コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


【魔性 〜月の雫】





 カラン、という鐘の音が鳴る。
 古木の蒸れた、どこか懐かしい匂いが鼻をくすぐる。
 開いた扉の隙間から、すり抜けるようにして漂って来るのは、匂いだけではない。妖気か、後光の残滓か、その触れがたい空気が足下からけぶり立つ。アンティークショップ・レンに訪れたみなもは、ぶるっと身体をひとつ奮わせた。神性にも魔性にも、どちらにも昇華しきっていない人の俗世、その気配が振り払われる。恐ろしいほど身が軽くなる。
 禊をすませ、重い扉を半ばまで押し開けて、中へと入る。
 店内は埃をかぶった年代物があふれ返り、採光窓から差し込む陽射しは、澱んだ空気に侵食されてか、鈍色じみた光と変わる。寂しげな夕焼けの光線は、漂う埃を輝かせる一方で、積み上げられた古物から発せられるオーラによって遮られる。
 立ち上る不気味な雰囲気の元に目をやると、なにやらいわくありげな品々が無造作に置かれてある。
 店の奥、壁際にしつらえてある応接セットに店主碧摩蓮が座っている。
 「あら、早いわね」
 焦げ茶の革ソファに腰かけたまま、「どうぞ」と手を振り、みなもを向かいのソファへ促す。
 ビロード地のソファに、みなもは少しだけお尻を乗せる。蓮は深々と腰かけ直し、身体を傾けながら足を組む。
 「これ……」
 みなもの視線は、低いテーブルの上にある、杯(さかづき)状の燭台に吸い寄せられる。
 「そう、水鏡燈」と、蓮は答えた。
 杯の握りの部分は、女性が両手で握ることができる程度に長い。その握りの内側は刳り貫かれており、そこに蝋燭が差し込んである。
 杯の椀には水が張られ、ひとつの波紋も立っていない。
 蓮が蝋燭に灯をともすと、水底(みなそこ)の中央に薄紅色の小さな円が表れて、椀全体に拡がっていく。その拡大を追うかのように、鮮やかな血の色が紋様を描いて広がる。幾何学模様を描いたかと思えば、曲線で花弁や樹葉を描きだす。眺めていると、椀の内側から水中に、赤い光が飛び出した。あちこちで螺旋を描き、縦横無尽に椀の中を行き交い始める。
 にもかかわらず、水面はなお鏡のように平らなまま。そこにみなもの顔が映っている。すこしだけ脅えたような、神妙な顔が映る。

   ここに月の雫を沈めたら――

 水面に映るみなもの瞳は、妖しく細められていた。
 「欲しいの?」
 いって、蓮はソファの背に身体を預けたまま左手を前へ伸ばした。優美な指先は杯からはほど遠いところで止まったものの、差しているものが杯であることは明白。
 「蓮さん」
 震える声でいいながら、みなもは耐えた。
 欲望に流されまいと、自分の身体が変容しまいと、肚の底で打ち震える衝動を押さえ込んだ。
 堪えようと力を込めた瞳の奥で、紅い光が煌めいた。耳の奥で、熱い衝動が蠢いたのをみなもは感じ、慌てて目をつむって首を振った。
 「あたし……」縋るような声でいった。「怖いんです。怖くって仕方ないんです!」
 膝の上で組んだ両手に涙がこぼれた。
 「月の雫を手にしてから、あたしは自分の欲求を――こんなにも色んなものを欲しがっていたってことを――知ってしまった。色んなことを我慢していた。不平を口に出すことも。相手の本心を知ることも。危険な恋の憧れだって。すべてが消えてしまえばいいなんて、そんな嫌なことだって願う人なんです」
 みなもは顔を上げて、蓮を見つめた。
 「あたしは、そんな自分を知ってしまった。そしてあたしは、その欲求を満たしたんです。今までは、遠慮していていえなかったことをいった。してはいけないと信じていて、できなかったこともした。両親に怒られるだろうから、こんなことをしたら友達に嫌われるだろから。そんな気持ちがどこかに追いやられてしまったんです。社会のルールを壊してもいいとさえ思ってしまった。胸の奥がくすぐられると、月の雫が熱くなると、あたしは自分が怖くなる。また一線を、超えてはいけない一線を、超えてしまうんじゃないかって」
 「そうね」蓮はいう。「あなたは変身したわ。水鏡燈の作り出した闇の中で。あのときのあなたは、とても理性的に物を話した。けどその姿は、その雰囲気は、気高い混沌の女王だった。ちょっとしたことで崩れそうな――いいえ。ちょっとした衝動で簡単に言動を変えそうな、危なっかしい感じだったわ。さまざまな情念渦巻く混沌に囚われた――ミストレス。あれを怖がるのなら、いい傾向よ」
 安心しなさい、とでもいうように蓮は微笑む。だが、
 「このあいだ」みなもはか細い声でいう。「ようやっと自分を抑えられるようになったんです。自分の魔性を受け容れて――それでも! まだ怖いんですっ!」
 じっとりと汗をかいた両手を開いた。スカートでぬぐっても、嫌な汗の感触まではぬぐえなかった。
 だから振り払おうとした。だから姿が変容していた。
 店の埃が、差し込む西日に煌めいている。
 引くいテーブルを足下に、二人の美女が向かい合う。だが一方は、どんなに大人びた姿であっても、そこにいるのは少女だった。
 みなもはわめくようにいった。
 「身体だって変えられる。空だって飛べるし、力だって自由に使えるっ」
 虚空に指を差し入れ、光の帯をつまむように空間に皴を作った。
 「やめなさい!」蓮が鋭くいい放った。「ここの空間は、外とは少し違うんだ」
 蓮はひとつ息を吐き、それで、と続けた。
 「あなたは、その力を捨てたいの? 残したいの?」
 「……」
 一瞬の沈黙。
 表層での葛藤。
 胸の奥底では決まっていた。残したい。
 「あたしは――」
 「ある神話では」
 蓮はみなもの言葉を遮った。
 「人の想念は月に昇ると語られている。人だけじゃあない。獣も鳥も草木も同じ。空へと昇る。大地に留まる想念は、この地に未練があるか、まだここで何かに尽くしたいと願っているかのどちらかだ。すべていつかは月へと昇る。だが月へと昇った想念も、いくばくかの未練はある。この大地に、この人の世に。夜の海に映った月が、その想念が、地球に憧れ、涙を落とした。それが月の雫といわれている」
 月の雫は、海で拾った。
 みなもが思い出している間も、蓮の言葉は続いていた。
 「肉体からも、世のしがらみからも解放された想念が、情念が、欲望が、大地に憧れきってしまったために、こぼした涙。だから、それを手にした人間は、理性の咎を飛び越える。あんたが手にした月の雫が、どんな想いを宿しているのか――たったひとつの希いなのか。複数入り交じった葛藤めいた欲望なのか――おそらく後者だと思うけれど」
 「あたしが、月の雫に――」
 「乗っ取られている。というわけじゃあないよ。ただ、欲求の吐き出し方とか、変身したときの性格とかね。あんたの話を聞いてると、攻撃的すぎるわけでもない。陰湿すぎるわけでもない。ただ、小悪魔的なのさ」
 いって、蓮はからからと笑う。
 「怖いなら知ればいい。あんたが拾った月の雫が、どんな想念を宿しているのか。この太陽の杯を使ってね」
 「え?」と、みなもは驚く。
 「もちろん、あんたの月の雫は力が強すぎるようだから、直接杯の中には入れさせられない。だから」
 蓮は右手を掲げ、つまみ上げるような仕草をした。
 「映すのさ。この杯に。あんたの月の雫をね。空間をはぎ取れる、あんたの能力なら。物体が映り込んだ水面。水と大気の間の空間、光の中へ行けるはずさ。そこで追体験するといい。そうすれば、分かるかもだね。すべてを――それか、ほんの少しを」
 釘を刺すように蓮は続けた。
 「囚われきってしまったら、戻ってこれないかもしれない。けど、あんたなら大丈夫だろうよ。それに、月の雫に宿った想念さえも解放できるかもしれない。あんたが追体験しながらも、別の道を選べたなら、ね」

 一瞬の無言。
 口の中が乾ききって、すぐには声が出なかった。
 なにやら楽しそうに微笑む蓮を、いぶかるような目で見つめる。
 そしてみなもは、決断を口にする。
 「あたし――」





     (了)