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【魔性 〜 world's end 】
空へ、空へ昇ってく。
星明かりの乏しい空へ。月光ばかりが異様に輝く、夜の空へ。
滑るように昇ってく。
まるで闇色の硝子でできた階段を、一段一段、跳ねてくみたいに上昇する。
腰まで伸びた、漆黒の髪が波打つ。夜闇をつまみ、引き裂いて作ったドレスが閃いている。月光に。
光の粒は銀色に輝いている。
透きとおるほど白い膚が、その額が、前髪を押し分けて光を浴びる。銀色に、いや、プラチナが輝くように光っている。
眉は繊細でありながら力強く、双眸は脅えながらも嘲っている。
まつ毛は長く豊かで整っており、まぶたの微妙な動かし方で、様々な表情を作りだす。
すっと伸びた鼻はいやらしく風を嗅ぎわけ、頬はいつも笑みをたたえている。
唇は鮮血のような色をして、舌先に愛撫されるがままに濡れている。
首が、肩が、背中が白く輝いている。
胸元が大きく開いたワンピースは、背中も腰まで開いている。背骨のくぼみや肩甲骨の膨らみが、さらさらとした膚を歪ます。
くるぶしまであるワンピースは、左の太もも深くまで鋭いスリットが入っており、その脚線美をまざまざと見せつける――いったい誰に?
ただ、夜に。その月に。伸ばした手の、その手のひらに乗る都会(まち)に。
首をめぐらし、都会の明かりをぼんやり眺める。
眠たげに、気だるげに、まぶたを半分だけ閉じる。悪戯めいた双眸を縁取っている、豊かなまつ毛は重なって、その瞳の奥は月にも見えない。
見えないけれど、みなもは感じる。
その目の奥で、いったい何を感じているかを。
ずっとここで、あたしを見ていた。感じていた。
血の中で。
いいえ。
血の裏側で。
あたしはいま、混沌の中にいる。
さまざまな感情が入り交じり、混在しているだけの場所。
すべての気持ちがここにある。感情の吹きだまり。
ここから気持ちが飛び立って、あたしの心に入り込む。
気持ちとは、吹き込まれるものだから。
心が感じる感情は、見知らぬ誰かに押しつけられるものだから。
血の裏側から血の中に、吹き込まれてくるものだから。
あたしには、どうすることもできないから。
泣きたくなくても、涙は出るし。
嬉しくなれば、笑みはこぼれる。
大丈夫だと思い込んでも、急に不安になってしまう。
親しくなかった友人に、不意に安堵を感じてしまう。
それもこれも、あたしの意志とは無関係に、感情が心に入り込んでくるからだ。
あたしは驚き、
心をゆさぶり、
恍惚として、
心を浸らせ、
無為に緩慢に時を過ごす――
心がなにも感じなくなる――
すべては、吹き込まれる気持ち次第。
ほんとうに、あたしにはどうすることもできないの?
自分の気持ちを、自分で選ぶことはできないの?
この感情の泉から、好きな気持ちばかりを選んで、感じることはできないの?
ねえ。
あたしはここから出られないの?
あの子がずっと、ここから出てこられなかったのと同じように。いいえ。
あの子をずっと、ここに閉じ込めていたのは、あたし。
あたしの魔性が表に出ないように――
それはあたしの性格のせい。感じ方のせい。
その場、その時に受ける刺激。
それをどう感じるかは、あたし次第。
いつの間にか築きあげてた、あたしの感じ方次第。
穏やかだと、よく言われる。
他の人が怒るような時だって、心配したり、驚いたりしてばっかりだった。
おっちょこちょいで失敗することが多くても、ちょっとへこめば、すぐに次を頑張れる。
めげずに健気に立ち上がれる、へこたれない前向きな気持ち。
そういう性格であることが、そういう気持ちを引っ張ってくる。
人を傷つけたいとは思わないし、困らせたりもしたくない。気持ちを煽るだけ煽っておいて絶望させたりしたくないし。切望していたものを目の前で壊したり、掠め取ったり、これは偽物だと言ってのけたりしたくない。生きる希望を奪いたくない。
あたしは、あの子とは根本的に違うんだ。
根本的に違うから、あたしはここから呼ばれない。身体の中に、血の中に戻れない。
根本的に違うけど、他の気持ちは普通に感じる。
恐れ、寂しさ、好奇心。
血流の裏に潜む、七色に輝く混沌。そこから気持ちが飛び立っていく。
憧れ、悔しさ、愛おしむ気持ち。
輝く色のすぐ隣で、光を失い暗く淀んだ色が流れる。沈んでいく。
嫉み、渇望、引き裂きたい衝動。
ぶち壊したい。粉々に砕きたい。
脳天をかち割って、アスファルトに広がっていく血の海を見てみたい。
その血の中に、どんな気持ちが潜んでいるか、確かめたい。
同族がいるかどうかを確かめたい。
出会いたい。
ヒトの心に潜む魔性に。
あたしは、肉体のない存在でありながら、打ち震えるのを感じていた。
揺さぶられる。
引き寄せられる。
押し戻される。
きらびやかな都会の明かりを眼下に見下ろす。
右手で左の肩を抱き、凍えるような動きをするが、寒くはない。
感じているのだ。
月の気配を。
あたしは気づいた。
満月の強烈な力に翻弄されてる。
気持ちが、感情の泉が大きく揺さぶられている。
泉からこぼれた気持ちが、血に入り込む。
いつもとは違う気持ちが、いつもより激しい気持ちが、心を動かす。
やめて!
そう叫んだが、遅かった。
あたしは、その企みに気がついたのに。
細い指先で風を撫でた。
夜に触れた。
そして闇を爪弾(つまび)いた。
弾(はじ)かれるのは、夜の情緒。
月によって励起した、その雰囲気を震わせた。
人の心を惑わす気配を、そっと奏でた。
悪魔め。
人や、場や、物は雰囲気を持っている。
心を動かす、という意味では、情緒という語彙が当てはまるだろう。
ひなびた温泉街には情緒がある。
そこを歩くと、なんだか懐かしいような、寂しいような気持ちになる。
目の前にいる人や、場の雰囲気に呑まれてしまい、いつもより焦ったりしてしまう。
それもこれも、そこにある雰囲気のせい。情緒のせい。
感情は、自分の性格だけではない。
その場の情緒によっても左右される。
相手によって強気になったり、引け目を感じてしまったり。
厭になったり、恋したり。
だから自分の気持ちは、思い通りになんてならない。
だから、どこにいるかとか、誰と一緒にいるかとか、それがとても大切なんだ。
恋人たちは手を繋ぎ、夜の繁華街を行き交っている。
家路を急ぐ人々は、プラットホームで次の電車を待っている。
テールランプが車道を彩り、オフィスビルには明かりが灯る。
星明かりを夜空の彼方へ押し戻す、都会の明かりが夜空に月を浮かべている。淡い光の波間に浮かぶ、真円の月。
もともと月の引力に翻弄されて、気持ちはちょっと浮かれていた。
その浮かれた気持ちを、強烈な波動が襲った。
いつもと違う夜の情緒が、すべての気配を侵していく。
すべての気配が、夜の都会を形作るその雰囲気が、その情緒が狂っていく。
愛する人と繋いだ手の、その感触が変わっていく。感じる気持ちが変わっていく。
街から受ける雰囲気が、楽しいものから恐ろしいものへと変わる。
自分が自分らしくあるために、築き上げた雰囲気が霧消していく。自分に自信がなくなってくる。
自分が自分であるために、ずっと表に出さずにきたモノが、胸の奥で、のそりと首をもたげている。
己の気配の奥底に、血の裏に、隠してきたモノが出てくる。本心が。
愛おしさが暴走する。
憧れが実際の行為を促す。
怒りは破壊を肯定し、嫉妬心が悔し涙をあふれ出させる。
押さえつけていた本心が、言葉となって叫ばれる。
そして、狂乱の夜が始まる。
息を飲んだ。
夜の風はやけに冷たく、甘美な香りを持っていた。
ゾクリとしたのは、そこここで、生きる希望が絶望へと変わっていくのが見えたから。
衝動が、いままで大切に育て上げた希望を壊す。
一歩を踏み出したその行為は、傷つける方が多かった。恋人を。家族を。同僚を。
築き上げてきた絆が、二人にしか造り出せない、二人一緒にいなければ現れない、甘い甘い雰囲気が、ぼろぼろと崩れ落ちてく。
人々は絶望に打ちひしがれる。
壊れていく己の希望を目の当たりにして、未来への期待を捨てる。この世への執着をなくす。
消え去りたいと願う気持ちが、人々のその気配が、夜の雰囲気を塗り替えていく。
それがとても恐ろしかった。
始めは、人々の魔性が見えたことを喜んで、次に、絶望する気配を舐めて心地よかった。
だが街が、喪失という名の洪水に飲み込まれ、失望の雰囲気に沈んでいくのは見てられなかった。
バカね。
あたしは思いきってそう言った。
あの子に言った。
自分がしでかしたことから目を背け、都会に背を向け、海の上へと飛び去っていく。
そんな、子どもなあの子に声をかけた。
ちょっと、してみたかっただけなんでしょ?
分かってる。
もしかしたら、大事(おおごと)になるかもしれない。
そう思ったことを、あたしはずっとできないでいた。
些細なことかもしれないことでも、あたしはずっとできないでいた。
それを、あなたはやっただけ。
月は、涙に滲んで見えなかった。
嗚咽して、涙を流す。
しゃっくりでもするように、胸の奥から涙を流す。心から涙を流す。
気持ちが涙でいっぱいね。でも。
これ以上、申し訳ない気持ちを持ってかないで。
感情の泉から、謝罪の気持ちを吸い上げないで。
あたしがここで、それを感じられなくなっちゃうから。
混沌に浮かぶあたしの周りから、気持ちがどんどん飛び去っていく。
そしてどんどん湧き出てくる。
感情の泉は気持ちを、けっしてなくしたりしない。
どんなに泣いても、悲しんでも、その気持ちがなくなることはないと分かった。
だから、きっとあなたは悲しみ続ける。
ごめんなさい。
あなたを、ひとりにしてごめんなさい。
心からそう思った。
あたしのすべてが、泣きたい気持ちに満たされた。
だからだろう。
あの子の泣きたい気持ちとして、あたしが心に入り込んだ。心の中に吹き込まれた。
ごめんね。
膝を抱えて泣いている、あの子を抱いた。
一緒に泣いた。
姿は少しづつ違う、もうひとりのあたし。
抱き合ってると、溶け合うように、ひとつになった。
大丈夫。
みんな、元に戻ってる。
たしかに破局した関係はあったかもしれない。昨日には戻れない進展があったかもしれない。
でもあそこにいた人たちは分かってる。
自分たちが、なぜあんなことをしたか。
魔が差した。
ただ、それだけだって。
みんな、自分に戻って、やり直してく。やり直せるから。
だから、大丈夫。安心して。
気がつくと、海の中に沈んでいた。
暗黒が支配する夜の海。
あたしは海上を目指して泳ぎ、水面に顔を出して月光を浴びる。
海面に仰向けに浮かんだあたしは、いつの間にか手に持っていた、小さな石を月に掲げた。涙滴型の輝く石を。
石と月を重ねて見ると、石はまるで、月がこぼした涙のようだ。
赤みがかった真珠のように、見る方向によって色を変える不思議な石。
まるで幾億もの気持ちをたたえた、血の裏側に拡がっている、感情の泉のようだ。
とても強い魔力を感じる月の雫。
この石に願ったら、あの子はまた、この世に現れることができるだろう。
また、あの子と会えるだろう。
あたしはあの子になれるだろう。
石がなくても。
胸騒ぎがする。
潮の香りが鼻につく。厭な香り。
水が膚にまとわりついた。そう感じるのは、気のせいだろうか。
ああ、厭だ。
海が厭だ。
いったいなんなの、この水は。この圧倒的な存在は!
恐ろしい、この重さが、この存在感が恐ろしい。
こんなもの!
あたしは暴れた。
ばしゃばしゃと水を打ってもがいてみせた。
出ていきたい。
圧迫される。
水に押され、身体が苦しい。
早くここから出ていきたい。
土に、陸に戻りたい。戻りたい!
「こんなものっ!」
叫んだとたん、落ち着いた。
あたしは気づいた。
夜の気配が、満月の強い魔力が、あの子に力を与えていた。
血の裏側で、感情の泉が揺れる。
月の魔力に。その気配という名の引力に、気持ちが昂ぶる。
そしてするりと、あの子があたしに入り込む。
血の中に溶け込んできて、心を侵す。
甘美な嫌悪と、他愛もない嘘を囁く。
身体が変わらなくたって
あたしはあなたに会えるから
だってあなたは
あたしを認めてくれたから
ねえ、みなも?
あたしの心に、するりと悪魔が入り込む。
(了)
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