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<東京怪談ノベル(シングル)>


影絵猫


 まるで、夢を見ているような気分だった。
 何処までも続いていくのではないかと思わせる長い廊下。前を歩く研究員の人が着込む白衣と同じぐらい白い壁と床は、清潔にして静謐、沈黙を保っているわたしの心を押し潰す。
「海原さん。どうか、なさいましたか?」
「い、いえ」
 振り返りもせずに問いかけてくる研究員に、わたしは心臓を跳ね上げながら答えていた。
 動悸は収まらず、胸に痛みすら覚えている。手足は不思議と微かに震え、切っ掛けを与えられれば、すぐにも駆けだしてしまいそうだった。
(こんな、場所でしたっけ?)
 記憶を辿り、自らの居る場所を思い起こす。
 これまで、何度も何度もアルバイトのために訪れていた研究所。
 ペットや飼い主に関連した遊具を開発、研究している小さな研究所に、今日もわたしは訪れていた。
 数日前に連絡を貰い、学校帰りにバスで立ち寄り、大きな門から敷地に入り、出迎えてくれた研究員に付いていく。
 これまでに何度も訪れた研究所。実験のためか、広大な敷地の中を歩いていく。
 奥へ、もっと奥へ。
 わたしがこれまで訪れていた研究施設とは、また別の場所。この敷地には何棟もの研究所が建ち並んでいるけど、わたしはそれまで一度も足を踏み入れた事のない建物へと案内された。
 不安があった。恐怖があった。
 一度でも行った事がある場所なら、この威圧感にも耐えられたかも知れない。
一度でも会った事のある研究員なら、もっと安心していられたかも知れない。
わたしを包む重圧は深海のようで、真白く染まった世界は目を曇らせて思考を麻痺させる。
「さぁ、こちらです」
「あ、はい‥‥‥‥」
 研究員の声にハッと顔を上げて、わたしは単調に動き続けていた足を止める。
 歩いている間に本当に眠ってしまっていたのか、わたしは目前の扉が開かれているのに、数秒も掛けてからようやく気付く。扉を開けて待ってくれている研究員は、そんなわたしを微笑みながら見つめていた。
 ‥‥‥‥その微笑みに、安堵よりも先に不安を覚えてしまう。
 飼い主が、ペットに悪戯するような邪気。
 形容しがたい寒気に、背筋を小さな稲妻が駆け抜ける。
「失礼します」
 それでも、わたしは導かれるがままに研究室の中へと入っていった。
 一度受けた仕事を放り出して逃げ帰るような事は、わたしには出来なかった。それに、何よりも‥‥‥‥わたしの意思に関係なく、足は研究室の中へと躊躇うことなく踏み込んでいたのだ。
 止まる事のない足は、それまでの震えが嘘のように止まっていた。胸中の不安、恐怖はそのままに、わたしの体は自然と前に進んでいく。
「今日から、ここで例の実験に協力してくれる海原 みなもさんだ。みんな、よろしく頼むぞ」
 案内をしてくれた研究員の方が、扉を閉めながら研究室の中に居た人達に声を掛ける。
 研究室の中には、いくつもの机と棚が並び、パソコンも何台も置かれていた。分厚い資料があちらこちらに積み重ねられていて、見た事もない文字が羅列している。
 そんな資料を睨めっこをしていた何人もの研究者の人達――みんな、案内をしてくれた人と同じで白衣を着込んでいた――が、声を掛けられて一斉に席を立ち、わたしに目を向けてくる。
 みんな、一様にして微笑みを浮かべ、わたしを迎えてくれた。
「よろしく。海原さん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 わたしは頭を下げて、研究者の皆さんに笑い返していた。
 でも、心の中は夢の中にいるかのように不安定で、酷く心細い。
 ‥‥‥‥それも、当然だったのかも知れない。
 案内をしてくれた人も、研究室にいる人達も、わたしには顔にノイズが走っているようにしか見えなかったから‥‥‥‥

●●●●

「それじゃあ、こっちの部屋で着替えて頂きますね」
「は、はい」
 挨拶もそこそこに、わたしは女性の研究員の方から仕事内容を説明され、研究室の隣の部屋で服を着替える事にした。
 学校帰りに来ていたため、わたしは制服のままだった。制服を脱ぎ、研究員さんに服を預けて衣装を受け取る。
「これに着替えるんですか」
「ええ。着替えたら、ちょっとメイクもしますから。手早くお願いしますね」
 わたしは受け取った服を広げて、思わず苦笑してしまった。
 渡されたのは、猫‥‥の着ぐるみである。全身にフワフワとした毛を纏い、猫耳と長い尻尾までしっかりと揃っている。
 柄はない。全体的にクリーム色の毛並みが生え揃っていて、柄の入る余地はありそうにない。
「貴方の写真は、前もって貰っていたの。虎猫とかだと、ちょっとイメージに合わなかったのよね」
 研究員さんは、そう言いながら苦笑している。
「あまり可愛くないかも知れないけど、出来る限り頑張ってみたわ」
「お心遣い、ありがとう御座います」
 虎柄のイメージじゃない‥‥‥‥うん。確かに、虎柄は、もっと強そうな人にピッタリなイメージだから、わたしだと似合わないだろう。でも、わたしに合わせて着ぐるみを作ってくれていたなんて‥‥その心遣いが、少しだけ嬉しい。
 背中にファスナーが付いていたため、わたしはそれを開けると、スルリと中身体を滑り込ませた。
 私の体格に合わせて縫ってくれたのか、サイズはピッタリで肌触りがとても良い。まるで私の体に吸い付くように張り付いてくる感触。でも、動き辛い事はなくて、むしろ布団にくるまっているように暖かくて心地良い。
 目蓋を閉じれば、そのまま眠ってしまいそう。勿論、眠るわけにはいかないので、すぐに動き出す事にした。
「着替え終わりました」
「あら、可愛いわねぇ。本当に猫みたい」
 研究員さんは、頬に手を当てて嬉しげに微笑んでいる。だけど、それを見ても、わたしの心はまだ晴れずにいた。
 何でだろう。研究員さんの口元が綻んでいるのは見える。頬も僅かに上がっていて、笑みを浮かべている、というのは理解できる。なのに、その目元には白い霧のようなノイズが漂っていて、記憶には残らない。
 まるで、夢を思い出そうとしているような心地だった。
 思い出そうとしても、思い出せる光景は不鮮明。声は遠く、だと言うのに心の底にまで響いてきそうな重い音‥‥‥‥
「仕上げにメイクをしますから、そこの椅子に座ってジッとしていて下さい」
「は、はい」
 これが現実なのか、それとも夢の中なのか‥‥‥‥判別する事も出来ない世界で、わたしは研究員さんの指示に大人しく従っていた。
 研究員さんは、何やら墨のように黒い液体の入ったパレットを片手に筆を走らせる。
 わたしの顔に髭を描き込み、何やら模様のようなものも描き加えているらしい。鏡を見ているわけではないため、わたしには何を描いているのかが分からない。
 ただ、筆が走るたびに、わたしの体はピクピクと微かに痙攣して反応する。
 くすぐったい筆の感触よりも、得体の知れない、自分が塗り替えられていくような錯覚に体の震えが止まらない。それまで着ぐるみだった衣装がわたしと一体化して、本物の猫に変化する。
 勿論それも錯覚だ。わたしの体はあくまでわたしの体として機能する。
 だけど――――何処までが現実で何処までが夢なのか、その境界が分からない。
「全部現実です。大丈夫ですよ」
「‥‥‥‥えっ?」
 研究員さんが、わたしの耳元で呟いた。
 手にしていた筆は既に止まり、パレットの墨は綺麗に消えている。それまでの悪寒や恐怖が嘘のように晴れ、一体何に怯えていたのか、何を不安に思っていたのかを思い出す事すら出来なかった。
「貴女は、何も怖がらなくていいんです。その猫さんに呼ばれた貴女なら、きっと上手くいきますから」
 研究員さんの言葉がワカラナイ。
 何か、とても大切な事を言っているような気がするのに、思考に没頭する事が出来ずに聞き流す。全身を包む暖かく柔らかな感触に意識は朦朧とし、目蓋を閉じれば今にも眠ってしまいそう。
「あの、この後はどうすればいいんでしょうか?」
「そうですね‥‥‥‥特別、することはないんですよ。その格好のままでしばらく過ごして頂き、最後にその感想などを言って頂ければ、それで十分です」
「それだけでいいんですか?」
「ええ。勿論、その過程で色々とデータを収集しますが、そのデータ収集は別室からモニターしますので、海原さんに何かをして貰う、という事がありません」
 研究員さんは、そう言って微笑んでいた。
 勿論、研究員さんが言うようなアルバイトはこれまでにも経験した事がある。一般的に“モニター”と呼ばれる仕事で、商品の使い心地について感想を伝えたり、使用した事によって得られるデータを提供する仕事である。
 珍しい仕事ではない。大抵の商品は、流通する前に必ず使い心地を試すものだ。それが社員の人達であれ一般の人達であれ、必要な仕事である事には変わりがない。
「では、実験‥‥モニター室に案内しますね」
 わたしは更衣室から連れ出されると、そのまま別の部屋へと案内された。
 とことことこ‥‥‥‥ぺたぺたぺた‥‥‥‥
 研究員さんの足音は、白い廊下に反響して耳に深く浸透していく。
 それに対して、わたしの足音は耳を澄ませなければ聞こえないほどに静かで、自分が歩いているのかどうかすら疑ってしまうほどだった。
 猫の足音は聞こえないと言うけど、どうやら本当らしい。この猫の着ぐるみにはぷよぷよとした肉球まで用意されていて、何から何まで猫その物の動作を再現する。
 むしろ、立って歩いている事の方が辛かった。
 猫は二足歩行で歩かない‥‥‥‥だからか、この着ぐるみを着込んでから、わたしはどうしても、自分の行動に違和感を覚えてしまう。
「こちらの部屋です」
 扉が開かれ、わたしは一人でペタペタと入り込んだ。
 部屋の中には、大きなフカフカのソファーとタオルケット、毛糸玉や猫が使うような玩具があちらこちらにコロコロと転がっている。
 人間のための部屋ではなく、ペットの遊戯室のような場所だった。四方八方を真白い壁と床、天井に囲まれているために玩具の存在が強調されて目に眩しい。
 部屋の隅の天井に用意されているスピーカーとマイクが、ここが仕事場なのだと唯一意識させてくれる物だった。
「この部屋で、のんびりとくつろいでいてください」
「あの、本当にそんな事でいいんですか?」
「勿論です。今回の研究は、みなもさんを“観察”することが目的なので、取り立ててこちらから指示を出す事はないんですよ」
「そうは言っても‥‥‥‥」
 楽な仕事‥‥と思えば楽なのだろうが、実際には仕事の間、ずっと監視される事になる。それも一人で密室に閉じ込められ、ジッとカメラ越しに観察されるのだ。その薄気味悪さ、居心地の悪さは容易に想像できる。
 例えるなら、仕事場で常に上司がジッと背後に立っているようなものだろうか?
 勤務時間はほんの数時間だが、その間に神経が参ってしまいそうだった。
「お疲れでしたら、ソファーで眠って頂いても構いません。午後七時になりましたら、こちらで夕食をご用意させて頂きます」
「あ、はい。ありがとうございます」
「では、ごゆっくり‥‥‥‥」
 そう言うと、研究者さんは部屋の外から扉を閉める。バタン、ガチャッ。ご丁寧に鍵まで閉めていく辺り、完全に軟禁状態。自由に行動していて良いと言われても、それもこの室内に限定されている。
「さて、どうしましょうか‥‥」
 一人で残され、わたしは室内を見渡しながらヨタヨタとソファーへと歩み寄った。
 床にペット用品が転がっているためか、“何かしなければ”と思うところはある。ただこの部屋で過ごしているだけで良いと言われはしても、ソファーで眠ってそのまま勤務終了ではさすがに申し訳がないし、何よりも恥ずかしい。
 ‥‥だと言うのに、ソファーに向かう足が止まらない。猫を模した着ぐるみの温もりが、あまりに心地良くて目蓋がウトウトと下りてくる。
 眠りたい。眠りたい。眠りたいけど、遊びたい。何かをしたい。ジッとしてなんていられない。まるでわたしが猫になってしまったよう。遊びたい時に遊んで、眠りたい時に眠る。人目など気にもせず、ただただ思うがままに生きている。
 そんな生き方に憧れた事もあったけど、でも、ここで実践するのはちょっと‥‥‥‥躊躇われるはずなのに、私の体は言う事を聞いてはくれなかった。
 ぼふっ
「ふにゅぁ」
 我ながら気の抜けた声だとは思ったけど、それでも出さずにはいられなかった。
 体から力が抜けて、ソファーの上に寝転んだ。先客として先に寝そべっていたタオルケットを手繰り寄せ、ぼふぼふと叩き、もみもみと揉んで顔を埋める。タオルケットは洗濯したままで放置されていたのか、柔らかくスベスベとした肌触りで、顔を埋めていると気持ちが良い。熱くもなく冷たくもない。肉球越しに伝わるソファーの弾力も、極上のベッドに体を預けているようだった。
「にゃぁぁ‥‥‥‥」
 眠い。あまりに眠くて、抵抗しようにも目蓋が自然と下りてしまう。
 世界が暗闇に閉ざされていく様は、まるで自分という存在が段々と消えていくような錯覚を呼び起こす。
 この着ぐるみに包まれてから、自分が自分でなくなるような、こうしてベッドに寝そべり心地良い感触を堪能しているのも、自分ではなくもっと別の誰かのような、奇妙な錯覚が襲い続けている。
 にゃーにゃーにゃんにゃん。頭の中で猫の声が反響する。
 何処に猫がいるのかと目蓋を僅かに開けて室内を見渡し、そして何も見つけられずに再びソファーに顔を埋めて目蓋を閉じる。
 にゃーにゃーにゃんにゃん。頭の中で猫の声が反響する。
 決してうるさくもなく、不快でもない。遠くで猫が鳴いていると、わたしはそんな風に感じていた。可愛らしい声が絶えず耳に届いてくる。夢の中で、可愛らしい猫が鳴いている。
 ‥‥‥‥全身から力が抜けて、タオルケットを抱き締めて本物の猫のように眠りにつく。
 にゃーにゃーにゃんにゃん。夢の中で猫の声が反響する。
 何処からともなく聞こえ続ける鳴き声は、夢に、心の奥にまで響き渡る。全身を包んでいる猫の着ぐるみ。その温もりは体の深奥にまで達して、わたしの力を奪い取る。
 夢の中での夢見心地。心の底まで達する猫の鳴き声に、わたしは抗う術を持っていない。
 にゃーにゃーにゃんにゃん。心の中で猫の声が反響する。
 夢の中に、一匹の猫が現れる。
 ‥‥‥‥何処かで見た事のある、猫。
 何故か、鏡に映った自分を眺めるように、わたしはその猫に魅入っていた‥‥‥‥


●●●●●


 対象が誰でも良かったわけではない。この実験の被験者となる人間には、ある程度の条件が必要だった。
「彼女は?」
「眠っています。体温が若干上昇中ですが、しばらくすれば落ち着くかと」
「初期の状態は、これまでの実験と大差がないな。問題は目覚めてからだ」
 別室でみなもをモニターしている研究員達は、それぞれが思い思いに資料を睨み付けながら、パソコンのモニターをチラチラと覗き見る。
 そこに羅列されているのは、みなもの体温や発汗の図や数値、グラフ化された脳波などである。
 素人目では、それが何を表しているか、みなもにどんな変化が現れているのかなど分からない。
 いや‥‥‥‥この研究員達にでさえ、みなもにどんな変化が訪れようとしているのか、それを正確に把握できているわけではない。むしろこれから把握するために、求められるがままに生け贄を差し出した。他の誰でもない、“我々”の存在のために、命ある者を差し出した。
「――――――――」
 ノイズが走る。自らの体に、心に雑音が混じり合う。
「気に掛ける事はない。ただ、我々は“あの子”の思うがままに――――――――」
 研究所にノイズが走る。
 まるで古びたテレビ画面だ。象がぶれて、戻り、色彩がずれ、雑音混じりに現実が再生されていく。
 ‥‥‥‥そんな中で、ただ一人、みなもだけが‥‥‥‥
「まだ終わらない。終わらない。終われない。我々は我々は我々は我々は、“あの子”について知らねばならん」
 病的な精神。壊れた妄念が現実を浸食する。
「にゃぁぁ‥‥‥‥」
 パソコンのモニターに、猫のように呻き、ソファーに寝転ぶみなもの姿が映し出されている。
 生け贄は心地よさそうに眠っている。本来ならば、暑苦しくて負担となる着ぐるみを着込んでいるというのに、そんな寝苦しさなど微塵も感じさせない。
 そこに居るのは、ただ少し大きな子猫だけ。
「ああ、もうそろそろ目を覚ましますよ」
 誰かの声に、皆がモニターに集中する。ソファーの上で丸くなっていたクリーム色の子猫が、ゆっくりゆっくりと体をピクピクと動かしている。
 ‥‥‥‥夢でも見ているのだろうか。
 人間大の子猫は、藻掻くように手足をばたつかせ、そしてソファーの上から転げ落ちた。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
 その光景を見て、“可愛らしい”とか“抱き締めたい”などと思う者はいなかった。ただ、身動ぎし悲鳴を上げるみなもを注視し、その反応に期待を馳せる。
 素質の有無は事前に調べてあるし、あの“猫”自身も自分で選んだ触媒だ。何一つとして問題はなく、実験の成功は約束されている。故に何も不安に思う事はない。思う事はないというのに、何故なのだろうか‥‥‥‥
 ―――― 一瞬、研究員の目には、床に転がっている猫が、一匹の魚に見えていた ――――
「  え?」
 我が目を疑い、そして目を逸らしてもう一度見る。
 魚など何処にも居ない。居るのはただ、大きな欠伸をしながら顔を擦る一匹の子猫だけ。
「今のは――――」
 誰にも分からない。誰にも分からない。
 分かるのは、この研究所を包んでいたノイズが、一際大きな雑音を伴ったという事実だけ。
「にゃぁ‥‥」
 お腹を空かせた子猫が、モニターの向こうでヨタヨタと歩いている。
 子猫にしては大きい。が、それでも子猫は子猫である。足下に散らばる玩具に気付くと、器用に足先で弄び、毛糸玉を追い掛け出す。
「そろそろ食事をお持ちしますが、人間用ですか? それとも――――」
「両方にしておけばいい。どちらに口を付けるのか、それも知りたいからな」
 影が言う。虚像が乱れて研究所が孤立する。
「かしこまりました」
 しかし、それを不審に思う者はいない。まるでそうなる事など事前に分かっていたか、自分達自身がその一部であるかのように、自然と動き続けている。
 この研究所は、闇に閉ざされた城のようだ。怪物の住まう古の城は、そこにあると言うだけで不自然な異常性を持ち合わせる。過ぎゆく時間を軋ませ、現実と虚像を混じり合わせて存在し、みなもという少女を連れてそのまま消えてしまいそう。
 ‥‥‥‥モニターの中で、みなもは静かに、楽しそうに駆けていた。


●●●●●


 眠っている間に、不思議な夢を見た。
 一匹の猫と、一人の人間と、一匹の大きな魚。
 人間と魚は仲が良く、一匹の猫はその二人の間に割り込んだ。
 にゃーにゃーにゃんにゃん。仲睦まじく抱き合う魚と人間を引き離す。
 にゃーにゃーにゃんにゃん。引き離した魚を引き裂き、喰らい取って代わろうとする猫は酷く醜く、恐怖の塊のようだった。わたしの背筋に悪寒が走り、その猫から目が離せなくなる。
 にゃーにゃーにゃんにゃん。バリバリと魚に爪が立てられる。だけどどうした事か。引き裂かれるはずの魚は猫の爪にもびくともせず、ビタンビタンと寂しそうに跳ねている。
 ‥‥‥‥その魚は、自分を待っているのだと理解できた。
 何故、そう思ったのかは分からない。だけど、その魚はとても自分に近しいナニカで、ニンゲンとしての自分にはなくてはならないモノだと信じられたのだ。
 助けに走る。走る。夢の中だからか、わたしの足は酷く遅く、猫と魚がどこまでも遠く感じられる。
 にゃーにゃーにゃんにゃん。猫が魚を放り出し、クルリとわたしに振り返る。
 にゃーにゃーにゃんにゃん。猫がわたしに駆け寄った。
 にゃーにゃーにゃんにゃん。猫がわたしに飛び付いた。
 にゃーにゃーにゃんにゃん。そして、猫の爪が、牙が―――――――――――――――――

 ――――――――っ!
「にゃ!」
 ソファーの上から転げ落ちる。嫌な夢を見て全身が汗でびっしょりと濡れていて、寝覚めは最悪。気分も体も、乱れた毛も何もかもが気に入らない。
「ふみゃぁ‥‥」
 体を器用に折って、毛繕いを始める。柔らかい毛を舐め、少しでも整えようと体を捻る。
 本当は全身を舐めてみたかったけど、わたしの体はそれほど柔らかくなく、残念ながら舐める事が出来なかった。
「にゃーにゃー」
 にゃんにゃん。
 ビキビキと音を立てている体が、痛い。痛い。まるで自分の体が別の体に入れ替わろうとしているよう。全身にまとわりつく汗も、寝ている間にこの痛みによって噴き出した物なのだろう。
 痛い。痛い。でも、その痛みは必要なのだと何故かわたしは思っていた。だから、わたしはこの痛みをわたしの中にいる誰かに押し付ける。押し付けて、意識から外して、わたしは自由に室内を駆け回る。
 目覚めたばかりだからか、体が変わろうとしている影響か、足取りは重く、苦痛を伴うものだった。
 それでもわたしは歩き続ける。
 苦痛を、わたしの中で泳ぐ別の誰かに押し付けながら、わたしは室内を駆け回る。
「にゃーにゃー」
 にゃんにゃん。
 玩具で遊ぶわたしを、わたしは宙から見続けた。
 追放された心。支配された心。砕かれた心。喰らわれた心が、わたしの中で騒ぎ立てる。
 ‥‥‥‥わたしの体は、もうわたしの体ではなくなっていた。
「にゃーにゃー」
 にゃんにゃん。
 叫ぶ。叫ぶ。夢の中で、叫び続ける。
 虚像にはノイズが走り、現実が呼び起こされる。
 でも、それもほんの一時の事。
 わたしの象は、結ばれることなく駆逐される。
 ‥‥‥‥苦痛ばかりの世界で、わたしは叫びを上げている。
 現実感のない虚像の世界。わたしの声は、ノイズに混じる雑音に掻き消されて消えていった‥‥‥‥


Fin



●●あとがきゅのように見える何か●●
 お久しぶりです。ホラーってなんだろうと、最近悩んでいるメビオス零です。
 相も変わらず救いがない‥‥‥‥結局何がどうなったのか。猫の着ぐるみを着て、そのまま猫になってしまった彼女に救いはなく、たぶんこのまま奇妙な世界の住人になっていくのでしょう。研究者の人達も、みなもの同じように引き込まれた人達なのかも知れません。が、真相は不明。世界の真実はいつだって不明であるように、この物語の結末も原因も不明。ふっふっふっ、もう何を言っているのか自分でもよくわからないというこの恐怖。自分で自分が怖い! ‥‥‥‥テンパっているだけです。すいません。
 まぁ、意味不明の後書きを長々と書き続けるのもどうかと思うので、今日はここまで。
 では、恒例の挨拶をば‥‥‥‥

 ご発注、誠にありがとう御座います。
 今回の作品は如何でしたでしょうか? もう少しみなもさんが悶え苦しみ恐怖と苦痛を味わう様子を描いた方が良かったかなぁ、と思ったのですが、そのまま通してしまいました。
 作品に対するご不満、ご叱責、ご指摘などが御座いましたら、遠慮容赦なく送って下さいませ。これからの作品作りに生かせるように頑張りたいと思っています。
 では、改めまして、今回のご発注、誠にありがとう御座いました(・_・)(._.)