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<東京怪談ノベル(シングル)>


『海向こうへ』
山中を走る車両に木漏れ日が射し込み、人のいない座席を緑に染めた。
カタンコトンとただそれだけしか音がなく、吊革が全て同じように揺れている。
窓の外には木々が流れ流れて、時折それが開けると田園風景が広がった。

海原みなもと草間零が駅に降りると、二両しかない電車はのろのろと走り去っていった。
駅舎に向かうために陸橋を渡りながら、歩く度に響く乾いた金属の音を聞いた。
陽の当たるところは暖かく、陰に入ると寒かった。
雲の浮かばない青空の色は薄くて、遠くの山の濃緑がとても暗く見えた。

上を見上げながら、みなもはほんの少し前、黄金世界を訪れた日を思い出していた。
零が見た彼女のその横顔は悲しげではなかったが、遠い記憶を手探りで手繰ろうとするような、少しばかりの寂しさが見て取れた。
まだ肌寒かったあの春の日、事件は終わりとされた。

鬼は生きていく。
その結末は、彼ら三人だけが見守った現実の続きに過ぎなかった。
しかし、彼女はそれで好いと思った。
自分に出来る事は何かと問答した末の寂しげな言葉にしても、好いと思った。
ただそれでも、あの世界の向こうへ消えていった者達の中で、どこかに生き延びた人がいるのではないかと、その事だけが気がかりで、またこの町へ来たのだった。

みなもは以前見知った、残された人達の家を訪ね歩いた。
彼らから再び話を聞くのは、簡単な事とは言い難かった。
余所者への対応に余裕など持てるはずもなかったし、いなくなった人間の事を何度も調べ回っていると言うのは、みなもの穏やかな外見にも勝る疑心暗鬼を呼んだ。
時には、怒鳴られもした。

「みなもさん……」
「大丈夫ですよ。さあ、行きましょう」

彼女は毅然と歩き出し、またあの山へと向かった。
常に前に立ち、その表情は見せなかった。
幅広の道路が妙に自分を小さく見せ、両端の家前に茫々と生えた雑草が、辺りの音を吸っていた。

正午を回ると気温が上がり、ひんやりとした山道も少しは歩きやすくなった。
年老いた木が多く、幹はひび割ればかりが目立ったが、意地でも見せるかのように細々とした枝には濃い色の葉が豊富に茂っていた。
地面から盛り上がる堅い根を踏みしめ、少し汗を拭うと、力を入れ直して登っていく。
またあそこへ入れるのだろうか、この方法で失踪者を捜す事など出来るだろうか、もしも見つけられたらばどうなるだろう、考えを巡らせれば、切りがなかった。

「この辺りなんです。零さん、何か分かります?」
「何も見えませんが、確かに空間に異常が見られます」

以前来た時にも感じた、さわさわと周囲が落ち着かない感覚が二人を取り巻いた。
樹木もまばらなその台地は、歩いていると日向と日陰が連続し、時折眩しさを覚える。
二人はゆっくりと辺りを見回しながら歩き続けた。
ある時、一際光が強くなり、みなもは再び黄金世界の地を踏んだ。

流れる空気は優しげで、深い森は地面に敷き詰められた落ち葉と、木々が豊かに抱いた黄金色に包まれて明るい。
ここは、変わらなかった。
変わる事が出来ないのかも知れない。
訪れたのはほんの少し前だったにも関わらず、ひどく懐かしさを覚えた。
まるで時の歩み方が異なってでもいるのか、あれからの数週間は、ここに来て振り返ると数年にも思えた。

急に恐ろしさを感じ、寒気が走った。
漠々としたこの世界を彷徨い、自分は本当にどこかへ辿り着けるのだろうか。
行ける事も帰る事も出来ず、この怖さすら憶える穏やかさの中に、溶けていってしまわないだろうか。
あの時いた仲間達は、もういないのだ。

「零さん、零さん!」

焦って振り返ると、零はそこにいた。
不思議そうに小首を傾げている。
みなもは力が抜けたように息をついて、自身の情けなさに腹が立った。
意識をはっきりさせようと頭を振って目を開くと、風がふわと通り抜けた。

もう一度、あの骨が捨ててあった場所、貝塚を調べたかった。
零はたゆたう怨霊を探って向かう方角くらいは見定めようとし、みなもはケリュケイオンを地面へ突き立て、地や木々に含まれる水から流れを辿った。
なかなか上手くはいかなかった。
この世界には霊的概念が希薄にしか存在せず、みなもの方はとにかく体力を消耗していった。
いつ果てるとも知れない森が少しだけ開け、その穴を見た時、二人は疲れ切っていた。

穴を覗き込んでみると、中では変わらず獣や人の骨が落ち葉を浴びていた。
集中して見ると、上の層は最近のものである事が分かる。
それは肉が腐り落ちて白骨化した訳ではなく、綺麗な骨だった。
食し方など想像したくもなかったが、あの鬼の姿を思い出した。
骨々の滑らかな白はどこか現実味を帯びていなく、薄気味の悪さと共に、漫画の出来事でも見るかのような、どこか他人事とも感じられる時間が過ぎた。

しばらくするとみなもは意を決し、ケリュケイオンで地面を突いた。
彼女の頬からは汗がしたたり落ち、零は心配そうな顔をして止めようとしたが、その表情を見てやめた。
杖の先端は地中で幾筋にも分かれ、深々と地と根を突き通していった。
みなもの視界、辺りの景色に徐々に異物が紛れ込み、次いで種々の音が波のようにやってくると、最後に感情や意志が色のように被さって、膨大な水の記憶が彼女を飲み込んだ。

流れ込む全てを拒絶するようでなくては、意識を繋ぎ止める事も困難だった。
だが彼女は激流の中を、藁をも掴むように手を伸ばした。
指先ででも、人の存在を探り当てようとした。
獣の鳴き声や、鬼の背中、植物の鼓動が吹き飛ぶように霧散して、突然ブツと言う太い音と共に真っ暗になり、鉛臭さが広がった。



ふと、コツコツ、と古めかしい時計の音が聞こえた。
いつの間にか、薄暗い中で木の天井がぼんやりと見えていた。
それが多少歪んでいるのは、涙のせいでもあったことが知れた。
近くで誰かが声を潜めて話しているのが分かる。
ここは何処だろうか、そう考えて布団から身体を起こそうとすると、激しい頭痛が走って、思わず声を上げた。

「よかった。みなもさん、起きたんですね」

ふすまがそっと開くと、細々とした光が射し込んで、零が顔を出した。
彼女はみなもの額に乗ったタオルをどけ、それを洗いに行ったり、ぱたぱたと動き回っていた。
まだ夢の続きでも見ているかのような、重みのない現実が続いた。
その内に、あの時に見た記憶が思い出された。

ひどく断片的な風景の中で、鬼が生きている様と共に、死んでいった人間の様子が浮かんだ。
その中には、話を聞いた人々がその帰りを待っている者も含まれていた。
あの生を認めた時から、こうした事実を受け入れたはずだった。
今更泣くのは間違っていると考えても、それでも一筋、涙が流れた。
こうして再びこの町に来たのも、単なる感傷に過ぎなかったのかもしれない。
そう思えてしまうのはとても残念な事だった。

「獣と同じだ」

声に目を動かすと、以前あの世界から帰ってきたと語った老婆がそこに立っていた。
みなもが必死に身体を起こし辺りを見てみると、ここは彼女の家らしかった。

「腹が減れば獲物を喰う。危ないと思えば相手を襲う。そうじゃない時は、何もしない。その辺の生き物と何も変わらない。連れて行かれたもんは、不幸なもんだ。自分から入ったもんは、恐ろしくても敵意を見せちゃあいけない。腹が一杯なら、あれはただこっちを見ているだけだ」

なかなかそうはいかんがね、と向こうへ消えながら嘆息を吐いたようだった。
代わって零が入ってきて、みなもの具合を確かめながら、彼女が倒れてからの話をしてくれた。
長い時間をかけながらもあの空間からみなもを担ぎ出した零は、消耗しきってしばらくの間台地で動けなくなっていた。
するとそこに老婆が通りがかり、みなもの顔を見て、何も言わずに零と一緒にここへ連れてきてくれたと言う。

まだ少しぼうっとする頭で、訝しく思った。
どうしてあのような所に老婆はいたのだろう。
あの日、あの場所について言葉少なに語る老婆の表情が思い出された。
みなもははっと布団から立ち上がると、彼女のもとへ行った。

「随分前の話だ。まだ私が十になるかならないかの昔さ。健太言う子といつも一緒に駆け回っていた。あの山は私達の遊び場だったんだ。水筒と、特別な日には菓子でも持って、よく行った。ある時、もっと探検してみようと山奥へ入っていった時、あそこへ行ったのさ。中であれに会ったよ。子供だったからか、私達二人とも怖いとは思わんかった。不思議に思っただけだ。二人して歩き回って、しばらく遊んだ。宝物置き場を見つけてね。綺麗な時計や、古めかしいライターや、ボロボロのナイフやなんかがたくさん積んであって、面白がって手に取ったりしていた。大分長くそうしていたような気がして、そろそろ帰ろうかと言う話になった。歩いて、歩いて、気が付いたら、元の山にいた。今でも夢だったんじゃないかと思う。だけど、健太は帰ってこなかった」

それから彼女は、何度もあの場所へ足を運んだと言った。
しかし少年は見つからなかったし、あの世界を見る事も二度と無かった。
この事は習慣のように続いたが、それも今では単なる感傷に過ぎなくなっていた。
老婆はそう、力なく笑った。

紺色の空に燃えるような赤が溶け始め、軒先には朝露がじっとしていた。
みなもは三度、山へ向かって歩いた。
零はせめてもう少し休むように言ったが、聞かなかった。
今現在行方の分からなかった人々の死を知ったからには、こんな事は気の慰みにしかならないだろうと、分かっていた。
しかし、彼女はそれでも好いと思った。
それでも、自分に出来る事をやろうとした。

今度はすんなりと、彼女達はその空間へ導かれた。
道を捜す作業にはもちろん苦労したものの、夢中になる事で疲労は感じなかった。
行き着いたのは、鬱蒼とした森の中に目を懲らしてやっと分かるような、石を組み上げた小さな社のようなものだった。
古いものや新しいもの、種々雑多な細々とした物が、そこから地面にはみ出して積まれていた。

はらはらと葉が降る中で、物言わぬ品々がじっと佇んでいる様は、いかにも役目を終えた物のように映った。
みなもはそっと膝を降ろすと、決して乱暴には扱わぬように、一つずつそれらを手に取り置いていった。
端から見ればその様子は愛おしそうにすら見えて、この明るい世界で優しげな瞳をした彼女は、絵画的で美しかった。

やがて色褪せた暗緑色の水筒が姿を現し、みなもはそれを持ち上げた。
覆われた布は所々すり切れていてひどく古ぼけて見えたが、それでも彼女はそこにまだ何かが息づいていると思った。
するとそれに応えでもしたのか、蓋は錆び付く事もせず滑らかに開き、垂れた雫は澄んでいた。

彼女は目を閉じた。
そしてゆっくりと左手を開いて、水筒を傾けた。
透明な水滴の中を黄金色が乱反射し、一際強く輝いて、みなもの手の中で弾けた。
辺りに小さな光が舞い散り、彼女は息を吸った。



老婆の家から海岸へ降りていくのは、少し歩いて大きな国道を渡ればすぐだった。
防風林である松林の切れ目を抜けると、海風と共に青空と大海が広がった。
みなもは砂浜を踏み、波打ち際まで進んでいった。

幼い二人の思い出は、暖かな色をしていた。
ぼんやりとしか分からなかったものの、何十年も前に消えた彼、その記憶、気配が途切れたのは、死や物理的な要因ではない事は、そうと感じられた。
いやにはっきりと分断されていたその先は、空間的、時間的な向こうに思われた。

生きている、そう信じた。
どこか違う世界、どこか違う時へ発ってしまったのかもしれないけれど、それでも生きている事が大切に思えた。
彼はこの海を越えた先へ辿り着いたのかもしれないし、もしかすると浦島太郎のように、明日にでもひょっこりと帰ってくるのかもしれない。

潮の香りを受けながら、みなもは果てのない青を見た。
陽は暖かく、風は爽やかだった。