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その日の黒猫亭
1.
いったい、いつの間に自分はこんな場所にいたのだろう。と、青・蓮はしばし考えた。
蓮の目の前にはいま、古びた外見ではあるが築年齢はさていつだろうと推測しようとするとすぐには見当のつかない店があった。
引越しの準備がひと通り終わり、少し息抜きを兼ねて夜の街を散策にと出かけたのは少し前だが、この店が目に付いたので近寄っていったという記憶はない。
いつの間にか目の前に、いま見ているままあった。それが一番しっくりくる表現のようには蓮には思われた。
店の周囲を伺うが、中に人がいるのかどうかも掴みかねる。
看板らしきものがあることに気付いて目を向ければ、達者な文字で『黒猫亭』とある。店、ということは正解のようだが、さていったい何の店であるかがやはり見当がつかない。
その反面、この店が蓮に対して危害を加えるような類のものではないということには妙な確信がもてた。
新しい街にやってきた早々に変わった店に出会ったものだ。そう思いながら扉に手をかける。
軋んだ音を立てて、扉はすんなりと蓮を店内へと導いた。
「これは」
中の様子が目に入って思わずそう口にした蓮の言葉は驚きもあり、また感嘆でもあった。
カフェ、というよりも昔ながらの喫茶店という表現がしっくりくるスペースと、カウンター越しにも見える酒瓶が丁寧に並べられた棚のあるバーらしきスペースが合わさった店内は、外から伺っていたよりも柔らかな明かりに満ちている。
見れば、それぞれのスペースにひとりずつ客がいる。ふたりとも男性のようだ。
喫茶側にいる男は本で顔が半分以上埋まっているので、どんな表情をしているのか判断しにくい。そして、バーにいる男は──
「やぁ」
そこで、蓮の観察を邪魔するように声をかけてきたのは件のバー席にいる男だった。
黒尽くめの服を身にまとい、片手にはグラスを持ったその男は、にこりというよりはにやりと何処か意地の悪そうに感じる笑みを浮かべて蓮に向かって口を開いた。
「ようこそ、黒猫亭へ」
そして、この街へ。そう男は付け加えてまたにやりと笑った。
2.
「あなたがここの店主さんですか?」
「いや、僕はただの客だよ。名乗っていなかったね、僕は黒川というんだ。以後よろしく」
黒川と名乗った男は、そう言って挨拶代わりとでもいうのか手に持っていたグラスを傾けてみせる。
「僕は青・蓮といいます。身近なものからは蓮と呼ばれています」
礼儀正しくそう名乗った蓮に対して、黒川は「改めてよろしく」と答えるに留め、そのまま二人のやり取りをまったく気にしていない様子の喫茶スペースにいる男のほうを指差した。
「彼は灰原というんだ。ご覧の通り読書中の彼には我々の会話はまず聞こえない。自分の気になること、まぁもっぱら本絡みだがね、そいつのとき以外は大抵あんな様子なのさ」
揶揄の混じったような黒川の言葉にも、確かに灰原という男は一切返事をしない。ただ、それが本に集中しているためなのか、それとも黒川のそういった物言いに慣れてしまっているからなのかは蓮には判断の難しいところだ。
「そういえば、先程黒川さんは僕がこの街へやってきて間もないことを知っているようなことを言われましたが、どうしてですか?」
「ただの勘だよ」
蓮の問いににやりと底意地の悪い笑みを浮かべながら明確な答えを提示しない黒川に対して、蓮もそのことを深く追求するのをやめ、別の話題を向けることにした。
「では、少なくとも黒川さんは僕よりはこの街に詳しそうですので、よろしければこの街のことを少し教えてもらえないでしょうか」
「変わった街さ。でも同時にありふれた街でもある。だがそうだね、キミがもし怪異などに興味があるのなら、この街は打ってつけかもしれないけどね」
にやにやと笑いながら黒川は蓮に街の案内をするからと外へ出ることを提案し、蓮にもそれを断る理由はないので黒猫亭を後に、再び夜の街へと繰り出した。
3.
店を出た途端、蓮は奇妙な感覚を覚えた。
店を出たのだから先程までいた通りに戻ったはずなのだが、その道は先程のものとは違い、だが何処が違うのかと聞かれればはっきりとは答えられないそんな雰囲気を持っていた。
「あぁ、気にしなくていいよ。動くことが面倒なのでね、少々楽をさせてもらっているんだ」
蓮が抱いた違和感に気付いたのか、黒川はそう言いくつりと笑った。
そのまま、蓮と黒川はその『道』を歩き、様々な場所を訪れた。
あるところには探偵事務所が、またあるとこにはアンティーク・ショップが、一件どこにでもある出版社もどうやら何かあるらしい。
それらの建物はしかし隣接しているというわけではなく、どうやら黒川のいう『楽』のお陰でまるでぱらぱらとカタログを見るように必要な場所だけを垣間見ることができているようだった。
「あれらの建物には、何かがあるというのでしょうか」
「建物というよりも、その中にいる人々、更にいうのならば彼らのもとへ集まってくるモノたちが、というべきかな」
その言い方に、どうやら人ならざるものもこの街にはたびたびやってくるという含みがあるように蓮には感じられ、またおそらくそれは正しいのだろう。
「この街では、そのようなことが当たり前のように起こっていると?」
「関わりがあるものには日常のように。ないものには、そんなものが起こっていることさえも気付かないくらいだね」
「僕にこれらを案内してくれたということは、僕にもそんな関わりがあるということでしょうか」
「それはキミ次第だね」
そんなことを言いながら、いつの間にか二人は黒猫亭へと戻ってきていた。
そのときに立っていた通りは、はじめ黒猫亭に出会ったあの通りだ。
「この通り、立ったときに何故だかとても懐かしい気がしたんです。ずっと昔から知っていたみたいに」
しかし、蓮はこの街はおろか日本に訪れて間もない。以前住んでいた場所と似ているところなど何もない。
なのにそんな思いを抱いたことを何の気なしに黒川に漏らせば、黒川はくつりと笑って口を開く。
「キミならきっと、この街でもやっていけると思うね」
さて、とそこで黒川は店の扉に手をかけて蓮に問う。
「僕はこれから飲みなおすつもりだけれども、キミはどうする?」
「そうですね、引越しの準備がまだ済んでいないので改めて伺います。今日は街を案内してくれてありがとうございました」
「では、縁があればいずれまた」
そう言って黒川は最後まで何処か意地の悪い笑みのままその扉を閉めた。
さて、引越しの準備をと住まいへ戻ろうとした蓮は、ふと後ろを振り返ったが、先程まであったはずの店、黒猫亭はそこにはもう存在していなかった。
まるで、そんなものなど最初からなかったかのよう。
「……白昼夢でも見たんだろうかね」
しかし、縁があればまたと黒川は言っていた。そしてそれは夢ではないように思われる。
「縁があればまた伺います」
店に対してなのか、先程の男に対してなのか曖昧な挨拶を残し、蓮は今度こそ住まいへと戻っていった。
了
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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8243 / 青・蓮 / 男性 / 36歳 / 京劇俳優
NPC / 黒川夢人
NPC / 灰原
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■ ライター通信 ■
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青・蓮様
初めまして、ライターの蒼井敬と申します。
この度は、当依頼にご参加いただき誠にありがとうございます。
黒猫亭への訪問、そして街へやってきてすぐというなので街の案内をということで、黒川に非常に簡単にではありますがこの街を案内させてみました。
灰原のほうは今回はあまり交流ができず申し訳ありません。
お気に召していただければ幸いです。
ご縁がありましたらまたよろしくお願いいたします。
蒼井敬 拝
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