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【Escape Play】
手を引かれる。
昼間の雑踏は、とても眩しく明るくて。
車のクラクションや、エンジンの音。
調子っぱずれな、横断歩道のメロディ。
人の呼吸、歩く靴音。
不意に聞こえてくる着メロに、携帯電話で話す人。
街の雑多な音が渾然一体となって、耳に飛び込んでくる。
目の前には、自分のより少し広い背中。
……手を引く、相手。
天を仰げば、四角い建造物に削り取られた狭い空。
そこから降り注ぐ陽光と、ビル窓からの反射光が、とても眩しくて。
相馬・樹生は、思わず琥珀色の瞳を細めた。
○
「少し、休憩するか」
狭いフロアに満ちていた音を、その一言が断つ。
それを合図に、ピンと場に張り詰めていた空気が緩んだ。
周りのメンバー達は自分のポジションから外れ、互いに雑談をしながら次々とステージを降りていく。
一人、頭上のライトを仰いだ樹生は大きく息を吐き、それからエレキギターのストラップに手をかけた。
下ろしたギターをスタンドへ立てていると、彼から一番近いテーブルにドリンクボトルが置かれたのが目に入る。
「どうした? 今日は随分と、ノリが悪いな」
テーブルの傍らには、休憩を提案した永嶺・蒼衣がスツールに腰掛けていた。
「……ごめん」
ステージに残ったままで樹生は目を伏せて、ただ一言、目の前の相手へ謝る。
なんとなく、自分のせいで蒼衣がリハーサルを中断し、休憩を入れたような気がしていた。
(……違う。きっと今のは、僕のせいで中断したんだよね)
そしてまたひとつ、重い溜め息が床に落ちる。
テーブルに肘をついた蒼衣は、そんなギタリストの様子をじっと見つめていたが。
やがて黙って立ち上がり、無言のままステージへ歩み寄った。
矢車菊の花を思わせる青の瞳に見据えられた樹生は、ぎこちなく自分から視線を外す。
目を合わせるのが、何故か無性に怖い……近くでなら、なおさら。
期待外れとか失望したとか、口には出さない感情が、見透かす青の奥に浮かんでいそうで――。
「ちょっと、顔を洗ってくるよ。気持ちを切り替えたら……」
その場を逃れる口実ではないが、出来るだけ明るい口調を意識して告げれば、伸ばした手が腕を掴んだ。
「蒼衣?」
顔を上げて問う前に、彼を掴まえた蒼衣が踵を返した。
僅かな一瞬、見えた横顔と青い瞳に浮かんだ表情は。
(……怒って、ない?)
どちらかといえば、何かを企んでいる様な。
驚きより拍子抜けたというべきか、やや呆然としながら樹生は手を引かれ。
引かれるままに、ステージを降りた。
否応なしで、無言のまま蒼衣は樹生を引っ張る。
そして裏口を通り、穴蔵のようなライブハウスを抜け出して、彼を外へと連れ出した。
○
「あおい、蒼衣っ」
手を掴んだ腕の袖を引いて、樹生は前を歩く相手の名前を呼ぶ。
「待てよ、待てってば!」
足を踏ん張り、引かれる腕を引っ張り返して、やっと振りほどく。
「蒼衣、リハ放り出してどこに……わぶっ」
足を止めて振り返った蒼衣が、今度は肩へ腕を回して樹生を自分へ抱き寄せた。
一瞬、バランスを崩しかけた樹生は、ぽふんと蒼衣のコートに顔を埋め。
ぎゅっと引き寄せられたまま、連れて行かれる。
「はな……放せって」
「交差点の真ん中で、止まるな。せっかく見つけた有望なギタリストを手放す気は、俺にはないぞ」
ようやく答えた蒼衣が、腕の力を緩めた。
言われて後ろを振り返れば、スクランブル交差点の信号が点滅して赤へと変わり、車が一斉に走り出す。
急に連れ出されて動転し、蒼衣の背中ばかりを気にしていたせいか。
自分が今どこにいるかすら考えてなかった事に、今更ながら樹生は気付いた。
「あ……ごめん」
次いで、ありがと。と、短く付け加える。
「でも、それとリハ抜け出してきたのは別だからね。まだ、完璧じゃないのに」
納得がいかない様子の樹生が、手をついて蒼衣から離れた。
「そうだな、随分と調子が悪い。完璧とは、程遠い出来だ」
隠さずストレートに蒼衣から指摘を受け、自然と樹生の表情が曇る。
「やっぱり」
「だから、行くぞ」
消沈していると、また返事を待たずに蒼衣が彼の腕を引いた。
「どこに……って、そんなに引っ張るなよ。それに、蒼衣みたいにでっかいのと一緒に歩いてたら、目立ち過ぎる」
抗議して抵抗してみるが、腕の力を緩める気配は微塵もなく。
逆に肩を抱いてしっかりと、引き寄せられた。
「ちょ……蒼衣、聞いてる?」
「人ごみではぐれたら、探す時間が無駄だろう」
すぐ傍で聞こえる声は憮然としていて、くしゃりと髪を撫でられる。
「離れるな、樹生」
とくん、と。
何故か樹生の心臓が、ワンテンポ跳ねた。
口をつぐみ、それ以上は抗わず、蒼衣の隣を歩く。
急に大人しくなった樹生の様子に蒼衣は僅かに苦笑し、それから口を開いた。
「忙しいのか?」
投げられた質問に、ちょっと樹生は困った表情を浮かべる。
「大学の方が、少しバタバタしてる、かな」
今の『相馬・樹生』は、二つの顔を持っていた。
衣装デザイナーを目指して学ぶ大学生の顔と、オルタナティブバンド『Crescens』のギタリストとしての顔。
大学での講義や課題を、決して疎かにせず。
一方で、ライヴツアーやレコーディングといった音楽活動もこなす。
――ある意味、二重生活。
蒼衣に言われて気付いたが、確かに忙しい日々だった……忙しいという事自体を忘れてしまう程に。
そう思えば、リハを抜け出したのも蒼衣なりの気遣いかもしれない、と。
行き着いた予感に、樹生は傍らを歩くバンドメンバーの横顔を見上げた。
陽に透ければ金髪にも見える髪に、醒めるような青い瞳。
じっと見つめる視線に気付いたのか、蒼衣が彼を見やる。
「時間があれば、もっと遠くまで足を伸ばしたかったんだがな」
言われて示す先を見れば、そこは待ち合わせに良く使われる駅前の公園スペースだった。
降り注ぐ日差しの中、ギター一本を手に唄うストリートミュージシャンの姿がちらほらと見える。
足を止めて聞く者がいてもいなくても、ストリートミュージシャン達はただ自分の演奏を続けていた。
別に珍しくともなんともない、よくある光景なのだが。
飾らない、自分だけの声と技術で、真っ直ぐに唄う姿。
自分達とは『始まりの形』こそ違うが、音楽への情熱と目指すベクトルはおそらく同じ。
「俺は俺の歌を唄って、俺の音を聞かせる。樹生も樹生の音を出せば、それでいい」
蒼衣の言葉に、くすりと樹生は笑った。
……そうだよね、忘れてた。僕は、僕でいいのに。
そして同時に、自分が彼の音を気にしていた事を察していたのだろうかと、少し疑問。
でもそれを蒼衣へ投げても、決して答えてくれないだろうから、口には出さず。
ふと、別の方向からヒソヒソと話す言葉と視線を感じて、そちらを見やれば。
数人の少女達と、目が合った。
ぱっと表情を輝かせた彼女らが、きゃいきゃいと近寄ってくる。
ぐいと、再び腕を引かれる。
「戻るぞ」
「うん」
追いつかれて囲まれる前に、黄色い声を後ろに二人で駆け出す。
混雑する人ごみを泳ぎ、青になった交差点を一気に渡って。
――それは、とてもとても短い『逃走劇』だったけれども。
蒼衣は掴んだ手を離さず、樹生は腕を引かれるままに。
今宵のステージであるライブハウスを目指し、二人は一緒に騒がしい街を駆け抜けた。
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