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贄の神殿
夜の終わりは近い。
しかし日の出が訪れるまではまだ遠く、魔の領域は闇に染まり、来る者を食らい付くそうと待ち構える。
(見ている分には良いんだけど、潜るとなると気味が悪いね)
茂枝 萌は、目の前に広がる大海を前に、ごくりと喉を鳴らして呼吸を整える。
この“海”という領域は、ただそこにあるだけでも恐怖の対象だ。
昼間は陽の光に照らされて美しく光り輝いてはいるものの、暗闇の閉ざされてしまえば、それは暗く潜むモノを覆い隠す未知の空間だ。人間では生きることすら叶わず、不用意に踏み込めば二度と戻って来れない魔の領域。しかしそこに潜んでいるモノは、昼夜を問わずにそこに居る。美しい海中は、人間を何百何千回と殺しても飽き足らない魔獣達の住処である。
「イアル‥‥今行くから!」
水中仕様に換装した“NINJA”を整え、萌は魔獣の住処へと躊躇うことなく飛び込んだ。
既にタイムリミットは尽きている。
これ以上の手遅れなどないのだろうが、それでも萌は、逸る心を押さえ付けることが出来ずにいた‥‥‥‥
●●●●●
「あの、本当に大丈夫なのよ? 無理なんてしてないから」
「そうかも知れないけど、こんな場所に閉じこめられていたら気が参るでしょう。許可も取ってあるから心配しないで」
そう言って、萌はイアル・ミラールをIO2所属の病院から連れ出した。
魔女の館から救出されたイアルは、魔女が施した魔術の解呪のためにこの病院に担ぎ込まれた。しかしイアルの体に施されていたのは、強力な石化の呪い‥‥‥‥魔女が施したものよりも遙かに強力であり、長い年月を経て定着した呪いを解くことは叶わなかった。
イアルとしても、自身の石化の呪いは悩みの種である。自分を助けてくれた萌にも勧められ、この病院で研究者達の解呪の研究に協力することになったのだが‥‥‥‥
その研究が始まって一週間、依然として呪いの全容は解明されていない。
研究者達も溜息混じりに資料を書き上げるばかりの日々を送り、イアルも僅かに疲労を感じていた。
見かねた萌は、IO2と病院側から許可を取り、こうしてイアルを外にまで連れ出そうとしているのである。
「最初、石になった時には、魔女の呪いかと思っていたんだけど‥‥‥‥大昔に掛けられた呪いなんて、本当にあるんだね」
病院近くの浜辺にまでイアルを誘い、砂浜を歩きながら萌は言う。
「ええ、まだ元に戻ることが出来るだけマシだとは思うのですが‥‥‥‥そう言えば、前から聞こうと思っていたのですけど――――」
「なに?」
「何で、石になったわたしに、その‥‥キスを? 普通はしないと思うのですが」
萌は、イアルの台詞にドキリと胸を高鳴らせ、「えーと、あの」と狼狽する。
一週間ほど前、イアルと萌は魔女の館で出会った。イアルは魔女に操られる傀儡として、萌は魔女を討伐する刺客としてである。
結果として、萌はイアルを救出するに至ったのだが、肝心のイアルは救出された後に月光を浴びて石化、IO2の病院に運ばれた。それから一日二日の間、石化を解除するために様々な手段が講じられたのだが成果は出ず、医者も術者も匙を投げたのだ。
しかし、石化したイアルを見舞いに訪れた萌は、事もあろうに無抵抗のイアルの口に自らの唇を‥‥‥‥
「何故なんですか?」
「うぅ。いや、昔話にも、あるでしょ? 王子様のキスでお姫様がって言う話。物は試しにって思ったんだけど、本当に戻るなんて思わなくって」
本当のところ、石化したイアルに魅せられ、惹き付けられるようにキスをしてしまったのだが、それはイアルには秘密である。
決して一目惚れとか、そう言うことではない。そう言うことじゃないんだからね!
「結果的に戻ってくれて良かったよ。研究者の人達は怒ってたけど」
「ふふふ。そうなんですか」
「まぁ、横から来て勝手に解決しちゃったわけだから、当然かな」
岩場を乗り越え遠くを見つめながら、萌は苦笑していた。
研究者達には、まだイアルの呪いを解呪するという重大な仕事が残っている。
その研究に没頭しているのは、自分達のメンツを取り戻そうという意地なのだろう。
人間的なつまらない理由だが、その気持ちもよく分かる。イアルと萌に不都合があるわけではないし、二人は研究者達に逆らうようなことはしなかった。
「綺麗な海ですね」
「でしょ? 日本にしては珍しいよね」
「ですけど、あまり人が居ないんですね」
「今は冬だし、それに、ここは時々行方不明の人が出るって言う曰く付きの場所だから、一般人は近付きたがらない――――イアル?」
背後で何かが動く気配。バッと振り向く萌が見たのは、数人の人魚達に足を掴まれ、岩場から引きずり降ろされて海に落とされるイアルの姿だった。
「イアル!」
萌はすかさずその場を跳躍、すぐに後を追おうとしたが、人魚もイアルも既に水の中に消え失せている。透明度の高い海だったが、それでも瞬く間に人魚達は姿を掻き消し、イアル共々消えていった。
「くっそぉ!」
岩場に佇みながら、萌は自分の迂闊さを心底呪う。
戦場に身を置く萌ならば、近くに居る仲間を守る程度のことは日常的に行っている。人魚の気配も、探ろうと思えば探れたはずだ。当然、イアルを守ることも、もう少し注意深く気を張りつめていれば難しくはなかったはずだ。
しかし萌は、イアルとの会話に夢中になり、周囲への警戒を完全に解いてしまっていた。音もなく忍び寄る人魚達の気配を察知出来ず、背後をついてきていたイアルをむざむざと人魚達に攫わせてしまった。
‥‥‥‥何という迂闊。
病み上がりのイアルの護衛として共に居たというのに、その役目を何一つとして果たせなかった。
「あなたもこっちに来る?」
「っ!?」
背後から手が伸びる。すかさず振り払い、萌は全力で岩場から跳躍した。自ら離れ、砂浜の上をごろごろと転がり体勢を立て直す。
「あら、残念♪」
背後から忍び寄っていた人魚は、クスクスと笑いながら海の中へと消えていった。
「くっ‥‥!」
衣服には、数本のナイフを忍ばせてある。しかしそれが何の役に立つというのか。水の中では息は続かず、思うように動くことすらままならないだろう。
どれ程悔しくても、萌には撤退の選択肢以外は残されてはいなかった。
(必ず、助けに戻るから!)
萌はそう誓い、元来た道を駆け戻った‥‥‥‥
●●●●●
しかしそれから、萌がイアルの救出に向かうまでには、思ったよりも時間が掛かった。
近隣の人魚に関する情報はあるのだが、水中に出向くことが出来る人員や装備は少なかった。
当然と言えば当然だ。人間は陸を歩く生き物である。海の生物を捕らえることはしても、積極的に潜るようなことはなく、基本的に海の怪物達と争うようなことがない。
IO2も、最低限の情報は入手していても討伐指令の類はこれまでほとんど出したことがなかった。
装備も満足に開発することはなく、ましてや“NINJA”の水中運用など検討段階でしかなかった。
‥‥‥‥それを数日で完成させた研究班は、実に有能であると言えるだろう。
(今からでも、お願いだから間に合って!)
それでも、既に数日が経過してしまっているのだ。
幸いにも、この近隣に住み着いている人魚達は、攫った人間を人魚に変貌させ、仲間に引き込んでしまうという習慣があった。
イアルを攫った人魚達がこの一族ならば、高確率で人魚に変貌させられている。ならば食料にされたり、溺れ死ぬようなことはないだろう。ある意味タイムリミットは過ぎているが、まだ救出可能な範囲である。なんとかイアルを人魚達から救い出し、元の人間に戻さなければならない。
本当ならば、迷うことなく人魚の集落に襲撃を掛けたいところだったが‥‥‥‥
(最速で助けるには、こっちが先か)
萌は深い海の中に潜りながら、予め調べ上げた海底神殿へと矛先を向けた。
●●●●●
自分が人間だった頃のことなど、イアルは完全なまでに忘れていた。
(‥‥‥‥)
人魚達に攫われたイアルは、既に人の形をしていなかった。
否。上半身は、少なくとも人の形骸のままである。魅力的な体のラインも健在であり、美しい顔立ちも髪も、水に煌めき眩いばかりの存在感を放ち続けている。
しかしその下半身は、イアルを攫った人魚達と同様に、魚のそれへと変化していた。
巨大魚を思わせる大きな尾ビレ。鱗は規則正しく並び、宝石を彷彿とさせる美しさを称えている。
だが、そんなイアルの傍には、取り巻きになるような人魚達の姿はない。
友人も、知人となる人魚も居なかった。彼女を人魚に変えた者も存在しない。仲間に変えるだけ変え、そのまま見捨てたのか? 違う。見捨てられたのは確かだが、しかしそれには事情がある。最初からそうするつもりなどなかった。人魚達は、やむを得ない理由により、渋々ながらもイアルを生け贄へと差し出したのだ。
‥‥‥‥そしてその理由が、イアルのすぐ側に居る。
「ああ、妬ましいねぇ。粉々に砕いてしまおうか」
イアルに囁きかけるように、一人の人魚が現れた。
その人魚の風貌は、あまりにも異様だった。
容貌の八割以上は普通の人魚と変わらない。しかし人魚の髪は、一房一房がそれぞれ意思を持っているかのようにウネウネと動き回り、四方八方に目を光らせて牙を鳴らしている。
それは比喩表現でもなければ誇張でもない。事実そのまま述べているだけだ。
人魚の頭部から生えている何十もの海蛇たちは、並みにユラユラと揺れながら、迂闊に近付く魚達を補食している。
その姿は、伝承に伝わっているメデューサその物のだった。
「本当に綺麗な子だねぇ。若いし。スタイル良いし。顔も綺麗だし」
イアルの体を撫で付け、シーメデューサは羨望の目を向ける。
しかしその目には、羨望以上に嫉妬と殺意が篭もっていた。
羨ましい。こんな容貌に生まれた自分と懸け離れて美しい人魚が羨ましい。
渦巻く羨望は嫉妬心に支配され、これまで何十人もの人魚達を捕らえてきた。
そうして捕らえた人魚達は、呪いによって石へと変え、根城としている神殿の周囲に飾ってある。イアルも、そのコレクションの一つだ。撫で付けようと殺意を向けようと微動だにしないのは、それが理由だ。
‥‥‥‥いつものことだと言ってしまえば否定は出来ないが、イアルは性懲りもなく石像へと変えられ、静かに水の中に佇んでいる。
「可哀想にねぇ。こんなに綺麗なのに、わたしに差し出されちゃうなんてさ」
シーメデューサは、高笑いを上げながらイアルに殺意を向け続けた。
メデューサは、時折人魚達の中から特に美しい娘を選び、石に変えることを至上の喜びとしていた。人魚の住処に顔を出しては、人魚を攫う。何年これを続けてきたのかも分からない。
その事実を聞けば、人間ならば人魚達が逃げてしまえばいいと思うかも知れない。しかし海が広大だと言えど、人魚達が住める場所は限られている。というより、取り立てて高い戦闘力を持つわけでもない人魚達の天敵は多いのだ。
浅くもなく深くもなく、鮫や巨大な鯨が通り掛かることもない。勿論、人間が魚を獲りに来ることも、工場から排水が流されることもない。
そんな都合の良い場所が、早々あるわけがない。
人魚達が逃げられないのを良いことに、シーメデューサは何年も人魚達を狩り続けていたのだ。
しかしそうして狙われていて、人魚達が何の対策もしないわけがない。
人魚達は、浜辺に近寄る人間の中から顔立ちの良い者を選び出し、攫っては秘薬で人魚へと変貌させていた。そうして人魚になった人間をシーメデューサに差し出すことで、自分と仲間の身を守ってきたのだ。
‥‥‥‥ある意味、シーメデューサは、人魚達に踊らされている。
自分が石にした人魚達が、元は人間だったと知ったら、一体彼女はどうするのだろうか?
「本当に‥‥‥‥綺麗だよねぇ!」
バキリと、イアルの石像の一部が砕かれた。
髪だ。髪の毛の先端がシーメデューサの握力で砕かれたのだ。もしも顔や首が砕かれていたかと思うとゾッとする。
‥‥‥‥恐らく、これが結論だ。
もしも人魚達に身代わりを掴まされていたのだと知ったら、この悪魔は迷うことなく人魚達を皆殺しにするだろう。
「ああ、もうダメ。我慢出来そうにない!」
シーメデューサの表情は、憎悪と嫉妬に歪み二目と見られない醜悪な顔になっていた。
美しすぎるイアルの顔が許せない。
傷一つない肌が許せない。
長く柔らかな髪が許せない。
細い体が許せない。
大きな胸が許せ‥‥‥‥なに? 絶壁で悪い!?
「粉々にして‥‥!」
「――――!」
石をも砕く手で拳を固め、まずは砕きやすい腕を破壊しに掛かる。
しかしその瞬間、稲妻のような痛みが胸を貫き、鮮血が視界を染めて身体を硬直させる。
「なっ‥‥‥‥!」
何を言おうとしていたのか‥‥‥‥それはシーメデューサ自身にも分からなかった。
胸から突き出された銛は、狙い違わずにシーメデューサの心臓を貫いていた。数本の海蛇たちも千切れ、バタバタと身体をくねらせながら岩場の影へと消えていく。
(何が、起こって‥‥‥‥)
流れ出た鮮血も、すぐに水の中に掻き消えて見えなくなる。いや、それは自分の視力が失われ始めているという証なのか、意識が遠ざかっているということなのか‥‥‥‥
次々に身体を貫いていく銛の痛みを感じないのは、せめてもの慈悲と言えるだろう。イアルの傍で無様なダンスを踊りながら、嫉妬に歪み、自分自身で嫌っていた身体が四散する。
(終わる。私が終わる。何故? 私が何を――――)
ただ、最期まで自らを襲った者を見ることもなく、シーメデューサは泡となって消えていった‥‥‥‥
●●●●●
そうしてシーメデューサが消えたのを確認し、萌は石像と化したイアルへと近付いた。
水中仕様へと改修された“NINJA”は、音もなく水中を航行する。陸で走り回っていた萌からしてみれば物足りなかったが、この“NINJA”なしでは、この神殿まで到達することすら出来なかっただろう。
手にしていた水中銃を手放し、萌はイアルの身体を調べ始める。
(大丈夫。まだ砕かれては‥‥‥‥うわっ! 髪が壊されてる)
イアルの髪の一部が砕かれているのを発見し、萌は声を上げて憤る。
と言っても、水中にいるために言葉にならない。しかしここが陸上だったのならば、萌は間違いなく四散し消滅したシーメデューサを罵倒し更なる追撃に移っていたことだろう。
それほどの衝撃。
普段はクールな萌だったが、気を許した相手を傷付けられて冷静でいられるほど薄情ではなかった。
(イアルの石化は解けない‥‥‥‥やっぱり、仕方ないか)
シーメデューサが死んだというのに、イアルの石化は一向に解除される兆しを見せなかった。
こうした呪いには、いくつかのパターンが存在する。
大別すると、術者が死亡して元に戻るパターン。そして術者が死んでも、元に戻らないパターンだ。
専門家から見れば数十パターンに分類出来るらしいが、大まかにはこの二つだ。
前者は、術者自身の魔力によって石化状態を維持していた場合。この場合、魔力の供給源である術者が死亡することで石化は解除され、自然と元に戻ってしまう。
後者は、呪いを掛けられた相手の魔力を使用して石化を維持していた場合だ。
これは、パソコンなどのウイルスに例えられる。イアルの身体に“石化する”というウイルスプログラムを打ち込むことで、イアル自身が生きている限りは、イアルの魔力を使用して半永久的に効果を及ぼし続けるのだ。
シーメデューサの石化は後者なのだろう。
どのような方法をもって石に変えていたのかは分からないが、解呪するためには、イアルの身体に送り込まれた呪いを洗い流さなければならない。
(それにしても‥‥‥‥何度石になれば気が済むんだろう)
呪いの上にまた呪い、それを解除したと思ったらまた呪われて石になる。
どのような星の下に生まれれば、こんな事態になるのだろうか‥‥‥‥ある意味運命じみたものすら感じてしまう。
(さぁ、早く戻してあげないと)
善は急げだ。イアルと、石にされた人達の石化を解除してあげなければならない。
だが、石像と化しているイアルの身体を陸上まで運ぶことは出来ない。すぐにでも解除しようとするならば、この場で解除しなければならないだろう。
(‥‥‥‥あまり頼りたくないけど、これぐらいはして貰わないとね)
厄介なシーメデューサを倒したことで、イアルを攫った人魚達への交渉のカードを入手した。
癪ではあるが、彼女達の力を借りて解呪するとしよう。
‥‥‥‥朝日に照らし出される海底神殿。
その周囲を囲んでいた人魚の像は、数時間後には消え去っていた‥‥‥‥
Fin
●●あとがき●●
ご発注、誠にありがとうございます。文字数制限を守ろうと努力を始めたメビオス零です。
まぁ、なんだかんだでオーバーしているんですけどね。
今回のシナリオはいかがでしたでしょうか? 前回と違い、今回はカットシーンが多かったので‥‥どうなんだろう。普段から長いシナリオばかり書いていたので、反省して試行錯誤しようと思います。
今回は特に短く纏めたので、ご意見ご感想、苦情にご叱責等々‥‥いろいろあると思います。
もしもよろしければ、ファンレターに紛れてお送りください。今後の作品作りのご参考にさせて頂きます。
では、今回はこの辺で。
今回のご発注、誠にありがとうございました。(・_・)(._.)
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