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<東京怪談ノベル(シングル)>


 Assassin mission 2

 鬼鮫(おにざめ)――これが今回の暗殺対象の名前だった。
 元はヤクザの彼が命を狙われる理由は多聞にある。そして今回彼を暗殺しようと乗り込んだ水嶋・琴美も、その事に何ら疑問を持っていなかった。
 超能力者と戦い、それを殺すことへの快感に目覚めた異常人物。これが琴美の情報には備わっている。
 人を殺めることに全くの抵抗が無いこと。それこそがこの人物の罪だ。
 だが当の本人は違う。
「実に、不愉快だ」
 低い、地を這うような声に、琴美の瞼が上がった。
 全身を打ちつけられた壁。そこに背を預けながら辛うじて立つその身は、重い以外のなにものでもない。
 彼女は苦痛を訴える腹部に手を添えると、滅尻に浮かぶ涙を手の甲で拭った。
「……それだけのこと、してるでしょ」
 辛うじて吐きだした声に血が混じる。
 それを床に吐きだして、彼女は自分の足で立つように背を伸ばした。
 そうすることで強調された胸は、あらく息を吐くたびに大きく上下に揺れる。そして構えを取れば、彼女を見据えていた鬼鮫の口角が下がった。
「俺に覚えは無い」
 ピクリとも表情を動かさず放たれた声に色は無い。本当に覚えが無いのか。それとも覚えがあるが忘れたふりをしているのか。はたまた、覚えを感じる感情が彼にはもうないのか。
 いずれにしても、鬼鮫が暗殺対象であることに変わりはない。
「あなたは……私が、倒すわ」
 キッと見据えた相手の顔。その眉がピクリと揺れた。
 口角はさらに下がり、顔全体に不満と不機嫌が入り混じる。そして彼は目の前で手を組むと、ポキリと指を鳴らした。
「!」
 その音が耳に届いた直後、琴美の目が見開かれた。
 今の今まで目の前にいた相手の巨体が消えたのだ。
 必死に周囲を探るが姿を見つけることが出来ない。戸惑い、そして焦る彼女の耳に、低い声が届く。
「遅い」
――ゴスッ。
「ッ……ぅ、っ!!」
 重い音と同時に見開かれた目に、鬼鮫のサングラスが飛び込んでくる。
 無表情に叩き込まれた拳。それが抉るように腹部を押し上げてゆく。
 詰まった息が、感じる衝撃が、彼女の言葉と驚きを奪ってゆく。そして目の前が真っ白に染まった時、彼女のしなやかな身体が宙を舞った。
「ぅ、ぁあッ!!!」
 受け身も何も取れない状態で、全身が床に強く打ち付けられる。そして無残に転がると、黒鮫の足音が耳を打った。
「弱い、弱過ぎる」
 足音は徐々に近付いてくる。このままではいけないと頭ではわかっているのに、身体が動いてくれない。
 必死に命令を下しても動かない身体に、無意識に瞳から涙が溢れた。そしてそこに冷たい感触が振れる。
「っ、ぅう……、…」
 薄ら開けた瞳に映るのは、黒い何か――否、黒い靴の底、だ。
 頭を抑えつける様に押しつけられた足。それが琴美の行動を、そして視界を奪っているのだ。
「……詰まらんな」
 プライドさえも踏み躙るように動く足。それに涙が溢れて止まらない。だがその涙は直ぐに止まった。
「もっと楽しませろ」
 そう言って離れて行く足に、琴美の霞む目が見開かれる。
 ゆっくりと離れてゆく足音。その音に彼女の目が真意を問うように、鬼鮫に注がれた。そしてそれを確認した彼の指がクイッと招く。
――掛かって来い。
 そう言うことだろうか。
 完全に馬鹿にされている。その事が嫌なほど真っ直ぐに伝わってくる。本当なら迷わず立ち向かいたい。
 崩れたプライドを繋ぎ合わせる為に、鬼鮫を地面に伏したい。だが、相手の強さが半端ではない事を、身体も心も頭さえも理解してしまった。
 恐怖心が全てを包む中、立ち向かうことは容易ではない。しかし彼女はその恐怖に打ち勝とうともがいた。
「……っ、く……、良いわよ……やって、やるわ……」
 両手を地面に着いてゆっくりと起きあがる。
 全身に感じる怠惰感は拭えず、痛みもまた同じ。それでも立ち上がることは何とか出来そうだ。
「――ぅ、くぁ……ッ!!!」
 痛みの雷撃が駆け巡る中、2本の足でしっかりと立つ。額からは汗が零れ落ち、豊満な胸の間やしなやかな足にも、同じように汗が零れ落ちるのがわかる。
 ガクガクと震える足と腕。それに反応するように震えだす身体を、息を呑み堪えた。
 この状況の何処に闘える要素があるのだろう。しかし鬼鮫は引くことを許さない。
「構えろ」
 そう言いながら格闘の構えを取る彼に、奥歯を噛みしめながら琴美も構えを取った。
 これから起こる肉弾戦を想像すると背筋に寒いものが走る。
 先ほど受けた衝撃の重さが、今でもありありと思い出せるのだ。だがそれを思い出し恐怖している暇はない。
「――行くぞ」
 鬼鮫の姿が再び消えた。
 しかし今回は違う。消えたのはほんの一瞬、琴美は咄嗟に防御の構えを取ろうと腕を動かした。
 しかし――。
「ぅああああっ!!!」
 あと少し、あと少しで防御が間に合う。
 そこまで来て鬼鮫の重い一撃が彼女の腕を直撃した。
 咄嗟に腕を庇うが、それを許すまいと鬼鮫の更なる攻撃が庇う腕に迫る。それを、身を反して避けようとするのだが、それさえも読まれ無骨な動きの蹴りが彼女のわき腹に入った。
「――っ、あ、ハぁッ!!!」
 ズザザザッ、と床を滑る肢体。
 それでも腕を張ってその勢いを止めると、渾身の力を振り絞り飛び上がった。
 霞む視界、力の入りきらない足。それらを認識した上で、安全な間合いに着地しようとする。そこに風を切った剛腕が迫った。
「遅い」
「がぁッ!!!!」
 勢い良く開いた口から血が飛び散る。
 見開いた目からも涙が零れ、咄嗟に自らの身をえぐる拳を掴もうと伸ばした手が、無残にも下から薙ぐ腕に阻まれる。
 どんなに防御を敷こうと追い付かない動きに、驚きを越え「無謀」という言葉が頭を擡げ始める。
 しかも彼女の身を引き締める為の戦闘服が、鬼鮫の行動によって緩み始めている。これでは心身ともに身を引き締めた意味がない。
 その証拠に隠されていた彼女の柔らかな肌が僅かに露見している。その至る所に鬼鮫の攻撃によって出来た鮮やかな痣が浮かび上がっていた。
「クッ、こん、な……こんなの……」
 身体だけではない、口の中も、心の中もボロボロに砕かれている。
 力なく崩れ落ちた身体が、悲鳴を上げて横になりたいと警笛を鳴らしているのだ。
 もう彼女の中にあるのは――敗北――この2文字しかない。
 だが、鬼鮫はその認識さえ琴美にさせてくれない。
「まだだ。まだ闘えるだろ」
 プライドも身体も傷付けられ、敵うはずはないとわかっている相手に立ち向かえと言う。しかも立ち向かうべき相手がそう促す。
 これほどの屈辱があるだろうか。
 琴美は、口角に滲む血を手の甲で拭うと、ゆらりと立ちあがった。
 その足はあまりにも不確かで頼りない。
「そうだ――構えろ」
 言われるがままに闘うための構えを取る。
 まるで人形のように素直に従う彼女の目が、鬼鮫を捉えた。
 そこにあったのは、自信溢れ光に満ちた瞳ではない。
 薄らと影を背負い、虚ろで何も映さない、生気の抜けた瞳がそこにあった。


――To be continue…