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<東京怪談ノベル(シングル)>


【魔性 〜 歌声は海に沈む】





 数日前から、どこか違和感を感じていた。
 教室で授業を受けているときも、部活で泳いでいるときも、通学路をのんびり歩いているときも、なにかが心に引っかかっていた。
 その正体に気がついたのは、月の雫をぼんやり眺めていたときだ。
 月の雫は、涙の滴のような形をしている。その色は、深紅のベールが幾重にも折り重ねられているかのような、奥行きのあるルビー色。しかしその赤は、見る方向により七色の輝きに彩られて、まるで表情を持ち、生きているかのように煌めく。ずっと眺めていても飽きない、不思議な玉石。
 お風呂から上がり、パジャマに着替え、髪を乾かしたみなもは、机の引き出しから月の雫を取り出した。ベッドに腰かけ、石を眺めた。
 この石を手に入れたとき、あたしは悪魔に囚われていた。
 胸の奥底に溜まっていた泥を、水に晒して流したようにすっきりとした、あの不思議な一夜。ずっと隠し持っていた、己の魔性を露にした夜。さらけだし、しでかした夜。
 生きる希望をかっさらい、絶望を吹き込んで、打ちひしがれた人間の、その失望さえ噛み砕く悪魔。夜の情緒をつま弾いて、闇を震わせ、雰囲気をぶち壊し、人の心に波風を立てた小悪魔。自分がしでかしたことを、ほんとうに怖いと思った小心者。それは、あたし。
 押さえつけてきた好奇心。人が厭がったり、人の心が惑ったりするのを見たい。見てみたい。ただそれだけの、負の好奇心
 もしそれを奪ったら、あなたはどんな顔をするんだろう?
 悪魔の声が囁いた。
 みなもの魔性が首をもたげた。咽喉の奥がチクリとした。悪魔の鎌の切っ先が、魂の薄皮を一枚裂いた。
 不意に、海の香りが胸に満ちた。
 風の気配に顔を上げた。開いた窓から風が吹き込み、カーテンがひらひらと踊っていた。その風の匂いに、再び海を感じた。
 そのときみなもはようやく気づいた。あの違和感の正体を。
 「海が」つぶやいた。「海が塗り替えられている」
 みなもは立ち上がり、窓の側へ駆け寄った。
 これは――
 「違う」
 これはいつもの海じゃない。
 今、はっきりと分かった。海から運ばれてくる風が教えてくれた。
 学校に行っている間に、あたしの部屋をママが掃除してくれたときの、あの感覚。ぬいぐるみが座る場所、本棚の辞書の位置、洋服ダンスの靴下の場所。自分の馴染みとズレている、それを無意識に覚ったときの、ちょっとした不快感。
 「何が起こっているの?」
 ――起こしてる奴がいる。
 咽喉の奥から、後頭部へと声が走った。その声はつむじのあたりで反射して、全身へと広がっていく。身体の内から背筋をなぞる、
 右手で握りしめていた、月の滴がにわかに熱を帯びはじめた。
 ――呪いをかけてる奴がいる。
 「海に?」
 ――海に。
 酷いことする。
 ――やめさせないと。
 やめさせないと。
 ――許せない。
 そう、許せない。
 ――こらしめてやりましょう。
 こらしめて……
 ――海に沈めて、息を詰まらせ、もがいてももがいても、もがいても水ばかりを肺に注ぎ……やがて手は動かなくなり、足は水底に吸い込まれ、視界は闇に閉ざされる。
 ちょっと待って! それじゃ死んじゃう!
 ――いいじゃない? その逃れられない苦しみのなかにあってはじめて、呪いを放ったことを後悔する。人間は、痛い思いをしないと覚えないから。
 そう、かな?
 ――そうしておけば、忘れない。
 忘れない?
 ――苦しみは身体に刻まれ、その状況は魂に恐怖の種を植え付ける。どんなに時が経とうとも、その土地に舞い戻れば、恐怖が芽を出す。その苦しみが蘇る。
 そんな……これこそ呪い。
 ――いけない? それが良くないっていうの? 海は呪いをかけられた。その呪われる苦しみを、本人に教えてあげる。それは、正しいことよ。
 正しい……
 ―正しい。
 やってもいい?
 ―やっていいわ。むしろ……
 するべき。
 そう、するべきよ。
 右手が熱い。
 その手にあった、月の雫は濡れていた。それが熱い。
 どくどくと血を流すように、その玉石は濡れている。赤く、赤く、血のごとく赤く。
 みなもは窓から身を乗り出した。闇夜の虚空に降り立った。宙に浮かび、青い髪をなびかせた。動きやすい大きめのパジャマが身体に張り付き、闇色に溶けていく。身体に纏った闇をつまみ、踊るように身を翻した。
 身体が変容していくのが、闇と接する膚の痺れで理解できる。
 手足はすらりと伸びて、風にあらがう。膨らむ胸と持ち上がるお尻とが、闇に支えられているのが分かる。もともと長かった髪も、腰の先まで伸びていき、その色も闇に溶けたか、墨色に変わっていった。
 夜の冷えた空気を嫌い、まぶたを下ろし、視界を狭める。長く豊かなまつ毛が、その半眼の視界をふさぎ、目に映るのは、ただ暗がりにゆらめく朧。
 唇は濡れている。毒々しい赤紫の紅で濡れる。舌先で唇をなめ、その味を確かめる。錆びた鉄のような、血の味はしない。角砂糖のように甘いのに、棘のように舌を突き刺す、痺れる味が隠されている。
 首筋を冷たい夜風が撫でていく。胸元から、身体の熱が立ち上る。その汗は、その体液は、肉に染み込んだ血の香りを宿している。血の裏側から抜け出した、魔性の想いが血に滲み出て、全身を駆け巡る。血管からさえ滲み出て、肉を侵し、汗となって、上気となって、みなもの身体を包みこむ。闇に変容したいつものパジャマと混和して、別の衣を造りだす。
 闇色の衣は着物のようで、胸元が大きく開いたその肩口は、肩と腕をさらけだし、肘で衣を支えている。何重にも巻かれた帯は緩くたわみ、いつほどけるか分からない。そのせいか、裾も容易に開いてしまい、右足の太ももの、その透きとおる月のような膚がほとんど露になっている。
 膨らんだ胸の谷間に熱を感じた。いつのまに鎖に繋がれ、ペンダントとなった月の雫が熱を帯び、溶岩のように赤く光り輝いている。異様にぎらつく赤い光は、夜の隙間を照らしだした。次元の隙間をさらけだした。

 みなもは折り重なった闇のベールを一枚剥いで、その中に身を隠す。その中でまたベールを剥ぐと、港のはるか上空に移動していた。折り重なる闇のカーテンを開きながら、どんどん南へ移動する。
 「あれね」
 みなもは眼下に一隻の船を見つけた。
 蝋燭の弱々しい灯火だけが光っている、怪しいクルーザー。
 満月から数日経った、下弦の月が頭上に浮かぶ。少女の身体は、髪も、衣も闇に溶けこみ、その外気に晒されている膚だけが白く輝く。
 重力の弱い星で飛び降りたかのように、みなもの身体はゆっくりと降下する。右手で薄闇に触れながら降りていく。そして指の入る隙間を見つけると、そこに手を差し入れて、湾曲する棒を掴んだ。月光の下に引きだしたのは、空色に輝く竪琴。
 クルーザーの天井に降り立ったみなもは、自分に向かって叫び、機関銃を向ける男女に微笑んだ。
 外国語?
 大陸の言葉ね。陰陽、呪術、風水、錬金。人が自然を操ろうとする術は、古くからたくさんあった。雨を導き、日照りを避ける。嵐をそらして、魚を導く。
 国同士の呪術合戦……
 それは昔からつねにあったことだけど、これはやりすぎ。
 苦しんでいる海を、あたしは放ってはおけない。放っておけば、あなたたちは何度だって、繰り返しやってくるから。
 何度だって、海に呪いをかけるから。
 機関銃の激しい音が、静かな海に響き渡った。みなもの身体を捕えた弾丸は、しかし薄闇のベールの中へと消え去っていく。
 「無粋な音ね」
 天井に腰かけて、みなもはリュートを腕に抱えた。足を組み、その脚線美をデッキにいる異邦人に見せつける。それに魅入った男たちに、みなもは残酷な笑みを向けた。弦をひとつ、つま弾いた。
 常闇に隠されていた竪琴は、人の耳には聞こえない音を発した。その弦の震えは鼓膜ではなく直接、人の心を震わせる。呪術士たちに恐怖を与えた。その奏でる旋律によって、楽しい夢を見させることも、恍惚とした気持ちにさせることもできる。悪夢に捉えることもできるし、心を闇に隠してしまうこともできる。
 みなもは恐怖を彼らに与えた。
 殺せばいいのに。憎いのならば。
 憎くても、そこまではできないわ。追い返したり、こらしめたり。それだけだって、あたしにはできなかった。
 みなもは歌う。
 リュートの響きに重ねて歌う。まるで音叉のように、声が弦の音と響き合い、その波動が船を包んだ。
 恐怖にかられた呪術士たちは、ここから離れようと船を動かす。
 ――生ぬるい。
 魔性が囁き、声色に毒を加えた。その毒に触れた心は、呪術士たちの魂は、ぼろぼろと崩れていった。壊れた心は、破滅へと身を駆り立てる。
 はっとして、歌うのをやめたみなもは驚いた。数人の呪術士が、船を壊している。銃を撃ち、刀剣や金槌を打ち付けて、はては爆弾をしかけて壊す。船底のどぉんという音は、クルーザー全体を揺さぶる衝撃とともに響き、みなもは驚いて虚空に浮かんだ。
 沈みはじめた船を、寂しそうな、しかし嘲りを含んだ視線で見下ろした。
 「どうして?」
 自問する。
 ――海は
 魔性が告げた。
 ――海は残酷なものよ。あなたにだって、分かるでしょ?
 「あたしは……」
 人魚の末裔。自分の血にある、海の存在。
 みなもは歌った。
 海に呪いをかけようとした呪術士たちへ、沈みゆく船へ、そしてそれらを迎える、海中へ。レクイエムを歌い上げた。

 海を恨むことなかれ。
 人を恨むことなかれ。
 ただ人の希いが強すぎて、海がそれを嫌がっただけ。
 いまはひとつになるがいい。
 海はすべての想いを溶かすから。
 大いなる海のふところに抱かれて、想いをほどき、安らかに寝むられよ。

 静かな夜の海の上、下弦の月の柔らかな光の中で、闇の衣をまとった少女が浮かんでいる。
 風に墨色の髪をなびかせ、竪琴を腕に抱えて、弾き歌う。
 残酷さと優しさの狭間で揺れる、少女が歌う。
 その歌声は、南の海に溶けて沈む。





     (了)