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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


鏡花水月


 外国人が多く見られるこの通りへ来た回数は極めて少ない。雑多な空気や独特のにおいが立ち籠める店や看板がひしめく中、こぢんまりとした劇場前は、熱風のたまり場となっている。
 時草・瑞江(ときぐさ・みずえ)は革靴の爪先を揃えて立つと、無意識の内、長い息を吐いていた。
 ここまで来るのに、足取りが重くなっていた気がする。
 ポストへ入っていた白い封筒。
 切手は貼られておらず、名前のみで放り込まれていた。
 チケットに印刷されている演目を見て蘇ってくる記憶は、自分が自分でないような浮遊感、頬に当たる雨と足音だ。
 電灯が瞬いている窓口でチケットを渡し、席の番号を確かめている背中、訛りの強い調子で『ヨクミエルバショダヨ』と、声がかけられる。振り返ったが、受付の女は別の客にちぎった半券を渡していた。

 場内は暗く、外の風景から切り取られた観客が大勢いる。
 じき開演し、瑞江は前列に近い席へ深く身を沈めた。
 演じられるのは、京劇の“鉄弓縁”(てっきゅうえん)だ。
 明の時代。陳秀英(ちんしゅうえい)とその母親が営む茶館へ乱暴者の石文(せきぶん)がやって来る。彼は秀英の美しさで目が眩み無理矢理妻にしようとするが、秀英の母は無礼な石文を追い出してしまう。そこへ通りすがりの匡忠(きょうちゅう)が訪れる。秀英の亡き父の形見、強くて何者も引けない鉄弓を、匡忠が軽々と弓を引いてみせたのをきっかけに二人は結婚を約束するのだが……。

 京劇は歌での見せ場が多い。だが、演じられている“鉄弓縁”は、軽やかでうまみのあるセリフのやりとりがメインだ。
 瑞江は独特の世界に浸りながら、じっと、舞台を見入っていた。
 男役、“武生”の見事な立ち回り、女役、“花旦”の蓮のような清純さ。
 目の前では、武器を持って戦う刀馬旦(女役)が鮮やかな衣装を身に纏い舞っている。
 強く、みずみずしい演技は、誰もが惹き付けられるほど眩しい。
 かくして、幻想の時間が過ぎ、幕は下りた。

◇◇◇◇◇

 そのまま、帰ろうと思った。
 だが、足を運んでおいて逃げるように去るのは……。
 支配人らしき者へ面会を願い出ると、こちらが気抜けするほどあっさり承諾された。
 楽屋への廊下は暗く、化粧品や汗、役者たちの息が充満している。すれ違いざま、瑞江と目が合っても、誰一人、気にする者はいない。
 これだけ熱された空気であっても、ドアノブは凍えて冷たかった。掴んだまましばらく止まっていると、部屋の内側から開く。
「やあ、いらっしゃい。僕の舞台を観てくれたのかい?」
 鏡と照明を背景、笑顔で白粉を拭うのは、青・蓮(ちん・りぇん)だ。邪気のない表情は年齢よりずっと若く見える。
 昔、大陸で京劇を演じるのは男性のみだった。“旦”も男優が演じていたが、民国期から女優の舞台進出が始まると、一部の例外を除き旦は女優に一本化された。
 彼、青蓮は男優の“旦”だ。
「瑞江は、前より自分を好きになれたか?」
「……なぜ?」
「でなけりゃ、ここへは来なかったはずだ。ほら、そんな所へつっ立ってないで入ったらどうだい?」
 手招きされて部屋まで入ったが、室内は青蓮だけのようだ。
「舞台……楽しませてもらった」
「そりゃよかった! 練習してきた甲斐がある。“鉄弓縁”は、言わばコメディだからね。楽しんでもらえて僕も嬉しいよ」
 すっかり女役から元の姿へ戻った青蓮を、改めて正視する。

 彼は、何も変わっていない。
 自信に溢れて、生き生きしている。
 あの、半分死んだかのようだった頃の自分を拾っても、びくともしなかった。

「青蓮は元気そうだな」
「瑞江は? あ、そう言えば、高校教師になったんだって? あれだけ人と関わるのに臆病だったおまえが、センセイかぁ」
「まあ、おかげさまで。普通の暮らしをしているよ。毎日、学校と寝床を行ったり来たりだけど」
 椅子をすすめられて座ると、スプリングが軋んで奇妙な音を立てた。
 楽屋の小窓を雨が叩き始めたようだ。青蓮は、少し不安気な瑞江へ言い聞かせる。
「なに、すぐに止むよ。通り雨だろうから」
「……初めて会った時も、同じこと言ってたな」
「そう、だったかな?」

◇◇◇◇◇

 もう、ダメだ……。

 こんな異常な状態、馴染めるはずがない。
 自分の意思など働かなくても、理解できない出来事が起こってしまうのだ。
 昼夜問わず、あの鬼火がうろついて、まともに眠ることも食べることもやめてしまい、それでも幻は消えない。
 曇天の下、ぽつぽつ泣き始めた雫は糸の滴りで密度を増し、土のにおいが鼻腔へ不快感を与えた。体力はほとんど残っていないものだから、指先が大きく震えていた。
 人々の声は耳障りな罵声でしかなく、蜂の呻りのごとく頭の中を回っている。
 目が霞むのは、きっと雨の所為だろう。
『おいおい。こんな所で寝てると風邪ひくだろ』
 一種、ほほんとした声が上から降ってくる。
 ああ、そうか。自分は倒れているのだな。そう自覚するものの、返事をすることができない。
『雨宿りついでだ。ウチに来るかい?』
 差し出された傘の下、その声だけが瑞江の黒髪へ吸い込まれていった。

 青蓮は、大陸人としても日本人としても中途半端である立場のまま、京劇を続けていくのか迷っていた時期でもあり、行き倒れていた瑞江が、そうなっていたかもしれない自分の姿に重なって見えていた……。

「前のように、逃げ出す人生じゃなくて幸いじゃないか」
「……よく、住所が分かったな」
「あはは。だって、同じ東京にいるんだよ? こんな狭い場所ではご近所さんだって。それに、どんな事も風で流されてここまでやって来る」
 高熱でうなされるのを看病してくれた。だが、恩返しはしていない。短期間ではあるが同じ屋根の下で暮らしていたと言うのに、一言もなく飛び出し、縁遠くなったと疑わなかった。
 生活の違いの摩擦による決裂だと考えれば、割り切れる。
 しかし、青蓮は居場所などとうに知っていたのだろう。今思うと、少し可笑しささえ覚えた。
「なんだ、笑っているのか? 自分を憐れんでいる笑いではなさそうだ」
「いや、正直に言うよ。ここへ来るのは相当の覚悟が必要だった」
「なるほど。まぼろしの花や月は追わないことにしたんだね」
 鏡に映った美しい花。水に映った美しい月。
 目で見えるだけで、手に取ることなどできない……。
 そんな夢幻(むげん)の中を彷徨っていた。
 自己憐憫に蝕まれ、他人を羨むばかりで前進を恐れていた。進んだ先、何も見いだせなければ、奈落へ落ち続ける暗い失望しかないと思っていた。
「そうだな。踏み出せば、何ていうことはなかった……。今さらなんだが、ありがとう」
 青蓮は目を丸くしてからシャツのボタンを全部とめる。鼻から薄い息を抜くと、頭の後ろをぽりぽり掻いた。
「瑞江、メシ食いに行こうか? 晩飯まだなんだろう?」
「中華料理か?」
「僕の好みが、中華ばっかりだと本気で思ってないよな?」
 役者っぽく唇を歪めてみせてから、瑞江の背中を一発、景気よく張り倒した。
「ほら! 行くぞ! 再会の祝杯だ!」
 上着を羽織り、扉を開いて旧友を先導する。瑞江は咳き込んでから、ぼそっと零した。
「いちいち叩くなよ……。その癖も相変わらずだ」
「ほんと、ノリは悪いし辛気くさいな!」
 数年の、川のごとく横たわる時間を飛び越えて、友との距離は埋められた。

 雨はもう止んでいる。



=了=