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光景の理由
内浦は、前方に見えるベンチに腰掛けた男性のことを眺めている。
その人がそこに座った時から眺めていて、それからずっと眺めているから、そろそろ文句とか言われるかもしれない、とかは結構思っているのだけれど、それでもまだ眺めていて、いやもう絶対そろそろ怒られますよとか分かってても悪戯やめない奴、とでもいうような、限界への挑戦をしているみたいなところがあった。
だから本音的には、そろそろ文句とか言われるかもしれない、ではなくて、いい加減言ってくれるかもしれない、的な何か、辞められないことを、辞めるきっかけみたいな期待すら抱いていて、でも何も言われてないので、やめられずにいる。
小柄で、何処か垢ぬけない感じのする、男性だった。真っ黒な髪は中途半端に横分けされ、口の周りは無精髭に覆われている。
文句こそ言ってこないけれど、彼は、「え、何」みたいな、「どうしよう」みたいな戸惑いを、微かには浮かべていて、その、何か、きょどった感じがまた、いいなあ、という感じだった。感じだったけれど、いつまでもこうしているわけにもいかない気もするので、誰かがやめさせてくれないかな、とか、考えているけど、逆に言えば強制的に辞めさせられない限りは、見詰め続けてしまいそうで、怖い。
最初の方はどことなく、さりげない風を装ってちらちら見ていたり、した。けれどその男性は、何も言ってこないどころか、反応自体が凄い薄くて、むしろ無視、みたいな勢いだったので、それで意地になったというか、今やもう、正真正銘、人を見るとはこういうことだ、というくらいじろじろ見ていて、何処見てるんですか、って、ああ、あの人のこと物凄い見てるんですね、みたいな感じだけれど、お巡りさんがやってきて「君の職業、何かな」とか、そうではなくても、誰かがやってきて「君、人のことじろじろ見て一体何やってるの」とか、そういうことは、ない。
だいたい、「誰か」はわざわざやってこなくたって既にこの空間に居る。
広場には、惣菜系のパンやクレープ、飲み物などを販売しているワゴン車が停止していて、店員さんがその中で雑誌を読んでいる。その右の隣に置かれたベンチには、若い男性が座っていて、雑誌を読んでいた。つまり、二人とも雑誌を読んでいて、何だこの確率っていうか、しかもあれ? 同じ雑誌ですよね、とか最初の方に気付いたけど、気付いたからって別に何もない。
ベンチの若い男性は、時折、顔を上げる。それから、内浦の方をちら、と見て、はあそうですか、みたいに、雑誌に目を戻す。とは言っても、途中から内浦は、左側の少し離れたベンチに座る男の人を、もう目を離したら負け、くらいの気迫で見つめていたから、ベンチの若い男性が、その行動をそのあともずっと続けていたかは、分からない。
広場は、静かだった。
誰もが何もしてなさそうに見え、誰もが暇そうに見えるのに、誰も次の行動を起こさない。誰も動かないし、誰も何も言わない。
だから内浦も、何かまだいいかなあ、みたいに、ベンチの男性をぼんやり眺めている。
「あ、そうくるか」
安っぽいガラスのテーブルに置かれたオセロの台を眺めながら、兎月原は呟いた。
向かいに座る草間武彦が、黒い表面の円形のプラスチック板を裏返し、脇にあったマグカップを掴む。温くなったコーヒーを口に含み、小さく唇を曲げた。
兎月原は、どれどれ、とでもいうように体を乗り出して、オセロの石を一つ、摘む。
足を組んだ格好で頬杖を突き、思案するように、指の間に挟んだそれでとんとん、と頬を打った。
「ねー」
「んー?」
「そういえばあのあれ、さっきこの興信所に来る前、たっくんのあのー、元カノね、見たよ」
そう言って、指に挟んでいた石を四角い升目の中に置く。表面の白い駒を、黒へと裏返した。かたん、かたんと、柔らかさを帯びた音が、事務所内に響く。「あの、ちょー美人の元カノ、麗しのエマちゃん」
「まーくんさー」
草間はオセロの石を大して考える様子もなく、ポンと置き、ソファに仰け反る。
「何でしょう」
「あのその元カノって言い方、やめてくれるかな」
「何で」
「だって元カノって」
とか馬鹿にするように笑って言いながら、マグカップを口に運び、それから、何となく、壁に掛けられたダーツの的の辺りなどを眺め、背伸びなどをする。
「俺の中では、元とかじゃないしー」
「でもあれたっくん何つって振られたんだっけー」
「んー、元じゃないつってるのにまだ引っ張るっていうね」
「だって確実に元だしね」
「ねーまーくんそういう話好きだよねー」
「んー」
とか何か、また頬杖を突いた格好で頷いた兎月原は、ちらと眼を上げ薄く笑ってから、また、オセロの台に目を戻した。「好き」
それからオセロを升目に置く。
「本当そういう顔似合うよねまーくん、感心する」
「そうそうどんな顔しても格好いいから」
「そうそうどんな顔しても、俺の不幸を喜んでる感じがむんむんって、何? 俺のこと、好きなの?」
話ながら、また、草間がオセロを置く。
「お互いさまじゃない、そんなの。たっくんだって俺の不幸な話、好きなくせに、俺のこと、大好きなんでしょ」
「まあ基本的にまーくんが毎日不幸なら嬉しいよね」
「そうそう俺も、たっくん毎日、女に振られまくってたらいいのにって」
「だったら俺だって、まーくんのやってる高級ホストクラブ? 潰れちゃえばいいのにって」
「思う思う、俺もさっさとこんな興信所なんか潰れちゃえばいいのにって」
「やっぱそうだよねー」
「そうだよー」
「んー」
二人はオセロの台を見つめたまま、沈黙する。暫くして、兎月原がオセロの石を、台に置いた。
「エマちゃんのこと、何処で見たか、聞かないの?」
「四丁目の公演広場じゃないの、あの何かクレープだかサンドイッチだか売ってるバスが止まってる」
「すごいさすがだなあ、何で知ってるの」
とか、実は全然興味ないんですけど、何か話の流れ上聞いときました、くらいの覇気のなさで、兎月原が言う。
「そうね、何でってそれは、ストーカーだからだね」
とかもう別に何でもいいんですけど、何か聞かれたからには答えました、くらいの覇気のなさで、草間が答える。
「たっくんもうそういうの辞めた方がいいよ、いつか訴えられるよ、っていうかむしろ、訴えられて、面白いから」
「俺なんか訴えられないよ、相手も分かってるんだもん、貴方さてはストーカーですね、ってはいそうですけど何か、とか、たとえ訴えられたとしても、面白くないね。それよりまーくん訴えられた方がよっぽど面白いから、まーくん、訴えられなよ」
「俺訴えられること、ないもん、俺はホストだけど、紳士的なホストだから、俺を恨んでる女の子とか、いないし、残念だけど」
「大丈夫、大丈夫、ほら、あの、おうちに軟禁してる、紀本君だっけ? いたよね」
言葉の終わりに、オセロの石を置く。
「いたっけ」
「酷いよねぇ、酷いこと、しまくってるよね」
兎月原はオセロの石を置きかけて、「あー」とか何かを思いついたように顔を上げ「ほらあの豹の子供とかさ、ライオンの子供とか、トラの子供とか、知ってる? 凄い、可愛くない?」と、続けた。
「そうね、可愛いね」
草間は脇にあった煙草の箱を取り、火をつける。
「あれなんで可愛いんだろうとか考えてたら、無表情だからなんじゃないかなって。無表情で一生懸命、とか、何かさ、やばいよね。無表情だけど、何したいとか、こっちの想像なんだけど、感情、何となく、分かったつもりになったりしてさ。で一応、あいつら、あんなに可愛くても肉食獣の子供だからさ、口開くと偉そうに牙なんかついちゃってるし、噛みついてくるし、爪で引っ掻かれると痛いし、とかさ。何かそういうの、ぐっとくるんだよね、俺。ちょっと、意地悪したくなるの」
「まーくん、昔からそうだったよね」
「そうかな」
「小学校の頃くらいから、そうだよ」
「そうかな」
「あれ、四年くらいの時かなあ」
吐き出した煙を眺めながら、続ける。「ほら、同じクラスに、凄い可愛らしい顔した、大人しそうな子、居たでしょ。伊藤だったかなあ」
「んー」
居たっけ、くらいの勢いで相槌を打っていた兎月原は、次の瞬間、ぶは、と笑い声を上げた。口から飛び出た唾が、勢い良く、飛ぶ。オセロの上に、着地した。
草間はその唾の行方を眺め、何だコイツみたいな目で、兎月原を見る。「唾は飛ばさなくて良かったんじゃないかなあ、今」
「いやそう、思い出したんだよ。居た、居ました。でもあれ、伊藤じゃなくて、内野じゃなかった? 色白の大人しそうな奴だったよね、可愛いかったよね、うん、そう覚えてるよ、超仲良しだったよね」
「可愛い顔して大人しそうだったけど、何か妙に男気のある奴っていうか、いじめられっ子って感じでもないし。人を小馬鹿にしてるようなとこ、あったよね、何か」
「そうそう、たっくんみたいに。人のこと、上から見下ろしてるっていうか」
「そうそう、まーくんみたいに、人のいいなりにはなりませんけど何か、みたいな」
「でもたっくんほど、分かりやすく大人でもなくてさ」
「まーくんほど、派手でもなかったから。人の命令は聞かないけど、人に命令もするタイプでもなかったし」
「俺が西洋の王子様だとしたらさ」
「だとしたらっていう仮定が既におかしい気はしてるけど、続けて、いいよ」
「あれは、藩主の息子って感じ。落ち目の藩主の息子って感じだよね」
「感じだよね、って、知らないけどね」
草間は眼鏡を押し上げて、「早く次の手、打ってくれないかな」と、オセロの台を叩く。
兎月原は「あれ何それ、まーくんが言い出したんだよね、この話」と、不服そうな表情を浮かべながらも、石を置く。
「だってそんなテンション上がると思ってなかったら、さすが気持ち悪いね、まーくん」
「ああいいよ別に、たっくんごときに気持ち悪がられても、たっくんも相当気持ち悪いしね」
「だいたいそんな、落ち目の藩主の息子みたいな健気な子をさ、まーくん時々、突き離して怯えたみたいな顔させて喜んでたんだからさ、子供の頃から悪質でしょ」緩く首を振りながら言い、それからはた、と何かを思いついたように、兎月原を見る。「あれ? まーくんって、犯罪者みたいなところがあるよね、っていうかむしろ、犯罪者なんじゃないの? 変質者っていうか」
兎月原は、はいはいみたいに、組んだ足をぶらぶらさせて「誰だって、だいたい、そうだよ。隠してるだけで」と言ったかと思うと、ソファから身を乗り出して、「だいたいさ」と、続ける。
「だいたいさ、たっくんだろ、酷いのは。その頃から、とりあえず見て見ぬふりだったもんね。困ってる奴とか居ても、はあそうですか大変そうですね、ってスルーでしょ。人の気持ちの分からない奴だなあ、って思ってたよ。っていうか、さっさと次の石、置いてくれるかな」
「でもさー」
オセロの石を置いてから、煙草の煙をゆっくりと吐き出す。「まーくんのそういうところ、あの可愛い百合子ちゃんが知ったら引くと思うんだ」
「んー、引くだろうねー」
「だったら、紀本君に訴えられたら、面白くなるだろうねー、皆分かっちゃうし」
「訴えられたらね。面白いことになると思うよ、泣いちゃうかもしれない。百合子姫にプンされたら」
「王子はおてんば姫には弱いって、定番だよね。紀本君に、近づいてみようかな」
ふうん、みたいな顔でオセロの台を見つめていた兎月原は、ふと目を上げ、草間を見た。「あいつに近づいて変なこと吹き込んだら、殴るよ」
「ふうん」
「快適だし、今の生活、結構」
またふうん、とか頷いた草間は、兎月原の顔を何となく、眺める。
「そうやって大事な人に秘密持ってドキドキしてるなんて、まーくん、可愛いところ、あるよね」
「そうだよ、俺は、可愛いところがあるんだよ」
「嘘だよ可愛くないよ、悪質だよ」
「知ってる、悪質だよ」
「んー」
「でも、あれ、エマちゃん、何処に行くところだったんだろ」
オセロの石を置き、白を裏返しにし、まるでそこから、広場の景色が見えるかのように、ブラインドの降りた窓の方を見やる。
「心なしか、お洒落してた気がするんだけど」
「映画でも観に行くんじゃないの、友達と」
煙草を揉み消し、升目を指で追いながら、言う。
「ふうん、友達とねえ」
暗い館内に、女性の悲鳴が、響いた。
それから、遅れて、がし、と腕に何かが絡みついてきた。
館内は暗く、上映中の映画の本編は、女性が得体の知れない殺人鬼に襲われるような物騒なシーンであったから、シュライン・エマは、はっとし、それからぎょっとし、それが友人の江口だと分かっていても、思わず、体を仰け反らせた。
どん、と左隣の席の人に、肩が、ぶつかる。見知らぬ他人であったため、すいません、とか何か、声に出すか出さない感じで謝り、頭を下げると、ああ、いえ、みたいな、控えめな反応が返ってきた。
暫く経った頃、また、痛々しい物騒なシーンが入り、というよりも、そもそもこれはその物騒さや恐怖を楽しむための映画でもあったから、ほぼ全編がそのようなシーンで構成されているといっても良いのだけれど、とにかく、右の隣に座る江口が身動ぎしたのが分かったので、これは、来るなと、シュラインは身構えた。でも、来るぞ来るぞとか思ってたわりに、むしろ、そう思ってたからか、実際来たら凄いびっくりして、予想以上に体が飛びはね、わーびっくりしたーとかそんな自分にびっくりした。
それでまた左の隣の人に、がん、とかぶつかって、あ、すいませんみたいな、気まずい空気になったけど、隣の人は、ああ、いえ、失笑、くらいの控えめな反応を、した。本当ならばここらへんで舌打ちを入れてきてもおかしくはなく、それをしない隣の人は、少なくとも善人の類のように、思えた。
それで調子に乗ったわけではもちろんないのだけれど、どちらかといえば印象が薄いというか、うっかりすると隣の人の存在を忘れがちで、それからまた、二回くらいは、ぶつかった。このままいくと、ジュースを相手の膝にこぼす、であるとか、ポップコーンを頭から被らせてしまうであるとか、とんでもない間違いを起こしそうな気がしたので、それでシュラインも考えたというか、今度そのような気配がしたら、やっぱり今度こそちゃんと身構えて、でも身構えて待っているとかいうのも癪に障る気がしたので、彼女が縋りついてくるぞ、と分かった瞬間、よけた。
そしたら、あれあった壁がないよ、みたいにどべーと彼女が雪崩れてきて、一緒に雪崩れて、気付いたら隣の人に肘打ちを食らわせていた。
そんな馬鹿な、とはっとし、慌てて体を起こす。すいません、とか囁くと、ああ、いえ、苦笑の後、咳払いみたいな反応を、した。舌打ちしないところはさすがだったけれど、これはもしかしたら幾ら善人の類でも、次くらいには舌打ちとかやってしまうかもしれないですよ、という牽制かも知れなく、そうなると、何だかとっても悲しくなる予感がした。
でもほら何ていうか、これ、ここの映画館の座席が狭いとか、あるじゃないですかーくらいの、何か、むしろ座席のせい、みたいに、手で幅を図ってみたりして、笑顔とか浮かべながら、両隣を見てアピールしてみたけど、同意どころか、誰もそんなのは見ていない。
皆、映画を見ている。
それでもシュラインは、いやでも狭い気がするんだよなあ、とか一人でしつこく小首とか傾げて、そのアピールはもう、誰に対してかも、何に対してかも、分からない。とりあえず何かそうしなきゃいけない魔法にかかった人みたいに、いやもう誰も見てないですよとか確実に分かってるけど、その小芝居を続けて、むしろこれ誰の為とかじゃなくて、私の為にやってますから、と、自分自身を説得しておいて、次の瞬間には何事もなかったみたいな顔をして、スクリーンを見上げた。
今までも真剣に見てた人みたいに、あーあ、また余計なことを、とか、主人公の女性に駄目出しとかして、そういう余計なことをするから物騒な目に会うんじゃないか、じっとしてたらいいんじゃないか、私なら絶対じっとしてるよ、だいたいこんな映画撮らねえよ、こんなカット撮らねえよ、とか、上から偉そうに思って、だったらお前は、意見を持つほど映画を知っているのか? 愛情を持っているのか? と監督さんとかに言われたら、もう、土下座するしかなさそうな気配だった。
偉そうに言えることは何もないので、とりあえず楽しんでみることにして、後半ともなるととにかく物騒フェアー中みたいに物騒なシーンが続いたので、江口は腕から離れず張り付いていたので、最初からそうすれば良かったんじゃないか、とか、今更気付いて、微妙に落ち込んでいたらエンドロールだった。
館内がじんわりと明るくなってきたところで、まだ、腕にしがみついたままだった江口を見下ろす。
「もう終わったよ」
「あー、怖かった」
とか言いつつ、江口の顔は全然怖そうではなくて、むしろ楽しそうだったから、怖がってないじゃないか、と指摘する。スカッとしたね、とも、言った。物騒なのと怖いのとスカッとするのは、同時に存在してはいけないのではないか、と、心配になる。
江口は腕から離れ、両手を上げたかと思うと、背中を大きく、伸ばした。呻き声が、漏れる。体の横に差し込むようにして置いていたバックを手に取ると、中をごそごそとやりだした。ついでのように、出ようか、という。
反対する理由も特にないので、うんとか答えておいて、隣の席を、ふと、見た。
館内がすっかりと明るくなった今、殆どの観客は席を立ち、思い思いのドアから外へと流れ出ていたが、隣の人には立ち上がる気配はおろか、身動きする様子すらなかった。普段ならば「まあそんな人もいるかな」と、気にも留めないのだけれど、散々ぶつかってしまった手前、文句を言う為に待ってたら嫌だな、面倒臭いな、という思いがあり、それで牽制の意味も込め、見ることにした。
するとそれは、男性だったのだけれど、まあ声の感じから男性かなという気はしてたのだけれど、とにかく、その男性が知り合いだったので、驚いた。
「あれ」と、思わず、こぼす。
男性は、こちらを不審げに見てから、「ああ」と、こぼした。
秀でて巨体、というわけではないけれど、どちらかといえば骨格のしっかりとした、スーツ姿の男性が、座席に座っている。その姿には、闘争本能を失くしたクマ、とでもいうような、穏やかな雰囲気があった。
散々ぶつかった相手が、知り合い、というのは微妙に気まずくて、「あーどうもー」とか、間延びした声でお茶を濁す。
「こんなところで会うなんて、奇遇ですね」
「あーそうですよね」
まさか隣に座ってるのが、加藤さんだったとはーとか何か、口走った何の意味もないようなことは、館内から出て行く人が出す音の波にのまれて、消えて行く。
クマのというか、クマではないけれど、とりあえず知り合いの加藤博信さんは、まだ椅子にどっかりと座っていて、我先にと出て行こうとする観客達を、そんなに急いでも仕方ないのに、と、憐れんでいるようにも、見えた。
「あれ? 何、エマ、知り合い」と、江口が目ざとく、会話に入り込んできた。まあ、と頷くのとほぼ同時、というか、むしろちょっと早いくらいのタイミングで江口が身を乗り出して「こんにちは」と、声を発する。
突然挨拶をされ、驚いたのか、加藤さんは少しの間きょとんとした表情を浮かべてから、「ああ、こんにちは、加藤博信です」と、多少恥ずかしげに、言った。こんなところで名前とか名乗ってる自分とか、恥ずかしくないですか、と思ってるのかもしれない。
「出版社に勤めてる、編集者さんで」
口に出してみると確かに案外、こんなところで人の紹介とかしてる自分って、恥ずかしくないですか、というような気分になるな、とか思いながら、シュラインは、加藤の紹介を、した。「何度か一緒に仕事をしたことが、ある」
かといって、特に目立つような存在だった記憶もない。彼ら、出版社の人間が、トラブルに陥っている場面は何度も見たが、むしろ、トラブル処理が仕事のようなものだから、殆どの時間をそのように過ごしているのが彼らなのだけれど、とにかく、その場面に居合わせた彼が、躍動的にそれらを解決しているような場面は見たことがないし、中々原稿を上げてこない偏屈で有名な作家の原稿を取らせたら、右に出るものは居ないと評判の男、というわけでもなかった。
いつも、誰かの隣で大人しく座り、メモを取ったり頷いたり、相槌を打ったり、する。あんまり、目立たない人、という印象だった。
「ふうん、そうなんだ」
どうでも良さそうに頷いた江口が、加藤とシュラインを見比べ、「あのさ」と、言う。
「なに」何か、ろくでもないことを言いそうな気配がした。
「エマ何でそんな居心地悪そうなわけ、何? トイレとか行きたいわけ? それとも、二人の間とかに、何か、あんの」
さっきの映画より、そんなことを淡々とした顔で言うアンタが怖いんですが、とシュラインは思う。
「いやまあ何ていうか、映画見てる時に、何か、こう、ぶつかったような、気が」
とか、それはもう絶対「気」とかではなくて、確実にぶつかってたし、謝ってたくせに、物凄い曖昧な言い方を、した。
「ふうん、そう」
と頷いたものの、江口の目はそんなことで? と思っていそうだったし、実際、「だからってそれだけでそんな風になるわけ」と、口にも出した。いや、アンタは勘違いしてるんだ、分かってないんだ、実はめちゃくちゃぶつかってたんだって、と焦ったけれど、もう、遅い。
そのやり取りを特に何も言わず眺めていた加藤さんは、「まあ、ねえ」とかシュラインが顔を向けると、はあとか、奥二重の瞳を細め穏やかに、ほほ笑んだ。
「きっと、ここの座席は、狭いんですよ。俺は、でかいですし」
シュラインは、「あ」っと、間の抜けた声を出し、呆気に取られていた為か、「あ、そうですね」と、聞きようによっては凄く失礼な同意を、した。それで慌てて、自分の失言を取り繕うと、焦った政治家みたいに口を開いたのだけれど、出た言葉が「あやっぱり、そうですよね」とか、失礼の上塗りで、内心凄く焦ってるのだけれど、何せ顔が能面なので、たぶん誰にも分からない。
並んで座る三人の間が、何か、すごい、静かになった。
先程よりは、小さくなった館内を後にする人の出す音が、隙間を通り過ぎるみたいに聞こえた。
「あのー」
と、そこで加藤さんが、不意に、別に怒り出す様子などは全然なくて、むしろのんびりとした声を出した。
「え、何ですか」
「そんなあからさまに嫌な顔しなくていいじゃないですか」と、加藤さんが苦笑する。
「いや、文句とか言われたら面倒臭いな、と思って」
加藤さんは不意を突かれたような、きょとんとした表情を浮かべる。
「エマさんって、鋭い人なのか、鈍い人なのか、良く分からないですよね」
「はあ、自分でも時々分からなくなります」
「そんなもんですか」
「そんなもんですよ」
「で、さあ」
江口が、ドラマの間に挿入されるコマーシャルに苛立つ人みたいな声を出した。「さっきの、あのーって、何? 何か言いかけてたでしょ」
「はい」と頷いた加藤さんは、「実は、さっきから気になってたことがありまして」と、続ける。
「気になっていたこと?」
「はい」
「何、それは、今この場で聞かなきゃいけないような事なの」
「この、座席の下にあるのって」
江口の嫌味を気にする風でもなく、自分の座席の下を目で指し示す。「まさか、爆弾じゃないですよね?」
「で、さあ。ちなみにそのエマちゃんと一緒の友達って、女なの」
「そうよね、女だよ」
ダーツの的に向かって矢を投げながら、草間がのんびりと答える。
「でもストーカーってさ、基本的に四六時中見張ってるもんなんじゃ、ないの。女友達だからって、手ぇ抜いて、いいの」
「別に、だから油断してるってわけじゃないけど」
「百合子が言ってたよ」
「何て」
「草間さんは、ストーカーをやるには、根性とか根気とか足りない人なんじゃないのって」
「分かってないなあ、百合子ちゃんは」
「俺も、そう思う。こんな粘着質な性悪の変態の変人のことを、恬淡な人間と勘違する、とかありえないこと、するし」
「あれそれまーくんのこと」
「ううん、たっくんのこと」
「あれ? 百合子ちゃんってもしかして何、俺のこと、好きなのかな」
「そうそう」
兎月原は頬杖を突き、顎を数回上下させた。「そういうパターンっぽいよね」
「何が」
「今百合子さ、何か、ストーカーされてるっぽいのね」
「ストーカーされてるっぽいのね」
復唱するように呟いてから、「そうなの」と、驚いているんだか、驚いていないんだか、良く分からない表情を浮かべる。
「そうなの。あの人、何か、無防備っていうか体当たりっていうか、勘違いしやすいのは、勘違いされやすいんだね、きっと」
「いやそれ、呑気に言ってるけど大丈夫なわけ」
とか、実はあんまり興味ないんですけど、話の流れ上聞いときました、みたいに、草間が、聞いた。
「んー、まあ、今んとこはね。心配ではあるんだけどさ」
煙草の煙を眺めながら、あれ? 心配なんてしてないですよね? みたいな口調で、兎月原が、言い、ふと、口調を変えた。
「百合子のお母さんってさ、何か、豪快な人でさ」
何で急にお母さん? みたいな表情で、草間は一瞬ちらと兎月原を見たけれど、別に何も言わず、「ああ、そう」と、気のない返事をした。
「ほら、あそこ、母子家庭じゃない。で、そのお母さんが、逞しいを通り越して、めちゃくちゃだ、とか、言うわけ。小さい頃とかさ、ぐずって泣いたりしたら、女のくせに泣いてんじゃないよ、ぶっとばすよ! とか言われるらしいのね。どんな親だよ、めちゃくちゃだよ、って前に一回嘆いてた」
「ぶっとばすよって凄いね、俺、大人になってからでもあんまり言われたこと、ないよ」
「容赦ないよね、酷いよね、女のくせに、って言わないよね、中々」
酷い、と言いながらその顔は嬉しそうに笑っていた。
「でも嘆きながら、あの血を確実に受け継いでると思うの、あの子」
「そのお母さんに会ったこと、あんの」
「うん」と、その時を思い出してるのか、笑いながら兎月原が頷く。あれは貴重な体験だった、と言い「俺、百合子のこと好きだけど、あのお母さんのことも、好きだよ」と、続ける。
「まーくん好きとか言うんだったら、俺も会っても、いいよ」
「だからさ」
「うん」
「だから、百合子も、どっちかっていうと、とっとと自分の足で立っちゃうところがあるっていうか。助けようと思った時には、自分の足でもう二歩も三歩も進んでるんだよね、逞しいっていうか、無謀っていうか」
「ふうん」
「だから別に、放っておいてるわけじゃないけど」
頬杖を突きながら、首を傾げる。
「俺がそれを否定するってことは、あのお母さんの教えを否定するってことだろ。家族と一緒に過ごしてきた何十年間を否定出来るほど、俺、大した人間じゃないし」
「まーくんは大した人間ではないよ、それはそう」
「だから、見守るよ。たっくんでも、そうすると思うけど」
アパートのチャイムが鳴った時、歌川百合子はパスタをゆでている途中だった。
「はい」と、答え、流し台のすぐ上にある窓を、背伸びして、開ける。「どなたですか」と、顔を出した。
ドアの前に立っていたのは、見知らぬ青年で、百合子は「誰」と、ぶしつけに質問を、した。
「あ」と、ドアと窓を見比べた青年は、あ、そっちから顔とか出しますか、みたいな顔をしてから、「あのー、歌川、百合子さんですよね?」と、言う。
「っていうか、誰?」
百合子はまた、短く、聞いた。それから、パスタを茹でている鍋に目をやって、中身をかき混ぜ、火を止めて「何の用?」と続ける。
「あのー、こんなんいきなり聞くの、あれなんですけど、貴方、ストーカー被害に遭ってませんか?」
確かに、突然、何を言い出すんだ、この男は、と思った。
うんそうですけど何か、とか頷くのも何なので、その人物をとりあえずじっと、見つめる。すると、ふと思い当ることがあり、「あ」とか、漏らした。
「え?」
「いや何、警察とか、そういう人?」と、指をさす。
青年は「はあ」とか、気のない相槌を、打った。「でも、警察とかの人だったら、指とかささない方がいいと思いますよ、僕は、警察の人間じゃないですけど」
「じゃ、誰。あ、もしかして何、ストーカー?」と、また、指をさす。「私のストーカーなんでしょ、何のこのこ現れて、許さないよ、殴るよ。むしろフライパンで殴るよ」
「いやあの、違います」
「じゃ、何誰」
「いやあの、ストーカには違いないんですが」と、青年は自嘲気味に項垂れ、「貴方の、ではなくて、貴方のストーカーの、ストーカーで」と、続ける。
「ストーカーのストーカー?」
素っ頓狂な声を上げる。「何言ってんの、意味、分かんないんだけど」
「そうでしょうけど、本当なんです」
「ふうん」
まるで、品定めをするかのように、じろじろ、と上から下までを眺める。至極平凡な青年に、見えた。極端に見てくれが悪い、とかいうのではないし、極端に見てくれが良い、というのでもない。垢ぬけて、お洒落な感じはあるけれど、主張だ個性だ! とでもいうような、むやみやたらな勢いや気負いは感じられなかった。清潔感や謙虚さが窺える、どちらかといえば、好青年に、見えた。
「何か、ストーカーっぽくないね」
「ストーカーっぽいって何ですか」
「じゃあさ」
「はあ」
「じゃあさ、あたしがさ、パスタ作って食べ終わるまでここで待ってたら、ストーカーのストーカーだって信じてあげるよ。どう?」
「えどうって」
青年は、変人の奇行に遭遇した人みたいな表情を浮かべた。「えっと、それっていうのは、今、パスタが食べたいだけ、とかではなくて?」
「だってパスタ作ってる最中に訪ねてくるんだもーん」
くにゃん、とへたり込みそうになりながら、拗ねる子供のように、言う。「それでストーカーのストーカーだとかわけわかんないこと言うしさ、やってらんないよ。本当なんです、とか言われたって、本当とか本当じゃないかとか、別にあたしにとったらどうでもいいもん、でしょ? だからさ。あたしは食べたいパスタを食べる。君は、証明したい事実を証明する。どう? 成立してるでしょ」
「成立、してるんですか?」
「してるじゃん、あたしは、パスタ食べ終わるまで君が待ってたら、その話、信じてあげようって言ってんだからさ」
「その、信じるっていう、根拠は?」
「根拠も、こんにゃくも、ないよ。あたしに信じて欲しいんでしょ? そうしないと話、進まないんでしょ」
「はあ、まあ」
「待ってなかったら、あたし、君をストーカーのストーカーだと認めないよ。当然、それでストーカーのストーカーがあたしに一体何の用だって言うのよ、とかも言ってあげないよ」
「はあそれは困りますよね」
「でしょ」
「はい」
「だから、まってなよ。あたし、パスタ食べてくるから」
はあ、と青年が気圧された感じで頷くのを、むしろ聞く気なかったです、みたいに素早く、ぴしゃん、と窓を閉め、鍵をかける。
青年は、アパートの廊下に取り残される。
百合子は、茹でたパスタをざるに上げる。
「で? ストーカーのストーカーがあたしに一体何の用なのよ」
「あのー、何でもいいんですけど」
「何でもいいなら、言わなくて、いいよ」
「これ一体、どこに」
数分前、パスタを食べ終わった百合子は、突然、ドアから出てきて「じゃあ行こうか」などと言い、青年を面食らわせた。
「そりゃあ、ストーカーのストーカーとか言ってる不審な奴を家の中に上げる奴もいないと思いますけど」
「あのほら、鎮痛剤、買いに行こうと思って」
二人は並んで、歩道を歩く。
「思って、え? ストーカーのストーカーとですか」
「鎮痛剤ないと困るんだよ、生理痛の時とか。常備薬だよ、常備薬。常備薬がきれてるんだよ、困るでしょ」
「困るかもしれないですけど、怖くないんですか」
「怖い、何が」
「僕が」
「生理痛の痛みよりも? えー」
青年をじろじろ、と見る。「怖くないよ」
細い十字路の赤信号で、立ち止まる。国道から流れてきた車が、前方を通り過ぎていく。
「無防備ですよ、無防備過ぎですよ」
「じゃあ何、あたしを襲おうとか、考えてるわけ」
「その可能性だってなくはないですよね?」
「えー」
顔を顰めた百合子が首を振る。「ないよ、ないない」
「僕が答えるんですよね?」
信号が青になり、また歩き出す。国道へとつながるなだらかな坂道を、上る。
「だいたいさー、ストーカーのストーカーが何の用かって、あたしはそれを、聞きたいわけ。さっさと答えたらいいじゃん」
「歌川さんは、ストーカーされてるなって実感、ありますか?」
「何、そんなことが聞きたかったわけ?」
「いえ、これは貴方に会った後の素朴な疑問です」
「そうだなあ、あんまり、実感ないかな。ねえ、あたしって本当にストーカーとか、されてるの?」
「それてるの」気圧されたように、同じ言葉を繰り返した後、「たぶん」と首肯する。
「ふうん、そうなんだ。っていうか面白くない? ストーカーのストーカーに、貴方ストーカーされてますよ、とか教えられんの。こんなの、中々ないよね」
「中々、ないと思います」
「で、君はさ、っていうか、君とか言って、君はあたしのこと、歌川さんとか言ってんのに、何これフェアじゃなくない? 名前、言うべきなんじゃないの」
「はあ、あのー、加藤といいます」
「あ、名乗るんだ」
「はあ別に、貴方には知られても問題ないかな、という気がしたので。僕が実際ストーカーしてるのは、貴方じゃないし」
「まあ、そうか」
「貴方はどんな人物にストーカーされてるか知ってるんですか?」
百合子は、無言で首を振る。肩くらいまでの髪が、ゆるゆると、揺れる。
「男の人だってことは、知ってるんですよね?」
「それは、まあ」
それから記憶をたどるような顔つきになり、続ける。「こないださ、兎月原さんに、お前のことじろじろ見てつけ回してる男が居るから、気をつけろって言われただけなんだよね」
「うつきはらさん、誰ですか?」
「だけどさ、それってストーカーって言うのかな」
「言わないですか」
「そっか」
「そっか?」
「いや、呼び名なんてどうでもいいかな、って思って」
加藤はきょとん、とした表情で百合子を見つめ、「まあ、そうですかね」と、曖昧に小首を傾げる。
えっ、と江口とシュラインは、加藤の言葉に頬を引き攣らせた。
まさか、うそ、何処、と、同時にいろいろ、口走る。
「僕の座席の下なんですけど」
落ち着き払った様子で、加藤さんが、言う。「ここ」自分の席の下を指さす。
「え、どこどこ、嘘」
まっさきに覗こうとしたのは、江口だった。席を立ち、指に誘導されるかのように、寄って行く。加藤さんが立ちあがった。「この下ですよ」と、指さす。それなりに大きな体が席を塞いでいただけに、空席がやけにぽっかりとした印象がある。
シュラインも江口につられるようにして、座席の下を覗きこんだ。
「ん?」
「あれ?」
暗闇に、光る物がある、とかは全然なくて、そこにはもう全く、何もない。
「え、加藤さん? 何処ですか?」
江口が座席下を覗きこみながら、言う。けれど、返事はない。シュラインは、顔を上げる。
「え?」
間の抜けた声を出し、辺りを見回した。その場に立っていたはずの、加藤さんが居ない。それなりに体格の良い大の大人が何時の間に居なくなったのかまるで気付かなかったことに、驚く。
まるで煙のように、消えたんじゃないか、と思う。
「あ、あそこ」と、江口が指をさす。
映画館の出口の辺りに向かい、歩いて行く長身の体が見えた。
外へと出ると、自販機などが置いてあるホールに、加藤さんの姿を見つけた。プラスチック製の白い椅子とテーブルに、腰掛けている。
「ちょっと」
と、江口が突進した。「どういうこと、爆弾、無かったんだけど」
「ああ、嘘ですよ」
加藤さんは落ち着きはらったものだった。
突進した江口の方が、え? と、呆気に取られている。
「仕返しの悪戯です」
穏やかにほほ笑みながら、加藤さんは言う。「散々、ぶつかられたので」
「え」
「驚きました?」
瞬間、少年のようなわんぱくっぽさが、瞳に滲む。「あの時の二人の顔、可笑しかったですよ、爆弾なんてあるわけないのに」
「分からないじゃない、爆弾、あるかも知れないじゃない」
江口が憤慨する。「だいたい、あるわけないことを言ったのは、そっちなんだって」
「ですよね、真に受けると思いませんでした。シュラインさんまで」
目を向けられ、シュラインは「はあ」とか、いい加減な相槌を打つ。「私は結構、見た目に寄らず間の抜けてるところがあるんです」
「そうだよ、エマは間の抜けたところがあるんだよ、何か問題ある?」
便乗した江口が、良く分からない怒り方をする。
「じゃあ、お詫びに」
加藤さんはそう言って、自販機で買ったと思しき、紙コップを差し出してくる。「飲みませんか?」
「これも」と、シュラインは差し出された紙コップを見下ろす。
「嫌がらせの前振りとかじゃないですよね」
「嫌がらせではなく、悪戯ですよ」
シュラインは紙コップを受け取り、赤茶色の長椅子に腰掛けた。テーブルに並べられた椅子は二つで、片方に江口が腰掛けた。
紙コップの中身はブラックのホットコーヒーだった。好みから言えば、ブラックコーヒーは好きだったし、良く飲むのだけれど、女性に渡す為に、ブラックコーヒーを購入することは余りないように思えた。まるで、好みを知っているかのようだ、と思いながら、紙コップを傾ける。実際、「私、ブラックコーヒー好きとか、言ってましたっけ?」と、口に出した。
「あー」
加藤さんは小首を傾げ、「打ち合わせの時とか、シュラインさん、絶対ブラックだったような気がするんですよね」と、言う。
「へえ、良く、見てますね」
「そういうことって、案外、仕事の上で、必要なんですよね」
ただ静かに座ってるだけの人だ、という印象があっただけに、泰然とそんなことを言うなんて、実は、結構仕事のできる人ではないですか? と、少し、驚く。
「とか言ってさ、本当はエマのこと、好きだったりするんじゃないのー。だから、覚えてた」
丁寧に手入れされた爪の先を相手に向け、からかうように、江口が、指をくるくると、させる。加藤さんは、動じなかった。
「そういう勘繰りをされるんじゃないかなあ、とは思いました」
「思ったんだ」
「それでストーカーだ、とか、非難されたらどうしようかと思いました」
「ストーカーだ」
江口はすかさず、非難する。加藤さんは、また、苦笑を浮かべる。
「信じて貰えないかもしれないですけど、ストーカーとかでは、ないです」
「でも、だいたいさ、自分がストーカーじゃないと、ストーカーだと非難されたらどうしよう、なんて思わないよ、絶対」
「絶対って、何の自信よ、それ」
「近しい人物に居るんですよね、一人。そのようなことをやっているような節の見られる人が。だから、ストーカーとか、思わず、出たのかも」
何処までが本当かは分からないが、加藤さんはそのようなことを言い、自分の紙コップの中身を一口、飲む。
「ああ、そうなんですか」
と、答え、私の近くにも居ますよ、とか喉元まで出かかって、やめた。草間の顔が脳裏に浮かんだ。冗談のネタにしても、説明が面倒臭い。
紙コップを傾ける。
「でもさ、加藤さんって、絶対、長男の感じだよねー」とか、江口が無駄な話を持ちかけ、「良くわかりますね、弟が一人います」などと、加藤さんが答えているのを、聞き流しながら、温くなったブラックコーヒーを味わう。
「でさ、その、私のことつけ回してるその男の人さ、あたしのこと、好きなんだよね、何かつけ回してるくらいだし」
財布から紙幣を出し、レジの女性に私ながら、百合子が加藤を振り返る。
「さあ?」と、加藤は小首を傾げる。「僕には、分かりません。そもそも貴方は、僕の、好みではないし」
レジの女性が、お釣りを差し出しながら、え、何の話? 私の聞き間違い? とでもいうような、興味を浮かべた目で、ちら、と二人を見る。
「何それ、失礼じゃなーい?」
小銭を財布の中に仕舞い入れながら、唇を尖らせる。鎮痛剤の入った袋を提げて、歩き出した。
「でも、何だか楽しそうですよ」
「楽しそう」
自動ドアをくぐり、まばらに車の停車した駐車場を横切って行く。「楽しんでるストーカーって凄い、悪質なイメージがあるんだけど」
「否定はしませんけど」
「しないんだ」
「でも、彼の場合は、ストーカーだったから、貴方を見てたんじゃなくて、貴方を見ていたらストーカーになってた、って感じだと思うんですよね」
「え、同じじゃないの」
「貴方を見てたら、楽しくなるんだと思います、たぶん。幸福な気分っていうか、朗らかで優しい気分っていうか」
「朗らかな気分?」
繰り返して、顔を顰める。「ストーカーと朗らかは、普通、同居するものなの」
「対象が貴方だと、するんじゃないですか」
加藤は気のない返事を返し、俯く。「貴方が、自分は被害者だとか敏感で過剰に騒ぎ立てるような人だったら、良かったのに」
そして、百合子の顔を見やる。
それを、暫く見つめてから、百合子は小さく小首を傾げた。「えーっと、じゃあ、何か、ごめんね」
「今、雰囲気で謝りましたよね」
「うん、何か、そういう目かなって思って」
来る時にも引っかかった細い十字路の赤信号で、立ち止まる。二人でぼんやりと並び、前方を通り過ぎて行く車を、眺める。
「でさ、そのさ、男の人なんだけど」
「はあ」
「私のこと、つけ回してる、とか言う」
「ああ」
「どんな人なの、とかは教えて、貰えないの?」
百合子は加藤を振り返る。
「そうですね」と、加藤が小首を傾げる。「ワゴンで移動販売してます。パンとかの」
「あ、そうなの」
「はい、そうです」
「あたしも、会ってるのかな」
「はい、そこで二度ほど、買い物をしてます」
「えー」
「本当です」
「凄いね、さすがだね、良く知ってるね」
「僕は良く知ってるんですよ」
それまで、ほとんど覇気のない返事を返していた加藤だったが、その時ばかりは、それだけは譲れない、とでもいうように、胸を張った。
胸を張れるような事ではないよ、と内心で、思う。
「だから、僕が貴方に会いに来たのは、貴方を見てみたかったからです」
「ちなみに、それでついでに刺そうとしてるとか、ないですよね?」
「貴方に彼を気遣う様子がないので、刺す程のこともないかな、と思いました」
「あ、刺そうと思ってたんですね」
百合子は、思わず、距離をあける。
「今は、思ってないですよ」
「あ! でも!」
ここで言うしかない、とでもいうような勢いを見せ、百合子は思いついたその台詞を口走った。
「あたしのこと刺したら、呪ってゾンビになって出てやるから!」
数秒の間を開けて、はあまあそうですか、くらいの雰囲気で、加藤は百合子の啖呵を聞き流す。
「僕は彼のストーカですから、彼には、幸せで居て貰いたいとも思うんですよ」
「え、無視?」
「彼のことなら何でも知りたいし、彼が見ている人のことも、見たくなります。そうして彼のことを、把握していたいんです」
「ふうん、そんなもんかな」
信号が青になり、百合子は歩き出す。
「そんなもんですよ」
加藤は答える。
百合子を家まで送り届けると、「それでは僕は、ストーキングがありますので」と、まるで仕事にでも出かけるように、アパートを後にした。
別に、わざわざ送ってくれなくても良かったのにな、律義な人だな、と思った。
「それで見守るとか言っても、あれでしょ、どうせ、相手のこととかはもう、掴んでるんでしょ、まーくん」
事務机に備え付けられた椅子に座り、ゆらゆらと半回転をさせながら、草間が言った。
目の前には電源の入ったノートパソコンが開かれてある。インターネットのサイトが表示されていた。来春公開の映画のサイトだった。
「まあね、それなりには、掴んでるけど」
「凄いね、まーくん」
「たっくん程では、ないよ」
「やっぱりそうだよね」
「そりゃそうだよ、こんなところで腐りそうなくらい暇でも全然平気なたっくんほどでは、ないよ」
「失礼な、俺は、忙しいんだよ、これでも」
「呑気に映画のサイト見てる奴がー?」
「今日はさ、仕事の打ち合わせがあったんだよ。ほら、最近俺、シェルター経営してる知り合いと、専属契約したじゃない」
「ああ、あの、入ってくる人、調べて欲しい、とか言う奴だよね」
うん、と頷いて、草間はまた、椅子をゆらゆら、と揺らす。「嫌な世の中になったもんだよねー、助けを求めてくる人物のことも、調べなきゃいけないなんて」
とか言いながら、全然嫌そうではなく、むしろ、どうでも良さそうだった。
「仕方ないんじゃないの、追ってくる方は巧妙に仕掛けてくるのだって居るんだから」
「怖いよねえ、全く」
「まあ、何にしても、ストーカーのたっくんには、言われたくないと思うけどさ」
「ま、そうだよね」
頷いて、マウスを掴む。頬杖を突きながら、出ている俳優の情報などを、眺める。
そこで、ふと、間興信所の電話が鳴りだした。プルルル、と事務的な音が、室内に、響く。
兎月原が、草間を、見る。
電話に出る様子はない。暫くして、「はい、草間興信所です、あいにくですがただいま留守にしております」と、かしこまった草間の声でアナウンスが流れた。
「ねえ、これってどうなの、その、常に居留守の感じ」
「いいじゃん、面倒臭いんだよ、勧誘の電話とかだと」
かち、かち、とマウスを弄くる音が、室内に響く。ピーと、録音開始を告げる音が、鳴り、数秒、沈黙があった。
「もしもし、内浦です」
電話の主はそう名乗った。それから、本日の打ち合わせはキャンセルしたい旨を淡々と告げた。やがて、電話が切れた。
「キャンセルしたいだって、仕事、無くなったね」
「無くなったんじゃなくて、伸びただけだって」
「可哀想に、暇人」
「そう思うなら、たっくん何か面白いこと、提供してよ」
兎月原はそれには答えず、ポケットから携帯電話を取り出すと、何処かにかけた。
「あ、もしもし?」と話出す。
「どう、やってる? うん、上手くいってる? へえ、そうなんだ。うん、うん、え、そうなの。公演広場? うん、うん、へえ、そうなんだ。え? 帰っていいかって? いやあ、帰っちゃダメだよ。そいつがそこ離れるまで居てくれなきゃ。え? うん、うん、何、見てくる人がいる? うそ、何でだろうね。いや、俺は関係ないけど。うん、うん、まあ、じゃあさ、とりあえずさ、俺、行くからさ、それまではそこで待っててよ、ね、うん。じゃあ、後で、はいはいー」
パチン、と携帯電話を閉じて、煙草に火をつける。「ねえ、たっくん」
「なにー」
「じゃあさ、俺と一緒に行かない?」
「どっからの、じゃあさ、なわけ」
「いや何か、面白そうなことの、提供?」
「どう、面白そうなわけ」
「百合子のこと、つけ回してる男ね、パンの移動販売とか、してるのね」
「あ、そうなの」
「でさ、そいつのこと、今、いろいろ調べてるんだけどさ、調べるの手伝って貰ってる男が居るのね」
「あ、そうなの」
「定食屋の店主やってる奴なんだけどさ」
「定食屋の店主って、見張りとか出来るんだっけ?」
「百合子のこと、ちょっと気に入ってそうだったから、まるめ込んだんだよね、吉田君のことも、あるし」
「吉田君?」
「いやいや、こっちの話」
「ふうん」
「それでさ、彼、今、公演広場に居るらしくて、見張って貰ってるんだけど」
「うん」
「そこに一緒に行かないか、って話」
「まあ別にいいんだけどさ、基本的に俺、百合子ちゃんのストーカーがどんな奴か、とかあんまり興味ないからなあ、申し訳ないけど」
「そこで、うわあい興味ある興味あるー、百合子ちゃんのストーカー見たあい! とか言っちゃうたっくんは、俺の好きなたっくんじゃないよね」
「でしょ」
「でもその、定食屋の彼がね」
「うん」
「何かすっごい見られてるんだって。しかも、堂々と。めっちゃ、がん見されてるんだって。それで、困ってるんだって」
「ふうん」
「それって、面白そうじゃない?」
「まあ」
パソコンから顔を上げ、草間は顎を摘む。「確かに、困ってる人を眺めてるのも、面白いかも」
内浦は、前方に見えるベンチに腰掛けた男性のことを眺めている。
その人がそこに座った時から眺めていて、それからずっと眺めているから、そろそろ本気で文句とか言われるかもしれない、とかは結構思っているのだけれど、それでもまだ眺めていて、いやもう絶対そろそろ怒られますよとか分かってても悪戯やめない奴、とでもいうような、限界への挑戦を、まだ、続けていた。
その人は一度、かかってきた電話に出て、こそこそと何かを喋っていた。それでそのまま何処かに行っちゃうのかしら、と思っていたら、切った後も、その場にまだ居座ってじっとしていて、地面などを眺めている。こんなに見つめられているのに、戸惑いつつも、逃げないあの人は、もしかしたら、マゾヒストかもしれなくて、でも、どちらかといえば、自分だってマゾヒストなので、これは困る。
でももしかしたら、マゾだ。
「俺も、そう思う」
声が、というか、同意が、横の方から聞こえてきたのだけれど、内浦はすぐには反応出来なかった。え、とか思う。思うけど、何か、空耳かなとも思った。思ったけど、何か、知っている声のような気がする、というか、たぶん、知っている。でもその声が今ここで聞こえるのは、間違っているような気もした。
内浦はやっと、のろのろと振り向いた。
「ところで内浦君、今何時だか、知ってる?」
草間武彦が座っていた。
「さあ、それは、時計を見てみないことには」
「じゃあ、見てみて。びっくるするよ」
とか言われたからには、びっくり出来るのかな、とかちょっと期待して、ポケットから携帯電話を取り出して、見た。
「あれ、別に、びっくりしないですね」
「今日、約束してたよね? 何時にうちの興信所来るって言ってた?」
「その約束の時間の前に、電話入れましたよね? 今日は、キャンセルさせて下さいって。留守電でしたけど」
「留守電で一方的に仕事をキャンセルしといてこんなところで堂々とぼーっとしてるなんて、君って凄いね」
「はあ、そうですかね」
堂々として答えたら、じーとか見られた。
見られたからには何か、とりあえず、見つめ返した。数秒間くらい、見詰め合った。
「あ」
内浦は、ちょっとすいません、寝てました、とでもいうような雰囲気で、声を上げる。「そういえば、俺もそう思うって、何ですか?」
「いや何かあれさ、うちの興信所の壁にさ、何故か画鋲だけ刺さっててさ。ちょうど、俺の座ってる椅子の横ね。あれさ、たまに、気ぃ抜いてる時とかぱっと見たら、蜘蛛みたいに見えてめちゃくちゃドキッとするんだよね、何か」
内浦は能面みたいな顔で草間の顔を見つめていた。数秒経った後、「あれ? 何の話ですか?」と、言った。
「ところであの、冴えない青年なんだけど。何か、あるの」
「はあいやあの特には何もないんですけど」
内浦は、ベンチに座る男の人を見た。よれよれのシャツを身につけていて、無精髭が生え、それは無造作というよりも、不潔な印象が強かった。漠然と、爪とかが汚そうなイメージがある。そういう感じがいいなあ、と思う。
顔をテーブルに戻した。それから、言った。
「好みなんです」
はあそうですか、みたいな顔で草間は頬杖をついた格好で、男性と内浦を見比べた。
「俺とは全然違うけど」
「僕の好みが何か、草間さん前提みたいな感じで言うのはとりあえずやめて貰っていいですかね」
「君はそのように、外見的にはそれなりに見てくれの良い、どちらかと言えば気弱そうな青年であるのに、案外、はっきり、物を言うね」
「あのー留守電、聞いてなかったんですか?」
「留守電に、君がはっきり物を言う的なこと、吹き込んでた?」
「いや今日の予定はキャンセルさせて下さいって言ったと思うんですけど」
「話が戻ってるね」
「すいません、戻しました」
「あの爪とか汚そうな人を見たいから?」
「爪とか汚そうとか、自分でも思ってましたけど、草間さんに何か舐めた感じで言われると、何かちょっと苛っとしますね」
「俺が格好良いから?」
「だいたい、いつからそこに居たんですか。全然気がつきませんでした」
「まあ、そりゃそうだよ。俺はかなりそっと座ったし、君はずっと、あの爪とか汚そうな青年見てたし」
「何かやっぱりそれ草間さんに舐めた感じで言われると、苛っとしますね」
「ああいうのに抱かれたいなあ、とか思うんだ」
「何かだらしないの、好きなんです。だらしなくなくても好きですけど」
「ああ、けっこう何でも好きなんだ」
「わりとそう誤解されることはあります」
「問題はさ、君のその留守電でさ」
「はあ、話、飛びましたね」
「まあ、飛ばしたね」
「問題、って何ですか」
「問題は問題だよ、問いかけて答えさせる題。解答を要する問い。だとか、研究、論議して解決すべき事柄。だとか、争論の材料となる事件。面倒な事件。だとか、人々の注目を集めている、あるいは、集めてしかるべきこと。だとか、内浦君の電話、だとかだよ」
いい加減なことを言うところからして、特に何もないのだな、と勝手に判断し、「はあ、そうでしたか」とか、ひとまず、相槌を打っておく。頬に痒みを感じたので、ぼりぼり、と爪を立てた。
暫くして、ねえ、と草間が内浦に呼びかけた。
何ですか、と答える。
「あの人のこと、知りたい?」
「あの人のこと?」
「あの、爪とか汚そうな人のこと」
「まだ、言いますか」
「俺、あの人のこと、知ってるんだよね、ちょっとだけだけど」
「本当ですか」
「これに関しては、本当」
「じゃあ、とりあえず、教えて貰っていいですか」
「教えて欲しいんだ?」
「そうですね」
「んー、じゃあ、教えてあげてもいいけど」
草間は勿体付けるように、椅子の背もたれに背を預けながら、足を、組んだ。
「内浦君は俺に、何してくれるの?」
自分から話を振っておいて、俺は得にならないことはしない主義だからなあ、とか、腹立たしいことを、言った。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号0086/ シュライン・エマ (しゅらいん・えま) / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【整理番号7520/ 歌川・百合子 (うたがわ・ゆりこ) / 女性 / 29歳 / パートアルバイター(現在:某所で雑用係)】
【整理番号7521/ 兎月原・正嗣 (うつきはら・まさつぐ) / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは。
このたびは当ノベルをご購入頂き、まことにありがとうございました。
愛し子をお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝を捧げつつ。
また。何処かでお逢い出来ることを祈り。
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