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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


記憶がない

■オープニング

 ある日の白王社・月刊アトラス編集部。
 警備員のおっさんが、ビルのエントランスで困ってたお客様ですと一人の妙齢の女性をわざわざ連れて来た。

 …妙齢。
 即ち、年頃が全然読めない。
 一応子供と言えるような歳でも老人と言えそうな歳でも無い、それなりに歳を経た…ひとまず大人と扱っておけば間違いは無さそうな年頃のようには見える。が、今時はその辺の外見の特徴などわかったものではないので結局言い切れない。…やたらと若く見える御年配の方や素で大人に混じれるような外見のガキんちょも居ない訳でも無い。
 女性、とも言ったが、そこもまた同じ事。
 …今時、見た目だけで性別を言い切れるものでも無い。
 つまりは連れて来られたのは正体不明の人物である、と言う事になる。
 で、そんな彼女(?)がここに連れて来られたのは、月刊アトラス編集部に用事があるらしい、と言う話だったから、との事。
 だが。

「…記憶が無い?」
「ええ。ここに来た理由も自分が何者かも何処から来たのかもぜーんぶ」
 で、そんなこの彼女が何故か白王社ビルエントランスに訪れて、受付で唯一はっきりと出した名詞が、『月刊アトラス編集部』。それだけ。
 なので取り敢えずここに連れて来られたらしい。
 …月刊アトラス編集部と言えば白王社の中でも特に何が起こるかわからない魔窟として認知されており、結果としてちょっと普通じゃないと思われても、そこに用があるとわかればどんな客でも殆どフリーパスで通されるのが常の事。
 だから追い返されもせず、警備員のおっさんに御丁寧に案内までして貰えている訳である。
「…てな訳で、話聞いてやっちゃくれませんかね?」



■編集部室の入口のそんなちょっとした騒ぎに。

 …勿論、気付いてはいたけれど。
 その時月刊アトラス編集部の編集長・碇麗香のデスク前に居た蒼王海浬としては、その騒ぎを特に気に留めてもいなかった。ただ、すぐ側で起きている事実としてそれに気付いていただけで、特に自分が関わる事では無いと思っていた…とでも言うべきか。そもそもこのアトラスと言う場所は何かと騒ぎが起きる。編集部員がわざわざ騒ぎを起こす事もあるし、取材と称して編集長が率先してそんな騒ぎを呼び込み容認する事すらある。だからこそ、今回のように警備員も正体不明の相手を平気で編集部に案内してくる事まである訳で。
 不用心ではあると思うが、このアトラスの場合はそれでこれまで通っている――通して来られた、と言う実績がある訳で、海浬としてもこの程度の騒ぎを見ただけで、特に改まって問題がある事だとは思えない。
 あの『彼女』にはきっと編集部内の誰かが対応するだろう。
 思いながら、帰ろうと考える。
 …海浬が何故この場に居たのか。それは、ちょっとした仕事、と言うより頼まれ事の報告の為。今は編集長にその報告をした後で、海浬にしてみればちょうど用事は済んだタイミング。
 踵を返し、歩を進める――進めようとしたところで。
 月刊アトラス編集部に於ける不幸の申し子、三下忠雄の様子がたまたま視界に入った。
 …あろう事か、彼が、案内されて来た『彼女』に対応していた。
 海浬は何となく、その様子を観察してしまう。
 その結果、少なくとも、彼自身には『彼女』に心当たりは無いらしいとわかった。
 三下の様子は、いつもの如く。

 …。

 見ていられなくなった。



「あ、あの…で、記憶が無いとか…」
「はい。あの、こちらが『月刊アトラス編集部』…なんでしょうか?」
「はい。えっと、で、…ど、ど、どうしましょう。って言うかどうしたら……!」
「……いやあの、私に訊かれても……」
 記憶が無いと言う『彼女』の側にしてみれば、むしろ自分こそがそう訊きたい。なのに編集部員の一人と思しき青年――三下の方から先にそう言われてしまっては、『彼女』の方としても困惑するしかない。
 …そしてそのまま、話は進まない。
 と、はぁ、と溜息が三下の背後から聞こえた気がした。三下はそれに気付いて振り返る――ただ振り返ったと言うより藁にも縋るような態度で――もしかしたら誰かが、と儚い希望を頼りに助けを求めて振り返った、と言った方がより正しい。
 ぽむ、とそんな三下の肩が叩かれる。振り返った三下の目の前。そこに居たのは金糸の如く長く滑らかな長い髪と、左右それぞれ違った色調の青い瞳を持つ、繊細な美貌の青年――蒼王海浬。三下からバトンタッチでもするように、ごくごく自然に二人の間に割って入って来る。
 それで、『彼女』に微笑み掛けた。
「俺が話を聞こう。…三下では色々と気の毒だ」
 どちらが、とまでは言わない。
 …その辺については推して知るべきと言う事で。
 海浬はそのままさりげなく『彼女』の様子を確かめる。
 まず、『人間』であるのかどうか。
 そこについては、一目で確認は出来る。特に力を使うまでも無く、気配の時点である程度読み取れるのが昨今の俗界の――東京の状況。あまりにも『様々な者』が多過ぎる。
 結果として、この『彼女』は、人では無い。
 …とは言え『人間』の気配が全く無い訳でも無い…と思う。察するに、『人間』を材料として造られた人外の者。人造人間、と言った類か。が、それだけにしては人外めいた――魔的、霊的な負の気配が随分と大きい。
 両方を考え合わせると、霊鬼兵の類だろうか、と言う考えに落ち着きそうになる。
 霊鬼兵。…霊力の強い人間を核として、人間や動物、機械などを――場合によっては死体、人外の組織体まで利用され繋ぎ合わされて造られた霊力重視の人造人間。
 …そうなると、少々厄介な話になるかもしれない。
 思いながらも、海浬はその考えを全く表面には出さないまま、話を続ける。
「このまま立ち話も何だ。…取り敢えず座ろうか」
 と、さりげなく『彼女』を編集部の片隅、ソファとテーブルに給湯ポットが置かれている休憩スペースにエスコート。三下の事は目顔で押さえ、付いて来ないようにする――彼に同席されても助けになるどころか却って物事が混乱したり悪化する可能性が高いので。…気の毒ではあるが、不幸の申し子と呼ばれているのは伊達では無い。
 ならば、自分が手を貸すと決めた以上、横から必要以上に引っ掻き回されるのはごめんだ。…海浬にはわざわざゴタゴタを起こして楽しむような趣味は無い。
 三下はこちらの意図が通じたか、途惑っている様子ながらも付いて来ようとしない。と、びしりと編集長に呼び付けられているのが見えた。呼ばれるなり慌ててそちらに飛んで行っている――さりげなくそれを確認し安堵してから、海浬は改めて『彼女』を見る。
 …さて、そうなると。
 どうするか。
 この『彼女』に記憶が無い、と言う理由。可能性は様々考えられる。人であっても、人でなくとも。
 人でない場合、記憶を無くしたのではなく、初めから記憶が――記憶になるだろう過去が存在しないと言う事も有り得る。もしくは本当は記憶があるのに記憶喪失と偽っている可能性も否定は出来ない――自分の素性を隠して隠密裏にアトラスに潜入する事を試みている場合も有り得る。…記憶喪失と言うのは使い方によれば便利なもので、例えば何か怪しまれる事があっても嘘に嘘を重ねる必要が無い。
 勿論純粋に、何かのショックで記憶を無くし、唯一アトラスのみを覚えていた可能性もあるが。
 一概には言い切れない。そして本人に言われる通りに素直に信じ切れるものでもない。
 見極める必要がある。

 この場合は取り敢えず、人では無い。
 …となると、どれだろうか。
 思考しながら、海浬はテーブル上に用意してあるポットから茶を煎れ、『彼女』に渡す。
『彼女』は湯呑みを受け取りつつ、有難う御座います、と謙虚に礼を言ってくる。
 まぁ、今現在のこの態度程度では、まだ何とも言えないか。
「で、記憶が無いのだとか?」
「…はい。そうみたいです」
 曰く、警備員が言っていた事の繰り返し。アトラスの語しか記憶に無いらしい。
 が、同時に――その語を知っていたからと言って、なればこそ――ここアトラスを見付けてここに来るまでの過程もまた一つの山になるだろう。思い、訊ねたら――それすらわからないとの事。
 ただ、気が付いたら、白王社ビルの前に居たのだとか。
 そこに至るまで自分が何をしていたかすらはっきりしないのだ、と。
 アトラスが何を指すかも確かめる――あろう事か『彼女』はそれすら良くわかっていなかった。月刊アトラス編集部。そこまでは口に出していても、月刊アトラスが――それは何かの雑誌である事は見当が付いていたようだが――それでも具体的にどんな雑誌なのだか、それすら知らないとかで。
 …手近にあったバックナンバーの実物を見せたら、目を丸くしていた。
 その様子には、嘘は見えない。まぁ、ここで『ただ見る』分にはだが。…能力を使って『視る』ならばどう見えるかはわからない。…それは能力を以って直接『彼女』の記憶を視てしまった方が何かと手っ取り早くはあるが、そう容易く使うべき手段でも無い。
 あくまで本人が望むなら。
 思い、その旨直接問うてみた。
 …『彼女』は目を瞬かせている。
 それから、少し胡散臭そうな目でこちらを見るようになった…気がした。
 怪奇雑誌月刊アトラスの編集部と言う場所柄。海浬の卒の無い立居振る舞いとちょっと見掛けないくらいの美貌にオッドアイ。色々相俟って、却って警戒されると言う事も充分有り得る。…例えば、本物の宗教家なら常人離れしたカリスマ性はあるものだろう。ここは、その手の人物に思われてしまったのかもしれない。今時の日本人はその手の事に相対する時、反射的に拒否反応を起こすか盲信するかの両極端になるような節がある。…いや、この『彼女』の底にある文化的素養が日本人に近いと仮定して、だが。
 ともあれ、取り敢えずそんな反応には感じた。…これもまた情報の一つにはなる。
 その時点で、海浬は直接『彼女』の記憶を読むと言う手段は選択肢から消す。
 …ならば地道に行こうか、と考えた。
 海浬はひとまず、偶然すぐ側を通り過ぎようとしていた――偶然近場に居た編集部員をつかまえて確認。何処かで『彼女』に覚えが無いか。問われた編集部員はちょっと考えつつまじまじ『彼女』の姿を見、いやちょっとわからないなぁと返答。それから、『彼女』の方にも確かめる。…今つかまえたその編集部員に見覚えは無いか。無い。そこまで確かめて、そうか、有難う、と海浬はすぐにその編集部員を解放する。
 それから改めて『彼女』を見た。
「取り敢えずは、アトラスに出入りする人間に片っ端から確かめてみるのが一番確実だろう?」
 告げながら、座っていたソファから立ち上がる。
 …切り替えを早く、問答無用で動いた方がこういう場合はスムーズに行く。



■判明?

 …結局、収穫無し。
 先程近場を通り縋った相手だけでは無く、アトラスに出入りしている様々な人間に『彼女』の事を確かめて見はしたのだが、誰からも色よい答えが得られはしなかった。…例えば取材などで『彼女』に話を聞く予定は無かったか、『彼女』を過去に雑誌に載せた事は無かったか等々何でも良いから心当たりは無いか。編集部員にバイトの者、ライターやカメラマン――『彼女』を直接連れ、見て回っても見たが、ごめんわからない、と言う話ばかりで結局変わり映えしない答えばかりが返って来る。
 …今現在この場に居ない者にも訊ねてみたいと考え、編集長のデスクへと向かう。
 それで編集長に――碇麗香に事情を話し、現在この場に居ないアトラス関係者へ宛てたメールを送る事を頼む。編集長ならばその辺の事――関係者の連絡先についてはまず全て把握していて然るべきもので。…それは編集部員が独断で進めている取材の関係者ならばそうとも限らないが――取り敢えず、一番多く連絡先を把握しているのは、まず編集長で。
 勿論まず、編集長である麗香当人にも『彼女』に覚えが無いかは確かめた。
 …結果として、麗香にも覚えは無いらしい。

 パシャ、と海浬の持つ携帯からシャッター音が鳴る。『彼女』から同意を得た上で、カメラ機能を使い『彼女』の顔を撮影。写り具合を確認してから、麗香のパソコンに転送する。
 それで、麗香のパソコンに入っているアトラス関係者の連絡先に、海浬の撮ったその写真を添付した上で、心当たりが無いか訊ねるメールを一括送信。
「…後は結果待ちね。ま、今送ったアドレスで関係者全員になるとは言い切れないけど」
「けれど、編集長ならば大方の人物は把握しているだろう? …確かに編集部員それぞれの伝手のそのまた伝手、とでもなると、また地道に当たってみるしかないが」
 海里がそう返すと、麗香は肩を竦めてそれを受けている。
 と、早々にメール着信が連続した。…今訪ねた件の、返答メール。
 内容を確認する。
 一件目、心当たり無し。二件目も同様。三件目も…そんな感じで、暫く続く。…さすがに反応が早い。
 と、何処からともなく編集部員から声が飛んできた。
「編集長ー、神嶋からその『彼女』の件で電話来てるんでそっちに回しますー」
 言われた直後に、麗香のデスク上にある電話が鳴り出した。
 すぐに取る。
 と。
(神嶋です。編集長、なんで笹島優紀子さんの事訊いて回ってるんっすか?)
 不思議そうな声が受話口から聞こえて来た。



 暫し後。
 電話の主である編集部員、神嶋が、事情を聴くなり本日はオフだったにも拘らず編集部に飛んで来た。
 神嶋曰く、写真の『彼女』の名は笹島優紀子。とある怪奇現象の目撃者として取材をする予定になっていた相手であるらしい。…ちなみに会う約束をしていたのは明日だったとか。
 そんな話を聞きながら、神嶋は記憶が無いと言う『彼女』こと笹島優紀子と顔を合わせてみる。
 が、笹島優紀子の方は――神嶋と顔を合わせても、やっぱり心当たりが無いようで。
 何処からどう見ても「全く記憶にありません」な『彼女』のその態度に、神嶋はがくーんと肩を落としている。反対に、どうやら神嶋の方では顔を合わせた時点ではっきり笹島優紀子と確信したらしい。
「――…いえあの笹島さん僕の事ホントにわかんないんっすか…! ええ嘘コレどうしたら…!」
「…あの…本当に、私に取材の予定なんかあったんですか…?」
「…ええまぁ。某所トンネルに出る幽霊の件でどうも一番確りした話が聴けそうだったんで貴方からもう少しお時間頂きたいって事に…って記憶が無くなっちゃったってんじゃもう話聴けないじゃんそもそも…!」
 科白の後半では殆どぼやきになりつつ、神嶋はがっくりと落ち込んでいる。
 と、その様子を見ていた海浬が――余人に聞こえない程度の声でさりげなく神嶋に耳打ちする。
「君は彼女を『人間』と認識しているか?」
 さらりと確かめられ、え、と神嶋は驚いて海浬を見る。その顔から冗談を言われた訳でも何でもない事を即座に確かめると、はい、とあっさり頷いた。
 …頷かれてしまった。
 そうなると、話がこれで済まなくなる可能性も出て来そうな気がする。ここは月刊アトラス編集部。営業用の作られた偽物から疑う余地の無い本物まで――能力者や人外も多く集う場所。即ち、『本物』に対しての嗅覚は、属性がただの人間であっても相当に鋭い面子が末端まで揃っている事だけは言える。
 この神嶋も、例に漏れない筈。
 …なのに、この反応は。
 明らかな齟齬がある。

 海里にしてみれば、『彼女』は絶対に人間だとは思えなかった――それは基本は、素地は『人間』らしくはある。だがこの『彼女』の場合、ただの『人間』にしては『一人』では無いような――複数が重なっているような明らかな違和感があり、しかも霊的・魔的な負の力を強く――濃過ぎるくらいに感じたのだから。
 …異世界に於ける太陽神である、強大な力を持つ海浬のこの感覚で。



 改めて海浬は笹島優紀子について調べ、確かめる事を選択。神嶋に頼み込み、自宅や家族――笹島優紀子の個人的な関係者に確かめる事まで行う事にした。
 基本の窓口は神嶋編集部員。直接笹島優紀子と面識があったのは彼だけであったので、それが一番妥当と考えた結果。彼に電話を掛けてもらい、今日の笹島優紀子の行動を聞き出してもらう。
 この結果次第で、『彼女』が笹島優紀子本人かどうかを確かめられる筈。
「――…はい? …や、そうなんっすか…? いやはい、はい、わかりました。失礼します」
 そこまで送話口に話した時点で、神嶋は電話を切っている。
 通話していた相手は、笹島優紀子と同居している家族。
「どうだった?」
「…それが…昨日から帰ってないとかで…」
 と、そこで、言葉を止める。
 今の語感からして、神嶋は海浬の意図を察して情報を止めておいてくれたらしい。家族に笹島優紀子の心当たりを――今ここに居る『彼女』の事を伝えてはいない。
 それは、他ならぬ海浬はこの『彼女』を人間と認識していないと神嶋の方でも察したから。そして同時に神嶋自身は笹島優紀子の事を『人間』だと当然の如く認識している――となると、この『彼女』と笹島優紀子は瓜二つの別人である可能性、もしくは同一人物であっても何らかの形で何か怪奇系な「良くない事」に巻き込まれている状態な可能性、更に言うなら――既に何かの被害者になってしまっている可能性。そこにまで考えは至ってしまう。
 そうなると、素直に今目の前に笹島優紀子と思しき人物が居る事を家族に伝えるような真似は、まだ控えたい。
 …君は彼女を『人間』と認識しているか。海浬からのそれだけの確認でそこまで察する辺りは、神嶋もさすがアトラスの編集部員と言ったところである。
 海浬と神嶋は、暫し黙って視線を交わしている。
 先に口を開いたのは、海浬の方――否、開こうとしたのが海浬の方。
 けれどそれを実行する前に。

 ある一点からぶわっと一気に瘴気が湧いた――湧きかけた。
 湧きかけたが。
 殆ど同時に海浬がその一点――『彼女』の手首を掴んでいる――さりげなく、押さえている。
 そのせいか否か、はたまた海浬がそれ以上の事を何かしていたのか――湧きかけた瘴気は、逆回しをするように一気に消え失せた。
 …直接見ていた神嶋以外、周囲の者は何も気付いていない。…気付かないままで、済んでいる。

『彼女』はそのまま動かない。
 すぐ間近で一部始終を見ていた神嶋もまた、瞠目したまま停止している。
 そのまま、暫し。
 …やけに遠くに聞こえる声で、呻くような『彼女』の声がした。

「どうして…?」
 貴方は今、私が何をしようとしたのかわかっていた。
 わかった上で、ただ止めた。
 …周囲に影響を及ぼさないように気を遣った上で、私に危害を加える事も無く。
 そこまで含み、『彼女』はただ、問うてくる。
『彼女』はそれ以上、動こうとはしていない。
 今の一瞬の遣り取りで、賢明にも自分では到底海浬には敵わない、と判断したらしい。
 それがわかった時点で、海浬もまた『彼女』の手首からあっさり手を放している。
「荒事は苦手でね」
「…」
「それに君は、本当は『やりたくなかった』ように見えたんだが、俺の勘違いか?」
 と。
 言った途端に『彼女』は弾かれたように海浬を見る。
 その反応を認め、海浬は続けた。
「俺たちが君の正体について怪しんでいる事に気が付いて、先手を打とうとした。つまり君はそのくらい隠密裏にここに来たかった――ここに居たかった。それが叶わなければ――ただ、ここを乱す事を、出来れば壊す事を求められた。それが最低限の仕事。そんなところか」
「――」
「君が何者か。教えてもらえるか?」



 …案外、素直に話し始める。それは海浬が言った事が図星だったから、なのかもしれない。図星ならばこの時点で既に失敗、もう隠す意味は無い。『彼女』の方では海浬が居る限りは力尽くでももう何も出来ない。その自覚はある。
 曰く、この『彼女』に記憶が無いと言うのは、半分正しくて半分間違っているらしい。…少なくともアトラスしか記憶に無いと言うのは嘘だとの事。
 …『彼女』の名前は、ククラ。
 人外の生体学を研究している者に造られた、改良型の霊鬼兵であるらしい。
 造られた理由は、その研究者にある筋から依頼があったから、だと言う。
 そしてここアトラスに『彼女』が記憶が無い者として訪れたのは、その依頼主の意向になる。…アトラスに潜入し、何らかの形でアトラスに打撃を与える事。どんな形でも構わない。単純に物理的にでも、記事の信憑性のような側面からでも。ともかくアトラスに対しなるべくなら大きい打撃を与えられるよう精神面の核の部分に刷り込まれた上で、それまでの殆どの記憶が――特に依頼主に関する記憶は消された、らしい。
 結果、依頼主に関する記憶は、全く無いらしい。
 記憶しているのは、自分を造った研究者の事と、そこから依頼主の元に譲渡された経緯、具体的な『仕事』の内容くらい。造られる以前の記憶については元々存在しない可能性が高いと『彼女』――ククラの方でも自覚している。
「――…私を作った研究者は、速水と…速水博士と言います。博士は…私を造る時、特に人間を模す事を第一に目指しておられました。それが依頼主に望まれたのだと。そしてそれが――博士の目的とも合致した為に、私が造られたとの事なのです」
「人間を材料に使った霊鬼兵で、人間を模す事が第一義とは本末転倒だと思うが」
「私を構成する組織体に人間は使われておりません」
「なに?」
「人に近い形の人外の者を複数使用して、実際の人間を――ここアトラスに関係する、けれど怪しまれない程度に関係性の薄い人間をモデルに、人型の霊鬼兵を造ったような形になります」
「…じゃあ、笹島さんは…!?」
 と。
 神嶋が声を荒げたその時に。

 …神嶋の携帯に電話が掛かってきた。

 液晶を確認。
 …笹島優紀子。
 相手がそうだと確認した時点で、神嶋は思わずククラと海浬の顔を見る。察して頷く海里。神嶋はすぐさま電話に出た。と――取材の約束って明日じゃありませんでしたっけ、何かうちの親がさっき連絡もらったとかで…と、恐る恐る神嶋の様子を窺うような、ごくごく普通の、何の問題も無いような自然な態度が受話口から聞こえて来た。
 その時点で、神嶋は脱力する。…いえ何でもないです無事ならいいんです。また明日宜しくお願いしますねとそれだけ告げ、早々に通話を切った。
 それを見て、ククラは不思議そうに小首を傾げている。
「どうかしたのですか?」
「…や、…もう何でも良いっすよ…」
「つまり笹島優紀子さんは無事だった、と言う事だな」
「ええ。取り越し苦労で済んで何より…となると…ククラさんでしたっけ? 貴方これからどうするんです?」
「…」
 確かに。
 話を聞くに、殆ど捨て駒の扱いにされているような気がする。
 と、思った通り、そう訊かれた途端、ククラは途方に暮れたような顔をした。
「どうしましょう…」
 …そのククラの表情は、先程、アトラスに来たばかりの時と全く同じ。
「…」
「…。…つまり結局、スタートラインに戻ったような感じじゃないか?」
 事の始まり一番初め、警備員が彼女を連れて来た直後と。
 …素性は知れたが、どうやら彼女には結局行き場は無い。そして元々大した記憶は無い訳で。
 と――だったら、ここに居たら? と少し離れた位置から艶やかな声がした。
「うちは人手なら大歓迎だもの。工作の為に送り込まれたのならそれなりの手腕もあるって事でしょ。ま、少なくとも三下よりは役に立つでしょうし。…ただ、ちゃんとうちの者として――その傍迷惑な依頼主とやらの命令は破棄してうちで働いてくれるって保証は事前に欲しいけど」
 麗香。
 三人の元に来ながらあっさりと言ってのけ、ククラと海浬を意味ありげに続けて見る。
 見られた二人は、顔を見合わせた。
 麗香が求めている事。
 …ククラの言に嘘は無いかの確認、と言う事だろう。
 そしてククラの方としては、海浬になら直接記憶を見てもらうと言う事が可能だとは先程聞いている――麗香の求めている事を証明する術ならある訳で。
 納得したように一度軽く頷いてから、ククラは海浬にぺこりと頭を下げている。
「…宜しくお願いします」
「了解した」
 海浬もまた、頷き返した。



 で。
 海浬が能力を以って改めて直接記憶を読んだ結果は、ククラが事前に話した通り嘘は無かった。
 その上で、ククラは依頼主の依頼の破棄を約束――と言うかどうやら失敗となった時点でその先の命令は何も無い状態だったので本気で途方に暮れていたらしい――、宜しくお願いしますと麗香に頭を下げている。
「じゃ、決まりね」
 あっさりと麗香はそう言い、じゃ、早速だけどとククラの手を引いて行く――行きながらもう何やら原稿らしい物を示しつつ、話をしている。
 随分切り替えが早いな、と海浬は思う。
 要はテロ未遂だったと言うのに。
 …と、神嶋がぽつりと呟いた。
「編集長も心当たりあったからじゃないっすかね」
「…狙われる心当たりがか?」
「ええ。ちょっとした問題起こしてるヤバ系の宗教家を先日アトラス本誌でやっつけちゃいまして…結果的に殆ど社会的抹殺状態まで追い込んじゃったんですが…以降、時々『本物』を使った嫌がらせがぽつぽつと」
「…今回のククラの件もそれと感触が近いって事か」
「そうなんっす。詰めが甘くて何処か自暴自棄っぽい作戦、なところまでしみじみそんな感じで」
「…。…何にしろ、彼女が君の同僚としてこれから真っ当に生きていければ何よりだろうが」
「そうっすね、根はいい子っぽいですし」

 例え、人外の組織体で造られた霊鬼兵もどきであっても。
 ここ月刊アトラス編集部ならば――そんな素性は究極的には何も関係無くなって来るのだから。

【了】


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    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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 ■整理番号/PC名
 性別/年齢/職業

 ■4345/蒼王・海浬(そうおう・かいり)
 男/25歳/マネージャー 来訪者

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 …以下、登場NPC(□→公式/■→手前)

 ■ククラ/人外の体組織だけを使い、より人間らしくする事を重視した改良型の霊鬼兵もどき。

 ■神嶋/月刊アトラス編集部員
 ■笹島・優紀子/神嶋の取材相手。彼女をモデルにククラが作られた。

 □三下・忠雄/月刊アトラス名物編集部員
 □碇・麗香/月刊アトラス編集長

 ■速水博士(名前のみ)/ククラの造り主らしい。

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          ライター通信
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 いつもお世話になっております。
 今回は発注有難う御座いました。

 内容ですが…頂いたプレイングとにらめっこしていましたら、今回はテロ未遂な感じに話が転がっておりました。記憶が無かった彼女の正体はそんな方向で。…描写PCが蒼王海浬様だったので、あまり大事にならない内に円満解決にして頂けましたが。
 書いてみてふと思った事は…アトラスではこの程度の…一歩間違うと凶悪事件になるだろう事件が事前に潰されて未遂で終わる事はよくありそうかもしれないなぁ、としみじみ…。
 ともあれ、如何だったでしょうか。

 少なくとも対価分は満足して頂ければ幸いなのですが。
 では、また機会がありましたらその時は。

 深海残月 拝