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<東京怪談ノベル(シングル)>


【魔性 〜水鏡燈】





 夕焼けが街を緋色に染め上げる。
 狭い路地に少女の影が伸びている。
 少女――海原(うなばら)みなもは首をめぐらし、その路地の異様さを見極めようと試みる。だが、目に入ってくる景色自体は他の路地と大差ない。それでも、落ち着かない心地はたしかに感じる。自分以外の人の気配がまるでないのだ。
 夕暮れ時の喧騒はどこか遠く、静謐な気配がその路地に染み渡っている。
 もしや路地の入り口が、世界を分ける岐路だったのではないだろうか。
 瓜二つの別の世界へ迷い込んでしまったのではないだろうか。
 この道を通るといつも、みなもは不可思議な情調に侵されてしまう。
 「あ、ここだ」
 気がつくと、目的の店の前に着いている。
 明治期に建てられたかのような、古びた洋風建築の小さなショップがそこにある。黒ずんだ赤レンガの壁には蔦が這い、勾配の急な屋根と両開きの窓にさえも枝葉が絡みついている。重そうな焦げ茶の扉に《アンティークショップ・レン 営業中》のプレートが下がっている。
 古今東西の古物を買い取り、売っている。古物といっても、どれもいわく付きの品である。呪器から祭器、呪われた絵画や彫刻、超常現象を引き起こすオーパーツといった、素養のない人にとっては災厄でしかない品物を取り扱う。
 学校の帰り道、みなもはふと思い立ち、この店の女主人・碧摩蓮(へきまれん)のところへ立ち寄ったのだ。
 自分が最近身に着けた魔性、そして、それを引き出したであろう、月の雫という奇妙なアイテムについて相談するためである。
 「ごめんください」
 いって、みなもは扉を開けた。
 そこには、ただの闇が広がっていた。



 「――これ」
 扉を閉めたつもりはなかった。
 だが振り返ると、そこもすでに真っ暗闇に侵されていた。
 「レンさん?」
 始めは小さな声だった。
 「レンさん? レンさん、どこ!」
 店はけっして広くない。
 それをみなもは知っていた。
 外から見ればこじんまりとしている家屋も、中に入れば広いものだが、アンティークショップ・レンは、その錯覚も適用しない。実際は広いだろうが、店内は品物であふれ返っているのが常だ。買い取り品は書斎机やタンス、彫像などの大きなものも多くあり、店内に所狭しと置いてある。そうした大型の品の脇をすり抜けながら、目当ての品を物色するのが、このショップの楽しみのひとつでもある。
 そうした店であるはずなのに、恐る恐る伸ばした手が、何にもぶつからないのである。
 店へ通じる路地に足を踏み入れたときと、同じ感覚。違うのは、自分は路地裏ではなく、闇の中にいることだった。
 霧のように肌にまとわりつく闇は、みなもの周囲で少し解(ほど)け、ぼんやりと光がけぶる。まるで闇色の氷が溶けているような。
 みなもは、水の気配をたしかに感じた。
 これは、ほんとうの闇じゃない。
 それはわかる。けど、じゃあ何なの?
 「何かあったんだ」
 つぶやいて、みなもは学生鞄を胸に抱き、身を縮めて立ち尽くす。
 「レンさん! どこにいますか!」
 あたしが、レンさんを助けないと。
 その思いが沸き起こった。その時だった。
 塩素の匂いが鼻をついた。
 プールの消毒用に使われる薬品の匂い。
 「わたし」
 左の耳に、聞きなれた声がした。囁くような小さな声だが聞き取れた。水泳部の友人の声だった。
 「わたし、あの子が片思いしてる人……好きになっちゃったみたい」
 左を向くと、学校帰りの景色が広がる。
 曇天の空の下、ひとりの少女が目を見開いて立っている。顔面は蒼白で、細い肩が震えている。
 「いいよね? みなも」
 声は耳のすぐそばで聞こえている。
 少女はその場から動いてないのに。
 「いいよね?」
 首筋に、ぺたりと少女の手がふれた。ひんやりとした、小さな手だった。濡れていた。
 「いいよね? だから。あの子をプールに突き落としたって」
 張り付いた少女の手から、熱い鼓動が咽喉の中へと入り込んだ。恐ろしいほど速い拍動がみなもの身体を、頭の中を揺り動かした。
 視界が一瞬、真っ赤に染まり、場面がさぁっと切り替わる。
 今にも雨が降り落ちそうな鈍色(にびいろ)の空が、室内プールの窓に広がる。
 寒々しいプールサイドで制服姿の二人の少女が手を取り合って立っている。否、相手の腕を捕まえあって、逃がすまいと踏ん張っている。凄まじい剣幕で言い争い、罵り合う。
 ひとりの少女が隙をつき、スカートのポケットから何かを取り出し、相手の腹に突き刺した。
 「――うそ」
 みなもは思わず呟いた。
 少女はナイフを引き抜いて、相手の身体を突き放した。血が滲むセーラー服の腹を押さえた少女の身体は後ろに傾き、水に落ちた。
 


 二人とも、みなもにとって親友と呼べる友人だったのだ。
 それが、どうして。
 みなもの頭は混乱し、闇の中で自分の身体を掻き抱いてしゃがみ込んだ。
 こんなことが、現実であるはずがない。
 これはアンティークショップに持ち込まれた、怪しい道具が見せた幻影。そう思った。思おうとした。
 だが、塩素の中に、かすかな鉄の、血の匂いを嗅いでしまえば。首筋にふれた少女の、その手のぬめりを感じてしまえば。
 みなもの足は震えるばかりで立てそうもなかった。
 「あんたも」と声がした。「囚われてしまったんだね」
 震える身体を背中から抱きしめてくれたのは、女主人・碧摩蓮その人だった。
 「レン……さん――」
 みなもはレンに抱きついて、その胸の中で泣きじゃくった。



 「すいきょうとう?」
 みなもは、おうむ返しに聞き返した。
 「そう、水鏡燈」とレン。「杯(さかずき)を模した燭台。握りの部分が空洞になっていて、そこに蝋燭を灯すんだ。すると杯に入れた水が、下からの火に照らされて、輝いて、明りとなる」
 ノースリーブのチャイナドレス姿のレンは、肩をすくめて、薄く笑った。
 「もちろん、うちに来る品だからね。それだけじゃない。水鏡燈は、その杯に入れた物に宿っている、残留思念を水面に映しだす。それを使った者、それに使われた者。それを作り出した者、それを破壊しようとした者。それを欲しいと願った者、それを忌み嫌い捨てようと願った者。年降れば、物にも情緒が宿っていく。魂か、それに似た何かが宿る。日本ではそれを妖怪化として畏れたり、八百万の神として崇めたりする。水鏡燈は、そうやって物が受け取った、押しつけられた――人々の、ときには獣の、妖怪の、さまざまな想いを映す。今――」
 レンは虚空の闇をじっと見据えた。
 「水鏡燈の杯には、一振りの小さなナイフが入っている」
 「――ナイフ」
 みなもは、友人が刺したナイフを思いだす。
 「なあに、それがどう、という品ではないんだ」
 耳に少女の声が聞こえる。先ほど刺された少女の声だ。

     ゆるせない。

 「ただ今回は」
 レンの声が少女の声に重なっていく。

     あの子、ぜったいに許せない。

 「たまたま検視用の蝋燭が何本か手に入ったからね。それが本物かどうか試したんだ」

     友だちだって、思っていたのに。信じていたのに。

 「ナイフを選んだのも、杯にすっぽり入る物でないと機能しないからというだけ」

     あの人のことだって、正直にいってくれれば、あんなふうに打ち明けてこなければ――

 「すまないね。こんなことに巻き込んで」

     許せない。

 「やめて!」
 みなもは叫んだ。
 レンはびっくりしたような顔をする。
 「あ、いえ。すみません。レンさんにいったんじゃないです」
 レンはみなもの長い髪を梳きながらいう。 「あてられているね。心を落ち着ければ、大丈夫。たぶん、ナイフに宿った怨念は、その事件の人物を、あなたの友人に置き換えているでしょうけど、あなたの友人とは何の関係もないから」
 そう言われても、みなもの耳には親友の声が、ぞっとするような暗い響きで聞こえている。

     私の未来を、恋を、大好きなあの人を――

 鬱々と恨みを述べる声がする。みなもの胸に、寂しさと怒りがないまぜになった気持ちが吹き込まれる。

     友だちだと信じていた。
     あたしの心を裏切った、あの子を私は許さない。

 「本来なら」とレン。「水面に映るだけなんだけどね。しかも残留思念がとても強いうえ、相性が良かったんだね。杯の水とプール。水を媒介に、怨念が闇となってひろがってしまった」

     このナイフで――

 「そのナイフを」とみなも。「そのナイフを杯から取り出せば、この闇は消えますか?」
 みなもは縋るようにレンを見つめた。
 その瞳は、未来が閉ざされきっている、そう観念した者だけが宿す、救いがたい絶望の色を持つ。光はない。艶のない瞳。
 「それは、そうだけど。あんた、引き込まれすぎている」
 「大丈夫です、あたし――」
 みなもはか細く震える心を念じた。強く、熱くなれと念じた。
 周囲の闇が七色に輝いて、灰色の渦が光の中に表われる。
 白黒フィルムの映像が、虹色のCG映像に入れ替わり、また逆に戻っていく。みなもを包む闇の位相が不安定になっている。その中で、みなもの身体が変容する。
 髪は漆黒色に変化して、身体のラインは妖艶な大人のそれへと変身した。魔性を纏い、悪魔の力を具現化できる姿となった。
 つい一瞬前まで、心境が一致するほど感じていた、刺された少女の絶望は、もはや遠いところにいっていた。
 体内の、自分の目ではけっして見ることのできない肉の中に、闇が溢れているのが分かる。そこから力が沸き起こってくるのが分かる。そこにさまざまな情緒と情動が引き込まれていく。血が引きずって、引き込んでいく。
 「あんた……」
 レンは言葉を失っているようだ。
 「月の雫を手に入れてから、自分の思うように力を出せるようになったんです。この力のことを相談したくて、今日、来たんです」
 「月の、雫」
 長く豊かなまつ毛を持つ双眸を細めてみなもは、いやに紅い唇を動かした。
 「この闇を片づけますから、いろいろ教えてくださいね」
 みなもはふわりと浮かび上がると、両手を広げて、闇をつまんだ。闇は薄いベールで覆われているように、つままれた布のような皴を作った。
 「待ちなさい!」
 レンは叫んだ。 
 「行っては駄目よ」
 「レンさん?」
 「水鏡燈は別名、太陽の杯と呼ばれているわ。本来は、月の雫が宿す思念を見るためのものといわれている」
 「じゃあ、そこにあたしが見つけた月の雫を入れれば、この力の真実が分かるんですね」
 「おそらくは。そうね」
 レンはひとつ身震いをした。
 「けれど、駄目よ。太陽の杯と月の雫。その二つが重なったとき――杯に、あんたの雫が落ちたらどうなるか。何が起こるか分からない。誰も知らない。あんたの、それだけ強い力を生み出すほどの月の雫であれば、ほんとうにどうなるか。どんな事態が起こるか分からない。ただの呪われたナイフでさえ、これだけの闇を生み出した」
 魔性を纏ったみなもはその目を細め、沈思する。頬にこぼれた髪を払うと、覚悟を決めた顔をレンに向けた。だが、
 「この世のすべてが、闇に覆い尽くされてしまうかも」
 そういわれると、みなもは怯んだ。
 「蝋燭が消えれば」とレン。「闇は消える。それを待ちなさい」




 はたして数時間ののち、闇は朧となって消え去った。
 みなもとレンは、応接室に座っていた。
 レンは立ち上がり、「気をつけて帰りなさい」とみなもを促す。
 「はい」
 みなもは答えた。魔性の変身は解けている。立ち上がり、重い扉を開けたとき、
 「そうね」とレンが話しかけた。「来たければ、また来なさい。月の雫について、教えられることがあれば、教えてあげるわ」
 「ありがとうございます」
 みなもはお辞儀をして、部屋を後にする。
 アンティークショップ・レンから出ると、すでに陽は落ち、空には細くなった下弦の月が浮かんでいた。まるで夜空に爪を立てたかのような、細い傷痕。宙の向こうの、太陽に会わせてくれと、隙間穴を穿とうとしたかのような、残酷な衝動に見えてしまった。
 みなもは思う。


 いったい何が起きるんだろう?
 月と太陽が、もし出会ったら――





     (了)