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<東京怪談ノベル(シングル)>


行く先に満ちる春


 ふわり、と窓の外を一枚の白い花弁が舞う。それは小さな蝶の翅にも似て、穏やかな春風に乗ってどこかへと運ばれていく。けれど、その風景に目をやることもなく、崎咲・里美は書物を読み耽っていた。
 平日の図書館は静かで、調べ物には打ってつけだ。記者としての仕事の合間にもよく立ち寄る。規則的に陳列された本棚や、木と紙の匂いが漂う空間が好きだった。
 室内に設置された読書用の机に広げているのは、十年ほど前の新聞記事のスクラップや犯罪関連の資料。一冊一冊に丁寧に目を通す。里美が記者を志したのも、同職だった両親の影響だ。真実を追究して記事を書き起こすことを誇りに思っていた両親――その意志は一人娘にもしっかりと受け継がれている。
 里美が十歳になる頃、両親は何者かに殺害された。犯人は現在も逃走中で、事件が時効を迎える前に犯人を突きとめるのが、里美の目標だった。両親が追っていた事件、そして両親が殺された事件について調べるのは日課同然なのだが、依然として有益な情報は入手できない。
 記録用ノートに文章をまとめる手を休め、溜息をこぼしてひとりごちる。
「……なかなか集まらないなぁ」
 けれど、諦めるわけにはいかない。父と母の無念を晴らすためにも。
 ――真実は常に一つであり、真実のないものは存在しない。
 信念を胸に抱き、里美は日々記事を執筆するのだ。
 ふと、左手首の腕時計を見やって目を瞠る。
「いけない、そろそろ出なきゃっ」
 今日はとある記事を白王社の月刊アトラス編集部に提出しなければならない。急いでかき集めた資料を本棚に戻し、愛用のショルダーバッグを肩にかけて早足で階段を下りた。
 白王社ビルの一角に、月刊アトラス編集部は存在する。今日も多くの記者やカメラマン等が室内を賑わせていて、外よりも気温が高いと錯覚させるほどの人口密度と熱気に満ちていた。小走りでそこへ駆け込んだ里美は、正面奥のデスクに直進する。
「碇さん! 例の記事、書けましたっ」
「あら、里美ちゃん。お疲れ様。いつも仕事が速くて助かるわ」
 優美な笑顔で原稿を受け取ったのは、編集長の碇・麗香だ。眼鏡越しの瞳は怜悧に原稿の文章を追い、一通り読み終えると満足気に眇められる。
「流石ね、短期間でこれだけのものを仕上げてくるなんて。今回も文句なしよ」
「ありがとうございます!」
「ほんと、あなたがうちの専属になってくれたら、もっと助かるんだけれど」
「あはは、そんな……」
 安堵すると同時に褒められて嬉しくなる。麗香自身も記者として敏腕に活動していた時期があり、現在も発揮される無駄のない仕事振りに、里美は憧れていた。女性としての魅力も、社員達が毎日のように噂するほどで、こんな人が自分の姉だったらいいのにと密かに願っている。
 机に片手で頬杖をついた麗香が、里美にフランクに笑いかけた。
「ところで、今度の日曜は空いてるかしら」
「はい、だいじょうぶです」
「そう。じゃあ、良かったら一緒に遊びに行かない?」
「えぇっ!」
 麗香とプライベートで時間を過ごすのは初めてだ。思わぬ誘いに驚いてしまう。くすくすと笑みをこぼす彼女に、すみません、と頭を下げた。
「でも、いいんですか?」
「勿論よ。あなたとは一度お茶とかしてみたかったのよね」
「嬉しいです! 是非ご一緒させてくださいっ」
 ほかならぬ麗香からの申し出を断るはずがない。意気揚々と返答し、胸中では小躍りした。
 ――碇さんと一緒に遊べるなんて、夢みたい……!

 * * *

 そして迎えた日曜日の朝。暖かい微風に髪を靡かせ、里美は待ち合わせ場所である駅前へ早足で向かった。休日の人波に呑まれそうになりつつも、きょろきょろと周囲を見回して麗香の姿を捜す。と、来た方向とは逆側から聴き慣れたアルトが響いた。
「里美ちゃん」
「あ、碇さんっ」
 改札前の壁際で当人が手招きしていた。春風と彼女の笑顔と、どちらが爽やかだろう。他愛もないことを考えながら駆け寄って一息つく。
「おはようございます!」
「おはよう。まだ時間の十分前なのに偉いわね」
「碇さんをお待たせするわけにはいきませんから。私自身、今日がすごく楽しみでしたし」
「そんな可愛いこと言ってもらえると嬉しいわ」
 麗香は仕事のスーツ姿ではなく、七分袖のミントグリーンのカジュアルカットソーに淡いグレーのスキニージーンズを纏っていた。仕事では後頭部で一纏めにしている髪もストレートに下ろしているため、編集長とは別人にも見える。すれ違う人々がちらちらと振り返るほどの美貌とスタイルの持ち主であることに変わりはないが、彼女の私生活の一面に里美は感動せずにはいられなかった。
 自分はといえば、青いタートルネックセーターにオフホワイトのタイトスカートで、普段と大して変わらない。もっとオシャレしてくれば良かったかも、と軽く後悔した。それでも、里美ちゃんは今日も可愛いわね、と麗香に褒められれば素直に喜ぶ単純な性格ではある。
 彼女の案内により、ふたりで色々な場所を歩いた。満開の桜の樹が等間隔に植えられている商店街では、棒付きキャンディーを実演調理販売している飴専門店や、輸入物の民族衣装を並べている婦人服店等があり、初めて見るものひとつひとつに里美は目を輝かせた。仕事に没頭する間はゆったりと買い物に出かける暇もなく、ウィンドウショッピングすら殆どしていない。甘いものをお腹いっぱい食べたいとか、どんな服が好きとか、同性ならではの日常会話を交わすのも久し振りだ。今はその相手が麗香であることが、この上なく幸福に感じられた。
 やがて、橙色の陽が西に半分ほど沈みかけた頃、安くて味も良いと評判らしい団子屋に行った。御手洗団子の皿を持ってベンチに似た椅子にふたりで腰掛けると、麗香が安心したように微笑んだ。
「良かったわ、元気になってくれて」
「え?」
「最近疲れてたみたいだったから」
 意外な言葉に目を瞬かせる里美。自分ではいつも通り仕事をこなしていたつもりだし、特に疲労も感じていない。明るく笑いながら、否定の意味で手をひらひらと振った。
「そんなことないですよ。むしろ動き足りないくらいです。両親の事件に関しても全然調査が進みませんし、もっと頑張らないと」
「そこがあなたの悪い癖ね」
「?」
 小首を傾げる里美の髪を、麗香のしなやかな指が優しく撫ぜる。眼前の鮮やかな桜並木から、花弁が音もなく肩に舞い降りた。
「里美ちゃん、自分が疲れてても気付かないでしょ。仕事を頑張ってくれるのはいいけれど、ちゃんと健康にも気を遣わないとね」
「もしかして、今日はそのために私を誘ってくださったんですか?」
「ええ。少しでも気分転換になればと思って」
「すみません……」
「謝る必要はないわ。私が好きで計画したことだもの」
 麗香の器量に感服しつつも申し訳ない気持ちになる。仕事に熱中すると余計なことは一切気に留まらないのは、確かに自分の欠点かもしれない。個人的な活動もしている以上、健康管理に注意するのは当然なのに。
 語らいながら団子を食べれば、程よい甘さが味覚を刺激した。
「ご両親のことも早く解決したいのはわかるけれど、もっと自分を大切になさい。あなたが倒れてしまったら、ご両親もきっと悲しまれるわ」
「……そうですよね」
 自分の身に何かあったら、それこそ両親に顔向けできない。
 バッグから取り出したカメラで桜の写真を撮る。幼少時に家族で自宅近くの公園に行き、花見をしたのを今でも憶えている。同じ場所に在り続ける樹のように、両親もどこかで自分を見守ってくれているだろうと信じていた。
 麗香に向き直って礼を述べる。心は雲ひとつない空にも似て清々しく晴れ渡っていた。
「碇さん、今日は本当にありがとうございました!」
「どう致しまして。またこうして一緒に遊びましょうね」
「はい、是非っ」

 行く先には、家族のぬくもりめいたあたたかな春が満ちている。


[了]