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絶望への救済
目前には薄暗い観客席。
思い思いに席に座る来客達は、一様にしてスーツやドレスに着飾り、小さなホールを埋め尽くす。それはまるで、映画で見る貴族達のようだった。豪奢に飾られた劇場に名俳優達を惜しみなく動員した歌劇。それを静かに優雅に眺める、別次元の住人。
目に映る人々は、別の世界の人々のようだった。
(誰か‥‥助けて)
訴え、そして涙する。
誰も自分には気付かない。誰にも声は届かない。
これほどまでの人々が、舞台の上の自分を見つめている。だと言うのに、誰も自分のことには気が付かない。
‥‥‥‥何という矛盾。
見つめられているのに、誰も見ていない。照明に照らし出され、煌々と輝く自分に目を光らせながらも、その視線は人間を見るそれではない。まるで他人のコレクションを羨むような、羨望と嫉妬の念。そしてそれを手に入れようという欲望。私の身体を見つめ、苛立たしく眉を顰める女性。欲情し薄ら笑いを浮かべる男性。視線からだけでも、私はそれを嫌と言うほどに感じ取っていた。好奇の視線は蛇のように身体にまとわりついてくる。羞恥に目を閉ざす。しかし閉じない。意思は確かに目を閉じようとしているが、固まった目蓋は瞬きすらもしようとはしなかった。
「それでは皆様! この麗しい少女に相応しい評価を下してくださいませ!!」
耳元で誰かが叫んでいる。違う。これはマイクを使ってお客に呼びかけている声だ。
それに合わせて、それまで好奇の視線を向けるばかりだった観客達は急変する。それぞれに熱気を孕んだ空気を纏い、次々に手を挙げていく。百万、二百万。誰かが数字を読み上げる。私には何もかもが分からない。ただ混乱して、目前の出来事から目を背けたくて身体を捩る。それも出来ず、私は瞬きもせずに、私を見て声を張り上げる誰かを見つめている。
(誰か‥‥‥‥)
折れそうな心を繋ぎ止める。きっと、誰かが助けてくれる。友達も助かる。だってこれは夢だから。悪い夢は醒めるから。私は大丈夫。きっと大丈夫。これが夢の中なら、私がピンチになったら誰かが助けに来てくれるはず。そう思わないと心がコワレテしまいそう。身体が動かない。耳は人々の声を拾い目は熱狂するお客達を見つめている。冷え切った肌は流れる空調の風を感じて震えようとし、心は身を裂くような恐怖に縮み既にひび割れ――――
(あ‥‥‥‥アリス‥‥さん)
客席の最後部席、階段状に上へ上へと上がっていく客席の一角に、視線が吸い寄せられて目を見開く。
身体は動かなかったけど、それでも私の目は確かに強張り、身体が震えていた。
私が心を許した友人が、笑っている。
動けなくなっている私を見て、静かに声を殺して笑っている。
この場にいる全ての人間を笑っている。自らが作り上げた作品に評価を付けられ、上機嫌に、まるで私の心中を嘲笑うかのように、満面の笑みを浮かべている。
私と相対して談笑していた時にも、見たことのない笑顔‥‥‥‥
その口元が、静かに動く。
「げ・ん・き・で・ね」
耳に届いたわけではない。でも、唇からはそう読めた。憶測の域は出なかったが、それでも何を言っていたのかは、おおよそで分かっていた。
手を振り、上機嫌なままで席を立ち、去っていく。
私はその後ろ姿を、涙ながらに見送っていた‥‥‥‥
●●●●●
会場の熱気に付いていけず、私は静かに立ち尽くしていた。
「何‥‥これ」
薄暗いオークション会場の雰囲気に押され、柄にもなく狼狽えてしまう。
私、こと茂枝 萌は、IO2所属の戦闘員である。分かりやすく言うと殺し屋、暗殺者。口の悪い人はゴミ処理係とか言うけど、本当のことなので反論はしない。私がしているのはゴミ処理と何も変わらないしね。超常的な能力‥‥‥‥例えば魔法とか、超能力とか常識では扱いきれないモノを駆使して法を犯す生ゴミを細かく切り刻んでポイするのが私の仕事。
今日のこの日も、IO2に命令されてゴミの回収にやって来ました。美術館の地下室で行われている非合法競売の黒幕を捕まえて、出来れば組織に連行、抵抗されるようならその場でバッサリ。遺体を回収するのは面倒なので、出来れば大人しく連行されて欲しい。ダメかな? ダメだろうなぁ。組織に連れて行っても、良くても終身刑、悪くて死刑だもん。最悪だと実験動物。勘の良い奴なら絶対に投降なんてしない。最期まで足掻いて逃げようとするか、私を殺そうとするかのどっちかだね。まぁ、どっちでも良いよ。反撃してくれれば、斬るのにも遠慮しなくて良いからね。
‥‥‥‥まぁ、そんなことを考えながら、私はいつも通りに敵の懐にまで潜入したんだよ。
IO2が用意してくれた入場パスと、小綺麗な衣装のお陰で(スーツを着込んだのなんて久しぶりだった。て言うか、私は女だよ? 何で男装なの!?)これと言った障害も無しに入り込んだ私は、「さっさと黒幕さんを倒しちゃおう」なんて思いながらオークション会場に目を光らせていたんだ。
そして気が付いたら、動けなくなっていたんだよ。
別に、誰かに何かをされた訳じゃない。
ただ、この会場内の空気に押されて呆気に取られてしまったんだ。
「なぁ、知ってるか?」
「何が?」
「あの石像の女、まだ生きているんだってよ」
階段の下、私の足下にある席に座っている若者二人の声が、遠く聞こえる。
「何だ、そんなことか。ここにいるみんな、もう知ってるだろ。それが売りなんだから」
「そうなのか?」
「ああ。ここで売りに出されている石像のほとんどが人間だよ。他じゃ見られないだろ?」
「へぇ。でも、どうやってるんだよ」
「知らん。企業秘密だそうだが」
「‥‥‥‥詐欺じゃないか?」
「そうでもないらしい。追加料金をたんまり払えば、首から下だけを石にするって言うのも出来るらしいからな。石と生身の共存ってのが妙なもんだが」
「そんな石像作ってどうするんだよ」
「ああ。身体を少しずつ削っていって、悲鳴を聞いて楽しむんだと。石になっても心は生きてるし痛みも感じるらしいからな」
「悲鳴を聞くために半端に石化を解く訳か」
「面白そうだろ?」
「是非とも試してみたいね!」
若者達の言葉に、私の思考は沸騰した。しかしだれもそれには気付かず、すぐ側にいた若者達も突然身体を襲った冷たい空気に身体を僅かに竦ませただけだった。だがそれも、空調の風が当たっただけだと気にも止めない。押さえきれずに漏れ出た殺気は、熱くなった心中とは真逆に氷のように冷たい殺意の針となって放出された。それは、ほんの微かな気配だ。素人では、それが殺意によるものなのだと気付かない。鍛え抜かれ数々の修羅場を潜り抜けてきた私は、自分の気配や精神を押さえる方法を知っている。若者二人が感じ取ったのは、押さえきれずに漏れ出てしまった微かな気配だけだった。
しかし、押さえきれずに溢れたその殺気は、萌の心中に燃え盛る殺意の強さを現していた。
檀上に飾られている石像。事前にIO2の調査報告で聞いてはいたが、見ると聞くとでは訳が違う。私と同年代の女の子。可愛らしい制服に身を包み、細長い手足を申し訳程度に晒している。
本当は凄く可愛らしく、綺麗な子だったんだろう。でもその女の子には、人間らしい魅力が完全に欠如しているように思えた。肌も制服も髪も目も、何もかもが灰色に染まって固まっている。それはどう見ても、美術館や公園で見るような石像だった。だから、私にはそれが人間だとは思えない。思いたくない。美しい顔を恐怖に歪め、今にも泣き出しそうな表情は見ているだけでも辛く、目を逸らしたくなる。
私は、石像の少女に見覚えがあった。つい昨日まで、保護対象となっていた少女だった。
IO2がこの美術館に目を付けてから、既に数週間が経過していた。石像へと変えられた被害者達をリストアップし、被害者達と直前まで接触していた者を探し、拘束する対象を絞り込む。地域が比較的限定されていたため、さほど困難なことではなかった。それは良い。被害者達が失踪する一週間ほど前から、被害者の友人知人が疎遠になるという現象があることも突き止めた。その条件が当て嵌まる人物を調査部が捜し出し、監視、場合によっては私が保護するようにと指示されていた。
‥‥‥‥しかし、そうして保護対象とリストアップされたばかりの少女が行方を眩ませたのが一昨日。念入りに作戦を練ってから踏み込みたかったが、そうも言ってはいられないと侵入した。
少女が行方を眩ませてから、まだ一日しか経過していない。
間に合う。そう信じて踏み込んだというのに‥‥‥‥石像に変えられ、晒し者にされている。
何もかもが遅かった。たぶん、少女が消えたと知ったその時には、既に何もかもが終わっていたのだろう。
「――――っ!」
拳を握り、爪が掌に食い込み血が滲んでいる。私はそれに気付いても、拳を開き、指を引き抜くのに数秒の時間を要した。
呆気に取られていたのも束の間、怒りは殺意と共に会場中に向けられている。その怒りが、拳を解くことを拒んでいた。
あの少女を石像に変えた者も、あの少女を見て笑っている者も、あの少女を辱めようとしている者も許せない。少女を助けられなかった自分にも憤りは感じるが、それも含めてに何もかも、ここで大暴れをして発散させたかった。笑っている者達を切り裂き、報いを受けさせてやりたかった。
だが、それは出来ない。萌は暗殺者ではあったが、殺人鬼ではない。
任務は黒幕の捕縛、もしくは殺傷。幸いにも、黒幕の素性はIO2の調査部によって調べ上げられている。逃げも隠れも出来ない。私が何もしなくとも、捕まるのは時間の問題だ。
(私の手で捕まえてやるんだから)
しかし、内に燃え上がった殺意と鬱憤を晴らすためにも、この事件の幕引きは自分の手で行いたい。他人任せにはしたくない。黒幕には、ここで、私の手で償いをさせてやる。
「あの、どうかなさいましたか?」
「え?」
不意に声を掛けられ、私は驚いて視線を走らせた。警戒していなかった訳じゃない。ただ、こんなオークション会場で声を掛けられるなんて状況を想定していなかった。だから不意を突かれた。声の主を探してキョロキョロと見渡し、そして声の主に顔を向ける。
そして、目があった。
「あ――――」
見覚えのある少女。ほんの数日前か、昨日か、IO2から渡された資料に載っていた顔だった。まだ年端の行かない幼い顔立ち。市松人形のように長い髪と白い綺麗な肌。大きな目。私と、あの石像に変えられた少女と同年代の少女。背は私と同じぐらいだった。なのに視線を巡らせて必要以上に探してしまったのは、少女が纏っている黒いドレスと黒髪が暗闇に溶け込んでいて見えにくかったから。
「――――――――」
そんなことはどうでも良い。私の目的はただ一つ。このオークション会場を所有し、少女達を石像へと変えている黒幕‥‥‥‥石神 アリスを捕縛することだけだ。
「――――――――――――――――」
だから、私は身体を走らせた。隠し持っていた刃を取り出す必要なんてない。相手は生身の人間。軽く首を捻ればそれで事は終わるだろう。だから、これは簡単な任務の筈だった。そう思っていた。だけど‥‥‥‥油断なんて、しちゃいけなかったんだ。
私が相手をするのは、人間を人間として扱わない魔女。異能を持った悪魔の類なんだから‥‥‥‥
自分の迂闊さを悔いながら、目を合わせたまま、私の身体は動かなくなった。
●●●●●
石神 アリスは、呆気もなく硬化したIO2からの刺客を見つめながら、安堵の溜息をついていた。
「危ない方ですね。やはり、本職の殺し屋さんは一味違うということでしょうか?」
石像へと変わった萌の頬を撫でながら、アリスは「ほぅ」と嘆息した。
「でも、愚かな人。自分がただの生け贄だと、気付いていましたか?」
アリスは萌の体を撫でながら、慈愛と嘲笑の入り交じった複雑な笑みを浮かべていた。
IO2がアリスのことを調べ上げていたのと同様に、アリスもIO2のことを調べ上げていた。と言っても、とても深部にまで深入りすることは出来ない。自分の行動範囲にIO2が入り込んだ時には、すぐにそうと知れるようにと情報網を作り上げていただけである。
如何に異能を持っているとしても、アリスはまだ子供であり、過度な権力を持っているわけでもない。だが何も出来ないわけではないのだ。これまでに少女を売りに出していたお陰で、資金は潤沢に調っている。密偵を放つことも、IO2内部の情報を探ることも、決して不可能ではない。
それに、アリスは一人ではない。アリスがIO2に捕まると言うことは、そこから石像に変えられた少女を競り落とした者達へと辿り着くと言うことだ。裏街道で暮らすマフィアはともかく、表向きの立場のある富豪達からしてみれば悪夢とも言えるだろう。だからこそ、情報網を築き上げるのもさほど難しくはない。裏の業界へのコネクションはそれなりに整えてあるのだから。
‥‥‥‥萌は知らなかったのだ。自分が、既に蜘蛛の巣に捕らえられていると言うことを。
ここはアリスの街だ。目の届かない場所はないし、察知出来ない事件はない。萌はそうともしらずにアリスの誘いに乗り、まんまと敵陣にまで侵入した。アリスに自分の行動が筒抜けだとは想像もせず、少女を保護するためにと会場に踏み込んだ。
そして結果が、この敗北である。
萌がアリスと目を合わせた瞬間、そこで萌の命運は尽きていた。
「それにしても‥‥‥‥わたくしのコレクションに加えるにしては、少々不格好ですわね。可愛げにも欠けますわ」
萌の身体を睨め回してから、アリスはそんな評価を下した。
仕方なかったのだ。普段、アリスが相手を石に変える時、出来る限り絶望的に、恐怖に染まった表情を作るようにと様々な趣向を凝らす。相手の家族、恋人、友人を石に変えたり、裏切らせたりと色々と罠を用意する。石化もジワジワと足下から行い、最後の瞬間までその表情を堪能する。
しかし、萌を相手に、その余裕はなかった。
何しろ、ほんの瞬きほどの時間もあれば相手の首を捻って殺しかねない暗殺者。余裕を持って石化を行うなど以ての外。罠に掛けて拘束するというのも考えたのだが、萌は百戦錬磨の戦闘員である。罠が用意されていると知れば、その時点で撤退し、応援を要請するかも知れない。
ここは軍事拠点でもなければ魔術師の工房でもない。ただのオークション会場だ。防備などないに等しい。IO2の戦闘員に大事なコレクションを破壊でもされたら目も当てられない。アリスとしては、それだけはなんとしても避けたかった。
そして戦闘を避けに避け、刺客を返り討ちにする算段は整った。方法は簡単。客に混じり、刺客と目を合わせればいい。ただそれだけ。実に簡単で子供でも思いつくような作戦だったが、綿密に練れば練るほどに策は容易に解れて崩れてしまうものである。単純な作戦ほど成功率は高い。これまでに多くの少女達を裂くに嵌め、絶望の淵に追いやってきたアリスの結論である。
そして策は成功を収め、萌を石像へと変貌させた。
しかし一目で石化させる必要があったため、容赦なく全力で魔眼を発動させたのだ。普段は心掛けている表情はポーズの類を、何一つとして思い通りに出来なかった。アリスが不満を抱いているのは、その点だ。刺客を送り込まれたことは良い。ただ、萌は十分に美少女と言っても良い相手だったというのに、絶望の顔も足掻こうという抵抗の様すらも見ることが出来ずに石化させてしまった事が残念だった。
コレクションとしてはとても並べられない。可愛らしい少女を次々と石像へと変えていたアリスだったが、それにも色々と気を遣っていたのだ。コレクションに並べるのは、あくまでお気に入りの石像だけ。しかしこんなに色気のない、何が起こっているかすら分からずに固まっている萌の石像には、食指が動かなかった。
「何かに有効利用出来れば良いんですけど‥‥‥‥」
アリスは石像と化した萌を眺めながら、視界とお客達の声をBGMに、思考に没頭する。
石像と化した萌は、全身を灰色に染め、顔だけを横に向けている。スーツを着込んで立っているその様は、上司と待ち合わせるサラリーマンか‥‥‥‥いや、スーツはオークション会場に潜り込むために用意された一級品。これなら恋人を待つ男性にも見える。
声を掛けられて驚いていたのだろう。石に変わった今でも、それがよく分かる。警戒し手足は僅かに開き、いつでもその場を跳べるようにと構えている。戦いに身を置く者として身に付けた本能なのだろうが、それが少女としての魅力を完全になくしていた。
売りに出したとしても、値が付くかどうか‥‥‥‥
(せめて、邪魔にならない場所があれば良いのですけど)
売りにも出せず、コレクションにも加えられない。それなら、もうそれはゴミも同然だ。砕いて道端にでも放り出してしまおうか。それではあまりにも芸がない。何処かに飾ってしまおうか? 道端にでも置いておけば、IO2への警告にもなるだろうし‥‥‥‥
「あ、それなら良い場所がありますね」
アリスの脳裏に、ピンと閃く物があった。
天井を見上げる。照明と冷たい無機質な天井だけが存在するその場所の更に先、土の壁を貫き、視線は地上へと向いている。
アリスは部下を呼び止め、指示を出す。石化し重くなった萌を会場から運び出し、まずは倉庫に保管する。うん。展示スペースを作るのに一日ぐらいはかかるから、それぐらいは我慢してね。真っ暗だけど、周りにはわたくしの友人もいますから、寂しくはないでしょう?
倉庫の扉を閉め、アリスは上機嫌で階段を上がっていく。
少々手間は掛かるけど、ここからは館長としての自分の仕事だ。労力を惜しむつもりはない。むしろ、この仕事は楽しめそうだ。ちょうど明日は休日で学校が休みだし、成果はすぐに確認出来る。
鼻歌交じりに階段を上がっていく。
その様だけは、アリスも年相応の少女らしかった‥‥‥‥
●●●●●
これまで、睡眠という物をここまで求めたことはなかった。
無為に過ぎていく時間。固まった肌を刺す冷たい空気。微動だにしない体。目蓋の下りない視界。閉じない聴覚。好奇の視線に震える心。
目を閉ざすことが出来れば、自分を見つめる視線を気にすることもない。耳を閉ざすことが出来れば、自分を評価し笑う声を聞くこともない。意識を失ってしまえば、何も考えることもない。それが救い。だが、それすらも、石像と化した萌には許されなかった。
「アリスちゃん。これが、新しい石像?」
「うん。どうかな? いつもとは趣向を変えてみたんだけど」
「うーん。可愛くない」
「やっぱり?」
「でも格好良くもない。なんだか変な彫像だね」
声が聞こえる。姿も見える。
耳に届くのは、アリスとその友人の声だ。萌を美術館の広場に置いたアリスは、数人の友人を連れて萌の石像を見に来ていた。わざわざアリスの視界に入るように顔を覗き込み、口々に自分勝手な感想を並べ立てる。
恐らくは美術部の友人なのだろう。それだけに、芸術品の評価に対しては厳しい。
元々、アリスが生きた人間を石像に変え、美術館のあちこちに展示していたために石像に変化した萌が展示されていても、誰も不審には思わない。むしろ、そうして展示される変わり種の石像がお客を呼び、石像に変えられた少女達の精神を追い詰める。
悲鳴を聞くことは出来ない。涙を見ることも出来ない。
しかし石像に変えられた者達の心は生きている。精神は閉ざされることもなく外界からの刺激を受け続け、自分が見せ物として存在していることに耐えられなくなってくる。現実から逃避する者もいるだろう。だが目を背けることも耳を閉ざすことも、眠って夢に逃げることも許されない。アリスによって石像に変えられた者は、疲労も知らずに無為な時間を過ごすのみ。
(こいつ‥‥悪魔!)
それまでの過酷な人生の中で、これほどまでの絶望と屈辱を感じたことはなかった。
萌は心中で憎悪し、罵倒を浴びせかける。しかしそれが外界に届くことはない。何を思おうと、アリスには届かない。言葉を掛けることも、拳を振り上げることも出来ない。出来ることと言えば、アリスを呪い、自分の迂闊さを悔いることばかりで、全ては萌の心の中で完結する。
摩耗していく心。石像に変えられてから、まだ二日ほどしか経っていないだろう。しかしその僅かな時間の中で、萌の精神は傷付き、削られていっていた。
真暗い倉庫に閉じこめられ、感じ取れるのは外界の冷たさだけ。音もなく、視界もない。眠りにつくことも出来ずに悪戯に時間が過ぎていく。例え拘束されていなくとも“何もせずにただ静止している”というのは苦痛でしかない。
常に何かをしていなければ落ち着かない。何もしないのは、精々休んでいる時ぐらいだろうか。しかしそれすら、やがて睡眠という行動に移るのだ。“何もしない”と言うことは、まずないのだ。人間は、そうと思わなくとも何かしらの行動を起こしている。
しかし暗闇の倉庫は違った。何も出来ないし、眠りもない。それがどれ程の苦痛を萌に与えていたことか‥‥‥‥倉庫から美術館へと移された時には、アリスへの憎悪よりも先に、暗闇から抜け出ることが出来て喜んでしまったほどだ。
だが、そうして暗闇から抜け出した萌を待っていたのは、耐え難い屈辱と羞恥心による圧迫だった。
人、人、人‥‥‥‥
アリスが用意する一風変わった石像は、多くの人々を呼び寄せた。
美術館を訪れる人間が、皆して萌を見つめている。
身を捩り、体を隠すことすらも出来ない。萌は目の前に友人を同行させ、笑っているアリスを嫌悪し、憎悪で羞恥心を誤魔化そうとする。だがそんな悪足掻きを、アリスは見抜いているように笑っていた。口元を嫌らしく歪め、嘲笑している。何も出来ない萌を笑い、友人達と共にけなしている。
(この! このっ! このぉぉ!)
萌は心の中で声を上げながら、必死に体を動かそうとしていた。
しかし体は言うことなど聞きはしない。目を閉ざすことも出来ず、アリスの笑みを見続ける。
●●●●●
(IO2も、これで少しは警戒してくれると良いんですけどね)
アリスは友人達と談笑し、萌を眺めながら、思考を別の方向へと走らせていた。
何も、惨めな思いをさせるためだけに萌を展示しているわけではない。刺客を送り込んできたIO2への警告として萌を晒し、彼女ほどの手練れでもこうなるぞ、と二の足を踏ませたかったのだ。
(救出に来られると困りますからね‥‥晒すのは今日か、明日か‥‥‥‥近日中には、ちゃんと壊しておかないと)
長々と晒しておくと、この美術館に強盗団でも侵入して来かねない。IO2にとっては、萌はそれなりに価値のある人間だ。すぐではないにしろ、いつかは救出に誰かが現れるだろう。撒き餌にしても良かったのだが、生憎と、アリスは次の刺客まで仕留められると過信するほど、自分の実力に自惚れてはいなかった。
敵がくる確率は、少しでも減らしておくに限る。
萌を処分してしまえば、IO2にとっては大打撃となるだろう。萌をどうやって仕留めたのか、それはIO2には分からないことだ。確実にアリスを仕留める算段が整うまでは、手出しはしないだろう。
だからこそ、今の内に萌を人目に晒しておく。IO2は必ずこの美術館に、お客として諜報部員を送り込んでくるだろう。そうして「茂枝 萌は敵に捕まった」と言う情報を与え、その上で処分する。行方不明では済まさない。確実に“仕留められた”のだと教えてやらなければならない。
(それだと、少しだけ詰まらないんですよねぇ)
正直に言うと、アリスはもっと萌を使って遊んでいたかった。
IO2の存在がなければ、いつまででも展示して辱めていたかった。暗い倉庫の中で、埃にまみれさせて絶望させてやりたかった。ひと思いに殺すなんて、なんて詰まらない。もっと長く、時間を掛けてゆっくりと楽しんでいたかった。
「ああ、海にでも沈めてみましょうか」
「え?」
「いえ、何でもないんです」
友人に笑いかけながら、アリスは邪悪な思考に没頭する。
石像を砕けば、萌は死ぬ。それでは詰まらないから、もっと別の方法を考える。
そのまま何処かに埋めるなり沈めてしまえば、自然に石像が砕けるまではそのままだ。どれ程冷たく、どれ程熱く、どれ程明るく、どれ程暗く、どれ程おぞましい生物の渦中においても、萌は決して死んだりしない。意識だけは保ったままで、そこにあり続けるのだ。それはどれ程の苦痛を萌に与えるのか‥‥‥‥
アリスは、決して残忍な人間ではない。しかし敵対する人間に慈悲を掛けるほど、お人好しでもなければ愚かでもない。萌が人間としての機能を取り戻せば、必ずアリスを殺しに掛かるだろう。だからこそ、念入りに壊しておく必要がある。命だけではなく心でさえも、崩壊させ人間のそれとは別の物へと変えておかなければならない。
「ふふ。しばらくは楽しめそうですわ」
子供じみた、悪魔の笑み。
萌への救いなど、もはや何処にも用意されてはいなかった‥‥‥‥
Fin
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