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<東京怪談・PCゲームノベル>


忘れ物
あるいは、人々が神の悪戯と呼ぶものについての話






 透明な壁の向こうを覗きこむと、そこに、青年の姿が見えた。
 青年は、帳面のような物に何かを書きこんでいた。制服らしき上着を羽織っている。きっとこのガソリンスタンドの店員さんなんだろうな、と、歌川百合子は検討をつけた。
「す、い、ま、せーん」とか、何か呟きながら、スタンド名のペイントが所々剥がれたドアを押し込む。青年が、帳面からはっとしたように顔を上げた。
「あ、すいません、いらっしゃいませ」
 店員さんは、来客に気付かなかった自分を恥じているような表情を浮かべた。慌てて、立ちあがる。壁の向こうに視線を走らせ、不審げな表情を浮かべた。
「いやあの、給油じゃないんですけど」
 百合子は先手を打って、口に出した。
「え、はあ」
「いやあの、何か、車が、すぐ、近所でエンストしてしまいまして、ですね」
 漠然と後ろの方を指し示す。その方向を、やはり漠然と見やってから、店員さんが「ああ」とか何か、納得したような声を上げた。「そうなんですね」
「はい、そうなんですよ」
「じゃあ、見てみましょうか」
「え、見て貰えますか」
「見て貰えますか、って、何ていうか、そのために来たんですよね」
「あ、はい」
 そうですけど、何か、くらいの勢いで頷いたら、何だか、ちょっと、店内がシンとした。それで何か、周りの様子とか眺めていたら、一体、いつ入荷しました? みたいな、埃を被ったバッテリーの箱とか見えた。木製のカウンターがあり、その上に、あれ? 一体、何処のみやげですか? とでもいうような、木彫りの置物がある。
「あーじゃあ」
 柔らかそうな髪の店員さんは、学生の頃に見た理科室のテーブルみたいに所々黄色くなったり、黒く変色しているテーブルの上に開いていた帳面のようなものを、閉じる。のを何となく見ていたら、「何ですか」とか言われたので、「別に盗み見てたわけじゃないですよ」とか言い訳して、実は、物凄い見ていた。帳面の中身は、五線譜と思しき用紙だった。書き込みがされていたので、何かの曲を作っていたのかもしれない。
「それで、車は、何処ですか」
「あ、面倒臭いですか」
「そう、見えますか」
「はい、まあ、何か」
「そうですか」
「すいません、何か。嘘つけなくて」
「何か気のせいかもしれないんですけど、全然謝られてる感じがしないっていうか」とか言った店員さんに、「そうですか、おかしいな」とか答えて、何か物凄いじーっとみられたので、見つめ返した。
 何か五秒くらい、見詰め合った。
「それにしても客の来ないガソリンスタンドですね」
「はい、まあ、田舎ですしねっていうか、さっきからちょいちょい失礼ですよね、貴方」
「やっぱりあれかな、アトリエ村の人はあんまり家から出ない人が多いのかな」
「いやそれは知らないですけど」
「はあ、そうですか」
「あ、でも、一週間に一度販売に行く灯油は、めちゃくちゃ売れますよ、確かに、皆家から出たがらないのかも知れない……とか、どうでもいいんで、とりあえず車まで案内して貰っていいですか」
「あ、そうですね、ほんとだ」
 百合子はえーっと、とか何か呟きながら、踵を返す。「すいません、じゃあ、お願いします。こっちです」
 店員さんを従え、店内を出た。天井にぶら下がった形の給油機が目に入る。最近では、余り、見かけない形だなあ、っていうか、セルフじゃないガソリンスタンド自体を余り、見かけないよなあ、っていうか、セルフは安い、というイメージが既にあるので、店員さんに給油して貰うタイプのガソリンスタンドを、視界に入れてないのかも知れない、とも、思う。
 出入り口付近の壁には、ああ、八十年代ですね、とでもいうような色味の塗料で、店名がペイントされていた。看板の変わりなのかも知れなかった。所々が虫に食われたかのように、剥がれている。
 その前を通り過ぎ、スタンドを出て、暫く歩いたところに、藍色の軽自動車は停車していた。
 従弟の俊久が、ジャケットのポケットに両手を突っ込んだ格好で突っ立っている。「おーいトシ君ー、連れて来てやったよ」
 百合子は叫びながら走り寄り、自分より身長こそ高いものの、いつまでたっても何処か頼りなさの滲む痩身の横っ腹を肘で突いた。「全く、トシ君が使えないからさー」
「仕方ないだろ。周りに他の車も居ないんじゃ、どうにもならないんだって」
「あたしをスタンドまで行かせてさー」
「いや、百合子姉ちゃん自分で行くって言ったんじゃん」
「だあって、トシ君じゃ絶対頼りならないじゃない。ちゃんとスタンドの人、連れてこれる? すいません、すいません、とか言って、あれ、何ていうの、米搗き飛蝗?」
 はいもう何とでもいえばいいですよ、とでもいうような表情で百合子を無視し、俊久は、追いついてきた店員さんに向き直る。「すいませんでした、あの、車がエンストしてしまいまして」と、頭を下げた。
「はあ、この車ですか」
「はい、そうなんですよ」
「はー、じゃあ、ちょっと見てみますね」
「お願いします」
 車のボンネットを開け、青年二人が中を覗き込んでいる。どうせ車のことなど聞いても分からないので、百合子は車内で待っていることにした。ひとまず、運転席に乗り込む。鞄の中から文庫本を取り出して、眺めた。
 暫くすると、こんこん、と窓を叩く音が聞こえた。顔を上げると、俊久の顔がある。いつ見ても何か頼りなさそうな顔だなあ、とか凄い失礼なことをマイルドに考えていたら、「早く開けろよ」と、向こう側から声が漏れ聞こえてきた。
「え、何?」
 聞き取りにくかったので、百合子はドアを開ける。
「だから、早く開けろよって」
「いや、開けたじゃん」
「いや、開けたけど」
「で、何よ」
「うん、あのさ、車ガソリンスタンドまで運ぶから」
「えーやだよ! 絶対、押さないからあたし!」
「まだ何も言ってないし、誰も百合子姉ちゃんに押せとか言わないし」
「あ、そうなの」
「僕と、店員さんで押すから、運転して欲しいの」
「え、うそ、面白そう、やるやる」
「うんそれは面白くなくてもやって頂きたいんですけど」
「分かったよ、あたい、頑張るよ!」
 ガッツポーズを作り、ドアを勢い良く閉めかけて、思わず挟んでしまった俊久が、「いたっ」とか呻いた。手で体を追い払って、ドアを締め直す。ハンドルを握り、ルームミラーの位置を調節し、ブレーキを踏み込みながら、ハンドブレーキを下ろす。バックミラー越しに腰元をさすりながら、遠ざかっていく俊久の後姿が、見えた。



「いった、もうすっごい、もうめっちゃ腹立つ」
 腰元をさすりながら、俊久が店内に入ってきた。百合子の向かいに座り、不貞腐れた表情をする。
「いやもうさっきのドアぶつかったとこめっちゃ痛いんだけど、っていうか、青あざになってたらどうしてくれるわけ」
「あー、じゃあ、なってたら、ごめんね」
「なってなくてもごめんねだよね、普通」
「あ、分かった! じゃあ、なってたら、あのーほら、新居君に、ごめんね、だよ」
「なに新居。新居関係ないじゃん今」
「いや大事なトシ君をキズものにしちゃって、ごめんねっていう」
 ほらまた余計なこと言うし、みたいな顔で、俊久はそっぽを向く。
「どうせその青あざとかも、新居君に見られちゃうんだろうし」
 全然聞こえてません、みたいに知らん顔をしているけれど、白い頬がほんのりと上気しているところを見れば、しっかりと聞こえている。知らんぷりをしていれば言うのを止めるとか思われてたら腹立つので、負けない気で、言った。
「ベットの中で」
「うるさい! っていうか、しつこい」
 ばし、っていうか、びしっっていうか、俊久は凄い勢いで振り返って声を荒げたので、うひひ、とか両肩をあげてウィンクとかして誤魔化した。
「うひひじゃないよ」
「まあうひひってことはないけどさ」
 真っ赤な顔とかしてる七歳年下の従弟を気持ち悪みたいな目で斜めに見上げて、頬杖を突く。
「トシ君が車買ったとか調子こいて言うから、あてにしたらさー、全然駄目駄目じゃん、あの車」
「仕方ないだろ、中古だったんだから。ちょっと走る分には、問題ないんだよ」
「新居君ちに、通う分にはね」
「うるさいな」
「だいたい、あれって買ったんじゃなくて、買って貰ったんでしょ。新居君もさー、車買うとか言うなら、もっと良い車買えって思うじゃん」
「仕方ないよ、そんな、何ていうか、余裕があるわけじゃないから」
「ローン組めないんじゃなあ。貧乏無名画家が」
「貧乏無名画家とか、言うなよ。一応、あれだって現金でポン、とさ」
「中古のボロくらい、別に、誰でも買えるよ」
「ボロじゃ、ないもん」
 項垂れて、呟く。横顔が、とっても悲しそうで、可愛い。
 とか思ってても絶対言ってやらないもん、とか思いながら、頬杖をついた格好で欠伸を、した。それから、入口の方を何となく、見やった。するとちょうど、押し戸の向こうから男性が一人、店内に入ってくるところだった。お客さんなのかと一瞬考えたが、店の外にそれらしき車の姿はない。
 百合子達と目が合うと、男性は自然にほほ笑んで、会釈をした。深い緑色のジャケットを羽織り、眼鏡をかけた長身の男性の姿は、ガソリンスタンドの店員さん、という風情ではなかったが、いや待て、眼鏡の整備しさん、というのはあるな、と考え直す。それに、店長さん、とかいうのもある。
 案の定、男性は、控室らしき場所に入って行き、姿を消した。それで何か二人して顔を見合わせたりして、かといって会話をする気分でもなくなってしまい、と、いうより、薄い扉の向こう側に居ると思しき、男性に気後れした感じで、二人して口を噤み、窓の外を眺めたりする。
 男性は、五分も経たない内に控室らしき部屋から出てきた。リュックのような鞄を下げている。目が合うと、また「ごゆっくりどうぞ」とばかりに頭を下げて、店を出て行く。はあどうも、とばかりに頭を下げ返して、男性を見送った。近所に住んでいるのか、どうやら徒歩で来たらしく、スタンド内を横切って行く後姿を何となく見ていたら、店員さんが戻って来た。
「終わりました」と、声が聞こえる。
「ああ、どうもすいませんでした」
 俊久が立ちあがり、挨拶している。
「えーっとですね、今、ご説明しますね」
 そう言い、店員さんは辺りをきょろきょろと見回した。「あのファイル何処やったかな」
「あー、ざっとで、いいんですけど」
「あー、一応、作業報告書、とかいうのがあるんで、あー、その工賃とかのことも、ありますし」
「あー」
「すいません、ちょっと待ってて下さい」
 店員さんはそう言って、控室へ消えて行く。
 百合子はちょいちょい、と、俊久を手招きした。
 こそこそと、言う。
「親切で助けてくれるわけないって思ってたけど、やっぱり、ただではないんだね」
「いやもう聞こえるって」
 すると、バン、とか大きな音がして、控室のドアが勢い良く開いたので、百合子は、まさか、つもりつもった失礼に、店員さんが本気で怒りだしたのではあるまいな、とちょっと焦った。
「あの」
「え、あ、はい。いや、っていうか、冗談ですよ、ほんの冗談っていうか何ていうか」
 しどろもどろになって言い訳をする百合子を、店員さんは、数秒、眺めた。それから、茫然とした面持ちで、言った。
「あの、お金が」
「へ?」
「金庫のお金が無くなってるんですけど」
「は?」
「僕の、鞄も」
「店員さんの、鞄?」
 百合子と俊久は、同時に呟き顔を見合わせる。そしてまた同時に、「あ」と、声を上げた。
「え、さっきの、男の人?」
「男の人? 男の人って何ですか、誰か、ここに入ってました?」
「はいでも、え? 泥棒には見えなかったけど、まさか」
「泥棒」
 店員さんは、茫然とその言葉を繰り返し、「泥棒、なんて、居るんですか、ホントに」と、まるで泥棒が希少生物のように、言った。
「まあ、泥棒は、居るでしょうけど。ニュースとかでもやってますし」
「こんなド田舎のガソリンスタンドに泥棒が入るなんて。人も居たのに」
 とか言った店員さんの目は、それで二人は一体何やってたんですか、とでも言いたげに、見えた。
「だってそんな泥棒に見えなかったし、物凄い紳士的っていうか、いやしかも泥棒が入るなんてそもそも思わないし」
 百合子の言い訳とかはどうでも良かったらしく、店員さんは小さくため息を突き、額をかいた。「あーあ、鞄まで取られるなんて」
「あー、財布とか、入ってました? 銀行のカードとか、クレジットカードとか、あれ、面倒臭いんですよね。レンタルビデオ屋のカードとかも、結構あなどれないですよ。ばんばん借りられたままトンずらされたら、めちゃくちゃ鬱陶しいことになりますし」
「あ、すいません、この人、無視していいんで」
「ちょっとトシ君、何てこと言うのよ」
「いや、財布っていうかは、あるんですけど、ここに」
「え?」
 店員さんは、自分のズボンのポケットから、小さな小銭入れを取り出し、それからまた、同じ場所に仕舞いこむ。「どうせ家も近いですし、そんな大金持ち歩く必要もないんで、財布とかは、持ち歩かないようにしてるんですよね」
「あー、それは良い心がけですね。細かい感じで全然男らしくはないですけど。いや、逆に財布とか持たない感じがアウトローで男らしいのか?」
「じゃあ、鞄の中には何が入ってたんですか?」
「あー、その、楽譜です」
「何よ、二人して無視しないでよ」
「楽譜?」
「何か、その、趣味で、作曲を、するので」
「あ、そうなんですね」
「うわトシ君反応薄ッ」
「いやだって、他に何て言えば」
「もっと、えー、とか、ああ、とか、へえ、とかあるでしょうよ、ねえ? ありますよね、普通」
 百合子はそう言って店員さんを振り返る。けれど店員さんは全然違う方を向いていた。少し俯き気味に自分の手元を見やりながら、「あーあ、もう少しで完成だったのにな」と、独り言のように、呟く。
 作ったそれが盗まれたことは、一体どれくらい悔しいことなのか、百合子には想像がつかない。むしろ、取られた物が作りかけの楽譜くらいなら、良かったじゃないか、と思うくらいだったし、実際、「でもまあ、良かったじゃない、取られたのが楽譜だけだったら。あ、店のお金は取られてたけど」と、口にも、出した。
 店員さんは覇気のない目で百合子を見て、というよりも、元々余り、元気いっぱいの感じでもないのだけれど、とにかく、言った。
「分からない人は、まあ、そう言うでしょうね」
 別に分かって貰おうとも思ってないですけど、とでも言いたげに、店員さんは、言う。
「だって、また、作ればいいんだし。自分で作ったんだから、また、作れるよ」
 はあ、とか、何か、凄いいい加減な相槌を打った店員さんは、「そうだ、店長に電話しないと。あと、警察」と、呟いた。
「じゃあ、あたし達、証言しますね! 見張れなかった変わりに」
「あー」
 間延びした声を出し、百合子を見る。その目が、実は結構店の金なんかはどうでも良いんですけどね、っていうか貴方、楽しんでませんか、と言っているように、見えた。けれど結局、何も言ってこず、「じゃあ、すいません。ありがとうございます」と、頭を下げる。




「あのー。別に、いいんだけどさ」
 兎月原正嗣は、前方を歩く背中に向かい、言った。
「お前さ、絶対、道、知ってるよね」
 友永有機はゆっくりと振り返り、何処か作りものめいた感じすら抱かせる整った顔に、照れくさそうな笑みを、浮かべた。「何故だい」
「駅までの道が分かんないから送ってくれって言った奴が、俺より前をどんどんと歩いているのは、おかしい」
 ジャケットのポケットに両手を突っ込んだ格好で立ち止まり、肩をすぼめながら、笑う。「言われると思ってたよ」
「悪いけど俺、お前とぶらぶら散歩してるほど、暇じゃないんですけど」
「悪いと思ってるよ」
 友永は、またゆったりとした足取りで歩き出す。
「そんな凄いさらっとか言ってくれてるけど、全然悪いと思ってるように聞こえてないしね」
 頬の筋肉をゆるめながら指摘すると、隣で友永が微かに笑った。
「悪かったよ。僕が帰った後、あの店で彼と君を二人きりにさせるのはさ、どうしても、嫌だったもんだから、ついね」
「なるほどそれは俺が格好良いからでしょ」
「彼が、美しいからだね」
 平然と答える彼を、何だこいつ、みたいな目で見つめる。「お前の行動理由はどうせいつでも吉田君だよ」
 顔を上げると、古ぼけたアパートのベランダが、見えた。錆びた物干し竿には、ジーンズとタオルが干され、風に、揺れている。
「そうだね、僕は、単純だから。昔から、一貫して馬鹿だよ」
「しかもわざわざ俺のこと連れ出してくれなくても、直にもう一人来るしね」
「分かってる」
「あ、そ」
「毎日、店に来ている人だね、確か、紀本とか言ったかな」
「言ったと思うね」
「でも、申し訳ないことに、その間が既に嫌なんだ」
「笑顔でめちゃくちゃはっきり言うよね、とか、どんなけ信用ないかとかはもうこの際いいから、何で俺は駄目で紀本は良いのか、そこを聞きたいよね。それは一体何基準なの、何なの」
「自分でも分かっているくせに、そういうことを言うんだな、君は」
「いや知るかよ」
 兎月原は、肩をいからせ小首を傾げる。「お前に警戒されるような心当たりとかもう、ぜーんぜん」
「だと思うよ」
「しっかし報われないのにお前もしつこいよねー、吉田も良い迷惑だ」
「僕は別に、彼に気持ちを押しつけようとは思ってないよ」
「週に一度、定食屋が休みの日だけ働きに来てくれる吉田君を訪ねて、毎週毎週、怖いくらい通う人が、良く、言うよね」
「迷惑かな」
 困ったような表情で、友永は肩を竦める。
「迷惑だね。バーテンのこと独り占めしたがる客なんて、店からしたら迷惑も迷惑、大迷惑だよ」
「独り占めしようとはしていないと思うけど」
「あのさ、分かってると思うけど、普通は、人が人のことじーっと見てるのとか、おかしいんだよ。不審人物だよ、お前」
「ああ」
 友永は、恥じ入るように、俯く。「分かってるよ。でも、カウンター越しって、案外、近いんだ。あんな近くで彼を見れるのは、嬉しいから、その、つい」
「迷惑だよ、確実に」
「困ったな」
「だからさ、一回くらい来るの辞めてみたらいいじゃん。わざわざ予定があるからって、店のオープン前に訪ねてくることまでしないでさ」
「今日は本当に助かったよ、君が、ちょうど連絡をくれたから。君は、自分の店のくせに、滅多に、最初からは顔を出さない」
「連絡なんてするんじゃなかったよ。来るなら乗せて行ってやるって言ったけどさ、開店前に帰られたら意味ないんだって」
「悪いと思ってるよ」
「次からはもうあのあれ、見物料とか、取るから」
 兎月原の嫌味に、困ったような表情で俯いていた友永は、けれど次の瞬間、ああそうか、と何かを思いついたように顔を上げた。
「そういうのも、良いのかな」
「いや、どういうの? っていうか、多分、駄目だよ」
「君が居なくても、オープン前から、行ってもいいのかな。ちゃんとオープンしても居るなら、いいんだよね」
「だよね、って駄目だよ、確実に邪魔だよ」
「君を待っていることにするよ。ああそうだ。君と待ち合わせをしていたけど、すっぽかされたっていうことにして」
「いや、普通に駄目だって」
「まあ、そうだよな」
 あっさりと、友永は項垂れる。「やっぱり、駄目だよね」
「うん、駄目だね。店で二人きりだからって襲ったりされても、困るしね」
「襲わないよ」
 苦笑して、兎月原を見る。「襲えたらいいけど」
「ああ襲いたいのは、たいんだ」
「襲いたいのは、たいね」
 性の話からは縁遠いような、無機質な顔でしれ、と言い、「だけど」と続ける。
「だけど、僕にはそんな度胸はないしね、君とは違って。残念だけどさ」
「いや俺だってそんな事しないよ、紳士だもの」
 とか人が喋っているにも関わらず、友永は、全然興味ないみたいに、違う方向とか、見ていた。「いや、せめて聞こうか」
「ところであの鞄は、果たして、捨てられてあるのか、置かれてあるのか」
「は?」と、漏らし、友永が目線で指し示す方向を見やる。
「あ、ほんとだ。鞄、あるね」
 道の左脇に、リュックサックのような形の鞄が置かれてあるのを、見つける。コンクリートの道路の上に、ポツン、と鞄だけが置かれてある光景、というのは、それなりに不自然なようにも、見えた。
 辺りを見回しながら、近づいてみる。
「誰かが落としたのかな」
 同じように近づいてきていた友永が、鞄を見下ろしながら、言った。
「いや道端に鞄とか、落とす?」
「あんまり落とさないだろうな」
「あんまり落とさないよ、普通に生きてたら」
「忘れて行ったのかもしれない」
「こんなところに?」
 笑いの出来そこないみたいなのを浮かべながら友永を見やる。「いや何でまずこんなとこで鞄置こうと思ったのか、謎なんだけど」
「一体何があったんだろうね」
「しかも最悪、置いたとしてもよ、何でこんな何もない場所で、自分の置いた鞄の存在忘れるのかとか、分かってないもん」
「神隠しにでも、あったんじゃないかな」
 は、とか、思わず、友永の顔を振り返る。凄い真顔だったので、えー、どうしようとか思ってたら、顎を摘むような格好で鞄を見つめていた友永が、え、何ですか、とでもいうように顔を上げた。
 目が合うと、「ああ、冗談だよ」と、どうでも良さそうに、言う。
「冗談が全然冗談に聞こえないなんて、凄いね」
「これ、チャックが開いてる」
「あ、ほんとだ。あいてるね」
 そろっと、指で布をめくり、中身を覗きこむ。
「やっぱ、これ、捨てられてるのかな」
「何故だい」
 兎月原は、その問いにはすぐには答えず、リュックサックのチャックを開き、中に入っていたものを取り出した。茶色い革のカバーがかかった、書籍のようなものだ。
「これしか、入ってない」
「これを、捨てたかったってことかい」
「でも、ノートだけを捨てたら、不審がられて誰かに中とか見られるかもしれない、と考えたのかも」
「鞄ごと捨てても不審だよ。見られたくないなら、シュレッダーにかけるなり、燃やすなりして捨てればいい。こんなところに置いておいたら、むしろ、見られる可能性の方が、高い。実際、今、僕らに見られてるし」
「だな」
 あっさりと友永の意見に同意した兎月原は、書籍のようなそれを裏返してみたりしながら、歩き出す。
「持っていくのか」
「電車の時間、あるだろ」
「電車の時間は、あるけど」
 兎月原は、躊躇う様子もなく、中身をぱらぱら、とめくり、さらさら、と見て、「ふーん」とか、言った。
「日記とか、かい」
「いや、楽譜だったな」
「楽譜?」
「これは何だ」
 がさがさ、とページの隙間から出てきた紙のようなものを広げ、さらさら、と目を走らせる。
「何だい、それは」
「何か、履歴書?」
「履歴書?」
「はい」
 茶色い革のカバーがかかったそれが、手から手へ、渡る。同じようにぱらぱら、と見た友永は、最後に手紙に目を走らせ、「本当だ、履歴書だ。でも、これ、片方が、ないな」
 兎月原は、ちら、と友永を見やり、小首を傾げる。「みたいだな。免許とか、通勤時間とか、志望動機とかのところしか残ってない。顔写真とか名前とか書いてある方はないな。これじゃあ誰の物かも分からない」
「どういう意味だろう」
「さあ?」
 興味もなさそうに、小首を傾げる。「意味なんかないんじゃないの」
「ないかな」
「だいたいそれ、半分だけだったら書いた本人しか、判別つかないよな」
「あとは、これをコピーした人間だね」
「え、コピーなの」
「コピーだよ」
「ふうん」
「じゃあ」
 何かを思いついたように、友永が少しだけ、声を上げる。「見せる為に置いてあった、というのは、どうかな」
「どうかなって言われてもな」
「まあ、どうかなってこともないんだけどね」
「つまり、この楽譜を、この履歴書のコピーの相手に見せたかったって、ことか」
「この一見無意味に見える履歴書のコピーも、書いた本人なら、分かるんだからさ」
「なるほど」
 息を吐き出す。「まあ、ないな」
「ないよな」
 友永も柔らかく、笑った。
「どっちにしても、俺はさ。自分に害のないところで、さりげなく人の邪魔をしたり、意地悪をしたりして、生きていきたいと思ってるからさ」
 友永の手から楽譜を奪い取る。
「どうするんだい」
「駅にはベンチがあったな」
「ああ、あったね」
「あの下にでも置いておこうかと、思う」
「ふうん」
「それで誰かが困ってたら、面白いよね」
 とか言って別に、どうとも思ってないですよね? くらいの、覇気のない顔で友永を見る。
 横顔が、うん、とか、頷いた。けれどそれは同意ではなく、いやもう絶対違うこと考えてますよね、というようないい加減な相槌で、案の定暫くすると、「それでさっきの、オープン前に行くっていう話だけど」と、鞄の件などなかったかのように、そんな話をぶり返した。
 兎月原は地面を踏み歩く自分の足元を見て「あのさ」と、呟き、「分かってると思うけど」と、横を見る。
「何だい」
「しつこいよ」
 そう言うと、友永は少し笑い、「しつこいだろうね」と、認めているだけで毒にも薬にもならないような事を言った。
 これはきっとまた、言いだすのだろうな、と、予感する。



 車を停車させると、百合子は当然のように荷物を持たず、玄関先に突っ立って、俊久のことを急かした。
「もー、ちょっと待ってよ」と、文句を言い返しながら、助手席の荷物を抱え、軽自動車の鍵をかける。歩み寄りながら、家の鍵を探した。
 玄関先に荷物をどか、と置いておいて、店の方へと回る。
 黄ばんだカーテンを開けたところで、軒先に立つ人物と、目が合った。近所に住んでいて、たまに駄菓子などを買いに来る青年だった。お互いに、あ、というような表情を浮かべる。俊久は、店のドアを開けた。
「あ、居たんだ」
「いらっしゃい」
「閉まってるみたいだったから、帰ろうと思ってたところだったんだ」
「今、ちょっと、百合子姉ちゃんを迎えにね」
 と、説明をしているところで、ちょうど奥から、百合子が顔を出した。
「あ、当たり棒」
 軒先のお客を指さし、言う。
「いや、瀬戸君だよ」
 失礼にも程があるじゃないか、と慌てて訂正したけれど、当の瀬戸は、どちらかといえば童顔の顔を、柔らかく綻ばせているだけで、気分を害した様子はなかった。それどころか、「いやあ、あの時は本当にラッキーでした。百合子さんは僕の、幸福の女神ですね」などと、大袈裟なことを言っている。
 大袈裟なことを言われても七歳年上の従姉は喜ぶので、「いやあ、そんな眼鏡、じゃなかった、女神だなんて、困るよ」とか間延びした声で言い、ニヤニヤしている。
「分かっていると思うけど、冗談だよ」
 その顔が何だかムカついたので、俊久は、わざわざ言った。
「ふうんだ、トシ君は煩いんだよ、いちいち」
 ぷん、とか顔を背けて、表の方へ歩いて行く。お菓子を一つ手にとって、瀬戸に突き出した。「はい、これ」
「え?」
「これ。きっとまた、当たる予感がするよ」
「本当ですか」
「うん、間違いないよ」
「またいい加減なことを」
「じゃあこれ買います」
「いや辞めた方がいいよ、瀬戸君。絶対、当たらないよ」
「ちょっとトシ君さっきから煩いんだよ、買うって言ってんだから、いいじゃない」
「いいんです、期待してる間が、楽しいから」
「ほら、いい子」
 瀬戸から小銭を受け取り、俊久を振り返る。べーとか凄い、憎たらしい顔をした。
「トシ君みたいに、当たり棒はひねくれてないんだよ、ロマンがあるの、ロマンが。ねえ、ゾンビ好き? 何ならゾンビってあだ名にしてあげてもいいよ、特別に」
「いや、ゾンビは」
「いやもうゾンビはいいんだって」
「じゃあ、君はやっぱり、当たり棒だ」
「はい、当たり棒です」
「いやあの、瀬戸君」
「そうだ、ロマンって言えばさ。当たり棒はあのあれ、あそこの、あのー、ほら、角の、ガソリンスタンド、知ってる? あの、交差点のところのさ」
「あー、え、あの、おおたかコーポの近所のですか」
「え? コーポ? うそ、おおたかコーポとか言うのあそこ、ウケる。ただのアパートなのに、ねえ、トシ君面白いよね」
「いや面白くないよ、別に」
「そうかー、おおたかコーポかあ、流行らそうかな」
「いや、流行らそうの意味が分からないよ」
「あそこのガソリンスタンドなら、知ってますよ。たまに、原付の給油とか行きますし。あ、あと、面接に行ったことあるんですよね、あそこ」
「え、そうなの」
「はい、そうなんです」
「え、じゃあ、働いてたの?」
「働いてませんよ」
「え、落ちたの」
「いや姉ちゃんそんなこと」
「いや、違うんですよね。何かね、バイト募集の貼り紙があったんで、履歴書持って、行ったんですよね」
「え、電話もせずに?」
「いや何か、電話番号が掠れて見えなかったんですよ」
「どんなけ古い貼り紙だったわけ」
「ですよね、めちゃくちゃ古かったです」
「で?」
「そう、で。行ったら、バイトっぽい男の人が居て、一応履歴書預けてたんですけど、そしたら、何か、違ったみたいで」
「違ったって?」
「店長が剥がし忘れてただけだったみたいです。バイトは募集してないって」
「えー、信じられない」
 百合子が言う。信じられない、と、俊久も、思う。
 そんな、古ぼけたバイト募集を真に受けて、わざわざ履歴書を持って行くなんて、信じられない。
「で、まあ。あー、そうなんですかつって、履歴書返して貰って」
「そうなんだ」
「でもそういうのって、次に行く時、気まずくない?」
「ううん」
 瀬戸は俊久を見て、柔らかく、笑う。「僕あんまりそういうの、気にしないタイプだから」
「ああ、おおらか、なんだね」
 俊久は、気まずく、ほほ笑む。
「で、そのガソリンスタンドがどうしたんですか?」
「あ、そうだった。何と、あのガソリンスタンドに、泥棒が入ったんだよ!」
「え、泥棒?」
「そう、泥棒! 驚きじゃない? お巡りさんも来てたんだって。どう、凄くない? 凄いでしょ」
「へー、泥棒」
 驚いたように目を見開いた瀬戸は、「いるんですね、泥棒なんて」と、まるで泥棒が希少生物のように、言った。




 その男は、カウンターの端のスツールに腰掛け、スコッチの入ったグラスを傾けていた。
 きちんとした身なりをしている。深い緑色のジャケットを羽織り、眼鏡をかけていた。生真面目な会社員、という顔立ちではあったが、その割にセンスが良く、垢ぬけた雰囲気もあった。決して派手ではないけれど、品格のような物が滲んでいる。柔和で、おおらかそうな印象があった。
 兎月原はバーボンの入ったグラスを傾けながら、男のことを何となく、観察していた。初めて見る顔だった。斜め向かいに立つ紀本が、氷を削りながら、様子を窺っている。知り合いではないように、見えた。けれど、もう少し見てみないと分からない。
 店がオープンしてから、二か月ほどが経過していた。兎月原が見ただけでも数人、紀本の知り合いらしき男性が、店を訪れている。昔の知り合いと思しき、女性の客の姿もあった。さほど便利な場所に建っているわけではないけれど、このご時世、経営状態は、悪くない。
 紀本にこの場所を任せることにしたのは何故なのか、自分でも、ふと、不思議に思うことがある。信頼できる男ではないし、リスクが高い。金を持ち逃げされて行方をくらまされたら面倒臭いし、そうする可能性は、十分に、ある。
 けれどまだ、紀本は逃げていないし、そのような様子も全く、無かった。
 そのことに安堵を感じそうな自分が、時々、怖くなる。
「何か、お作りしましょうか?」
 目ざとくグラスが空きかけているのを見て、紀本が声をかける。
「ああ、そうですね」
 グラスを置いて、男がほほ笑む。「じゃあ、お願いします」
 グラスを差し出す指先と、グラスを受け取る指先が、瞬間、触れ合う。
 時々、乱暴に傷つけて、遠ざけたくなる。遠ざけて、嫌がった彼を、また無理矢理、乱暴に、組み敷きたくなる。
「何にしましょう」
「同じ物をお願いできますか」
「かしこまりました」
 背後からボトルを取り出し、氷を落としたグラスにゆっくりと注ぐ。証明の落ちた店内で、指先の動きが、妙に艶やかに、扇情的に、映る。柔らかそうな髪が、俯いた頬にぱらり、と落ちてくる。白いシャツから伸びた首筋を、ライトの明かりが照らし出している。
 時々、思う。
 どうして紀本は、あの時俺に助けられたのだろうか、と。
 他の誰でもなく、この俺に。
「今、お帰りですか」
「え?」
「いや、お仕事帰りなのかな、と」
「そうですね、ここでの仕事は、終わりました」
「出張か、何かですか」
「出張か何か、ですね」
「そうですか。はい、どうぞ」
「どうも、ありがとう」
「僕も、何か頂いていいですか」
 そう切り出した紀本のことを、男は興味深そうにしげしげと眺め「いいですよ。どうぞ」と、言った。
「すいません、ありがとうございます。ではビールを、頂きます」
 グラスにビールを注ぎ、いただきます、と掲げて見せる。
「こういうお仕事は、長いんですか」
 今度は男が、切り出した。柔和で穏やかな印象は変わらないが、子供のような好奇心があるようにも、見える。
「そうですね、まあ」
「そうですか」
「どうして、そんな事を?」
「興味があります」
 平然とそんなことを言う男を見て、紀本は笑う。「面白い人ですね。僕も貴方には興味がありますよ」
「そうですか」
「お仕事は、忙しいですか」
「どうなんですかね。仕事は、毎日あります」
「それは良かった。どのようなお仕事をされてるんですか?」
「普通の、会社員ですよ」
「そうなんですか。見えないですね」
「見えないですか、おかしいな」
 不安そうなのを通り越し、少し、怯えたような表情をして、言う。その様子を見た紀本が、ふ、と吐息を漏らすように、笑った。
「おかしいな、って、おかしくないですか。まるで誤魔化してるのがばれたみたいですよ」
 指摘に、男は、気まずそうな照れ笑いをする。するとまた、子供のように無邪気にも見えるから、不思議だった。
「僕はまだ、この仕事では新人なんです」
「どんな、仕事ですか」
「そうですね」
 間延びした声で言い、「トンネルとか」と、呟く。「あるじゃないですか」
「トンネル?」
 不意に出た単語に、戸惑う。
「ここからここまで、トンネルを通しましょう、という設計図があって。出発点と中間地点と最終地点が決まっている」
「はあ」
「その通り掘っていけばいいだけんですが、どういうわけか、その通りにいかないで、道がそれてしまったり、全然違う場所に行きそうになったりすることが、あるんですよね」
「あるんですか」
「あるんですよ、どういうわけか。そういう時に、途中、途中で少しだけ介入し指示を出し、それた道を直したりしています。目的地が変わった時なんかも、介入して、直したり、します」
「へえ、大変そうですね」
「僕はまあ、受けた指示に従って実行するだけの実行部隊みたいなものなので、別に大変でもないんですけどね。最終的に僕のやったことが、どういう最終地点の為なのかは、実は良く、分かっていないんです」
「そんなことが、あるんですか」
「あるんですよね」
「神のみぞ知る、という感じですか」
「神のみぞ、知る」
 男は聞き覚えのない言葉を聞いたかのように繰り返し、顔を顰めた。「まさしく、それですね」
 でも、とこれだけは知っておいて欲しいんだ、と駄々を捏ねる子供のような、不本意そうな表情で続ける。「でも、その神様とかいうのは、人間が思っているような物では、ないんですよね」
「え?」
「え? いや、たぶん、何となく」
「はあ」
 不審げに頷く紀本を、男が、好奇心旺盛な子供のような目で、にこにこと、見上げる。
「本当に、面白い人だな」
 紀本が照れくさそうな、戸惑ったような表情で、ほほ笑んだ。
「吉田君」
 兎月原は、自分の向かいでグラスを洗っていたアルバイトの青年の名前を呼んだ。
 時々、思う。
 どうして紀本はあの時、俺に金を、借りたのか。と。
 俺の金を、俺の援助を甘んじて受け入れたのか、と。
 他の誰も助けてくれなかったわけではないのだろうと、今では、分かる。むしろ、他にも居たはずだった。金を出してでも、あの男を自由にしたいと思う人間が。それなのに何故、そのまま俺の元に居るのか。
「何ですか」
「あいつ、呼んでくれる?」
「はあ」
 頷いた吉田が、紀本の傍に寄り、こそこそと声をかけた。軽く頷いた紀本が、笑顔を浮かべながら「失礼します。ごちそうさまでした」と男に向け、グラスを掲げる。兎月原の向かいまで歩いて来ると、「なに」と、途端に能面のような無表情で、言った。
 そしてどうして、あの時、自分は、気紛れに、この男を助けようなどと、思ったのか。
 そもそもどうして、こいつが困っている、などと知ってしまったのか。
 それは、まるで、神も悪戯のような。
「別に、どういう男なの、あれ」
「さあ、どうだろうね」
「常連になりそうなわけ」
「どうだろうね」
 他人事のように言いながら、空になりかけている兎月原のグラスを掴む。
「同じ物でいいの」
 取り上げようとした手を、掴んだ。
「なに」
 指先で、愛撫するように関節を撫で、手の甲をぎゅっと、つねる。
「痛ッ」
 そのまま、ぐい、と引っ張った。
「やめろよ」
 右手で髪を掴み、引き寄せる。声を潜め眉を顰める耳元に、唇を寄せた。
「大丈夫だよ、お前が変な素振りさえ見せなきゃ、何か話してるようにしか見えないからさ」
 ひそひそと息を吹き込むようにして喋り、舌を這わせる。
「客が見てるだろ、やめろよ」
 非難を無視して、耳朶を、噛む。ぎゅっと、紀本の左手が、テーブルの上の兎月原の手を掴んだ。
 苦しげに目を閉じている顔を、温度のない冷たい瞳で見つめ、髪を掴んでいた手を、離す。
「おかわりは、同じ物で、いいよ」
 何事もなかったかのようにスツールに体を戻し、組んだ足をぶらぶらと揺らした。「あ、そうだ。帰りは、運転、してね」




 小さな駅の構内で、瀬戸は電車の到着を待っていた。
 木製のベンチに腰掛け、掲示板に貼られた広告などを眺める。薄っぺらいガラスの窓が、時折、風に吹かれて、揺れる。午後の日差しが、ホームのコンクリートを照らし出していた。
 電車は、多い時で一時間に二本程度しか、来なかった。辛うじて急行列車が止まる時間帯もあるけれど、殆どの場合、普通列車しか止まらない。次の列車がくるまで、十分ほど、時間があった。
 広告を見ているのも飽きたので、一旦、足元に目線を戻した。
 携帯を開いて、時間を見る。そこでふと、ベンチの下に何かが落ちていることに、気付いた。拾い上げてみる。茶色い革のカバーがかかったそれは、最初、何かの書籍のようにも、見えた。
 裏返してみても、何も書いていない。誰かが落としていったものなのか、忘れていったものなのか、あるいは、捨てていったものなのか、とにかく、駅員さんに届けておこう、と思った。
「あの何かこれ」
 四角く壁に囲まれた狭い部屋の中で、ぼんやりと空を見ていた駅員さんに、それを差し出す。「そこに、落ちてたんですけど」
 はあ、と、若そうな駅員さんは、どちらかといえば、気のない返事をした。迷惑そうに、差し出されたそれを受け取る。
「いやあの何か」
 別に全然悪いことをした覚えはないのだけれど、何となく、あれ? 責められてませんか、とか、不安になった。言い訳がましい口調になる。「落ちてたんです」
「はい、え、聞きましたけど」
「でしょうね、言いましたしね」
「何処に落ちてました?」
 駅員さんはどうでも良さそうに言いながら、革のカバーを何の躊躇いもなく開いた。声には出さなかったけれど、あ、とか、ちょっと思った。開いていいのか、というか、開く理由があるのか、というか、あー中とかそうやって普通に見られちゃうんだー、みたいな、気分になった。なったけれど、目の前で開かれたので、とりあえず、見ていた。
「あれ? 何ですか?」
「いや、ベンチの、下に、落ちてましたね」
「ふうん」
 漠然と、何かの書籍かもしれないだとか、もしかしたら日記なんじゃないかなあくらいのことを想像していたのだけれど、中身はまるで、違った。五線譜というか、手書きの楽譜だった。日常生活の中で目にすることなど余りないので、思わず、物珍しげに見入る。
「えー、すごい。作曲家の人が落としてったんですかね」
「まあ、アトリエ村ですしねー」
 別にたいして奇妙なことでもないですよ、と言わんばかりの口調だった。毎日毎日、この村の駅を守る駅員さんは、もっと奇妙な落し物に遭遇したことだってあったのかもしれない、とか、ふと、想像する。
 と。不意に、束になった五線譜の中から、パサ、というかポト、というか、何かが瀬戸の足元に落ちてきた。
「何か、落ちましたよ」
 拾い上げたそれは、折りたたまれた紙切れだった。光に当たると、薄っすらと文字のようなものが浮かび上がっていた。音符ではなく、文字。少なくとも楽譜ではないようだった。
「あー、どうも」
 それを手渡し、また躊躇いもなく読みだすんじゃないかと、むしろ、期待して見ていたのだけれど、駅員さんは予想に反し、それをさっと楽譜の中に挟み込むと、パタンと革の表紙を閉じて「じゃあ、確かにお預かりしました」と、言った。
 拍子抜けする。あ、そこは、見ないんですね、と思った。
「はあ、どうも」と、頷きながら、駅員さんの顔を、窺う。
 目が、合った。あ、何か気まずい、とか思って目線を逸らしたら、「君、今、僕がこれを見るんじゃないかと期待しましたよね」とか、思い切り、図星を指された。
「い、いやあ、そんなまさか」
「何か、手紙ぽかったですよね」
 人を狼狽させといて、あれ? 全然興味ないんですか? くらいの調子で、独り言のように、呟く。何か、全然相手にされてないのにいつまでも狼狽しているのは恥ずかしいので、とりあえず、なかったことにすることにした。
「あー、心当たりとか、ないんですか? これを忘れていったような人に」
「そうですねー」
 間延びした声で相槌を打った駅員さんは、空をぼんやり見る。何かを落としてる人が居ても、貴方絶対気付かないですよね、見てないですよね、構内のこと実は全然気にしてないですよね、と、思ったけれど、口には出さず、答えを待つ。
「まあ、居ないことはないんですけどね」
「え、そうなんですか」
 そんなわけないでしょ、貴方、見てないんでしょ?
「でも、忘れてったって感じじゃないしなあ。むしろ、置いていったっていうか、捨てていったっていうか」
「え、目撃してたんですか」
「まあ、目撃、してましたね」
 瀬戸は駅員さんの顔を、ちょっと見つめた。
「あれ? え? 何で、声、かけなかったんですか?」
「そんなあえて置いてそうな感じの人に、声かけられないですよ。君、出来ますか? そこ置かないで下さい、とか。あえて、言えます? しかもまたそれが、めちゃくちゃ美形の人でね。あんな人、用事があってもなかなか迂闊に声なんて、かけられないですよ」
「いや、まあ、その時になってみないと分からないですけど」
「いやあ、絶対言えないでしょうね」
 駅員さんは瀬戸のことを、じろじろと眺めてから、言う。それって言うのはもしかして、君では絶対に言えないでしょうね、って意味ですか、と多少なりともムッとしたのだけれど、かといって結局、やっぱり、その時になってみないと分からないので、言い返すこともできない。
「じゃあ、それ。どうするつもりなんですか」
「どうも出来ないですよねー。とりあえずまた、置いとくくらいしか」
「えー」
「もう一度あの人が来たら、捨てたのか置いたのかは確認したいんですけどね」
「はあ」
「捨てたのなら処分しますし。でも、置いたんだったら、何か目的があるかもしれないんですよね。だから、一応僕、拾った人の前で中開くことにしようって決めたんです。そしたら何か、あるかもしれないでしょ?」
「はあ」
「でもこれ発見したの、まだ貴方以外居ないんですよね」
 駅員さんは、それを、酷く残念なことのように、言った。
「いやそんな残念そうな顔で言われても」と、思わず、口に出す。
 そしてそんな無意味な決意をしたくなるくらい、この駅の駅員さんは、暇なのか、と、これは口に出さず、思った。




 ふと、顔を上げると小柄な女性が駅の中に入ってくるのが、見えた。
 駅員は、見るとはなしにその姿を見やる。
「だからさー、やっぱりこっちの映画の方がいいって」
 一見した感じでは、どちらかといえば大人しそうなタイプの女性に見えたが、雑誌のような物を掲げながら話す声からは、溌剌とした愛らしさが感じられた。
 後ろには、背の高い、整った顔の男が立っていた。その姿を認識し、駅員は思わず、あ、と口を開いた。駅員室から、体を乗り出す。あれはあの時、あの楽譜を置いた男なのではないか、と気付いたのだ。
 けれど、男は、駅員を気にする様子はない。二人で電車を待つつもりなのか、木製のベンチに腰掛けている。
 あーでもないこーでもない、と、どうやらこれから見る映画について、検討をしている彼女の横から、さして興味もなさそうに、雑誌を覗きこんでいた男は、不意に「あ、そうだ。そういえば」と、声を上げた。
「え?」
 と、おかっぱ頭の可愛い彼女が振り返る。
「百合子、面白いもん、見せてやろうか」
「面白いもの?」
「まだあるかなあ」
 独り言のように呟きながら、男が、ベンチの下を探る。
 やっぱり! と、駅員は声をあげそうになる。
「あ、あった。すごい、まだあった。ほら、これ、見て。何だと思う?」
 あの茶色い革のカバーがかけられた楽譜を取り出し、彼女に向け、掲げる。彼女は一瞬きょとん、とした表情をして、それから「え」と目を見張った。
「あ、ガソリンスタンド」
「何、ガソリンスタンドって」
「いや何か、泥棒がさ」
「は? 泥棒? 何それ」
「いやいやいやいやいや、っていうか、何で兎月原さんがこの楽譜のありか知ってるわけ?」
「っていうか、何で百合子がこの楽譜の存在知ってるわけ?」
「いやだからそれは、ガソリンスタンドに入った泥棒が」
「あ、その話、長い? 俺、先に喋っていい?」
「駄目だよ、何よ、最後まで聞きなさいよ」
「ちがちが、だから、ちょっと待って。あ、あったあった。ほらこれ見て。履歴書なの。履歴書のコピー」
「え? あ、ほんとだ、何で」
「ね? 謎でしょ。楽譜の間に挟まれた履歴書なんだよ、ロマンでしょ」
 履歴書!
 駅員は、また、声を上げそうになる。手紙だと思っていたあれは、なるほど、履歴書だったのか。
 ははー、と驚きのため息を突き、彼らの会話には耳を澄ませながらも、椅子に背中を預ける。
 そしてもしも、と考えた。
 もしも今度、あの時発見した青年が来たら。
 このビックニュースを是非、話そう、と。

































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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号7520/ 歌川・百合子 (うたがわ・ゆりこ) / 女性 / 29歳 / パートアルバイター(現在:某所で雑用係)】
【整理番号7521/ 兎月原・正嗣 (うつきはら・まさつぐ) / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者】



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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 このたびは当ノベルをご購入頂き、まことにありがとうございました。
 愛し子をお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝を捧げつつ。
 また。何処かでお逢い出来ることを祈り。