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<東京怪談ノベル(シングル)>


駆け抜ける牙(1)



 ‥‥‥‥ただ過ぎ去っていく時間が、退屈だった。

「‥‥‥‥ふん。こんなものか」

 退屈凌ぎにと差し出された獣を肉塊に変え、巨躯の傭兵は一息ついた。
 背後で吹き出し続けている血飛沫。いったいどれだけの量が詰まっていたのか、ブシュゥゥと言う音がなかなか収まらない。もしかしたら、まだ心臓は動いていて新しい血液を生み出しているのかも知れない。まぁ、そうであっても助かるような傷ではないのだが。首はねじ切れ手足は引き千切られ逃れようと毛虫のように這う胴体は分厚い毛皮を引き裂かれて内臓を抉り取られている。確かに心臓に対して攻撃を加える事はなかったが、逆にそれ以外、原形を残している部位がない。
 殺すだけならば、戦闘開始から五秒もあれば十分だった。
 しかし、それでは退屈凌ぎにはならない。
 戦闘とはとても呼べない一方的な惨殺は、五秒で済む所を十分以上も掛けられ、念入りに行われたのだった。

「社長さんよ。もっと面白いモノはないのか?」
「君も我が儘だね。退屈していると言うから、暇潰しの相手を用意したというのに‥‥‥‥その子猫を作るのに、どれだけの資金が消えたと思っているんだい?」
「俺と対峙した時点で死ぬに決まってるだろ。大体、あんたはそれを分かっていて俺に差し出した。なら、どれだけの資金がかかっていようが知ったこっちゃない。俺は差し出されたモノは遠慮無く食う主義だ」

 食事の話ではない。殺し合いの相手の事である。
 獣の返り血をタオルで拭いながら、傭兵‥‥‥‥ファングと呼ばれるハイエナが、目の前の鏡に向かって喋っている。
 ‥‥ただの鏡ではない。そこにあるのはマジックミラーだ。
 ファングが居るのは、日本の都市部にある高層ビルの一室だ。ほぼ屋上近い地上五十階。学校の教室ほどの広さの部屋。四方八方あらゆる角度を、鋼鉄と強化セラミックのプレートが囲み、銃器どころか重機を持ってしても破壊出来ないように念入りに固めてある。
 万が一の時にはこの階層を吹き飛ばせるようにと、壁は二重、三重の作りになっており、その合間には大量の爆薬が仕掛けられている。これはファングを殺すための物ではなく、ファングが対峙していた生物が脱走しそうになった時、この階層ごと消滅させるためだ。
 ‥‥‥‥そしてそんな危険極まりない部屋の隣、マジックミラーの向こうには、ファングに獲物を提供した雇い主がいる。爆発に耐えきれるようにと肉厚のマジックミラーに姿を隠し、血飛沫に濡れる室内を、笑みを浮かべて見回している。
 と言っても、その雇い主は楽しんで眺めているわけではない。笑みは苦笑だ。大事な商談の最中に、よりにもよって商品を完膚なきまでにぶっ壊してしまったファングに呆れている。

「確かに、壊されるとは思っていたが‥‥‥‥こうまで呆気なくてはな。誰も商品を買おうなどと思わんだろう」
「いやいや、社長。あれは確かにすごいモノでしたが‥‥相手が悪かったのですよ。ファングの異名は、裏社会では有名ですからなぁ」
「うむ。知らぬ者は居らぬだろう。実力以上に、その凶暴性からして、な」

 雇い主だけでなく、その上客の声が聞こえる。
 頑強なマジックミラー越しにファングを見ている雇い主と商談相手の声は、当然この部屋にまでは届かない。よって、雇い主の声を伝えているのは部屋の隅に設置されている二つのスピーカーだ。ファングからは、雇い主側は見えていない。

「褒めてんのか? そりゃよ」
「当然だ。君ぐらいの実力がなければ、余興にもならん」
「余興ね‥‥まぁ、なんでも良いんだがなぁ」

 命を賭けた死合い(と言っても、ファングにとってはなんでもない事だったのだが)を余興扱いされても、ファングは眉を顰める事すらしなかった。
 彼にとって、たとえ自分の命を賭けた戦場であろうとも遊技の場に過ぎない。たとえ何百何千何万何億の命がその戦場で意味もなく死んでいこうとも、知った事ではない。そしてその散っていく命に自分自身の命が含まれていたとしても、それもまた知った事ではない。
 自分の命が無惨に無意味に砕け散ったとしても、強者を喰らい、思うままに殺し尽くす快楽を覚えてしまった今となっては‥‥‥‥自分の命など、秤の上に乗せる価値すらない。
 平然とタオルで返り血を拭い続け、やがて面倒臭くなったのか、血にまみれた姿で溜息をつく。

「見せ物にしても、もちっとこう‥‥‥‥気合いの入った化け物はいないのか? 例えば、殺しても殺しても再生したり進化したり敵を食って際限なくデカくなったりそのうち基地ごと爆破されるような感じの化け物は」
「それはどこのゲームの怪物だ? 何にせよ、君が相手をしたのが、我が社の主力商品になる“予定”のモノだったのだが」
「要改良だな」
「君に判断を任せるつもりはないが、いつかは君を殺せるだけの商品を作りたい物だ」

 ミラーの向こう側にいる雇い主は、ファングは自分に牙を向ける事はないと確信しているらしく、相手によっては殺されても仕方ないような台詞を平然と吐いている。
 しかし実際、ファングは気にした風もなく、元は怪物だった獣の死骸を眺めている。
 殺人も虐殺も平然とやってのけるファングだったが、あくまで求めているのは“戦闘”という行為その物だ。抵抗すら満足に出来ない民間人は、彼にとっては殺害対象外なのである。いや、戦いに巻き込まれた民間人ならば笑いながら殺しもするが、積極的には殺さない。興味がないのだ。
 それを知っているからこそ、雇い主は平気でファングを挑発する。
 護身の心得がない‥‥と言う事は、ファングの興味を惹く事もないという事だ。ちなみに、ファングの雇い主は、そんな彼の性格を考慮し、ボディーガードを身近には配置していなかった。退屈紛れに貴重な戦力を殺されては堪らないからである。
 ‥‥‥‥まぁ、その代わりにと最新型の生物兵器をファングの遊び相手に差し出し、こうして殺される日々が続いているのだが‥‥‥‥
 商談の一環として、生物兵器を客に見せていたのだ。せめて苦戦する芝居ぐらいはして欲しい物である。
 雇い主の言葉に、ファングはニヤリと笑って答えている。

「望むところだ‥‥‥‥本当に、是非にと思ってるぜ」
「やれやれ、仕方ない。ファング、君はそこの死体を片付けてから、休んで――――何をしているんだ?」

 雇い主は、ミラー越しに見えるファングの行動に首を傾げて怪訝そうな声を出す。
 ファングは、雇い主の言葉など聞く事もせず床に手を当ててなにやら思案し、やがて片耳を床に押しつけた。
 それは、異様な光景だった。
 巨躯の戦闘狂が、血みどろの床に這い蹲っている。それも自分から。耳を床に押しつけ、まるで本当の獣のように――――

「オイ、社長さんよ」
「‥‥なんだ?」
「そこから動かない方が良いぞ。結構‥‥楽しめそうな奴がいるみたいだからな」

 ファングが笑みを浮かべる。
‥‥‥‥彼と同じビルに居た者、偶然ビルの近くに居た者が背筋を震わせ、何事かと足を止める。
 彼と対峙していなくとも、その存在を知らずとも、彼の笑みは周囲の人間の背筋を震わせる。彼が浮かべた笑みは、戦場に望む時の笑みだ。体でなく精神に染みついた死臭が、周りの者達に警告する。「このままここにいては危険だ」と、なけなしの本能が警告する。
 それは殺気とは僅かにずれた、得体の知れない気配。曰く付きの幽霊屋敷や、いつ死ぬとも知れぬ戦場で感じる事が出来る緊張感。中に誰が居るのかも、何が居るのかも分からないままに、ビルの近くに居た人々は足早にそこから離れていく。
 ‥‥‥‥漠然とした予感しかしない。
 しかし誰もが、感じたのだ。



 ――――平穏無事な日常が、今日、この時から壊れるのだと――――



 そう、予感していたのだ‥‥‥‥


●●●●●


「な、何だ‥‥‥‥今の」

 その寒気は、当然ビルの内部にいる組織の者達にも伝わっていた。
 勘が良いとか、そう言った要素は入らない。ファングの殺気にも似た高揚感は、ビルの中に居るだけで精神を毒する要素がある。オフィスで仕事をしていた社員達は腰を上げ、理由の分からぬ不安を忘れようと首を振る。しかし、いざというときに逃げられない閉鎖された空間‥‥‥‥エレベーターに乗り込んでいた社員達の不安は計り知れない。

「‥‥‥‥」
「なぁ、今の‥‥‥‥なんだと思う?」

 エレベーターに乗っていた三人の若者は、このまま上の階にまで上っていっても大丈夫だろうかと、不安を隠せずに狼狽えている。
 いや‥‥‥‥三人の若者、全員が狼狽えているわけではない。
 一人、黒いスーツに身を固めている女性は、走り抜けた寒気にも動じず、鉄仮面のように表情一つ変えなかった。静かに眼鏡の位置を直し、目を伏せて落ち着いている。
 女性と一緒のエレベーターに乗っていた二人の若者(男だった)は、その女性の落ち着きようを見る事で、次第に冷静さを取り戻していった。女性が他社からやって来たお客様だったから‥‥と言う事もあっただろう。案内人兼監視員として同行している二人にとって、女性の前で無様な醜態は見せられない。
 そして何より、女性が美人だったからだろう。
 まだ年若く、一見すると十代にすら見える。長い美しい黒髪に、スーツに押さえ付けられても隠しきれない豊満な胸。どんな手入れを施しているのか、きめ細かい白い肌がスーツから見え隠れし、ただ立っているだけでも不思議な艶気を感じさせる。
 取引先からの来客ではあったが、それでもこんな美人の前で、無様な醜態など晒したくないというのが本音だろう。狼狽えていた若者達は、コホンと咳払いをしてから普段の調子を取り戻す。

「さぁ。何にしても落ち着け。お客様の前だぞ」
「あ‥‥‥‥失礼しました。お客様の前で取り乱しまして」
「いえ、構いませんよ。でも、今のは‥‥?」
「分かりかねます。エレベーターの所為でしょうか?」
「怖い事言わないでくれよ!」

 一人が声を上げる。
 得体の知れない寒気よりも、エレベーターの故障という事故の方が怖いらしい。気持ちは分かる。自分が乗っているエレベーターが、もしも落下など始めたら‥‥‥‥想像もしたくない。

「どういたしましょう。戻って、様子を見ましょうか?」
「いえ‥‥‥‥私は、この書類を社長にまで届けなければなりませんので」
「何でしたら、私達でお渡ししておきますが」
「いえ。この書類は、社長に直接お渡しするようにと厳命されております。我が社の信用にも関わりますので」
「そうですか‥‥それなら、お供します」

 裏社会に枝葉を伸ばす組織でも、表社会への顔は必要となってくる。
 暴力団が建設業や警備会社を経営している事も、珍しくはない。要は、警察の目を欺くために表向きの仕事を用意しておかなければならないのだ(それに、金持ち連中へのコネを作るにはもってこいである)。この高層ビルも、その手の一つである。仕事内容は、世界中に手を広げての運送業。表向きは農耕用の重機やコンピューター、小物ならスプーンの一本から愛玩用の動物まで様々な物を運んで見せている。尤も、それらの荷物に混じって違法な商品が届けられたりもする。
 二人の若者が案内している女性は、表向きの仕事で訪れた女性だ。つまりはカタギの女性。裏社会になど、一歩たりとも踏み込んだ事はないだろう。

(社長、変な事考えてないだろうな‥‥‥‥)

 そんな無防備極まりないカタギの女性を、社長室にまで通す頭領に、若者達は嫌な予感を覚えていた。
 まさか‥‥‥‥この美しい女性に、あんな事やこんな事をするつもりでは!?
 あり得る。この世界では、裏社会の頭領が積極的に外に出て行く事はない。だって下手に人目に付く場所に出て、暗殺されたらつまんないからね! おちおち風俗にも行けないやしない頭領は、大抵自分のところにまで女性を呼びつける。取引先の会社や組織が、身内の女を寄越す事もあり得る。

(まさか、こんな女の子にまで手を出そうなんて‥‥‥‥)

 良心が疼く。いっそ、ここで無理矢理にでも帰らせた方が良いのではないだろうか?
 女性はまだ幼い。二十代にも届いていないのではないだろうか?
そんな少女を、こんな裏社会の用心に引き渡してしまっても良いものなのかと――――

(変な事を考えるなよ)

 若者の一人が思考を回転させている時、もう一人の若者が、その思考にストップを掛けた。

(俺たちは、ただの社員だ。首を突っ込むな)
(う‥‥‥‥)

 裏の組織で、トップに逆らったら最期、冗談抜きで消されるだろう。
 それが罷り通る世界だ。仲間や親類ならまだしも、他人にまで情けを掛ける必要はない。情けを掛けている余裕もない。余計な事に頭を使っているよりも、自分の出世のために走り回っている方が現実的だ。この世界で自分の身の安全を確保するためには、部下を使えるようにと出世する以外に道はない。自分が使い捨ての盾として扱われるよりも早く、上司を蹴散らして上に行かなくてはならないのだ。
 少女を救おうとした若者の思考は、そこで止まった。
 見知らぬ、決して手に入らぬであろう美女よりも、自分の保身を手に取った。それが最も現実的な判断だろう。自分の命を捨ててまで他人を救うなど馬鹿げている。
 若者はそう自分に言い聞かせ、チラリと女性に目を向けた。

「‥‥‥‥?」

 女性は笑っていた。
 子供のような、もしくは母親のような微笑みに、若者は高鳴る鼓動を押さえ込むように慌てて顔を背け、目の前の扉に向き合った。
 チン。
 ちょうどその時、上の階へと上り続けていたエレベーターが、電子レンジのような小気味のいい音を出す。ようやく社長室のある最上階へと辿り着いたようだ。流石に地上五十階という高さにあるだけあって、時間が掛かった。この時間さえなければ、女性を助けたいなどと言う余計な思考などすることなど無かったものを‥‥‥‥
 とにかく、ここは既に社長‥‥もとい自分達の頭領の居る階層だ。
 いきなり目の前に居るなどという事はないだろうが、それでも組織の中では最高権力を握り締めている相手を前にするのだ。一時的にでも、気を引き締めていなければならない。もしも粗相があり、それを目にされてしまえば、その時点で首を切られる可能性もある。仕事的な意味合いではなく物理的に、本当に首が飛ぶ。
 そうならないためにも、もはや少女の事など忘れるべきだ。彼らはしっかりと仕事をこなし、彼女を頭領に引き渡してから帰ればいい。いつも通りだ。今日は彼女の相手以外にも、いくらでも仕事がある。この後の予定は、地下で飼育している生物兵器の積み込み作業に立ち会わなければならないのだった。考えるだけでも憂鬱になる。万が一にでもあの改造生物が逃走するような事になれば、その時には自分達で相手をしなければならない。商品を傷つける事は出来ないから、きっと無傷で抑えろとか言われるんだ。本気で上司を殺したくなる。
 「どうぞ」と、先にエレベーターから出て女性を促す。女性は軽やかに若者の隣にまで出て、不意に廊下の先を見た。

「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「あの、何か‥‥?」

 女性の眉が顰められ、空気が変わる。
 若者は女性の視線を追い掛ける。廊下の先。エレベーターの前は、L字型の廊下となっている。エレベーターの前にホールがあり、出て左側に顔を向けると、そこには一本の長い廊下だけが伸びている。それ以外の通路はなく、端から端までの一本道だ。そしてその廊下には、二つの扉がある。一つが社長室。頭領の趣味なのか、社長室は広大で、幹部や上客を集めて会議したり、商談をしたりと活用している。元々経営者としての才能があったらしく、訪れる客は後を絶たない。
 もう一つの部屋は‥‥‥‥地下からの直通エレベーター付きの特別室。学校の教室ほどの大きさの闘技場である。地下で開発した生物兵器をエレベーターで寄越し、侵入者や裏切り者、金で雇った傭兵と戦わせて面白可笑しい虐殺ショーを展開出来るという曰く付きの部屋である。頑丈さを徹底的に追求し、万が一の時のために自爆装置すら備え付けてあるという阿呆らしい部屋。そんな部屋を頑丈にするぐらいなら、社長室を頑丈にしろと言いたい。つーか社長室の隣に作るな。指示したのは社長だけど、何を考えているのだろうか?
 まぁ、そんな部屋の説明など必要ない。閑話休題。話を戻そう。
 女性の視線の先を追う‥‥と言っても、廊下は一本しかないのだから、視線を追わずとも通路の先を見れば、何を見ているのかは一目瞭然だ。
 ‥‥‥‥廊下の先に、誰かが立っている。
 まさか頭領が、直々にお出迎えか? 一瞬はそう思った。しかしよくよく目を凝らし、相手が全くの別人である事を察する。
 まず、頭領はあんなに大柄ではない。廊下は壁を分厚く、頑丈に作るために少々狭くなっている。それでも両手を広げて少し余る‥‥と言った広さの廊下が、一杯一杯に塞がれている。確かに大柄なボディーガードや武装した侵入者なら、廊下を完全に塞いでしまうだろう。しかし目の前で、笑みを浮かべて立ち塞がっている相手は、そんなレベルではなかった。
 幅二メートルほどの狭い廊下を、ほとんど一人で占領している。何しろ、相手の向こう側が見えないのだ。天井までの高さがおおよそ三メートルほどあるが、肩越しにも向こう側がほとんど見えない。
 それほどの大きさ‥‥‥‥女性が固まってしまうのも無理はない。あんな大柄の男が待ち構えていたら、たとえ自分達だって固まってしまっていただろう。

「あんたか‥‥‥‥この人は社長のお客様だ。妙な真似はしないでくれよ」

 しかしそれは、あくまで初見だったらの話。
 待ち構えていた男は、このビルの中では有名だ。頭領のボディーガードとしてスカウトされたにも関わらず、平気で頭領の側を離れ、我が物顔でビルを徘徊し、あちらこちらで喧嘩を売り、生物兵器を殴り倒す。
 逸話の数だけで言えば、雇われてからの数ヶ月で、優に百を超えているのではないだろうか?
 傍迷惑なお客だ。頭領がいつまで飼っておくのか分からないが、出来れば関わりたくない相手である。
 が‥‥しかしそれでも、あくまで頭領の部下だ。傭兵だろうと猛獣だろうと、首輪が付いている以上は怖がる相手ではない。それに、悔しいが自分はこの猛獣の目にとまるほど、美味しい相手ではないらしい。最初の一ヶ月目に思いっ切りぶちのめされているのに、次の月には「誰だ?」と平気で聞かれた。印象にも残らなかったらしい。
 まぁ、力量差がありすぎたのだ。そんな自分は、猛獣の餌にはなり得ない。
 ‥‥筈、なのだが‥‥

「ちょ、ちょっと待て!」

 何も言わず、猛獣は腰を落とした。それが自分達に対しての臨戦態勢なのだと瞬時に理解し、若者は慌てふためく。
 まさか? なんで? 少なくとも自分には興味はないはずだ。弱いから。それなりの場数は踏んでいるが、それでも雑兵の域から出られなかった負け犬だ。そんな自分に臨戦態勢? マジ? 何か気に触るような事をしたか? 覚えがないんだけど?
 「どうした?」と歩み寄ってきた同僚に目を向ける。
 「事情は分かる?」
 「覚えがねぇよ!」
 会話はしない。目だけで互いに言いたい事が伝わった。すげぇ! 本当に目だけで会話が成立するもんなんだな! 俺たちこんなに仲が良かったのか? 全然嬉しくねぇ!

「いっせーのっ‥‥‥‥」

 猛獣が何かを言っている。
「いっせーの」? つまりはあれですか。次の「せっ!」でこちらに向かって走ってくるつもりですか。そして自分達は壁に押しつけられて死ぬのですね? 分かります。て言うか死ぬまでのカウントダウンですよね!?

(エレベーターに‥‥!?)

 背後の女性を監視し、護衛をする事が任務だったにも関わらず、二人の若者は女性になど見向きもせずにエレベーターに駆けだした。距離は約一メートルちょっと。どんな短距離ランナーでも一瞬で駆け抜けられる距離だ。助走なしでも一秒もかからない。まして、彼らは雑兵止まりでも元傭兵、軍人上がりなのだ。こんな距離など瞬きほどの時間もあれば――――

「せっ!」

 血飛沫が上がる。
 肉が爆ぜる。
 爆発するかのような音が廊下の先からエレベーターホールに届いたのは、既に惨状が広がった後だった。
 ドン! とエレベーターホールに届く爆音。しかしそれは、何も本当に爆発が起こったわけではない。これは猛獣が駆けただけ。ただそれだけの行為で音が鳴り響いただけだった。だが、その行為が既に最悪の一手。火が噴き突風が放たれた方が遙かにマシだっただろう。何しろ、爆風も爆炎も、敵に追い縋り腕を振り上げ獣の如く爪を一閃させ肉を裂き血飛沫を撒き散らし暴虐の限りを尽くすような事はない。
 それは、さながら竜巻のようだった。
 「いっせーの‥‥っせ!」の掛け声と共にスタートした獣は、瞬く間にエレベーターホールに辿り着いていた。それまでに開いていた距離、約二十数メートル。それが一秒と掛けずに零になる。それまで獣が居た場所には、踏み抜かれたコンクリートと爆発に耐えられるようにと仕込まれた分厚い鉄板が剥き出しになり、破片となって舞い上がっている。その廊下に目をやっていれば、恐らくは獣の残像すら見えただろう。
 しかし、そんな廊下に目をやる者は誰もいない。
 跳ねる血飛沫、舞う肉片。若者達が着ていたスーツや銃器が放り出され、壁に叩き付けられて“べしゃり”“ガタン”と音を立てている。真白く潔癖な廊下は、今ではまるで屠殺場のような状況だ。ホラー映画でもここまでの光景はなかなかお目に掛かれまい。
 エレベーターホールに踏み込んだ獣は、一瞬で両腕を前後左右上下あらゆる方向に打ち鳴らした。たったそれだけで、この場にいた二人が息絶え、死体すら残さずに消え去っていく。
 誰も生き残れぬ死の空間。獣は一人、恍惚と頬を上げて口をねじ曲げ、久々に獲物を食い散らかせるのだと狂喜する。

「――――ファング!」

 頭上。
 真上。
 そこが最も安全だと判断したのか――――
 一目散に掛けた若者の一人を踏み台に、盾としながら、ファングと呼ばれる獣の頭上に飛び上がった女が一人、声を上げる。
 視線を動かすよりも速く、ファングは右腕を頭上に一閃させる。仰々しいまでのアッパーカット。テレビの前で見れば、その速さや技術以前に、大げさなパフォーマンスとして観客を沸かせていたことだろう。
 だがその拳は、数枚の布を殴り付けただけで空を切る。拳は天井にまで届き、派手な亀裂を走らせて仕込まれた鉄板を粉砕した。
 黒いスーツ。それが布の正体だ。中身はない。頭上を取った時には、既に脱いでいたのか‥‥‥‥まるで忍者だと、ファングは依然として笑っている。
 自分の拳を空中という不安定な空間で躱し、必殺のタイミングでクナイを握り締めている少女が目の前にいると言うのに、ファングは楽しそうに笑っている。

「たっ!」

 交わす言葉など無い。ただ一言、より腕に力を籠めるために声を吐き出し、クナイをファングの固めに叩き付ける。
 ファングがどれほどの怪物であろうとも、眼球をクナイで一突きされれば片眼を失う。いや、そもそも眼球の奥には脳がある。頑強な骨が間に挟まるために直接突き刺さる事はないだろうが、その衝撃は脳に確実に伝わるだろう。どんな怪物だろうと鍛えようがない場所を、的確に、最短距離を用いて最速で最強の一撃を放つ女性‥‥‥‥
 水嶋 琴美は、この一瞬の攻防を、まるで一日二日もの時間を掛けているかのように体感していた。

「ガッ!」

 ファングが声を上げる。

(獲った!)

 と、琴美は思った。そう思った。
 しかし、現実とは往々にして悪い方悪い方へと転がるものである。勝利の女神は微笑みながら、自分を求める相手を奈落の底へと蹴り落とす。

「おっひぃ!」

 惜しい!
 そう言っているのだろう。軽く顔を仰け反らせ、クナイに噛み付きながらファングが吼える。
 通常はあり得ない光景。弾丸を歯で止めるとか、そう言う芸当が出来る相手は‥‥‥‥映画や漫画の中だけにしたい(現実にはそんな特技を持っている者もいるらしいが、実戦でなど使い物にならない。そもそも噛み付くぐらいなら躱せと言うものだ)。
 だと言うのに、目にはあり得ない光景が映っている。弾丸よりかは現実的だが、普通はしない。したとしても、クナイを止めきれずに歯が砕けるか、下を切るかのどちらかだっただろう。

「っ!」

 迷っている暇はない。クナイはあらゆる方向に動かせず、静かに停止している。琴美の細腕ではビクともしない。まるで万力で固定されているかのようだ。軽く動かしただけで、琴美はクナイを放棄した。躊躇無く手首を動かし、中空に停滞していた体を器用に捻ってファングの頭上を飛び越えて、ゴロゴロと床に転がり距離をとる。

「うぉぉぉぉぉぉ‥‥‥‥」

 一瞬の攻防‥‥‥‥しかしその攻防に、何やら思うところでもあったらしい。ファングは感極まるといった風に、歯で受け止めていたクナイを握り締めながら嬉しそうに身を捩らせている。

「なんと‥‥ここに来て、初めて良かったと思っているぞ! 最高ではないか! 俺の動きについてこれる奴など、そうはおらんぞ!!」
「そう? ありがとう。じゃ、帰っても良いかしら?」

 距離をとった琴美だが、この相手に間合いを離すという行為が無駄である事など、既に承知していた。距離は一足で踏み込める間合いを保ち、口を開く。
 スーツ姿から一転して、現在の琴美は上半身に改造した着物に帯付き上着、ミニのプリッツスカートから惜しげもなく覗く漆黒のスパッツに、頑丈そうなロングブーツと、忍者活劇にでも出て来そうな姿だった。
 鍛え抜かれた肢体は、スーツ姿の時とは比べ物にならないほどの艶気を放ち、豊満な胸は着物でも隠し切れていない。琴美にとってはどうでも良い事ではあったが、こんな格好で街中を歩けば、奇抜な格好よりもそのスタイルと色香によって、多くの人々の目を惹く事だろう。
 しかしそんな色香など、ファングにとっては興味の対象外だった。精々思ったとしたら、琴美の格好では流れ弾や破片を遮断する効果はほとんど見込めないだろう、と言うぐらいの物である。
 血飛沫の中を跳んだために、服のあちらこちらに鮮血が付着している。傷の一つも負っていないのは見事としか言いようがないのだが、琴美の目は目前の怪物を向いたまま細められ、一瞬たりとも気を抜かないようにと引き締められている。美しい肢体も臨戦態勢を取り、手練れの兵士であろうとも気軽には踏み込まないだろう異様な空気を纏っている。
 ‥‥‥‥それは、数々の修羅場を体験してきた戦士だからこそ醸し出す事ができる気配だ。

「それは出来んだろう‥‥なぁ?」

 だが‥‥‥‥そんな気配など、ファングを前にしては何の意味もなかった。むしろこの戦闘狂を高揚させ、よりやる気を引き出してしまっただけに過ぎない。
 戦が開幕する。
 絶望という名の幕が下り始める。
 しかしそれは、檀上で踊る琴美には知る事の出来ぬ現実だった‥‥‥‥