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星の広がる夜空に
「病気の原因?」
「ええ。ただの風邪だと聞いていますが、本当にそうなんですか?」
俺は怪訝そうに眉を顰める園長に、あくまで真面目に問いかけていた。
既に外は暗くなり、動物園内を散歩していた常連客達も引き上げている。スタッフも半分以上が帰宅しているため、この園内にいるのは、経理作業に追われて残業をしていた園長と宿直を買って出た俺ぐらいだ。
「どういうことかね」
「いえ、杞憂なら良いんですけど、あのパンダは最近になって飼育を始めたんですよね?」
「ああ。そうだが」
「あのパンダなんですが、感染型の病気に掛かっているようなんです。体温や発汗、目やになどから感染を推測出来るんですけど、まぁ、大した病気じゃありません。ただ、この病気は人間にもすぐに広がる物で、一応の確認を」
「な!? そ、それは一大事だが‥‥‥‥きみは大丈夫なのかね?」
「ええ。私のようなパンダ専属の飼育員は、定期的に予防接種を受けているので、大丈夫なんです。ですが、ここの飼育員の方々は予防接種を受けていないようですから‥‥‥‥もしかすると、パンダの相手をしていた飼育員の方は、パンダの病気に感染してしまったのかも知れません。そうなると、動物園から広がった感染症が世間に広がっていくことになります」
「それはまずい」
「そう、まずいんです。本当にただの風邪なのかも知れませんが、どうでしょう? 念を入れて、健康診断を受けて貰っては。簡単な血液検査でも、異常だけはわかります。簡単な診察だと風邪と診断されて終わりですから」
「うぅむ。分かった。すぐにでも連絡を取っておこう。しかし、検査には時間が掛かるだろう?」
「私の出張が長引くだけです。一週間ぐらいですか‥‥‥‥それでも、この動物園絡みで問題が起こるよりかはマシでしょう?」
「そう言って貰えると助かるよ」
園長はそう言い、急いで携帯電話を取り出した。すぐ側の執務机に電話が置いてあるのだが、それを取らなかったのは内心の焦りか、番号を記録してある携帯電話の方が速いと判断したのか‥‥‥‥
まぁ、どちらでも良い。
言いたいことを伝えた俺は、早々に園長室を後にした。
季節は冬。日が落ちた途端に気温を低下させた園内は、冷たい風に吹かれている。所々に設置された街灯が点々と光り輝いているが、動物達の睡眠を妨害しないようにとその輝きも控えめだ。
しかし足下が見えないと言うほどではない。俺は迷うことも蹴躓くこともなくパンダを飼育している厩舎に歩き、スタッフ出入り口の扉を開けた。扉のすぐ脇にあるスイッチを入れ、明かりを点ける。明かりに照らされて瞬く間に姿を現したのは、簡素な調理場に本棚、冷蔵庫、テーブル、洗剤や未整理の清掃用具が置いてある。
数時間前まで飼育されているパンダに付いて調べ回っていたため、部屋の中央に置かれているテーブルの上には十数枚の紙資料が散乱していた。
‥‥‥‥それは良い。資料を用意したのは俺だし、これから片付けようとしていたところだ。
問題があるとすれば俺の足下。
人間の子供よりも少しだけ大きい、それぐらいのパンダが一頭、「むー」と力無く唸りながら座っていた。
「‥‥‥‥お前かよ。何でこんな所に‥‥‥‥」
キィッという音が聞こえ、顔を上げる。
見ると、本来パンダが居るはずである檻に続く扉が開いていた。蝶番がキィキィと音を鳴らして揺れている。再びパンダを見ると、気まずそうに顔を背けた。その仕草は悪戯が発覚した子供を思わせる。実に人間的な仕草だった。
‥‥‥‥それも当然と言えば当然か。
何しろ、このパンダは、元は人間だったのだから。
「みなも。もしもここに入ってきたのが俺じゃなく園長だったら、どうするつもりだったんだ?」
「う‥‥だ、大丈夫‥‥‥‥ですよ」
パンダのフリ(フリも何も、実際にパンダなのだが)をして押し通せると、海原 みなもは顔を背けたままで言う。恐らくは俺が帰ってくるのを待ちきれなくて、こっちの部屋にまで来てしまったのだろう。もしくは明かりが恋しくなったのか。しかし電灯のスイッチは背の高い場所にあり、パンダとなったみなもでは背伸びをしても届かない。
みなもという少女は、パンダへと変貌してしまった自身の体を忌々しそうに見つめ、溜息混じりに頭を下げた。
「ごめんなさい」
「分かればいい。人間に戻れるまで、こっちには来るなよ」
俺はそう言い、テーブル前の椅子に座り込んだ。
「それで、あの‥‥‥‥」
みなもが怖ず怖ずと口を開く。俺は溜息混じりに答えてやった。
「目論見通り、園長には話を付けてきた。簡易にでも病院で検査を受けて貰えば、結果が出るまで一週間はかかるだろう」
「やった!」
「まだ安心は出来ない。実際にはただの風邪なんだろうから、検査の結果が出たらすぐに戻ってくるだろ。それまでに人間に戻れなければゲームーバー‥‥‥‥」
言いかけ、俺は「うん」と頷いた。
「戻れても、この動物園から逃げ出せなければ同じ事か。一応檻の中だしな。もしもお客の前で人間に戻ったりしたら、さすがに弁解のしようもないし」
動物園の白昼、お客の前でパンダが人間に変身するマジックショーの開幕だ。
お客の前ですっぽんぽん。あまりの光景にトラウマになること間違いなし。
「うぅ。そんなこと言わずに、助けて下さいよぉ」
「分かってるよ。乗りかかった船だ。明日にでも病気療養のためとか言って、公開停止を提案しておく」
俺はそう言い、資料を片付け始めた。
園長には、パンダに関しての専門的な知識がない。感染症の疑いのあるパンダ、しかも予防接種を受けているのは、この動物園では俺だけだと言ってあるのだ。他の飼育員を遠ざけることも、さして難しい話ではない。
しかし、そんなことをする原因となった現象を解決するのは難しい。
何しろこのパンダ化を解除する方法は、魔法使いでも手品師でもない俺には、手も足も出ない問題だったからだ‥‥‥‥
●●●●●
数日前、俺はこの動物園に呼びつけられた。
この動物園でパンダの飼育員をしていた男が、風邪をこじらせて数日間休むことになったらしい。そこで、俺に臨時の飼育員として出張してきて欲しいと言うことだ。
飼育の難しい動物なのだから、担当を数人は付けろと憤りを感じたが、しかし断るわけにもいかない。何しろ、依頼は俺に直接来たわけではない。俺が務めている先の園長が俺に「行け」と命令してきたのだ。
雇われの身である以上、まさか社長クラスと言っても差し支えない園長の言葉には逆らえず、こうしてで張ってきた次第である。
気乗りはしなかったが、仕事は仕事だ。きっちりとパンダの世話をしながら、俺はこの動物園で数日間を過ごすことになった。
のだが、事はそれだけでは終わらなかった。
初日の夜、パンダについての資料や飼育日誌の類はないかと調べ回った。
「タスケテ‥‥・」
そんな時だ。
パンダは、俺の足下でそんなことを口にした。時間帯が深夜だったんで、本気で浮遊霊でも憑依したのかと勘ぐったほどだ。俺は冗談交じりに檻からパンダを解放して足下を歩き回らせていたことを後悔し、びびって壁際に追い詰められてしまった。
「タスケテ」「たすけて」「助けて」と繰り返すパンダ。俺はパンダに近付かないように言い放ち、代わりにパンダから身の上話を聞かされたのだ。
‥‥‥‥辿々しい声は、まだ少女の物だった。聞けば歳はまだ十三歳。そんな少女を雇い入れるなど、法律的に許されるのだろうかと疑問に思う。だがそんなことを気にしている余裕は俺にはない。目の前に人語を解し、喋っているパンダがいるのだ。そんな状況で平静でいられるほど、俺は精神的に出来てはいなかった。
海原 みなもと名乗ったパンダは、自分の身の上話を一通り話、この動物園での出来事を語ってくれた。
しかし、だからと言って、それを全面的に信用することなどとても出来ない。例え目の前に生きた物証がいるとしても、喋るパンダの話を簡単に信じてなるものか。
「‥‥‥‥まぁ、話は分かった。で、どうしろと?」
ジリジリと迫り来るパンダを牽制しながら、俺はテーブルの上からパンダに言う。
「たすけてください」
パンダはそう言いながら、テーブルの縁に手を掛けて頭を出している。背が低いため、両脚立ちになってもテーブルの上に顔を出すのが精一杯だったのだろう。平常心で見れば非常に可愛らしい仕草だったのだろうが、俺にそんな余裕はない。
そんなパンダの行動が、俺の精神を追い詰める。
正直に言うと、俺の方が助けて欲しかった。
「いや、だからどうしろと?」
「にんげんにもどりたいんです」
「方法を提示してくれよ。あとこっち来るな」
「たぁ、すぅ、けぇ、てぇ、くぅ、だぁ、さぁ、いぃ、よぉ」
「こっちに来るな! テーブルに乗るな! お、俺の傍に近寄るなぁ!!」
‥‥‥‥これまで、数々のパンダを抱き抱えてきた俺からしてみれば、どうしてあそこまで怯えてしまったのかは分からない。ただパンダが近付いてくる。それだけなのに何故か怖い。人語を解するからとか、そう言う事とは、別の次元の問題だ。
今にして思えば、パンダと化したみなもにとっては、俺は唯一の希望だったのだろう。自分が助かるかも知れない。その可能性を持っているのは俺だけだ。だからこそ、必死になって俺に迫った。再び体を乗っ取ろうとするパンダの野生を遠ざけ、俺の説得に掛かったのだ。
しかしその必死さが、異様な気迫となって俺を威圧していたのだ。何というか、イメージ的にはストーカーが「ねぇ、私のこと、好きでしょ?」とか言いながら包丁もって迫ってくる感じ。「お前の意思なんて知らない。頷かなかったら刺し殺すぞ」とばかりに有無を言わさぬ迫力があったのだ。
俺にしてみればゾンビが迫ってくるぐらいに怖かったのだが、涙目でみなもの言葉に頷き解放されても、不思議と園長達に報告しようとは思わなかった。パンダが喋ったなど信じて貰えないとも思ったのだが、何よりもパンダの話が本当だったのならば‥‥‥‥という可能性が、俺の体を押し止めたのだ。
そして動物園に来て三日目には、自分から積極的にみなもを人間に戻そうと行動を開始した。
理由は‥‥‥‥ああ、何というかな。別に同情したわけではない。
強いて言うなら、みなもの声が可愛かったからだろうか。
このパンダの少女を元に戻した時、どんな女の子が出てくるのかと期待したんだ。勿論、その先に恋愛絡みのイベントなんて期待してはいない。中学生の女の子と付き合ったりしたら間違いなく犯罪だ。そんな不名誉な前科を持つぐらいなら、パンダを一頭、失踪させた方がずっとマシだ。
つまりは、完全に興味本位で手助けをすることにしたのだった。
「あまり、期待はしないでくださいね」
俺と話すようになってから三日目の夜。俺が協力する理由を話すと、みなもは苦笑しながら(表情などあまり変わらないのだが)そう答えた。人間だったのならば、きっと頬は薄いピンクに染まっていただろう。それが見られなくて、少しだけ残念だ。
四日目。俺はまず、みなもが提出したであろう履歴書の写真を探すことにした。
●●●●●
そして五日目から、みなもはお客の前から姿を消した。
いや、心配しないで欲しい。みなもは無事だ。別に怪我をしたとか、本当に病気になったとか園長にばれて隔離されたとかそう言うわけじゃない。
みなもは日に日に人間に立ち戻っているようだった。人間との会話、つまりは俺との会話が、みなもを段々と人間に戻しているらしい。人間が動物に変身するような現象はインターネットで検索したところで見付からなかったが、それでも催眠術を解く方法とかなら見つけることが出来た。ようは、暗示の類だと思うのだ。みなもの変身は。ならば目を覚まさせてやればいい。俺はそう思って、まずみなもに“自分が人間である”という確信と感覚を呼び起こしてやることにした。
そんな段階を踏むのに、みなもをお客の前に晒しておくのは良くない。ガラス張りの檻は、嫌でもみなもがパンダなのだと言い聞かせてくる。
だからこそ、俺はみなもを客の前から遠ざけた。
前もって「あのパンダは伝染性の病気なのだ」と言ってあったので、園長も二つ返事で了承してくれた。例え伝染性でなくとも、動物は人間の視線に非常に敏感で、慣れていても少なからずストレスを受けている。多くの動物は、病気で弱っていたりする時に大勢の人間に見つめられていると病状を悪化させてしまうのだ。客から遠ざけて隔離するのは当然の処置である。
この厩舎には予備の檻がない。普通は夜には予備の檻に移してから眠らせるものなのだが、それがないため、仕方なしにガラスの一部を暗幕で覆い隠すことにした。およそ人間の視界としては高すぎる二メートル強まで暗幕で覆い、お客からの視線を完全にシャットアウトする。
「にしても、結構器用だよな。お前」
俺はみなもに話しかける。
この檻は、外からの声は聞こえても、中からの声は外に届かない。空気を入れ換えるための穴は天井付近に空いてるのだが、そこから漏れ出る声は風邪に掻き消されて消えてしまうのだ。
みなもが助けを求めたとしても、誰も気付かないようにと設計したのだろう。俺が初めてみなもと出会った時、声はか細い弱々しいものだった。大声で叫ぶことすら出来ないみなもでは、外のお客に呼びかけることは出来なかっただろう。
「そうですか? 慣れれば、結構動くんですよ」
しかしそんな声も、今では普通の人間の口調と何ら変わらない。
人間との会話、それが効果を発揮しているのだと確信出来る要素だ。最初のか細い辿々しい口調が、人間だった時のそれと変わらない。長く話し続ければ続けるほど、みなもの口調は流暢なに変化していく。
だが会話だけでは、それが限界なのかも知れない。
だからこそ、俺はより人間らしく近付けるように、みなもとゲームをすることにした。
「その細い爪で、まさか将棋なんて出来るとは‥‥‥‥もう、パンダで良いんじゃないか?」
「絶対に嫌ですよ!」
「人間同様に話して、遊んで、食べて、後は自由に動き回れていたら問題はないな」
「パンダのままで生きたくないです」
「そうか? 子供には大人気だぞ」
「見せ物になるつもりはありません!」
パチンッ! と、みなもが細い爪の先に挟んでいた“金将”を俺の王の傍に打ち込む。ぐっ、それは俺から奪った四枚目の金さんじゃないか。おのれ金さん、裏切ったな。
「ま、この分なら、そう長くは掛からないかもな‥‥‥‥」
こうして遊んでいるだけでも、みなもは少しずつ人間に立ち戻っているのだと実感出来る。尤も、その実感が本格的に確信出来るのは翌日になってからだ。どうも、みなもの変身は眠っている間に行われるらしいから、今日の結果は明日待ちだ。
「明日になったら、顔だけが人間になってたりしてな。もう妖怪としか思えない」
「そんなことになったら、本気で引き籠もりますからね」
パチンッ! 一際高い音。爪が弾いているのか、それとも将棋に熱が篭もっているのか‥‥‥‥たぶん後者だ。ぬぅ。“銀将”よ、お前もか。つーか“金”も“銀”も“桂”も“角”も“飛”も“歩”の大半を取ってるんだから、マジ、もう勘弁して下さい。いっそ詰んでくれ。
「降参は無しですよ?」
「なら、敗者を虐めんなぁ!」
「うきゃぁ!」
将棋盤ごと、みなもの体を転がしてやる。
みなもの体は、本物のパンダよりもパンダらしく、コロコロと丸く転がっていった‥‥‥‥
●●●●●
そして更に五日、俺がこの動物園に来てから十日が経過した。
三日目か四日目に、前任の飼育員に検査を受けるように伝えておいた。もうそろそろ結果が出る頃だろう。期限が来た場合、俺は問答の余地もなく追い出される。園長に直談判したところで意味がないだろう。みなもを病気の理由で隔離してから、既に五日が経過した。園長も薄々は俺の嘘に気付き始める頃だ。
俺は、日常通りにパンダの檻で一日を過ごす。最近は弁当を持ち込み、この檻に籠もりっきりだ。勿論弁当は二人前。俺だけでなく、みなもも人間と同じ食料を食べられる。
「もう少しだな。上手く行けば‥‥‥‥明日の朝か」
「今のままでも、外には出られますよ」
夕刻。俺とみなもは、檻の中で話し合っている。
みなもの体は‥‥‥‥なんと、既に九割方が人間のそれに戻っていた。
年相応に細い体には、幸いにもぶくぶくに太っていた痕跡などどこにもない。髪も元のロングヘアーに変化し、白黒の毛皮に覆われていた肌も、俺よりも遙かに白い人間のそれに戻っている。手足も、慎ましい胸も人間らしい。うん。朝早く様子を見に行って良かった。眼福眼福。
‥‥‥‥鉄拳は喰らったけどな。
今は俺がこっそりと調達してきた、予備の作業服を着ている。下着はコンビニで購入した安物。店員の冷たい視線が、今でも頭から離れてくれなかった。
まぁ、そんな感じで人間に戻っているのが九割方。
残っているのは‥‥‥‥
「そのパンダ耳と、尻尾を隠すことさえ出来ればな」
「何でこれだけ消えないんでしょうね?」
頭とお尻に残るフワフワもさもさの丸い尻尾と耳は、触っていて心地良い。見ているだけでも微笑ましいのだが、これは正直、その、悪い冗談だ。どんなコスプレ少女かと。街中を歩けば間違いなく人目を惹くことだろう。
だが幸いにも、今は冬場だ。帽子とコートで隠してしまえば、どちらも問題はない。俺と過ごした一週間弱の時間でここまで人間に戻ったのなら、あと一日か二日で、耳と尻尾も消えるだろう。
つまり、やろうと思えばいつでも脱走出来る段階だ。問題があるとすれば、園長やスタッフがこの檻に来た場合だろう。既にパンダと呼べる動物はこの檻の中には居ないわけだから、見に来られた場合は言い訳のしようがない。
「もう良いだろ。今夜にでも、この檻から出ろよ」
俺としては、ここまで戻ってくれれば十分だ。むしろこれ以上ここに止まることの方が難しく、危険だ。誰かに一目見られた時点で終わり。みなもは再び監禁され、俺は‥‥‥‥どうなるんだろうか。最悪の場合、東京湾に沈められるのかも知れない。良くてもパンダの仲間入りか。それは御免だ。俺の保身のためにも、みなもには早々にここから出ていって貰わなければならない。
「でも、それだと‥‥‥‥」
みなもは、心配そうに俺を見つめてくる。
朝、檻を見るとパンダがいなくなっていた‥‥‥‥これは間違いなく事件だ。何しろ、パンダとは世間一般に知られているよりもずっと凶暴な動物だ。飼い慣らされている動物なら、一見すると大丈夫だと思われる。しかし忘れてはならない。飼い犬でも人を、飼い主を食い殺せるのだ。
他のスタッフから見れば、俺はそんなパンダを逃がした張本人だ。当然非難されるし、俺を雇ってくれている動物園にも居られなくなるだろう。良くてもクビ。最悪は犯罪者だ。
‥‥‥‥尤も、そうならない可能性もある。何しろ、事件にすれば当然パンダの素性も調べられる。そうなってから困るのは動物園側だろう。俺が見逃される可能性だってある。
「俺のことを気にしてる場合か? それとも何だ、お前は俺を道連れにしたいのか?」
リスクを背負わせるだけ背負わせ、何の成果も残さずに消える。それは、俺が最も許せない行為の一つだ。成果を残せるのならば残すべきだし、まして他人にリスクを背負わせたのなら、せめて初志は貫徹するべきだ。そうでなければ、犠牲‥‥この場合は俺か‥‥になった者が報われない。何のためにここまで来たのだと、そう叫びたくもなる。
だからこそ、ここでみなもに迷われては困る。
「人間に戻りたい」と、みなもは俺にそう言った。俺はその意志に従った。そうして人間に戻ったのなら、その成果を残すべきだ。断じて、その成果を“無”にするような行動は許されない。
「ここまでやったんだ。もう、家に帰れ。反論は許さない」
「あなたはどうするんですか?」
俺を踏み台に、みなもは必ず家に帰らなければならない。そうしなければ、何のためにここまで‥‥‥‥ん? 俺はみなもと会話をしながら、遊びまくっていただけじゃないのか? 将棋にチェスにトランプ携帯ゲームに読書会、カラオケが出来なかったのは残念だが、基本的に遊んでいただけだ。まぁ、それで元に戻れたんだから、結果的には良いことなんだろう。
それはともかく‥‥‥‥
迷うのもいい加減にしなさい。
「俺は俺で何とかする。本当に、迷うのもいい加減にしろよ。人の心配なんぞしているからこんな事になるんだ」
「それは‥‥‥‥あ、あなただって同じじゃないですか!」
「別に心配してやったわけじゃないし、俺とお前とでは何もかも全然違う。俺は自分でお前を見て、聞いて、考え、そして自分で判断した。お人好しが。お前と一緒にするんじゃない」
自分で考え、依頼を受けるか否かを決定した飼育員。
厄介事を押し付けられ、気が付いたらのっぴきならない状況に陥っていた海原 みなも。
勿論、問題が発生した時に後悔するのはどちらも一緒だ。だが、その状況に至る経緯はまったく違う。みなもの状況には、自分自身の意思が介在しない。ただ反射的に、あるいは本能的に、状況に流されてトラブルに見舞われる。相手を疑い、拒絶することが出来ないからこそ、みなもはこんな事態に追い込まれた。
‥‥‥‥飼育員は、自分で考えろと言う。
受けるか、受けないか。信じられるか、信じられないか。
時には受け入れ、時には拒絶するべきだ。何もかもを受け入れる。そんなことは、自分にも相手にも優しいとは言えない。厄介事は自分で解決してこそ力になるし、厄介事を受け入れ続けている限り、みなもは必ず破滅する。そう、飼育員は確信を持って言い放つ。
「この一週間、話し続けていて分かったことがある。お前は、自分よりも他人を高いところに置いている。俺はそれが許せない。他人を救うために自分を捨てる? 一人救うのに一人犠牲になってどうする。それじゃ、誰も救っていないのと同じだろ」
「そんなこと!」
ない、とは言えない。
みなもがパンダに変化したことで、パンダになる筈だった誰かが助かった。一人の犠牲に、一人の救い。無論、みなもは進んで犠牲になったわけではないが、ここで飼育員を見捨てずに檻に残ればそうなるのだ。
みなもは、もっと早く気付くべきだった。
自分がここを出ると言うことは、自分を救ってくれた飼育員を見捨てることになるのだと。
「俺は誰にも助けを求めない。お前が俺を助けようとか思っても、それは余計なことだ。つうか、犠牲になる気なんてハナからないんだよ。いくらでも言い逃れてみせるさ。動物園で動物が脱走するなんて、別に珍しい話じゃないんだぜ?」
それは本当。
いや、事件になるほどの脱走は簡単には起きないが、小さな動物達は案外逃げ出すものだ。言い訳などいくらでも立つ。
しかし、そこにみなもが居られると邪魔なのだ。
みなもの顔を見れば、みなもが脱走したのではなく人間に戻ったのだと気付かれる。そうなれば元の木阿弥。みなもは檻の中に戻されるだけだ。みなもに出来ることなど、何もない。
「俺はもう行くぞ」
みなもに反論など許さない。
この一週間以上の時間を共にしてきて、短時間ながらも性格は把握できた。この少女は優しいせいか、押しに弱い。俺はその性格に付け込み、有無を言わせずに行動選択の余地を削いでいく。突き放して突き放して、「手を出すな」と言い含めれば、この少女は諦めてくれるだろう。
背を向け、俺は檻から出て行く。
鍵は掛けない。扉も閉めない。開けっ放しにしていれば、中の動物が逃げ出したとしても誰も疑わない。
外に出て、俺は空を見上げた。みなもと話し始めたのは紅く染まり始めた頃だったが、この季節、そんな時間は十数分で闇に落ちる。既に星は広がり、園内の電灯が点き始めた。既に閉園時間を過ぎているため、お客の姿はない。飼育員達も、もう間もなく帰宅していくことになるだろう。
‥‥‥‥さて、園長に、パンダは病気から復帰したと言っておこう。元気になったと言っておけば、勝手に出て行ったとしても疑われないからな。
「あの!」
背後から声。振り向く。そこには、変わらぬ人間の少女が居た。
「ありがとうございました!」
少女は、頭を下げた。
(ああ、なるほど)
俺は少女を見て、小さく頷いた。
この少女の、この姿を見たかったんだ。
履歴書の写真を確認したあの時から、ずっと‥‥‥‥
翌日、檻からパンダがいなくなった。
俺は園長から大目玉を食らい、結局飼育員を辞めざるを得なかった。が、不思議とこの出来事は警察には届けられず、動物園の人気者だったパンダは、病気療養のために中国に帰ったことになったらしい。どこの芸能人だ。俺は動物園を後にして溜息をつく。
「さぁて。これからどうするかね」
この就職難の最中、手に職がないのは痛すぎる。早々に次を見つけるとしよう。
出来ることなら、俺とあの少女の人生が、今後交差しないことを切に願う。
だって、ほら‥‥‥‥
あの子のことだ。俺の話を聞けば、きっと責任を感じちまうだろうからな。
それに何より、俺が照れ臭い。こう言うときには、男はクールに去るもんだ。
「まずは、ここから離れるか」
一歩、俺は新たな世界に踏み出した。
Fin
●●あとがきのようななにか●●
ようやくハッピーエンドを向かえてホッとしているメビオス零です。
長かった。三度目の正直と言いますか。みなもさんも自分から納得して外に出て行きましたし、飼育員も大事には至らずに動物園を去りました。自分が知らない間にパンダを取り上げられた前任の飼育員は泣きを見ましたが、それはそれ、因果応報。報復されなかっただけマシですよ。
きっと、みなもさんはこの後、パンダ耳と尻尾に悩まされながら生きていくのでしょう。え? 元に戻るんじゃないかって?
ふふふ、それはあくまで、飼育員とみなもさんの推測です。実際にそうなるとは限らない。九割が人間に戻ったんだからと言って、残りの一割も戻るかどうかは、戻ってみないと分からないのですよ。箱を開けなければ生きているかどうかも分からない猫のように、ね。
べ、別に私が獣耳好きだからとか、そう言う事じゃないですよ! そんなんじゃないんですからね! 本当だよ! 尻尾好きだけど!
‥‥‥‥どうでも良いことだ。ちらっと本音が出ましたけど気にしないで。
では、この辺で。
この度のご発注、誠にありがとう御座いました。
今回の作品はいかがでしたでしょうか? 飼育員視点というのも面白くて熱は入ってしまったのですが、ご満足頂けたら幸いです。
またご意見、ご感想、ご叱責、ご指摘などが御座いましたら、是非ともファンレターとしておくってくださいませ。いつも読んだ後、大切に保管させて頂いております。
では、改めまして、今回のご発注、誠にありがとう御座いました(・_・)(._.)
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