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暴虐の右腕(3)
“最悪”だと、そう口に出来るうちは大丈夫‥‥‥‥
どこかで、誰かにそう聞いたことがある。
「もうダメだ」とか「最悪だ」などと、口にして言える間は、まだ切り抜けられる可能性が残されているらしい。人は自分で思うほどに悪い状況には立たされておらず、行動次第で事態は好転するのだそうだ。
しかし、だ。偶にはこう思う時もある。人は「大丈夫」と言っている時に限って、案外大丈夫じゃない時がある。
「大丈夫。きっと成功するよ!」
「大丈夫。きっと助けが来るよ!」
「大丈夫。君なら出来るよ!」
‥‥‥‥もはや死亡フラグにしか聞こえない。恐らく、“大丈夫”だと思っている時点で、気が緩んでいる所為だろう。些細なことで失敗したり、小さな偶然で全てを台無しにしてしまう。自分なら大丈夫だと、過信が失敗を呼び、そしてそこから転落が始まる。そして過信によって転がり落ちた者は、這い上がることは難しい。自分の何が問題だったのか、つまらないプライドが成長を妨害し、窮地からの脱出を阻みに掛かる。
(参ったわね‥‥‥‥上官の言葉も、少しは聞いておいた方が良かったかしら)
自らの置かれている状況に、もはや“最悪”だと愚痴を零す気力すら萎え、気休めに“大丈夫”と口にすることすら憚られる状況に置かれ、これこそが“絶望的な状況”なのだと、水嶋 琴美は生まれて初めて“狩られる側”の気分を味わっていた。
「アハハハハハハハハハ!!!」
狂った咆吼。笑い声は、あまりの声量により笑い声には聞こえない。もはや耳に届くたびに鼓膜を痛めつけに掛かるだけの騒音だった。
何が面白いのか、返り血に濡れる殺人狂は、笑い声を絶やすことなく琴美の体を痛めつけ、追い立てる。見ようによっては、子供が缶蹴りをしているかのようだった。
どむっ!
「ぐふぁ‥‥うぅ!」
腹部に繰り出された蹴りを、後方に飛んで躱しに掛かる。しかし既に失血による影響で、脚は思うように動かない。ダメージの軽減効果などほとんど得られず、蹴りの勢いに乗って壁にまで叩き付けられる。
「っ!」
息が詰まる‥‥などと言う現象は、既に琴美の中ではダメージにすらならない。それまでに負っていた傷が余りに深すぎるため、もはや軽度の傷など完全に無視して動けるようになっていた。それが失血と臨界点を超えた痛みにより感覚が麻痺しただけなのだとしても、今の琴美にとってはプラスの効果になる。新たに加えられた傷の痛みなど、意に介する必要がないのだ。ある意味開き直ったとも言える。
「ひゃっはぁ!」
子供のように飛び掛かってくる狂人、ギルフォード‥‥‥‥
繰り出された跳び蹴りを左腕でいなし、回転しながら繰り出された追撃の左腕を、折れ曲がった右腕を盾にしてやり過ごす。ベキベキと軋みを上げて更に間接部を増やしてしまう右腕。吹き出すべき血液すらも腕の中には残っていない。もはや素人目から見ても、二度と元には戻らぬと断言出来るだろう。
ギルフォードの義手によって引き裂かれた右腕は、腕としての機能を果たしていない。律儀に痛みを送り続けていた痛覚も、今では大人しいものだ。感覚的には、自分の腕が飾り物のゴムになったかのように感じている。
そんなゴムの固まりなど‥‥‥‥琴美は必要としていない。腕の再生など完全に思考から外していた。素人から見ても回復不能と断ずることが出来るのだ。腕の持ち主、様々な修羅場を潜り抜けてきた琴美ならば、見るまでもなく二度と元には戻らないと判断出来るだろう。
そのような腕には、もはや一文の価値すらない。ただの足手纏いである。しかしそんな無価値な腕を盾として活用しなければ、とうの昔に琴美は死んでいただろう。どうせ治らないのならば、いっそ完全に破壊してしまえ。致命傷を避けるために役立てることが出来るのならば本望というものだ。
「こ、のぉ‥‥」
声が漏れるが、もはや言葉にはならない。口内は血溜まりとなって満たされており、口を開くたびに滝のように赤黒い血が流れ出る。
「ふんっ!」
バンッ! と、銃声のような音が響き渡った。
しかし拳銃など、ギルフォードも琴美も持ち合わせていない。今のは、琴美がギルフォードを罵倒しようとしていたのだと察したギルフォードが、憂さ晴らしに頬を殴り付けた音だ。口内から噴水のように噴き出す血が床を染める。それだけではない。頬は僅かに削がれ、皮膚はギルフォードの義手にベッタリと張り付いていた。
「――――!!」
声にならない悲鳴を上げる。
痛みなど感じない。とっくに痛覚は麻痺している。しかし自分の体が削り取られていく感覚は、確かに脳にまで届いていく。麻酔を掛けられていても、“何かが触れている”と感じることが出来るように、自分の体が削り取られていくのが分かる。
‥‥‥‥それでも、琴美は諦めなかった。
再び殴りかかってくるギルフォードの脚を狙い、体を倒れ込ませる。残った左腕の肘に全体重を掛け、膝を破壊しに掛かる。冷静な琴美ならば、そんな愚挙を犯すようなことはしなかっただろう。大量の失血は思考を奪い取り、意識は半ば白く染まり、薬でも盛られたのではないかとばかりに、強烈な眠気に襲われている。
ゴキッ‥‥
鈍い音が琴美の頭部に響いていた。
耳に届いたのではない。音は、正確性を度外視してしまえば地面や水の振動の方が遙かに遠く、あるいは速く届く。特に、自分自身に叩き込まれた音は耳ではなく振動でキャッチする。骨を砕くような音も、砕けた振動が骨を伝わり、鼓膜を揺らしているに過ぎない。
「あ‥‥‥‥」
軽く身を引き、倒れ込んできた琴美の頬に膝蹴りを叩き込んだギルフォードは、倒れ込んだ琴美を笑いながら蹴り続けている。ゴキャッ。顎が蹴り上げられた。数本の歯が欠け、弾け飛んで一本が喉の奥にまで侵入していく。思わずむせ返るが、再度蹴り上げられて飲み込んだ。顎にヒビが入り、舌を噛まないように引っ込めておくのが精一杯だ。
グシャグシャと破壊されていく琴美の体。むしろ、まだ壊せる箇所が残っていたことに驚いてしまう。ギルフォードが激昂し、琴美を殺しに掛かってきてからの数分間、琴美の反撃は裏目裏目に出てしまい、反撃を試みるたびに自身の体を壊していく。
義手の攻撃を受け流そうと左手で受け、皮を剥ぎ取られた。瞬時にあらゆる凶器へと変貌する義手は、触れるだけで命懸けだ。琴美が触れた瞬間に卸し金のような刃物へと変わり、触れれば触れるほどに琴美の体が削がれていく。今では躱し、無様に逃げ回る以外にない。
ならばギルフォードの左腕の間接を取ろうと待ち構え、逆に掴まれて振り回された。そもそも視界の確保すら怪しくなっている琴美では、ギルフォードの腕の動きを捉えることすら容易ではない。手を出せば掴み取られ、振り回されて遊ばれるだけだった。
笑いながら詰め寄ってきた顔に頭突きを放ち、逆に頭を打ち付けられた。怯んだところで胸倉を掴まれ、思うがままに振り回され、投げつけられる。狙っているのかどうかは知らないが、琴美の着物は肩を、胸を、襟首を掴まれて投げられることで、既にぼろ雑巾も同然に引き裂かれている。改造した帯も床に落ち、煩わしいとさえ思っていた両の胸は、好き勝手に揺れている。だが押さえ付けられることもなく自己主張する豊満な胸も、口から吹き出した血に濡れ、幾重もの痣を残すようになってしまっては、もはや扇情的な魅力の一切を失ってしまっていた。
ミニのスカートはまだ健在だが、それは単純に狙われていないだけのこと。蹴り、穿たれた腹部は青黒く染まり、一目で内臓を痛めているのだと見て取れる。口から吹き出した血に黒色が混じっているのはそう言う理由だろう。それだけでも致命傷。病院に送られても助かるかどうか分からない重傷だ。
余りに痛々しい姿‥‥‥‥痣になっているだけなら、まだ良かった。ギルフォードは容赦なく義手を変形させ、衣服だけでなく、その下にある皮膚すらも削り取る。場合によっては肉をも抉り、生きていることが不自然に思える有様だ。
‥‥‥‥そんな琴美を支えているのは、偏にこの敵に対する憎悪、そして任務に対する執着だった。
自分の生にも、もちろん執着はある。しかしこれまで培ってきた誇りが、任務に対する執念が自分の生をも後回しにさせる。早々に寝入ってしまえば楽になれるというのに、それを認めずに立ち上がろうと藻掻いている。負けない。負けたくない。この男を倒したい。だが、届かない。立たないと。倒れ込んでいたら勝てない。クナイが落ちている。拾わなきゃ。武器が必要だ。まだ何かがある。可能性は残っている。考えろ。考えて実行しろ。私は誰だ? 特務統合機動課の暗殺者。自衛官の中でも最強のメンバーだと誇れるチームに、私は含まれている。これまで与えられた任務は全て成功させてきた。指名手配された凶悪犯を捕らえ、日本が転覆するほどの情報を入手し、闇に葬った。国内のテロリストも、自分達の活動によってそのほとんどが死に体となり、地下に潜らざるを得なくなった。そんな私が、死ぬ? 負ける? 失敗する? 冗談じゃない。こんな巫山戯たことがあって良いはずがない。まだ何かがある。何か出来ることがある。何か出来ることがある筈なのに、目の前が白く染まって‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥――――――――――――――――――――――――――――――――
‥‥‥‥戦いが始まって、一体どれほどの時間が経ったのか。
恐らくは三十分にも満たない時間。審判すらない非公式の殺し合いは、大抵は長引くようなことはない。両者の実力が拮抗しているとしても、大半は一撃目で勝敗が決してしまう。その一撃が入れば追撃し、後は畳み掛けるだけ‥‥‥‥逆に、反撃を喰らって追撃されたらそれで終わりだ。末路はどちらも同じであり、情けも容赦もない。殺し合いならばなおさらだ。一度でも形勢が不利に回ってしまえば、それが覆ることなど滅多にない。
しかしそれは、あくまで“実力が拮抗している場合”の話である。
「アハハハハハハハハハハ!! ハァー! ブハハハハ‥‥‥‥ゲホゲホッ。クッハァ、ああ、笑った笑った‥‥‥‥」
笑みは崩さず、琴美を踏みしめたままで、ギルフォードは天を仰いだ。
ああ、楽しかった。思わぬ反撃に驚きはしたものの、結局のところサプライズイベントはそれだけだった。奇跡に奇跡を重ねた奇跡的な逆転劇は一切なし。互いの実力差が大きすぎて、戦いにすらならない。相撲の関取に子供が挑んで、勝てるか? 勝てるわけがない。ルール無用ならどうかって? 馬鹿だろ。それならルール無用はお互い様だ。純粋に総合的な能力で勝っている方が勝つに決まっている。
現実は、虚構の物語のようにはいかない。弱者による奇跡的な逆転劇など、それは弱者がそうであって欲しいと願った末に生み出された産物だ。精々妄想の中でだけ勝っていろ。ありもしない希望を抱いて、地獄のそこで叫いてろ。
「さて、と。時間はあるよな?」
ポケットの中から、愛用の腕時計を取りだした。
どこぞの国から来た親善大使殿をぶち殺すまで、まだまだ時間がある。それまでどうやって時間を潰すかが悩みの種だったが、良い玩具が手に入った。一応呼吸はしているし、応急処置さえしておけば生かしておけるだろう。放っておけば死ぬだろうが‥‥‥‥まぁ、こいつが死んだら、医務室に居る医者を殺すとしよう。死に物狂いで治すぞきっと。治るまでは‥‥‥‥良し、侵入者を許した警備の奴らに罰を与えなけりゃな。特別サービスだ! 生き残れたら、この女で遊ぶ時に混ぜてやるぜ!
便利だった着物は既に千切れ飛んでいるため、上半身には何も身に付けていない。仕方なしに、ギルフォードは琴美の髪を掴み、ズルズルと引きずっていく。柔らかな肌も豊満な胸も力無く投げ出されている肢体も、ギルフォードの眼中には存在しない。ただ、「あの着物、掴むのに便利だったんだけどなぁ」程度の感想を思い浮かべただけだった。
まだ綺麗な白を残していた床に、紅い跡を残していく。
それは、その場にだけ血の川が流れているかのように、クッキリと残り続けていた‥‥‥‥
bad end
●●●あとがき●●●
連続しての発注、誠にありがとう御座います。メビオス零です。
今回のシナリオはどうでしたでしょうか? 琴美さんがこれまで以上に大変な目に遭っています。恐らくこの後、琴美さんのお仲間さんも後を追うことになるのでしょう。それで何が救われることになるのか‥‥‥‥いえ、救いはありませんね。琴美さんは既に捕らえられちゃってますし、逃げられなーい! そしてギルフォードさんと同じ施設にいた警備の方々もご愁傷様。生き残ったのは掃除夫だけだったのでした。
ギルフォードは次元違いの強さになっていますね。主に全体的な身体能力が人間離れしています。クナイを“見てから”躱すというとんでも技。ただ動体視力が良いだけなんですけど、対応出来るからには“投擲されたクナイ”よりも速く動けることが絶対条件。義手無しでも勝てないですよ、こんな人。
では、今回のご発注、改めてありがとう御座いました。
作品に対するご感想、ご指摘、ご叱責などが御座いましたら、遠慮容赦なく仰って下さいませ。出来る限り参考にし、今後の作品に生かしていきたいと思っております。
またの御機会が御座いましたら、精一杯頑張らせて頂きますので、よろしく御願いいたします。(・_・)(._.)
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