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<東京怪談ノベル(シングル)>


『茫漠の端』

「悲しいみたい」
「悲しいからさ!」
「どうして? 話し方が冷たいから?」
「君なしじゃいられない」
「いられるわ」
「だがいたくない」

自動車泥棒の挙げ句に、追ってきた警官を殺してしまった男は、恋人にそう言った。
文無しの上、警察の手が迫る中、彼は彼女と一緒にいたかった。
軽口を叩いてはいたが、本気のようだった。
金が入ったら海外へ行こう、そう男が言い、女は頷いた。
しかし翌朝、心変わりした女は自分自身の自由を欲して警察に密告し、そしてその事を男に告げた。
だが彼は逃げ出す事もせず、最後には警官に撃たれて死んだ。
俺はもう疲れた、そう肩をすくめた男は、死を選び取ったようにも見えた。

「魂の存在を信じる?」
「優しさだけを信じるよ」

古ぼけた小さな映画館は、すえたような匂いがした。
大昔に撮られた白黒映画はとっくに終わったのだけれど、一向に明るくならない。
黒い画面が延々と続き、その光が細かく明滅して私の姿を照らした。
髪を失い、ぼろ切れを纏った哀れな女は、誰に見られる事もなく中央の席に座っていた。
こんな汚らしい映画館に客などほとんど来ていなかったし、例え景色の隅にこの姿を認めても、人々は何も言わずに通り過ぎた。

何故死を選び取らないのか。
その問いかけは決して大仰なものではなく、あくまでも無垢な言葉として、いつも辺りをふらふらと飛び回っていた。
死と言う表現が好ましくないなら、去ると言い換えてもいい。
ともかく、歴史を変えようとする意志は失敗に終わり、残ったのはこれから続く何万年と言う膨大な時間と、先の詰問だけだった。



群青色の、突き抜けているのにどこか重々しい青空を、覚えている。
赤色の尖塔、東京タワーに無数の胡蝶が瞬いていた。
色濃い光景がさざめく音を吸って、辺りは沈黙しているように見えた。
急に暑くなり始めた頃で、地面に目を向けると小さな蟻がいくつも列を作っていた。

リアナンシー、妖精の恋人とも呼ばれるこの胡蝶達は、詩人に文才を授けて寿命を奪う。
彼女達が芸能界を影から支えてきた事実は、その代償として人を殺めると言う支払いを求めてきたとは言え、人間にとって決して悪くはない関係と呼べた。
美しいまでの霊的局地、元々は墓地の一角であった場所に建てられ、特別展望台から上は朝鮮戦争に勝利をもたらした戦車の鋼材で出来ているこの塔で精気を得ながら、蝶は華やかなりし世界を演出してきたのだった。

どうして、それを壊すのか?
解体が決まり、スカイツリーへ移り行かなければならないと一方的に告げられてから、彼女達はそう問い続けた。
そして、そこから結論めいたものに行き着くまでには、さほど時間はかからなかった。
人間は身勝手だ、と。

三島玲奈は何の感慨も示さない表情で、上を見上げた。
ぼうっと、先程徒労に終わった説得を思い出していた。
今やIO2の掃討行動が始まろうとしている。
横ではジェットパックを背負った隊員達が、各々武器と作戦内容を確認していた。
せわしい喧噪の中にあってただ一人こうして立ち止まっていると、頭の中は益々静かになっていった。

終わった事を後悔しているのか、今すべき事を迷っているのか、これから起こる事を恐れているのか、どうにもしっくり来なかった。
ただ映画でも見るように、自分から離れた場所で人と風景が動いているような気がしていた。
物語はまだ始まっていないようにも見えたし、結末の後の蛇足が続いているようにも取れた。

「これは事実でも、演習でもありません。撮影です」

いかにも機械調に読み上げられる文句が繰り返し流れ、既に避難作業が終わった人気のない周辺の建物によく響いた。
横を見るといつの間にか鬼鮫が自分と並び、直立していた。
その表情はサングラスに阻まれて読み取れないが、刀を持つ手は小刻みに震えながらそれを握ったり開いたりを繰り返して、嬉々とした感情を見せている。

「どうかしたか? いつも通り、化け物を殺せばいいだけなんだろう?」
「そうね」
「ならもっと楽しそうな顔をしろよ」

鬼鮫はじっと、こちらを見ていた。
彼女もまた瞳を向け、冷たい視線を投げた。
二人はそれ以上何も喋らなかった。

しばらくすると号令がかかり、彼女の書いた作戦が動き始めた。
玲奈は目を閉じ、細く息を吐いて、背中に生えた白い翼を解き放つ。
延々と渦巻く思考は、地上から一斉に発射されたスティンガーミサイルが爆ぜた音に吹き飛ばされ、彼女は隊員達の戦陣を切って飛翔した。
今この場でやるべき事、軍人としての立場が培った現実主義が、彼女にとってはひどく皮肉な事に、この瞬間には唯一の寄る辺となっていた。

もうもうと吹き上がる粉塵をめがけて、アサルトライフルの引き金が絶え間なく引かれ、銃弾が作った道を彼女らは馳せた。
爆発で千切れた鉄と、火花を散らす跳弾、身を膨らす黒煙と、花咲くように弾ける鮮血。
黄金色の胡蝶の群れに、白い尾を引きながら人間達が突き刺さっていく。
これは一体何なのだろうか、広がる絵図にふとわき起こる懐疑が、ほんの少しの間、辺りから戦闘音の他を消した。
だが少しすると真っ赤になった人や蝶が降ってきて、下で援護を行う者達もまた戦場を認知した。

元より不意打ちめいた効果を期待していた訳ではなかった。
白兵距離の空中戦に持ち込んだ折、IO2の隊員達は胡蝶がその数をほとんど減らしていない事に幻滅する事もなく、陣形を保ったまま攻撃を開始しようとした。
玲奈もまた直接率いる小隊に指示を下していたのだが、突如、味方しかいない背後から強烈な違和感を感じ、身をひねって振り向いた。
途端、顔の横を弾丸が過ぎた。
彼女が事態を把握するより早く、他の小隊員が撃った者を始末した。

「胡蝶族の見せる夢だ!」

通信に叫び声が入るが、それを嘲笑うようにあちこちで銃弾が味方の間を飛び交った。
幻惑は光線を介して行われる、射線を切れ。
そう怒鳴る声が繰り返され、混乱は一時的なものに収まったが、気付けば隊列は乱れ乱戦の模様を呈していた。
鉄柱の影へ逃げ込もうにも、中空に広がる空間はあまりに広く、本当の死角などどこにもない。
小回りが利くのは相手の方であり、そんな中それぞれの判断で攻防を繰り返す結果がどんなものになるのかは、想像に難くない。

動きがばらけた人間に対し、胡蝶達の判断は素早かった。
遮蔽物を逆手に取り、物理的な破壊をもたらす光線で奇襲を繰り返した。
まるで急ごしらえの塹壕で迫撃砲を耐えているようなものだった。
玲奈は自らも左目から発する光線で敵を何匹も撃ち落としていたが、今後の展望に明るいものなど何一つ見えなかった。
状況を変えない限り、こちらの壊滅は着実に近付いてくる。

そんな折、どこかで甲高い大きな音がした。
絶え間ない銃声や破壊音の中でも、周囲の視線を集めるのに十分な程だった。
玲奈がはっと上を見ると、そこには満ち足りた笑顔で刀を振るう鬼鮫がいて、そしてゆっくりと、その横から巨大な鋼材が重力に引きずられて、彼女の方へ迫ってきていた。

赤茶けた無機物が近くを鈍く通り過ぎ、下で轟音を響かせた。
急いで身を避けると、ほんの少し前まで目の前でまとまって動いていた大量の胡蝶達、そして幾人もの人間が、そっくりいなくなっていた。
空間そのものが削り取られたようにも見えて、誰もが言葉を失った。

次いで、ギャアと言う耳障りな声があちこちで起こった。
ただただ怒りを感じさせる汚らしい濁った音で、思わず耳を塞ぎたくなる。
憎しみを音にしようとするかのように、蝶達は繰り返し繰り返しその声で啼いた。
その中を飛び回り血の雨を降らせる鬼鮫は、それすらも心地よいのか、だらしなく口端を釣り上げた。

その姿こそ、怪物のようだった。
そもそもトロールの遺伝子を宿すジーンキャリアである彼とこの胡蝶達の間に、狩猟者と殺される者と言う明確な線引きが物言わず存在する事に、生々しい異物感が横たわっていた。
彼だけではない、私もそうである。
そして事実として今この場で起こり続けている殺戮もまた、現状維持と言う紋切り型の平和論では覆いきれないような、負債を負っているように思えた。

もう一度、鬼鮫が鉄に刃を入れた。
玲奈は合図を送られるよりも前に駆け、光線で何匹かを焼き払って、残りの蝶を動かした。
するとその先にいくつもの鋼材が降り注ぎ、彼女らは断末魔の叫びを残して地平へと落ちていった。
鬼鮫はそれを確認すると、幼い子が虫を殺して遊ぶような顔をして、残った者共を狩りに行く。

その数の大半を失った胡蝶達は、もはやそれぞれが各個撃破されるのを待つだけだった。
それでも抵抗を止めず、怒りを声にして叫び続けながら彼女らは戦い続けた。
玲奈は戦場の真ん中に佇み、それに耳を傾けていた。
身体の内がねじ曲げられるような声色、吐き気を催すような音色を、じっと聴いていた。
そうして、ああ、やはり私は失敗したのだなと、知ったのだった。

死に行く胡蝶族が振り絞るこの声が、最大規模の呪詛である事。
今勝利の機運に満ちている人々がそうと気付くのは、まだ先の話だ。
やがて訪れる人間にとって好ましくない現実の始まり、それを静かに見聞きし絶望する事が出来るのは、その向こうからやって来た玲奈しかいなかった。

強欲な人類、それにひねり殺された蝶達は、精一杯の皮肉を最後に手向けたのだ。
欲深い人間達の中でも特に貪欲な女だけが世界に残り、男は滅び、去っていくように。
女達は女同士で子を孕み、剥き出しにされた感情が全てを押し流して世は狂乱を迎える。
人間が機械から出でた龍に統治を委ねる運命を享受するまでに、さほど時間はかからない。

玲奈の目の前を、力を失った胡蝶達が次々と落ちていく。
嫌悪の表情が彼女を射抜き、その強烈な意識が心の内へと乱暴に分け入ってくる。
妖精の似姿でありながら醜悪な人間共に与する女、三島玲奈。
貴様と子孫には最大の恥辱を与えよう。
女の命たる髪を失い、常に衣服は千切れて襤褸となれ。
無数の蝶が、そう合唱した。

抱いていた迷いと、悔いた事々、知っている未来。
そんなようなものが駆け巡った。
しかし、彼女には謝罪の猶予すら、無かった。



一体どこで違ってしまったのか。
いつまでも黒一色のスクリーンを見つめながら、そのように自問した。
それにしても、あれからどれだけ経ったのだろう。

もはや映像の中でしか動く事を知らない男達を、彼らは去った、と女は言った。
外的要因で滅んだのか、この愚かしい世界を見限ったのか、自分達の居場所を逸したと考えたのか、彼女らはもう忘れてしまっていた。
しかし、彼らはこの舞台から降りたのだと、そんなような言葉を使った。
私は先程流れた映画の中で、男が他愛もなく恋人にこんな笑い話をしていたのを思い出した。

「死刑囚の話、知らないか? 死刑台の前で滑って転んだ死刑囚が、ツイてねえ!って」