かる。
 ‥‥‥‥琴美が出て来たのは、今回の任務で潜入していた地下研究施設の通風口だった。
 敵対組織の研究施設に潜入し、情報を奪取する任務を与えられた琴美は、敵に見付からないようにと細心の注意を払って潜入方法を検討した。樹海の地下に隠された研究施設には、限られた潜入方法しかない。
 正規の出入り口を見つけ、正面から入り込むか? しかし見張りの兵隊ぐらい、確実に配置してあるだろう。制圧ならまだしも情報奪取が目的の隠密任務で、騒動を引き起こす可能性のあるプランは検討に値しない。
 敵の兵士に変装して入り込むか? これも却下だ。研究施設内の兵士がどんな格好で、どんな装備を持っているのかも分からない。それに、まさか兵士や研究員をチェックもせずに深部にまで入り込ませたりはしないだろう。確実性に欠けるので却下される。
 よって‥‥‥‥琴美が取った手段は、通風口から内部に潜入し、静かに仕事を終わらせる事だった。
 地下施設に限らず、防災上の都合を考えれば、研究施設に通風口の類は絶対に必要だ。それに、大きな施設の通風口は、点検上の都合で身を縮めれば人でも入れるほどの大きさは確保されている。
 重装備を必要とするような兵士ならばとても入り込める場所ではないが、鍛錬に鍛練を重ねた琴美からすれば、絶好の侵入経路である。
 ‥‥‥‥誤算があるとすれば、その通風口が森の湿気と風に侵されて薄汚れていた点だった。

(‥‥ま、これで良いでしょう)

 パンパンと手を叩き、琴美は体の状態を確認する。
 半袖に仕立て直した着物を正し、帯付きの改造上着に付いた枯れ葉を取り除く。下に履いているスパッツとインナーは問題ない。膝まで守っている編み上げのロングブーツに、手を覆っているグローブも異常なし。と、胸元に隠していたディスクは‥‥‥‥大丈夫。ディスクの中には、研究所から奪取した機密情報が詰まっている。大事に扱わなければならない。
 最後に、狭い場所に出入りするために纏めていた長い黒髪を大きく振り乱し、軽く手で梳かしてから背中に流す。

「さて‥‥‥‥」

 体の状態は良好。長時間研究施設に潜伏していたが、体力もまだまだ有り余っている。交戦の類も一切無かったため、装備の消耗もない。これで、後は仲間の元に戻るだけだというのだから、もはや任務は完了したも同然だった。

(それでは、手早く帰ってシャワーでも浴びましょうか)

 現在地から人通りのある道までの最短距離は、研究施設の中にあったデータを頭の中に叩き込んであるため、迷う事はないだろう。いかなる樹海であろうと、走破出来ないわけではない。まして、忍びとして野山を駆け回っていた琴美に取っては大した障害ではないのだ。
 問題があるとすれば、樹海を見回っている兵隊に見付からない様に‥‥と気を遣うだけだ。

「‥‥‥‥」

 琴美は周囲の気配と物音に再度気を配ってから、草木の影を縫う様にして疾走を開始した‥‥‥‥


●●●●●


 ‥‥‥‥現在の時刻はいつ頃なのか‥‥‥‥
 撤収を開始してから大した時間は経っていないと思うのだが、樹海の夜は早い。昼間でも木々によって日が遮られていて薄暗いのだ。日が落ちてきたと気付いてから、ほんの十数分で暗闇に囚われてしまう事など珍しくもない。
 幸い、まだ夕暮れ時だろう。日は傾いているが、森の中を走るには支障はない。しかし完全に日が暮れる前にこの樹海から抜け出せるかと言えば、それは否だろう。如何に琴美が優秀な忍びであろうとも、人間である限りは限界がある。森が暗闇に閉ざされれば、全力で走る事も出来なくなるだろう。
 幼い頃からの鍛錬によって、夜目は利くのだが‥‥‥‥
 正直、こんな樹海の中で夜を明かすようなことは避けたかった。

(虫も多いし、迂闊に眠れないし‥‥‥‥出来れば暗くなる前に出たかったんですけど‥‥‥‥?)

 木々の合間を縫いながら疾走していた琴美は、ふと、奇妙な香りを嗅ぎ付けて立ち止まった。

「‥‥‥‥」

 暇潰しに無駄な思考に走っていた頭が、まるで凍り付いているかの様に冷め切った。
 物音一つ立てずに茂みの中に身を潜め、森の中を流れる風を読む。多くの木々に風は巻き、道を塞がれて停滞する。風などとは名ばかりで、それは微風にもなりきれない小さな現象だった。普段なら気にも止めなかっただろう。しかしその風が、警告となって琴美の体を強張らせる。
 僅かな風を、琴美は注意深く嗅ぎ取っていく。森の冷気と、地面を汚している雨が湿気となって肌を汚しに掛かる。疾走していたにも関わらず、琴美の顔には疲労も汗も滲んでいない。呼吸も乱さず、琴美は茂みの影を移動する。出来るだけ状態は上げず、屈んだ状態で、いつでもどの方向にも跳躍出来るようにと最大警戒で移動する。
 忍びの訓練によって、気配の遮断、痕跡を残さずに移動する術は叩き込まれている。たとえ森の中というハンデを加えた所で、街中を歩く凡人の方がよっぽど大きな音を立てて歩いている事だろう。警戒している琴美の動きは、獣であっても容易に捕捉できるものではない。

(生臭い‥‥)

 琴美をそこまで警戒させたものの正体は、周囲の空気を染め上げる生臭さ、そしてそれに混じる血臭だった。
 血臭には、まだ腐臭が混じっていない。それは、まだこの血臭の元となったモノが新しいという証拠である。周囲に生き物の気配はない。血臭の濃さから察しても、まず間違いなく出所には何モノかの死体があるはずだ。
 ならば、その死体を作り上げたモノが近くにいる可能性が高い‥‥‥‥
 獣か、それとも兵隊か‥‥‥‥
 研究施設に感づかれて追っ手を放たれた‥‥‥‥とは思いたくないが、広大な樹海の中で、獣の補食シーンなどに都合良く(都合が悪いのだが‥‥)出くわすなどそうそうある事ではない。
 幸い、相手から攻撃を受ける前に気付く事が出来たのだ。先手さえ取れれば、兵隊だろうと獣だろうと敵ではない。背後に忍び寄って一撃すれば事足りる。
 血臭と辿り、警戒を強めながら血臭の源を探る。
 そして‥‥‥‥

(‥‥‥‥鹿?)

 発見したのは、複数の鹿の死骸だった。
 一家揃って襲われたのか、親鹿と思われる二頭の鹿に、子鹿が寄り添う様にして倒れている。罠を考慮しているために迂闊に近寄れないが、遠目でもおおよその状態を見て取る事が出来た。
 まず、全頭が首を一撃で切り落とされている。子鹿が親鹿かに背を向ける様にして倒れている所を見ると、恐らく親鹿が先に襲われ、それから逃げようと背を向けた子鹿が切り捨てられたのだろう。
 それ以外に、外傷らしい外傷は見当たらない。全頭を一撃ずつ。かつ、死肉が食い荒らされていない所を見ると、獣の類ではない。
 しかし、今時銃器を使わずに鹿を仕留めに森に入るなど‥‥‥‥

(さて、どうしましょうか)

 選択肢は限られている。
 このまま鹿を仕留めた者など気にせず、森から抜け出す事も出来る。出来るのだが、その場合追っ手にそのまま追跡される可能性もある。
 鹿を襲った相手を自分の敵として、この場で排除しておく事も考えられる。
 しかし、その相手がまだこの近くに留まっているか? 留まっていたとして、琴美の事に気付いているのか?
 もしも敵が琴美を意識して待ち伏せていなかった場合、藪を突いて蛇を出した事になる。今回の任務は、あくまで情報収集に過ぎない。可能な限り面倒事は避けたいのだ(敵を一人でも倒すと、“拠点の近くにまで侵入者が着ていた”と言う証拠を残す事となり、敵に警戒される事になるだろう)。
 再三、周囲の気配を探る。視界の範囲には生物の影一つ見当たらない。こんな時には、雑音に混じる音だけが頼りだ。耳をそばだて、微かな葉擦れ、衣擦れの音まで聞き逃すまいと集中する。自分の存在感を薄める気配の遮断は、待ち伏せ作戦では必須事項だ。敵もそれを習得しているだろう。しかし、生きている限り呼吸は必要であり、靴が僅かに動くだけで土を、葉を崩す音が発生する。それを聞き付ける事さえ出来れば位置を把握できる。こればかりは、どんな訓練を積んだ所でどうしようもない。
 ‥‥‥‥どうしようもないはずなのだが、怪しい音は聞こえない。
 風が弱々しい事もあるだろうが、これでは枯れ葉が舞う事すらないだろう。やはり待ち伏せの追っ手など存在しないのかと考えながら、琴美はちょうど頭上から落ちてきた葉と土を手で払い――――

「――――っ!」

 間髪入れずに跳躍した。
 ズシャッ!
背後から聞こえる打撃音に、目の端に映る人影。低い姿勢で前方に跳躍していた琴美は、前転の要領で体を回転させ、地面を殴りつけて反転し、現れた敵と相対する。

「惜しい! もうちょっとだったのに躱されるとかマジでむかつくとかそう言うレベルの問題じゃねぇぞコラ!!」
「‥‥‥‥馬鹿?」

 敵と相対した琴美は、まず確実にそうだろうという確信を籠めてそう言った。
 目の前には、奇襲を掛けてきた張本人が悔しそうに舌打ちしながら立っている。長袖の紺のコートに白いTシャツ、青白いGパンと、そこらの街中を歩いている若者風の、何とも森の中では目立つ格好をしている。とても戦場に出てくる様な輩には見えない。
 奇襲を躱された事で、なにやら自尊心が傷ついたのか‥‥‥‥体を折り曲げ身悶え始めた。どう見ても馬鹿か、そうでなければ変態だ。こんな変態に不意打ちを受ける寸前だったかと思うと情けなくなるが、結果的には躱す事が出来たので良しとする。

「ええい貴様! 何故にこのギルフォード様の完璧にして華麗なる奇襲を躱せたのだ!」
「あなた、靴の泥ぐらい拭ってから木に登りなさい。あなたよりも先に泥が落ちてきたわよ」

 それがなければ、奇襲は成功していただろう。
 ギルフォードと名乗った馬鹿の足下は、僅かに地面が抉られていた。その規模は小さく、弾丸で地面を撃った方が、まだ被害も大きかっただろう。
 しかし、そんな小さな威力であろうとも、狙う場所を選べば致命傷になる。躱していなければおそらくは後頭部、もしくは首を砕かれていただろう。
 その事実に戦慄を覚え‥‥る事はない。少々思う所はあるが、精々「帰ったら訓練を増やそうかしら」程度のものだ。敵に対しての脅威ではなく、最近ちょっと簡単な任務ばかりで弛んじゃったかなぁ等と思っているぐらいである。

(身長は高い、体型は細身だけど筋肉はしっかりと付いていそうね。武装は‥‥銃の類は持ってない? あの鹿の切り口から見て、刃物は持っていそうだけど)

 相対しながら敵の戦力を計っていた琴美は、ギルフォードを強敵などとは微塵も思っていなかった。
 ギルフォードの姿勢、足の位置、体全体の動きに視線等々、様々な要素から察するに‥‥‥‥
 うん。どう見ても真っ当な訓練を受けている輩じゃない。ただの暴力沙汰が好きなだけのチンピラだろう。忠誠心などとは程遠い存在だが、金次第でいくらでも揃えられるために闇組織では使い捨て要因として見かける事がある。大抵は銃を所持しているので流れ弾だけは脅威だと思っていたが、それすらないのでは話にならない。先程の奇襲も、恐らくは素人だからこその存在感の無さというか、完全に偶然だったのだろう。
 そもそも、琴美は“敵の姿が見えない”から警戒していたのだ。見えてしまった以上は脅威でもなんでもない。離脱でも排除でも、いくらでも対処できるだろう。
 こうなると話は早い。
 場違いな馬鹿が突然消えた所で、死体さえ見付からなければ誰も気にしないだろう。この手の輩は、自分が所属した組織が思っていた以上に巨大だったりした場合、こっそりと逃げ出す事がある。前触れもなく消える事など珍しい事ではない。
 幸いにも、ここは広大な樹海だ。死体の隠し場所には事欠かない。
 ギルフォードは、相変わらず身悶えながら「畜生!」だの「ぶっ殺してやる!」などと喚いている。正直言って鬱陶しいし五月蠅い。一秒でも早く始末しておいた方が良いだろう。

「それじゃ」

 言葉を切らずに、喚いているギルフォードに袖口に隠していたクナイを投擲する。
 狙いは眉間。互いの距離は二メートルも開いていなかったため、突き刺さるまでに一秒もかからない。
 しかし、そうして突き刺さるよりも速く――――

「消えなさい。変態さん」

 琴美はギルフォードとの間合いを詰めていた。

「うおっ!」

 ギルフォードは、反射的に首を捻ってクナイを躱す。それは予想の範囲だ。保険として自分自身で必殺の間合いに入っている。本能的に危機を察したのか、手を伸ばして琴美の体を掴もうとしてくる。

「はっ」

 その腕を一息に切り落とす。続いて足を払い、体勢を崩した所で喉元を切る。いや、心臓を貫いた方が良いか。出来れば出血は少ない方が良い。手向けにクナイが刺さったままで埋めてやろう。雑魚にクナイを一本消費するのは勿体ない様な気もするが、たまにならそれぐらいは――――
 ギンッ!

「なっ‥‥!?」

 差し伸ばされた右腕を断ち切ろうとしたくないは、腕を切り捨てるどころか逆に砕け散り、破片となって宙を舞う。思わぬ現象に体が硬直し、目を見開いて唖然とする。
 琴美の腕力はそれなりに強い。訓練を積んでいるため、相手がマッチョでもない限りは簡単には力負けなどしない。しかしその力を持ってしても、クナイを砕くなどとても出来ない。琴美が全力で岩に突き立てたとしても、弾かれるばかりで砕ける事などないだろう。
 そのクナイが砕かれた。それもギルフォードの右腕に突き立った瞬間に、金属音を立てて砕け散った。それは琴美の力によるものではない。右腕のコートに触れた瞬間に、“コートの中から与えられた衝撃”で砕かれたのだ。
 そしてその衝撃の正体が、今、コートを突き破り半月状の刃となって現れる。

「――――!」

 悪態を付く様な余裕も時間もない。思考すらも凍り付いた。咄嗟にクナイに与えられた衝撃を利用して体をずらし、寸での所で右腕を回避する。
 危ない所だった。ギルフォードの右腕が義手だった事に、琴美は舌打ちする。長袖のコートを着込んでいたために、外から見ている分には分からなかったのだ。それが判断を狂わせた。作り物だと知っていれば、最初から右腕など無視してギルフォードの喉笛を狙っていたものを‥‥‥‥!!

(それでも、私の勝ちに変わりはないわね)

 しかし、それでも琴美は自分の勝利を疑わなかった。
右腕の追撃を避けるため、ギルフォードの左半身側へと回り込む。驚かされはしたが、その程度だ。ギルフォードは全力で琴美を捕まえに掛かっていたのだろう、右腕で琴美を捕まる勢いが強すぎて、左半身が大きく後方に引いている。左半身側に入り込んでしまえば、右腕の追撃を受ける事はなく、左腕からの攻撃は受けにくい(右腕で力を籠めて拳を繰り出した場合、どうしても左半身を後ろに引かなければならない。こうなると左腕を前方に伸ばしにくい上に力が入らないのだ)。
 三本目のクナイを使うまでもない。この間合いならば、首をへし折ればそれで済む。回り込んだ勢いを利用して、擦れ違う様にギルフォードの頭部を掴み、後は全体重を掛けて“ゴキッ”っと回してやれば簡単に終わるだろう。
 ギルフォードは琴美を目で追っていた。しかし、体は琴美に追いつかない。意識はまだ琴美を追っているのだが、体は急激な変化に付いていかずに取り残される。
 琴美の腕が伸び、ギルフォードの頭部をガチリと固定し――――
 ズッ‥‥

(痛っ! な‥‥え?)

 途端、頭部に伸ばした腕に痛みが走った。まるで刃物を突き立てられた様な痛み。そして目の前の光景に、琴美の目が見開かれる。
 琴美の腕に、クナイが突き刺さっていた。見覚えがある。それは琴美が持ち歩いている物だった。
 そしてそれは、先程砕かれた物でも、盗まれた物でもない。琴美が投擲したクナイだ。ギルフォードの眉間に投擲したクナイが、今は琴美の腕に突き立っている。その事実が、琴美の思考をコンマ一秒遅らせた。
 続いて、反射的に何故突き立っているのかを考察してしまう。ギルフォードは、右腕で琴美に攻撃しながら左手で躱したクナイを指に引っ掛けて軌道を変えたのだ。投擲したクナイは、後ろに金属製の輪が付いているタイプ(紐などを引っかけて使用する)で、その輪に指を掛けられて軌道を変えられたらしい。
 この思考にさらにコンマ二秒。後方を見ずにクナイを投げ返してきたギルフォードに対しては驚愕しない。と言うより、そんな暇はなかった。通算にしてコンマ三秒の出遅れ。それはあまりに致命的で、取り返しの付かない必殺の時間‥‥‥‥

「ハッハァーー!!」
「このっ!」

 クナイに気を取られ、そして痛みに力が緩んだ腕が引き剥がされる。組み付いていた琴美に軽く頭突きを食らわせ、さらに左腕で肘打ちを繰り出してくる。
 だが、そう簡単に攻撃を食らうはずもない。頭突きで引き剥がされはしたものの、肘打ちは咄嗟に後方に跳んで避ける。不安定な体勢で跳んだために、肘打ちを回避出来ただけで間合いを離せていない。さらに追撃。今度は義手を用いた裏拳が琴美の体に襲いかかる。さらに後方に‥‥‥‥跳べない。背中に軽い衝撃が加わる。そこには当然の様に木が立ち塞がり――――

「がはっ‥‥!!」

 ギルフォードの義手が、琴美の体を薙ぎ払った。
 咄嗟にクナイを自分の体に密着させ、即興の鎧とする。義手は重く、迎撃しようとすれば再び砕かれるだろう。しかし肌に密着させれば、衝撃は肉体に吸収されて壊れにくくなる。もちろん肌に峰を向けているため、刺さる事はない。
 加えて、義手から現れていた刃をガードする事にもなった。まともに受けていれば、先程転がっていた鹿の様に一刀両断されていただろう。その事実にゾッとする様な余裕は与えられず、琴美の体は、言葉通りに殴り飛ばされた。
 元々の体重差もあるのだろうが、ギルフォードの力は異常だ。脇腹を殴りつけた義手は、琴美の体を数メートルも吹き飛ばし、バキバキと茂みの枝を叩き折って琴美を地面に転がした。
 ‥‥‥‥痛みに意識が遠退く。しかし意識は手放せない。まだ戦闘が始まってから十秒弱。秒殺されるなど、琴美の誇りが許さない。生還しようと言うのなら、たとえ肋が折られようとも立ち上がらなければならない。

「う‥‥くっ‥‥」

 隙を見せぬようにと、殴り飛ばされた衝撃をそのままに好転し、地面に転がりながら立ち上がる。戦闘は続行。肋が折られているこの状況では、ただ走って逃げたのでは追いつかれる。
 ‥‥‥‥夜は近い。
 虫も鳴かぬ森の中、ただギルフォードの高笑いだけが響いていた‥‥‥‥