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<東京怪談ノベル(シングル)>


楽園を駆けて

 白い砂浜に、海原・みなも(うなばら・みなも)は立っていた。
 椰子の林、その奥に広がる森。風は心地よく湿った緑の匂いがして、温かい。
 以前に一度、「裏」の仕事で訪れたことのあるこの島は、「楽園」の島。
 日本の本州よりもかなり南に位置し、ここの気候は真冬でもまるで春のようだ。
 それでも泳ぐには少し寒い浜辺で、みなもはするりとワンピースを脱ぎ落とした。
 肌にまとっているのはシンプルな水着。あらわになった肩に脚に風を感じながら、みなもは手にしていた万年筆の蓋を開ける。
 中に入っているインクが流れ落ちてきたのかと思うような柔らかさで、水のように青い毛並みがペン軸の中から現れた。
 狐に似た、小さな獣。
 それが、はっきりとした肉体を持つものではない、霊的な存在であることは、見る者が見ればすぐにわかるだろう。
「みこ(巫狐)ちゃん、入って来てください――」
 獣はみなもの命に従い、トンと跳ねてみなもに飛び付く。まるで水の流れの中に飛び込んだかのように、みなもの長い髪の中に、青い尻尾が消えた。
 目を閉じて、みなもは自分の中の深い部分まで、飛び込んできた獣を招き入れる。
 深く、深く。
 己にとっては異物であるものを受け入れることに、今はもう苦痛はない。ただ、違和感が残る。共有感、とでも言うべきだろうか。自分の中に意識がふたつある、不思議な感覚だった。
「……あぁ……」
 小さく声を漏らし、みなもは砂に膝をついた。
 身体の変化は劇的。
 瞬きを数度するほどの間に、みなもの身体は青い体毛に覆われた四足の獣へと変ずる。
 ほう、と、周囲から感嘆の吐息が漏れた。
「ほう……!」
「すごい。非融合状態で、ここまでスムーズに獣化を行えるなんて……!」
 中年の男と若い男が、興奮気味に囁きを交わす。
「なるほど、これがノートにあった『霊狐化』だね。……鮮やかなもんだ」
 ふん、と冷静に鼻を鳴らし、皺だらけの手で軽く拍手をしたのは、白衣姿の老女だ。
 中年の男は術者で若い男はその助手、老女は医者。どちらも「裏」の組織に属する。
 みなもが今日この島にやって来たのは、父の紹介だった。目的は、管狐との憑依深度を上げ、完全な獣の姿になる「霊狐化」の、練習である。
「最初は数十秒はかかっていたんだがなあ。それに、獣の性質に引きずられて『じっとしていられない』なんて言っていたもんだが」
 声帯の形も獣のものへと変わったせいで口が利けないみなものかわりにそう説明したのは、草間・武彦。以前に試験運用につきあってもらった関係で、父が彼にも声をかけてくれたらしい。
(一人は心細いから、すごく嬉しいです)
 草間を見上げ、みなもはお礼の代わりに小さく鼻を鳴らした。
 術者たちと女医は安全確保と監修のために同伴しているのだが、さっきからちょっと視線が怖いのだ。特に、中年の男が。
「……悪い奴じゃないんだよ、ただちょっと、使役や憑依系の術が専門なだけに、探究心が度を越しているだけでね」
 興味深い試料として熱心にみなもを見詰める術者たちについて、女医が苦笑しながらフォローした。が、そう言う彼女がみなもを見る目も、分厚い老眼鏡の奥で好奇心いっぱいの小娘のように輝いている。
「錬金術にせよ憑依術にせよ、後天的な獣化には無理が出ることが多いんだよ。しかし、あんたの場合は元々の人魚の性質故か、獣に完全に引きずられることなく、安定している。こないだ見たときも大したもんだと思ったが、ここまでとは思わなかった。私も正直、ちっと興味深いねぇ。今、意識はどうなってるんだい? 五感は?」
「いや、この姿じゃ答えられないんだって。それに、この子はあんたらの実験に付き合うためにこの島に来たわけじゃねぇぞ」
 今にもみなもを質問攻めにしだしそうな老女に、草間が渋面を向けた。
「わかってるよ、うるさい坊主だねえ」
 老女は舌打ちすると、みなもの前にかがみこんだ。
「この島を、自由に走っておいで。ここは、力のある、良い土地だ。いつもよりも楽に、長時間その姿でいられるだろう。思い切り、楽しんで来るんだよ」
 返事の代わりに、みなもはケンと一声鳴いた。
 そして、砂を蹴って駆け出す。
 実はもう、身体がうずうずして、走りたくて仕方がなかったのだ。


       ++++++++


 霊狐と化した時の視界には、色がなくなる。
 赤の濃淡だけで描かれた世界の中を、みなもは思い切り走り回った。
 砂浜、岩場、草原。
 色はなくとも、鼻と耳がその代わりとなる細やかな情報をみなもに与えてくれる。
 豊かな自然の土や植物の匂い。海風の音、葉擦れの音、虫の声。先日の博覧会の時よりも、生き物の気配は薄かったけれど(大半の『商品』が売れてしまったのだろう)、楽園は今も充分に賑やかだった。
 鋭くなった嗅覚と聴覚に、洪水のように流れ込んでくる匂いと音。人の姿をしている時との感覚の差異に、最初は戸惑った。しかし、今のみなもには最早苦痛ではない。
 楽しむことさえできる。
(ああ――嬉しい。気持ちがいい)
 深く溶け合ってしまったので、今の気持ちが一体どちらのものなのかさえよくわからない。外を駆け回るのを喜んでいるのは、みなもなのか、みこちゃんなのか。
(……でも、どちらでも、構いませんね。あたしは、あたし。今、土を踏みしめて、風になって走っているのは、あたし――)
 鬱蒼と茂った森を駆けながら、ふと、みなもはそんなことを思った。
 人魚の姿でいるときも、みなもがみなもであるように、こうしてみこちゃんと一緒になって、獣の姿になっても、みなもはみなも。
 この霊狐の姿も、力も、まぎれもない自分で、自分の一部なのだ。
 楽園の島の心地よさのせいだろうか。ごく自然に、そう思えた。
 森が途切れる。隣を一緒に飛んでいた、蝶々の羽を生やした小さな少女たちが「バイバイ!」と手を振る。
 みなもは再び、明るい陽射しの下に出た。
 眩しさに一瞬細めた目を開いた時、白い砂浜と青い海が目の前いっぱいに広がる。
(……あっ……)
 驚きに瞠目したのは、みなもなのか、みこちゃんなのか。恐らくはその両方だっただろう。
(色が……!)
 霊狐の状態が、より自然になったせいだろうか。人と同じ色の光を感じることができるようになった目を、みなもはぱちぱちと瞬いた。
 気がつけば、脚が止まっていた。
 走りたい、駆け回りたい、という獣の衝動が止まっている。
 みなもはゆっくりと、波打ち際を歩き始めた。
 ここは最初に出発した砂浜の近くだ。方向など全く考えずに島中を走り回った後だけれど、獣としての感覚が教えてくれる。そろそろ、草間たちの所に戻ろう。
 そう思った時だった。
 ――ヴヴ。
 低い、唸り声が聞こえた。どこから? 反射的に耳を立て、唸り声の方向に向く。
「ッ!!」
 岩陰から飛び出して来た黒い影を、みなもはとっさに跳んで避けた。
(何、ですか!?)
 長い尾を流れるように翻し、襲ってきた影を振り向く。
 ――ヴヴ、グル……。
 身を低くし、みなもに向かってむき出した牙の隙間から荒々しい唸り声を発しているのは、黒い犬……否、狼だった。体躯は大きい。霊狐のみなもの倍は嵩があるように見える。
 ――ヴォウ!
 狼が吠えた。みなもは風のように身を返して、その吠え声に背を向けた。
 脚に力を込める。砂を蹴る。
 逃げるのだ! まともに戦ったら、力では敵わないという予感があった。それに、この島にいるということは、組織の所有する生き物だろう。傷つけてはいけない。そう思った。
 幸い、脚はみなものほうが速かった。
 必死で、みなもは走った。やがて前方に、砂浜に立つ人影が見えてくる。
 サングラスをかけた、長身の男。
(草間さん!)
 はっとして、みなもは立ち止まった。全力で駆けていた脚の勢いを受け止めた砂が、ざっ、と音を立てて飛沫(しぶ)く。
 他の者たちはどこか別のところにいるのだろうか、人影はひとつだけだ。
 あの狼が何者かはわからないが、草間のところに連れて行くわけにはいかない。草間は、強くはあるが普通の人間だ。襲われればひとたまりもないだろう。
 みなもはクルリと背後を振り向いた。ここで食い止めなければ。撃退はできなくとも、せめて草間が気付いて逃げる時間くらいは稼ぎたい。
 黒い狼が、砂を蹴立てて迫ってくる。口からだらりと垂れた舌が、涎を散らしている。かっと開いた赤い口腔の中に並ぶ白い牙が見えた。
(草間さん……!)
 みなもが、ぐっと身を低くして迎え撃とうとした、その瞬間。
 耳をつんざくような甲高い音が、鳴り響いた。
 ――ギャウンッ!?
 黒い狼が悲鳴を上げ、砂浜にもんどりうって転がる。
(この、音――!?)
 みなもは甲高い音のもたらす不快感に、目を細めた。みなもも耳が痛いが、狼にとってはそれ以上の苦痛があるらしい。
 音は長く響き、狼が砂の上でぐったりとしたところで、やっと止まった。
「……やれやれ。やっぱり駄目か」
 溜息を吐きながらこちらに歩いてきたのは、組織からついてきた中年の男だった。手に、さっきまで吹いていたらしい、何か小さな笛のようなものを持っている。
 やっぱり駄目、とは、何のことだろう。怪訝に思いながら、みなもはぶるりと胴震いした。
 身体が変化する。さっきの音の不快感のせいもあるだろうか、霊狐化状態がそろそろ限界のようだ。
「おっと。ちょっと待て、まだ戻るなよ――いいぞ」
 駆けてきた草間が、柔らかなタオルケットをかけてくれて、みなもはその中で人の姿に戻った。水着は普通の水着で変身の際に破れてしまったので、危ないところだった。
「ありがとう、ございます」
 タオルケットにくるまりながら、みなもはゆっくりと立ち上がる。さっきまで獣の形だったせいか、声がすこし掠れた。キュン、とみこちゃんが肩の上で心配そうに鳴いた。
「あの、さっきの狼は……?」
 思い出して振り向いたみなもは、そこに自分と同じようにタオルケットにくるまった男の姿を見つけて目を丸くする。
「面目ない。一緒に走って、慣らしの手助けをするつもりが……。いまだに、獣の性に引きずられるとは」
 素肌にタオルケットをまとって、申し訳なさそうに頭を下げたのは、術者の若い男だった。
「私も憑依による獣化ができるんですよ。ただ、まあ、過去に強制的に憑けられたもので、あなたのようには上手く行かない」
 どういうことかと目を瞬くみなもに、男は淡々と説明する。
「ほら、よく人がおかしくなって獣のようになってしまうのを、狐憑きとか犬神憑きとか、言うでしょう。あれの、本物だったわけです、私は」
 憑依状態から融合状態に堕ちてしまっているため、分離することもできず、それで元は組織の「商品」だったのだと。苦笑する口許に、八重歯にしては鋭い歯が覗いた。
「おかげで、暴走しそうになったら特製犬笛で止めるのが私の仕事だ。全く、面倒な助手だ」
 中年の男が、首に下げた小さな笛を振り回しながら悪態を吐く。
(さっきは怖かった、ですが……)
 みなもも文句のひとつも言いたかったが、若い男がしゅんとしているのを見ると、ちょっとこれ以上は責められなくなってしまった。
「面倒な、で済ますな! 危なすぎる! 俺は心臓が止まるかと思ったぞ!」
 代わりに、草間が怒った。しかし蛙の面に小便といったところ。中年の術者はみなもの霊狐化に興奮しきっていて、反省の色はない。
「しかし貴女の憑依と獣化はつくづく、素晴らしい。肉体的な強さだけでなく、柔軟な心と、霊獣との相性の良さの賜物と言った所か……」
「すまないね、この男も悪い奴じゃあないんだけどねぇ」
 つらつらと続く中年の男の弁を、白衣の老婆が遮った。老女は吐息する。
「さっきのでわかったと思うけど、憑依ってのは一歩間違うと自分を失う、危険なものなんだよ」
 言われて、みなもはさっき黒い狼になって自分を襲ってきた男に視線を向けた。目が合って、申し訳なさそうにしている様子は、人のよさそうな、普通の男だ。
 それが、憑けられた獣に引きずられて、あんな風に――。
「あんたの場合は、管狐を使役しようとするというよりは、受け入れて共にあろうと務めたことが功を奏したようだ。つまり、あんたとそのちっこい狐の憑依状態は、奇跡みたいなバランスと、互いの信頼関係の上に成り立ってるもんなんだよ。をれを、よぅく心得ておくんだよ」
 重い声で、老婆は言った。
「奇跡と、信頼……」
 呟きながら、首筋にくりくりと頭をすりよせてくるみこちゃんの背中を、みなもはそっと撫でた。
「まあ、あんたの場合は、『海原みなも』としての日常との“錨”になる存在が沢山いるだろうから、大丈夫だろうけどね」
 “錨”……波間に揺らぐ船を、流されないように繋ぎ止めるもの。
 みなもは、何となく草間を見た。目が合って、草間は何かを思い出したような顔をした。
「服! そういえばおまえ、さっさと服を着ろ!」
 目のやり場に困る!と草間が慌てて服を差し出すのがちょっと可笑しくて、みなもは吹き出して、そしてくすくすと笑った。
 それは、普通の、13歳の女の子の笑い声だった。
                                                   End.














<ライターより>
いつもお世話になっております。
納品が遅れてしまい申し訳ありませんでした。
今回も「裏」絡みということで、周囲の人々がちょっと怪しい感じです。
みなもさんの霊狐化状態は、使役するものとされるものとの関係としては異色なのかな?と思い、こういったお話になりました。
それと、南の島を思い切り走るのは気持ちがよさそうだな……と想像しながら書かせて頂いております。
今が一年で一番寒い季節ですが、お体にお気をつけて。
ありがとうございました!