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<東京怪談ノベル(シングル)>


留守番の災難



 その日の夜、いつものように魔法を教わっている師匠が営んでいる魔法薬屋の手伝いとして店仕舞いを終えた後、ファルス・ティレイラはふぅと軽く息を吐いていまは彼女しかいない店内を見渡した。
 手伝い及び片付けを命じた店の主である師匠は用事があると言って出かけてしまっている。
 だから、自然ティレイラは師匠が戻るまでの間の留守番も行うことになったのだが、その師匠がいつ戻るのかについてはまったく聞かされていない。
 そもそも、何処へ行っているのか、何の用事なのかも知らされていないのだからいつ戻るのかなど見当の付けようもないのだが。
 片付けといっても作業量自体はそれほど多いものではない。
 店内を覆わんばかりに並べられている棚に整然と置かれている色とりどりの魔法薬には触れず、出かけるまで客の相手をしていたであろう場所に置かれていた薬だの薬の材料らしきものだのを元通りに戻してしまえば後は細かな掃除などが残っている程度だ。
 もっとも、その置かれている薬がいったい何の効果があってどの棚にあるべきものなのか、材料らしいというのはわかるけれど、こんな材料前にもあったかしら、分類は何になって何処に片付けてあったかしらと考え込まされるものもいくつかあり、知識の修行を兼ねていたといえなくもない。
 その掃除が終わる目処がつくと、まわりに並べられている様々な魔法薬にそれぞれいったいどんな効果があるのだろうだとか、お師匠さんはいったいいつ帰ってくるのかしらなどといった思考が頭を占めてくる。
 簡単に言えばほんのちょっとだけ『暇』という感覚が生まれてきてしまう。
 そんなティレイラの思考を読んだかのように、見渡した店内の隅に置かれたものが視界にするりと入り込む。
 それは部屋の隅に置かれた机の上にあった一冊の開かれた絵本。
 魔法薬屋にそぐわないその絵本には片付けのときから気付いてはいたのだが、さてこれが客の忘れ物なのか、それともまさか師匠の持ち物なのだろうかと考えてはみたもののわからず、ついつい後回しにしてそのまま置いておいたものだったことを思い出した。
 同時に、片付けに夢中で絵本ということはわかっていたものの、いったいどんな絵本なのかの確認まではしていなかったことを思い出した途端、むくむくと好奇心がわいてくる。
 机の上に置かれているのはその絵本だけではなく、やはり何種類かの薬が置かれており、そのことが余計にその絵本の存在を浮いたものにさせている。
 机のほうへと近づき、そうっと絵本を手に取る。
 ……つもりだったのだが。
 袖に何かが触れたと感じた瞬間、カタッ、という音が耳に届く。

「あっ!」

 気付いたときにはすでに遅し、絵本の傍らに置かれていた一本の魔法薬の瓶が倒れ、中に入っていた液体が机に──もっと正確に言えばティレイラの好奇心を刺激していた絵本にこぼれ広がってしまっていた。

「た、大変。ふくもの持ってこなきゃ」

 大切な魔法薬をこぼしてしまったこと、絵本を汚してしまったことなどに慌てたティレイラは急いで瓶を立ててそれ以上こぼれることは防いでから、ぱたぱたと急いで別の部屋へと駆けていった。

「これでまずは拭いて……きゃっ!」

 濡れた本を拭くための清潔な布を持って部屋を出て行ったときと同じくらい急いで戻ってきたティレイラは、しかしその作業を行うことができなかった。
 先程まではなかった甘い香りが鼻先をかすめたと同時に、何かがティレイラの足に絡まったのだ。
 不意をつかれたティレイラはそのままバランスを失い転びそうになり、慌てて手で身体を支えようとしたのだが、その手に走ったのは固い床の感触ではなく何やら変にやわらかく弾力のあるものだった。
 そのぐにゃりとした感覚に今度は手をとられ、完全にバランスを崩してしまった身体もそのまま床に倒れこむ……が、その身体をやはりいやにやわらかい何かが受け止める。

「な、な、なに?」

 床ではない、もちろん先程まではなかったものに倒れこんでしまったことにティレイラが慌てて自分の身体と辺りを見れば、ピンク色の不透明な塊がぐにぐにと僅かに動きながらティレイラの身体にまとわりついていた。
 それが一般的にスライムと呼ばれているものであることにティレイラが気付いたのと、そのピンクの塊がぐっと大きく盛り上がり口のようにぽっかりとあいた穴にティレイラを飲み込もうとしたのは同時だった。
 逃げようともがく間もなく、ティレイラの身体はピンクのスライムにすっかり飲み込まれてしまっていた。

(……!)

 完全にスライムの中へ閉じ込められたティレイラは慌てて身体を動かして脱出しようと試みるが、いくらもがこうとしても弾力のあるスライムにすべて弾き返されてしまう。
 せめて腕や足を伸ばそうと強く力を入れても、一瞬ぐっと伸びはするがすぐに元に戻されるだけで何度やってもそれの繰り返しで埒が明かない。
 甘い香りとあいまって、まるで自分がやわらかくなったガムの中に閉じ込められたような気分になってくるが、いくら食べものが好きなティレイラとはいえ、こんな巨大なしかも生きているガムの中に閉じ込められるなど嬉しいはずもない。
 何度も何度ももがいているうちに弾力はますます強まり、疲労だけがたまっていく。
 しばらく経つうちに、すっかり疲弊してしまったティレイラはその中でぐったりと倒れたままほとんど動かなくなってしまった。
 もうこうなってしまっては師匠が帰ってくるまでは自分ではどうすることもできない。

(お師匠さぁん……早く戻ってきてください……)

 やがて帰宅した師匠より、こぼした魔法薬には具現化の効能があること、現れたスライムはその薬がかかった絵本の開かれたページに描かれていたものだとティレイラが説明されるまでにどれだけの時間がかかったのか、それはいまのティレイラには知る由もないことだった。