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【魔性 〜 childhood's end】
広げた傘に跳ねる雨音。
ぱたぱたと布を打つ、小さな雨粒。
昼過ぎから降り出した雨は、夜になっても降り続いていた。
ときおり吹く強い風に傘を持っていかれないよう、みなもは立ち止まって、じっとこらえる。
しとしとと降る雨の中、商店街を早足で過ぎていく。傘を持ってきてほしいという、父からの電話を受けて、駅へと向かう途中であった。
しばらくすると、駅前の狭いロータリー広場へ出た。駅ビルなどない小さな駅舎の改札付近に、スーツ姿の男性が何人も佇んでいる。バスを待っている人もいれば、空を見上げて傘を買おかどうしようか悩んでいる様子の人もいる。その中には、傘を持ってきてくれる家族を待つ人もいる。
「お父さんっ」
父の姿を見つけたみなもは、思わず駆け足になる。
ばしゃ。水たまりをうっかり踏んでしまい、みなもは右足のスニーカーとソックスを濡らしてしまった。
うぅー。
気落ちして父の前まで来たみなもは、ぽふ、と頭を叩かれた。
柔らかい感触。折り畳んだスポーツ新聞が頭の上に乗っている。
みなもは顔を上げて、父の顔を見る。
「おかえり」
「ただいま。ありがとう」
長傘を渡すとき、スポーツ新聞の小さな見出しが目に入った。
《中国籍船舶沈没・海上保安庁、救命ボートを救出》
「これ……?」
みなもは傘と新聞紙を交換すると、記事にざっと目を通した。
昨夜未明、海上保安庁は、転覆したクルーザーに乗っていた中国人十五名を救出した。奇跡的に死者はない。
これって、昨日の――
海に呪術をかけていた一団がいた。自らの血に潜む、魔性に怒りを煽られて、その船を沈めてしまった。全員溺れてしまったと思っていた。殺してしまったと後悔していた。あの晩のことは夢であると、思いこもうとさえしていた。だが。
生きてたんだ……
みなもはホッとし、安堵の息をそっと漏らした。
不思議そうな顔をして見つめてくる父に、みなもはニコッと笑顔を見せた。
でも。
ふたり並んで歩きだしたが、みなもはある思いに囚われていた。
でも、それじゃあ。
あれはやっぱり夢じゃないんだ。
だったら、あたしは――
殺せばいいのに。
星々は夜空の遠くに。
下弦の月がいやに近くに見えていた。
柔らかな光の中で、悪意の情緒を調べに乗せた。
憎いのならば。
殺せばいいのに。
掻き鳴らしたリュートの音色が、船を海に沈めていった。
その様を見下ろしているときに、たしかに感じた。
身体の奥から打ち震える快感を。背筋がぞくりと震えるのを。
叫び声と絶望の思念とが、夜空へと昇華していく。
その気配が心地よかった。
嘆きの溶けた空気を吸った。咽喉の奥で唾液に混じった。
酸味が口の中に拡がって、甘美な香りが鼻へと抜けた。
死の気配が、執着と怨恨と破壊の衝動に彩られていて、美しかった。
そう思った。
脳がとろけそうなほど、それしか想うことができなかった。
恍惚としていた。人々の絶望を見て――
あれも、あたしなんだ……
夜が更けてもなお、雨は降り続いていた。
ベッドに入り、すでに1時間近く経っている。けど、眠れない。
窓に当たる雨音が、いやに大きく聞こえていた。
みなもは頭から布団をかぶり、外の音を消そうとする。だが、それでも雨の音は聞こえてくるし、目覚まし時計の秒針が動く音さえはっきり聞こえる。
眠れない夜。
気がつくと、みなもは雨に濡れていた。
寒い。
漆黒色のナイトドレスが素肌に張り付く。シルクのような肌触りの布地は、冷たい雨を吸ってしまうと、まるで氷の針でできていると思えるほどに冷たかった。
雑居ビルに挟まれた路地裏で、みなもは濡れそぼったコンクリート壁に背中を預けていた。明かりの差し込む目抜き通りに視線を流したが、行き交う人の姿はほとんどなかった。
雨降る夜の繁華街は、どこか空恐ろしいものがある。
もとより真新しい堅牢なビルも、古びた雑居ビルも、人間の欲望と周年によって建っている。華やかなネオンで表層を飾り、陽気な気配を纏っている。だが、雨はそれを拭い去り、そこに巣くう人々の、荒んだ心をさらけ出す。
体面を取り繕うことをやめた、死者たちの世界。裸で放り出された、三途の川の彼岸。温もりを感じられない寂寞さが、街を覆う。いや、まるで未来小説に出てくるような、海に沈んだ都市。沈めているのは海ではなく、ただ重苦しい雰囲気だ。
客引きの声もまばらな夜の街で、みなもは自問自答する。
――どうしてこんなところに来たの?
知りたかった。
――なにを?
あたしを。
あたしでもある、あなたを。
あなたでもある、あたしを。
――ふぅん。そんなに難しいことじゃないわ。
分かってる。それは分かってる。感覚として、もう分かっているはずなのに。でも、うまく理解できない。きっと……
――納得できていないからよ。あなたはね、やっぱり……
「君、どうかしたの?」
俯いていた顔を上げると、そこにはひとりの男がいた。ビニール傘を片手に持って、腰をかがめてのぞき込んでいる。
その男に心惹かれたのは、月の雫でせいだろう。その石のせいで、魔性が心の表に顕れたから。
だから、左手の薬指に指輪をつけた、その若い男に愛してほしいと思ってしまった。あたしだけを愛してほしいと思ってしまった。
タイトなスーツの背中を濡らし、男は傘をみなもへ向ける。
「駅まで送るよ」
男は心配そうな顔を見せた。
「それとも、タクシー拾おうか」
みなもは首を横に振る。
それは男に向かってでもあり、己の魔性に向かってでもある。
この人の幸せな生活を奪いたくない。
みなもは首を振りつつ、傘を持つ男の手に手を重ねていった。その手を両手で包んみこんだ。手の温もりが胸の奥に流れていった。自分の手よりも暖かだが、男の手も十分冷たい。
寒いだろうに、早く家に帰りたいのに、わざわざ手を差し伸べてくれる優しさ。
こんなあたしは放っておいて、早く家に帰って欲しい。
それでも、男の優しさに触れてしまえば欲しくなってしまうのだった。
繁華街の路地裏で、ずぶぬれになってる女。着ている服は水商売を連想させる。厄介事に巻き込まれたくないのなら、放っておくにかぎる。けれども放っておけない優しさと、それでも怖がっている不安の気持ちを、みなもは手に取るように分かっていた。
愛おしい。
男の瞳をじっと見つめた。差し伸べられた男の手を両手で触れた。その手を包みこんだその瞬間に、男の腕がびくりと震えたのが分かった。
男の手を押し戻そうかと思ったが、身体はそれを拒んでしまった。自分の胸に、その谷間へと手を誘った。男は傘から手を放し、みなもは乳房の間でその手の冷たさを改めて感じとる。男が傘から手を放したのは、それがみなもに当たるのを避けるため。それをみなもは分かっている。
雨は降る。降り続けている。しとしとと降りしきる。
男と女は濡れていく。雨に包まれ、ひとつになっていくようだった。
男の右手を、みなもはぎゅっと握っている。
離したくない。
左手には指輪があるから。愛おしい人への誓いが彼を繋いでいるから。
この右手はあたしの中で、自由になって。
胸の谷間で、手のひらが緊張している。
膨らみを包もうと、いや、触るまいと反らそうと、男の右手が震えている。
その葛藤が、愛おしかった。
あたしのために、心を砕いてくれている。
あたしのために。
いま、このときだけは――たったひとり。あたしだけのために。
ずっとずっと繋ぎとめたい。
そう思うのは、子どもの恋ね。
双眸が見開いていく。
雨粒を乗せ、視界も半ば閉じていた、みなもの両目が開かれた。
涙がぼろぼろ零れていった。
眉根にしわが寄っていき、眉間が震えた。みぞおちから咽喉の奥へと嗚咽が溢れた。
「あ、あっ――」
「どうしたの?」
男の手を右手で抱いて、左手で腕に縋った。引き寄せて、身体を求めた。背の低いみなもは、男ののど元目がけて額を伸ばした。
隠し持っていた魔性、それが何かを理解できた。納得できた。頭でも、感情においても腑に落ちた。胸の中で、何かがすぅっと消えていった。
これは、あたしのわがままなんだ。
純粋な、愛を欲しがる気持ちがあった。ずっとずっと昔から、それは遺伝子に刻まれている。
ふたりの身体は接近し、男はみなもを抱きとめようと腕を広げた。だができなかった。その右手はみなもに捕えられたままであったし、みなもが身体を反転させてもしまったからだ。
愛おしい。
あたしは、すべてが愛おしい。
けど、この想いを、受けとめてもらえなかったら、どうしよう。
雲は裏切り、雨を降らせず、風は逆巻き、雷で森を焼いた。潮流はいとも容易く命をさらい、海底火山がすべてを砕いた。
大地を、海を愛していた。人も、人魚も、自然を愛し、その愛を求めていた。捧げた愛を、愛で返して欲しかった。でも裏切られて、それでも愛して、でも裏切られの繰り返し。大地を憎み、海を厭い、人を嫌った。そうして愛は呪われた。愛すれば、失望の情緒を一緒に感じてしまうようになってしまった。
失望させられるくらいなら、いっそ砕いてしまえばいい。あたしだけを愛するように、取り込んでしまえばいい。
みなもは男の右手を胸に抱いて、その背を男の胸に預けた。男は、みなもを背後から抱きしめている。みなもは男の右手を捕まえている。
全力で愛するから、失望が大きくなる。だから、愛なんてものは、少しづつ見せるにかぎる。
首を傾け、胸の谷間を男に見せた。
右の乳房に、手のひらの感触がした。
肩をずらして、唇で顎を撫でる。 ――キスなんて、まだしない。
半身になって、男から距離を取る。 ――抱擁だって、長くさせない。
それでも右手は放さない。 ――だって、愛しているんだから。
そそのかして、惹きつける。
ちらりと見せて、引っ込める。
ただ純粋に、あなたが丸ごと欲しいから。
だからあたしは、魔性を纏う。
だからあえて、心を、気持ちを、悪魔に変える。
まるで化粧をするように、あたしは魔性を纏うんだ。
化粧は気分を変えてくれる。
親戚の結婚式に呼ばれたとき、化粧をした。化粧の経験がほとんどない学生だからこそ、それは儀式でもあった。落ち着いた化粧をして欲しいと母に頼んだ。大人の女性と思われたかった。淑女として見られたかった。鏡を見たとき、気持ちががらりと切り替った。
家族でデパートのレストランフロアに行ったとき、トイレで化粧を直すOLを見た。洗面台に道具を広げ、念入りにマスカラを塗っていた。足下のキャリーケースには着替え一式も入っているのだろう。仕事モードから、恋する女モードへと変身する。気分を変える。
化粧を落とせば、また素の自分に返ることができる。嫌な思いをした合コンは、口紅と一緒に捨てる。そんなことをいう先生もいた。
勇気がなくて、自分からは好きとはいえない。
あたしは、そんなタイプの子じゃないから。
恋することが、愛することが怖いから。
あたしはだから、魔性を纏う。
それは化粧と似たようなもの。気持ちにファンデーションを塗るだけだ。ちょっとキワドイ口紅をつけるだけだ。
魔性は、もうひとりのあたしではない。
あたしが使える、気持ちのひとつ。
振る舞いの仕方のひとつにすぎないんだ。
電車に乗っているときの振る舞い方は、家にいるときとはやっぱり違うし、入学式で初めて顔を合わせる級友たちへの振る舞い方も、慣れ親しんだ今となってはどこか違うものだった。遠い親戚のお葬式で、どういう顔をしたらいいか分からず、戸惑った。この世の中に、振る舞い方は山ほどある。
そして魔性は、わがままな恋をするときの振る舞い方なんだと思う。
魔性を纏えば、そのように振る舞える。
ただ少し、あたしの魔性はその力が強いだけ。
月の雫の魔力によって、その情緒が具現化してしまうだけ。
そのせいで、歯止めがきかずに行き過ぎてしまうだけ――
踊るように、指を絡ませ、ふたりは離れた。
男が指を絡ませてきた。男の手に引っ張られて、みなもは男に近づいていく。男もまた、みなもに近づく。
愛が、愛を引きだすの。
憐れみではない、哀しみでもない。愛おしいから。
ただ、あなたを愛おしく想うから。
だから、すぐにはすべて見せない。全部なんて、すぐにあげない。
もし全てを捧げて裏切られたら、きっと憎んでしまうから。
だから。
あなたも愛を見せて。
憐れみでもなく、哀しみでもない。
心からの愛をください。
少しづつでいいから。
裏切りのかけらさえない、まったくの愛を。
引き合うふたりの腕の力に、その引力に、愛を感じた。
求めてる。
お互いを、そのすべてを求めてる。愛してる。
みなもの唇がそっと囁く。「いとおしい」
見つめ合い、お互い手と手を取り合った。男の指輪が、ひどく冷たく、みなもは感じた。身を寄せ合うと、男はみなもを抱きしめた。
その左手が、背中をまさぐり、雨で重くなった髪の中へと入っていった。胸元だけでなく背中も大きく開いたナイトドレス。男の手が、背中から脇へとずれる。乳房の端に近づいていく。指輪が肌をぞくりとさせた。その反応に、男が指の動きを止めた。指輪が肌に当たらないよう、薬指を少し浮かせた。
みなもの中で、黒い何かが蠢動した。
「カラダが目当て?」
男の腕に、急に力が込められた。それを感じた。
わがままな、愛と愛が衝突する。
「奥さんに、いいつけてやる」
男の胸ポケットから、みなもは携帯電話を抜き取っていた。
適当にボタンを押すと、画面が光った。メールを受信したという表示が、路地裏の暗がりの中で輝く。
男は震えた。あとずさるようにして、みなもから離れていった。
あたしだけを、愛してくれない。
他の女を思いだせる。
そんな愛なんて欲しくない。
男は震えた。
雨に打たれ続けていたから。きっと寒くなったんだろう。
そう思うようにした。
嘲笑うように気持ちを作った。
魔性がまた、ほんの少し暴走しちゃった――
すべてを捧げようとした、あたしの愛を裏切るから、こうなるの。
あたしの愛が、行き所を失って、力を持て余しちゃったから。
ごめんね。
男を睨みつけたまま、みなもはその口元に微笑をたたえた。
ごく自然に、みなもは悪魔の微笑を浮かべていた。
妖艶でいやらしく、すべてを見透かすかのような、小悪魔めいた笑みだった。
「くしゅんっ!」
翌朝、みなもは自分のくしゃみで目が覚めた。
身体を起こし、くすん、と鼻をすすってみた。
「風邪、ひいたかな?」
頭は少しだるい感じがするものの、胸のあたりはすっきりしている。ひょんなことから仲たがいしてしまった友人と、仲直りしたときのすっきり感に似ている。
パジャマのままリビングへ行くと、父が出かけるところだった。
「行ってらっしゃ〜い」
みなもの挨拶に返事をした父は、扉を閉めながらひとりごちた。その声は、みなもの耳には聞こえないほど小さかった。
「さっぱりしたみたいで、よかったよかった」
(了)
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