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<東京怪談ノベル(シングル)>


叶わぬ望みと誓いの海


 海の底は、闇の底が見えなかった。
 陽の光が当たるのならば、それだけでも心の支えには十分だった。
 暗い暗い闇。海上から差し込んでいたゆらゆらと揺れる光は、今では少しでも深く潜れば薄暗く世界を一変させ、僅かにでも影になれば、そこは何者かの潜む異界と化して、迂闊にも近付いてきた者を引きずり込みその体を食いちぎる。
 この広大な海では、それが日常と化していた。ただ生き残るだけでも命がけで、下手に動き、自らが知る領域から外れようとすれば、それだけで死を纏う罠を目覚めさせて取り返しの付かない災いを呼び起こす。
「あら? こんな所に、船なんて沈んでいたかしら‥‥‥‥」
 ザワッと水を掻き分け、巨大な魚影が翻る。
 それは、伝説に名を轟かせ数多の船人を惑わせ虜にしてきた、美しい人魚のようだった。
 上半身はうら若い女性で、頭の上には小さな珊瑚を繋ぎ合わせて作られた冠を被っている。金色に光る長い髪は静かに波に揺れて広がり、小さな魚が楽しそうにじゃれついている。
 下半身は、宝石のような鱗を纏った魚の尾ビレとなっていた。僅かな太陽の光を受けて輝く様は、色取り取りの花が咲く花園のようでもある。
 そんな人魚が、無数の可愛らしい魚を引き連れて海の底へと潜っていく。人魚の周りには、同じ人魚らしい人影も魚影も見付からない。どうやら一人で行動しているようで、美しい人魚は退屈そうにしていた顔を一変させて、見つけた遊び場へと泳ぎ寄る。
「随分と古いですわね‥‥‥‥」
 巨大な珊瑚の山の陰に、同じぐらい大きな船の残骸があった。人魚はその船に近付き、魚達と共に船を観察し、外を見て中に入ってまた外に出てと、遊び出す。
 沈んでいる船は、久しく見なくなった帆船のようだった。全体が木造で作られ、偶に沈んでくる近代的な金属で作られて仰々しい物ではない。しかし元々は美しい貴族が乗っているような船だったのだろう。船の縁に当たる部分には全体的に彫刻が施され、船の中には宝石で彩られた剣などが落ちていた。
 といっても、船や剣が美しかったのは、この海に沈む前の話である。船は何百年も前から放置されていたのか、腐り、藻が生い茂って蟹や貝の住処となっていた。
「あらあら、難破船とは珍しいですわ。最近は、地上の人達がすぐに見つけて持っていっちゃうから、つまらないのよねぇ?」
 人魚は、自分を取り巻いていた魚に笑いかけながら船の探検を続けていた。
 と、そうして絶え間なく楽しそうに笑い、泳ぎ回っていた人魚の体がピタリと止まる。顔に張り付いていた笑顔が恐怖に凍り付き、口から「ひっ!」と声が上がる。
「な、なんだぁ。ただの彫像かぁ‥‥‥‥」
 人魚はバクバクと跳ね上がる胸を押さえ、苦笑を浮かべて船の船首を覗き込む。
 船の船首には、人間大の大きな石像が取り付けられていた。
 船首に彫像を取り付けるのは、貴族の間で一時期流行っていた事だ。とりわけ自己主張の激しい貴族となると、船に盛大に彫刻を施し、石像を積み込んで飾ろうとする。
 この船も、やはり身分の高い人間が乗り込んでいたのだろう。船首に取り付けられている像は細部に至るまで彫り込まれていて、今にも動き出してきそうだった。ただ、その像が本当に動いたとしたら、人魚は一目散に、脇目も振らずに逃げ出すだろう。
 通常、人目に付く場所に置く像は、大抵が美しい物だ。船ならば水瓶を持った美女や剣を持った戦士か、商船ならば金貨を持った商人というのも面白い。
 しかしこの船の像は、醜悪な美女を象った物だった。
 長く美しく象られるはずの髪は、おぞましい何十もの蛇となっている。美しい微笑みを浮かべているはずの顔は、醜悪な怒気と憎悪に歪められて見るに耐えない物になっている。
 胸には人魚と同じ貝殻の下着を付け、下半身も自分と同じ人魚その物。しかし首から下が同じ人魚だとしても、首から上はおぞましい魔物その物。深海の怪魚でさえ笑いながら見る事の出来る人魚をも怯えさせる何かを、その石像は持ち合わせていた。
「もう、趣味が悪いですねぇ‥‥‥‥どんな人が乗っていたんでしょう」
 人魚は恐怖を振り払うように苦笑いを浮かべると、ぺしぺしと石像の頬を二度、三度と軽く叩いた。
 あくまで、自分を驚かせたのは石像だ。地上の職人が手塩に掛けて作った魔物の彫像。それはあくまで想像の中の幻想であり、この石像が動き出す事などあり得ない。
 だから、何も怖がる事はない。怖がる事なんて、ない、はず、なのに――――
 どうしてなのだろう。石像に触れた手が、まるで石になったかのように動かない‥‥‥‥!!
「ぉぉぉ――――――」
 呻き声が、耳元から聞こえてくる。
「体が――――動―――くか!」
 ビキビキビキビキと音を立て、目の前で石像が動き出す。
 いや、それは石像ではない。見る見るうちに石像が壊れ、中から生身の肌が顔を出す。蟹が脱皮しているかのようだ。古い殻を脱ぎ捨て、生気に満ち溢れた息吹を取り戻した生命の渦が巻き起こる。
 それが膨大な魔力の迸る渦なのだと気付いた時、人魚は一目散にその場を離れようとした。歌声に魔力を乗せて歌う事の出来る人魚にとって、魔力というのは人間よりも遙かに身近な力である。自らの身に起こる異変に、目前に現れた脅威に気付けないわけがない。
 ガシッ!
 しかしそれも、あまりにも遅すぎた。人魚の柔らかな腕に、長く鋭利な爪が食い込んでいる。
「オホホホホ!! ああ、久しぶりの水の味だわ! 小娘、よくぞ起こしてくれた!!」
 醜悪に歪んでいた顔が、今では歓喜と邪悪に満ち溢れて声を上げる。無数の蛇が人魚に巻き付き、生け贄を逃すまいとその体に牙を立てる。
「――――!」
 悲鳴など上がらない。
 抗う事も、逃げ出す事も出来ず、人魚は蛇の毒牙に陥っていたのだから‥‥‥‥

●●●●●

 ‥‥‥‥シーメデューサが、泡となって消えていく。
 長い時間を掛けて多くの人魚を、多くの人間を石へと変えて恐怖を与え続けてきた海の怪物が、泡となって消えていく。
 その光景は、あまりにも呆気なく、力のない物だった。屍すらも残さずに、人魚達を苦しめていた元凶が消え去るのだ。悲鳴すらも上げる事はなく、無数の蛇が頭から水に溶け、全身が泡に包まれて瞬く間に消滅する。
 ‥‥‥‥泡が波に散らされた後には、何も残ってはいなかった。ただ光に照らされる神殿と綺麗な珊瑚と岩が並ぶ神秘的な光景だけが残される。
 だからか、不思議と障害を排除したという実感が湧かず、シーメデューサを仕留めた茂枝 萌は、魔物の消えた場所をジッと見つめて刃を構えていた。
(イアル! イアル!!)
 石像と化している友に声を掛ける。
しかし、ここは水中だ。萌がIO2きっての戦士であろうと、水中で声を出す事など出来るはずもない。呼びかけに答える者はなく、また呼びかけられている者も、答える事は出来ずにいる。
 萌が声を掛けているのは、固く冷たくなっている石像だった。
 美しいが、恐怖に顔を歪めた悲しげな人魚の象。
 生気も魔力も感じられない石像に、萌は必死に呼びかけている。
 ‥‥‥‥一体、誰が想像するであろうか。
 その石像こそが、元々は人魚であり、そして人間の王女の姿であるなどと‥‥‥‥
 萌は王女の唇に自らの唇を軽く当て、なんの変化もないと首を振り、悔しそうに地団駄を踏んだ。
(ダメだ! ここに居ても戻せない!!)
 変わり果てた姿になったイアル・ミラールを‥‥‥‥石像になるのはいつもの事なのだが‥‥‥‥この場で救う事は出来ないと判断した萌は、重々しい石像を抱えて海の底を歩き出した。
 イアルの体には、月の光を浴びると石像に変わってしまうという呪いが掛かっている。
 それは口付けをする事で解呪することが出来るものなのだが、現在のイアルはシーメデューサの呪いによって石像へと変えられている。いわば、内と外の両方から強力な重力を浴びている状態だ。試しに口付けを試してみたが、もはや王子様のキス程度では戻らない。
 悔しいが、イアルを人魚へと変えた人魚達の力を借りる必要があるようだ。シーメデューサの呪いを人魚達に解いてもらい、その上でもう一度キスをする。それで元に戻れるだろう。それに、人魚達によって人魚へと変えられたイアルの体を元の人間のそれへと戻してもらわなければならない。
 それらを拒むようならば‥‥‥‥腰に装着し直した刃が再び舞い踊る事になる。殺生までするつもりはないが、自分達の都合で勝手に巻き込んでおいて後始末もする気がないのならば、痛い目にあっても文句は言えないだろう。
 一歩足を踏み出すたびに、腐った藻や砂が舞い上がり静かに広がっていく。砂の中に隠れていた蟹や魚、貝が顔を出して飛び出していき、萌の体を擽った。
 思い石像を背負ったまま、萌は海中を歩き続けていく。水中仕様の“NINJA”(IO2技術部が世界最先端のパワードスーツである)の出力がもう少し高ければ、背負ったままでも泳ぐ事が出来ただろうが‥‥‥‥技術部を責めるのは酷だろう。海中でこんな石像を持って泳ぐなど、萌も想定していなかった。
 一時間、二時間‥‥‥‥
 慣れない水中を歩き回り、ようやく目当ての魚影を確認する。
(ちょっと待っててね)
 萌は、背負っていたイアルの石像を珊瑚礁の山の上に下ろし、離れた場所を優雅に泳いでいる魚影に向かって泳ぎだした。
(まったく。人を生け贄にしておいて、散歩なんて気楽なもんだね!!)
 堪った鬱憤を晴らすように、萌は“NINJA”の出力を最大にまで引き上げて神殿へと向かっていた人魚へと突撃した‥‥‥‥

●●●●●

「ありがとうございました!! もう、なんとお礼を言ったらいいか!!」
 そう声を上げて萌の手を取ってきたのは、どっぷりと見事な白い髭を生やした男の人魚だった。
 萌はぎこちない笑みを浮かべながら、チラチラと石のベッドの上に寝かされているイアルの体に目を向ける。人魚の薬師がシーメデューサに掛けられた呪いを解こうと必死に呪術に集中する隣で長老が騒ぎ立てているため、萌は薬師が失敗するのではと気が気ではない。
 ‥‥‥‥萌は、神殿の様子を探るに出向いていた人魚を捕まえ、人魚の里へと入り込んでいた。
 シーメデューサの神殿から奪い取ったイアルの石像が通行証代わりになったのか、人魚達は快く萌を受け入れ、長老の元にまで案内してくれたのだ。イアルを洗脳し、人魚へと変え、しかも生け贄に仕立て上げた長老はすぐにイアルの石化を解呪することを了承してくれたため、お陰で萌は刃を振り回し人魚を恐喝せずに済んでいた。しかも、萌が水中でも問題なく会話し、存命できるようにと水中で呼吸が出来る秘薬を貰い、萌はシーメデューサを倒した英雄として丁寧な持て成しを受けていた。
 ――――のだが、萌の手はすぐにでも腰に下げた刃に向かおうとピクピクと動き出そうとする。
 というのも、長老はイアルの石化こそ解呪するよう命じていたが、イアルの洗脳を解除するようには薬師に命じていないし、約束もしようとしないからだった。
「長老! 姫様が‥‥!!」
「ああ、イアル! イアル!!」
 薬師が声を上げると同時に、萌はバッ! とイアルに体ごと向けていた。それこそ萌の手を取っていた長老が声を上げて尻餅をつくほどの勢いで、萌はうっすらと目を開けるイアルに駆け寄り、薬師を退けて抱き付こうとまでする。
 しかし薬師は冷静で、そして不思議と力が強かった。迫る萌の肩に両手を当ててギリギリと押し止め、涼しい顔で(体は力んで震えていたが)イアルに笑顔を向ける。
「姫様! お目を覚まされて――――」
「退いてよ! 話をさせてよ!!」
 萌はそんな薬師と戦いながら、なおも声を上げていた。
「私は、一体‥‥‥‥」
 ヨロヨロと身を起こすイアルだが、叫び声を上げている萌には目を向けようともしない。
 萌を押さえる薬師に目を向け、そしてその背後から顔を出した長老に心細げに視線を送る。
「人魚姫様。姫様は、この方に救われ、今し方石化を解除したところで御座います」
「ああもう! イアル! こっちを見てよ!!」
 薬師が丁寧にイアルに説明をする。が、そんな事は萌にとってはどうでも良い事だ。
 イアルは助かった。なら、後は洗脳を解いて人間に戻し、共に地上へと戻る事が出来ればいいはずだ。それで、今回の事件は終わる。その筈なのだ。
 だと言うのに、イアルは萌に怪訝そうに眉を顰めた視線を送り、萌が知る優しい言葉を掛けてはくれなかった。
「姫様。そのお方が、シーメデューサを打ち倒して私達を救って下さったのです」
「まぁ、そうなのですか!」
 イアルの侍女を務め、薬師の助手として控えていた人魚が再び、イアルに良く聞こえるようにと萌の事を紹介した。
 萌の言葉よりも、その侍女の言葉の方がイアルの心には浸透したらしい。
イアルは突然満面の笑みを浮かべ、そして萌の手を取った。
「貴女が、私たちを救って下さったのですね? ありがとう御座います。本当に、感謝いたしますわ!」
「ちょ、ちょっと‥‥イアル? その、ふざけてるの?」
 心の底から感謝の言葉を告げている‥‥‥‥それは、分かる。イアルはふざけてなどいない。握られた手から伝わる感触は萌が知るイアルその者。しかしその手から伝わる感情は、紛れもなく自分が、そして里が救われた事への感謝の念であり、友に向けてのものではない。
 その言葉は、萌に向けられたものではない。里を救ってくれた、英雄に向ける言葉だった。
「もしかして、怒ってるの? 私が、あなたを守りきれなかったから‥‥‥‥」
「怒るなど、あり得ませんわ。貴女は我々を救って下さってのですから。心から感謝し、私達に出来る事なら、なんでもして差し上げます」
 心の底から告げるイアルの言葉には、嘘偽りなど存在しない。萌が望めば、その身を捧げる事さえしてくるかも知れない。
 しかし、萌の心中に歓喜など微塵も湧いては来なかった。
 あるのは、形容しがたい絶望と怒りの念。憎悪に近い黒い感情が人魚の長老に、薬師に、侍女にと向けられる。だが、それでも人魚達は動じようとはしなかった。イアルの目前では、萌が何も出来ないと理解しているからだろう。
 人魚は何処までも残酷で、そして自分勝手な生き物だった。萌はすぐにでも切り伏せてしまいたかったが、今は出来ないとこれまでに積み重ねてきた経験と理性が制止をかける。
「ねぇ‥‥あなた、イアルだよね? イアル・ミラールだよね?」
 震える声で、萌はそう問いかけた。
「はい? 私は――――」
 問いかける萌は、儚い希望に縋り付く子供のようだった。
 結果など分かっている。薄々は、いや、目覚める前から心の何処かで覚悟はしていた。洗脳されていると察した時点で、イアルの記憶に、自分という存在が残っていない事など、理解していたのだ。
「はい。私の名はイアルです。イアル・ミラール。この人魚の里の、人魚姫で御座いますわ」
 絶望を突き付ける現実に、儚い希望は一蹴される。
 自分の中で、何かがひび割れるような音が鳴る。萌の膝は折れ、しかし地に膝を付く寸前で、長老の首根っこを掴んで体勢を保ちに掛かった。
「ぬわぁっ!」
「長老。ちょっと、話があるんだけど‥‥‥‥良いかな?」
 萌の声は、実に暗い殺気を含んだものだった。
 逆らえば命はない。長老はそう察した。シーメデューサのように醜い嫉妬で戯れに人魚を殺傷する事はないが、自分の大切なものならば躊躇うことなく手を汚す。萌はそう言う人種だ。これまでに何人もの人間を見てきた長老は、萌が纏う雰囲気だけでそう察した。
 だが、この場で長老を殺しに掛かる事はない。萌の洗脳は長老が掛けたものだ。それを解除するには、長老の手を借りるのが一番手っ取り早く、確実な方法である。地上に連れて行けば洗脳を解除する事も難しくはないだろうが、そもそも人魚から人間に戻すなど‥‥‥‥IO2の技術を持ってしても、こればかりは難しい。
 萌としては、殺意を押さえて長老に頼る以外になかったのだ。長老は「そ、外で話そう!」と声を振り絞り、イアルに付き従う薬師と侍女に声を掛ける。
「わ、わしは英雄殿と話がある! 外に出ているからの」
「はい。姫様は、私どもにお任せ下さい」
 二人はそう頷いて、萌にもニコリと笑いかけた。
 薬師と侍女が、イアルの正体に気付いているのかどうか‥‥‥‥それは萌には分からない。
 しかし全ての元凶は、あくまでイアルを替え玉にしようとした長老だろう。
 長老を睨み付け、だが、萌は長老と共に外に出る事を了承した。
「こ、こっちですじゃ‥‥・」
 長老はそう言うと、イアルを眠らせていた寝室(海草で区切られただけの部屋だったが‥‥‥‥)から萌と共に抜け出した。
 後に続く萌は、チラリと残った二人の人魚を盗み見る。
 あの二人が敵だろうと味方だろうと、少なくとも人魚姫としての立場のイアルに仇為す事はないだろう。だからこそ、萌はイアルを置いて長老へと付いていったのだ。
「さぁ、もういいでしょ! イアルの洗脳、なんで解いてくれないのさ!!」
 ‥‥‥‥二人はイアルのいる寝室が見えるギリギリの位置にまで泳ぎ、周囲に誰もいない事を確認すると、長老は重々しく口を開いた。
「実は‥‥‥‥洗脳を、その‥‥解きたいのは山々なのじゃが」
「なに。何かあるの?!」
「出来れば‥‥‥‥あの方を我々の姫として残してはくれないか?」
 瞬間、長老は白い砂の上に引き倒された。
 長老が口を開く以前より、萌はいつでも襲えるようにと構えていたのだろう。長老を掴んで地面に倒すまでに一秒と掛からない。
「何を、勝手な事を!!」
「待て待て待て待て待ってくれ!! わ、わしの話を聞いてくれぃ!!」
 長老は声を上げて萌を制止するが、萌の怒りは既に頂点を極めていた。
 人魚達からしてみれば萌は魔物を倒してくれた英雄なのかも知れないが、萌からしてみれば人魚も魔物も同じである。イアルを攫い、洗脳し、生け贄に捧げた人魚への怒りはシーメデューサよりも遙かに深い。
 萌は長老の首筋に刃を突き付けながら、まばたきもせずに長老の目を見据えていた。
「これ以上、聞くような話はないよ。つまり、返す気はないんでしょ?」
「ある! あるから、もう少しだけ話を聞いてくれ!!」
 長老は萌の返答を待つことなく、次々に事の経緯を話し始めた。
 時は遡ること数年前、世界中の海を転々と泳ぎ回っていた人魚達は、居心地のいいこの場所に小さな里を作っていた。
 里には遠くからも人魚が集まり、小さいながらも活気のある里だった。しかしある時、人魚達の憧れであり信望を一身に集める人魚の姫が、シーメデューサの人質になってしまったのだ。
 なんでも、元々は難破船に封印されていたシーメデューサを人魚の姫が誤って解き放ってしまったらしい。シーメデューサを封印していた石化の呪いは解除されると同時に指向性を変え、呪いを解いた人魚姫を封印してしまったらしい。
 シーメデューサがこの海に現れたというのに、人魚達が逃げ出さなかったのはその為だ。それだけ、人魚姫は里の人魚達から慕われていたし、見捨てるにはあまりにも美しすぎたのである。
「じゃから! じゃからわし等には、姫様に瓜二つのあの方が必要なんじゃ‥‥‥‥!!」
「知らないよ! そんな事!!」
 言い訳がましく声を上げる長老に怒鳴り、萌はスクッと立ち上がった。
「イアルは、地上に連れ帰るから。絶対に連れ帰るからね!」
「ゲホッ‥‥むぅ、どうしてもか?」
「当然でしょ! あと、地上から攫った女の子達も、全員だよ!!」
 萌が叫び、ありったけの殺気を振り絞って長老へと叩き付ける。
 これまで何とか抵抗を試みていた長老だが、シーメデューサを相手に身代わりを立てようとする臆病者だ。本物の殺意に抵抗など出来るはずもなく、萌の言葉に、渋々と頷く以外になかった。
「わ、分かった‥‥‥‥あの人間の女性達は、人間に戻した後で地上にまで送っていこう」
「そうしてよ。私は、イアルを貰っていくからね」
 萌はそう言うと、再びイアルの寝室へと向かおうとする。
「待て! どうするつもりじゃ!」
「イアルに、全部話すんだよ!! 自分が人魚姫の身代わりだったって知れば、元にも戻ろうとするでしょう?」
 イアルは、自分こそが人魚姫だと思いこんでいる。しかし自分に植え付けられた記憶も立場も姿も全てが偽者だと知れば、元の自分に戻りたいと願ってくれるかも知れない。
 里にも、イアルが偽者だと言って回れば、本物の人魚姫を助けに行こうと言う者が出てくるかも知れない。
 ‥‥‥‥待て、何故だ?
 シーメデューサは、もういない。ならば、イアルになど拘らずに本物の人魚姫を助けに行けばいいのに、何故、長老はイアルに拘るのか‥‥‥‥?
「考えても、仕方ないよね」
 長老の思惑など知った事ではない。萌は寝室で休んでいたイアルの手を取り、薬師と侍女を振り切って外に出た。
「あの、何を!?」
「黙ってこっちに来て!! あなたの事、教えてあげるから!!」
 萌はそう言い、追い掛けてくる薬師と侍女を振り切ろうと、“NINJA”の出力を限界以上に引き上げた‥‥‥‥

●●●●●

 ‥‥‥‥‥‥
 ‥‥‥‥
 ‥‥
 そうして、どれだけの時間が経過したのだろうか?
 人魚の里からそれなりに離れた、見覚えのある神殿。
 シーメデューサが拠点としていた海底神殿の一室で、イアルと萌は向かい合っていた。
「それでは‥‥‥‥私は――――」
「人魚姫の影武者、って所かな。もっとも、本物が石にされているんじゃ、影武者が本物になるのも不自然じゃないんだけどさ」
 萌はポリポリと頭を掻きながら、困惑するイアルに語りかける。
「それでも、私はイアルに戻ってきて欲しいんだ。偽者の人魚姫なんかじゃなくて、本物の王女様に戻ろうよ!!」
 萌は必死に、本当に必死にイアルに呼びかける。
 その熱意は、洗脳されたイアルにも確かに伝わっていた。
 真剣そのものの瞳は、嘘偽りを述べる罪人とは全くの別物でとてもイアルを騙そうとしているようには思えない。
 しかしそれでも、イアルは迷っていた。自分が持つ幼い頃からの記憶が、シーメデューサにその身を差し出した我が身の決意が、何もかも長老によって与えられた都合の良い記憶と感情であったなどと、とても信じられなかったのだ。
「その言葉、信じる根拠は?」
「こ、根拠? えっと、その‥‥‥‥」
 ない。洗脳されている相手に、「キミは洗脳されている!!」と言ったところで本人は信じないだろう。
 イアルには、幼い頃から人魚として生きてきた記憶がある。そんなイアルに、人間だったのだと言っても信じられるわけがない。
 萌の言葉が本当の事なのか、それをイアルに信用させるには、どうしても物証というものが必要となる。イアルが地上で生きていた証を、本人が、それを見るだけで人間でいたときのことを思い出してしまうような‥‥‥‥そんなものが必要なのだ。
(無い‥‥何も無い!!)
 萌はそこに思い至り、そして胸中に絶望感が広がるのを確かに感じていた。
 イアルの素性を、萌は把握しているわけではない。石化していたイアルを救いだし、目覚めたイアルと親しくなる事で、大まかの経歴は聞かされた。しかし残念ながら、イアルが王女として生きていた時代は、今から数百年も前の事だ。王国はとうの昔に滅び、イアルが生きていた証など、世界の何処にも存在しないのだ。
「ない‥‥‥‥けど、イアルはイアルなんだよ‥‥‥‥」
 力無く項垂れる。
 イアルを助け出した萌だったが、しかしイアル自身が地上に戻ると言ってくれないと‥‥‥‥恐らく、長老はイアルを元に戻そうなどとしないだろう。イアル自身が、自分が偽者なのだと他の人魚に言って回るぐらいの事をしなければ、あの長老は諦めまい。
 しかし、イアルに自分が偽者の人魚姫であると信じさせる物証など‥‥‥‥
「‥‥‥‥‥‥‥‥ある。あったよ!!」
 思考に没頭し、ガバッと萌は顔を上げた。
「な、何があったんですか?」
「イアルが、私が知ってるイアルだっている根拠! 本物の人魚姫に会えば良いんだ!!」
 萌が笑みを浮かべて頷いた。
 イアルが偽者の人魚姫だと証明したいのならば、本物の人魚姫と対面させてしまえばいい。長老にしてみても、人魚姫が二人もいるという事実は嬉しい事ではないはずだ。
「そうだよ。本物の人魚姫を解放すれば、それだけでみんな元に戻れるんだ!」
「そ、そうですね‥‥‥‥私としては複雑なのですが、本当に私が偽者だとしたら‥‥‥‥でも、本物の人魚姫さんは、何処にいるんです?」
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥沈黙。
「た、たぶん‥‥‥‥この近く?」
 萌は、何とかそれだけを振り絞った。
 シーメデューサが人魚姫を人質に取っていたのならば、高確率で手元に置くはずだ。何処かに隠しておくという可能性もあるが、シーメデューサは石像へと変えた人魚達を堂々と飾っていた。そんな性格を考慮すると、誰にも見付からない場所に隠しておくとは思えない。
 萌とイアルは、まず神殿の中と周囲を探す事にした。
 イアルは逃げだそうとすれば逃げ出す事も出来たのだろうが、萌の真剣な表情と自らの不安定な記憶に突き動かされ、萌と共に真剣に難破船を探しに掛かる。
 元々、時折思考に走るノイズに不安を覚えていたのだろう。
もしも萌が長老を脅し、イアルから引き離していなければ‥‥‥‥もしかしたら、イアルは今度こそ完璧に洗脳され、人魚姫になってしまっていたのかも知れない。
 そう思うと、イアルはまたも危険な綱渡りを行っていた事になる。それを回避し、渡り切らせたのは萌だったが、それに感謝するのはまだまだ先の話だ。
 ここでイアルの説得に失敗し、長老に捕まればイアルは二度と戻ってこない。
 再度洗脳されたイアルと人魚達を連れて、長老はすぐに住処を変えるだろう。そうなれば、追い掛ける手段はない。
 萌は必死に、必死に難破船を探し続けた。
 飾られた人魚達の顔を覗き込み、岩場の影を探り、神殿の周囲を“NINJA”を使い泳ぎ回る。
 ぴっぴっぴっ‥‥‥‥
 と、空気も読まずに点滅を始める“NINJA”のバッテリーに、萌の焦燥が風船のように膨らみ出す。
 時間がない‥‥‥‥
 “NINJA”で動き回ることが出来なくなれば、人魚の魔の手から逃れることも追うことも出来なくなるだろう。
「何処に‥‥何処にあるの!!」
 萌は膨れあがる焦燥に涙を流しながら、神殿の周りを泳ぎ回り――――――――
「萌さん!」
「イアル‥‥?」
 イアルに呼ばれ、神殿の裏側‥‥‥‥そこから少しだけ離れた、珊瑚の山を前にして立ち尽くしているイアルへと、萌は急いで近付いていった。
「イアル、どうしたの!?」
「萌さん‥‥‥‥あの」
 恐る恐るといった風に、イアルはソッと珊瑚の山を指差した。
 そこにあるのは、ピンク色の美しい珊瑚の山と、埋もれた石像。そして、隠された難破船だった。
「こ、これだ!!」
 萌は歓喜に震え、イアルは悲しそうに目を伏せた。
 シーメデューサは難破船を隠そうとしたのか、それとも美しく彩ろうとしたのか‥‥‥‥それは定かではないが、難破船を珊瑚礁で覆い、偽装していたのだった。
 しかし、側にまで近付き目を凝らせば、珊瑚の合間に美しい人魚の石像がある事が分かってしまう。
 それでもイアルがこの石像を見つけたは、幸運という他になかったのだった。
「本当に、私は偽者だったんですね」
 自分と瓜二つの石像を見つめながら、イアルは萌と共に、石像を覆い隠している珊瑚の山を取り除きに掛かっていた。
 珊瑚は、簡単に石像から剥がれ落ちていった。
 元々この場所にあったわけではなく、崩れかけた珊瑚礁をシーメデューサが解体し、石像の上に重ねていただけなのだろう。
 程なくして現れた人魚姫の石像に、しばしイアルと萌は魅入っていた。
「うーん、どうすれば元に戻ってくれるんだろう」
 萌は腕を組んで考える。
 イアルの石化は、キスをする事で解除される。シーメデューサの石化は、適切な呪術と薬草によって解除される。
 では、この船の解除法は?
 呪文を唱えるのか、それとも行動すればいいのか、何をすればいいのかが分からない。
 ヒントも何も無い状態で、危険な解呪作業をするわけにもいかない。専門の知識もない萌ならば尚のことだ。
 迂闊に解呪すると、指向性を失った石化の呪いが解呪した者に襲いかかるかも知れない‥‥‥‥なるほど、長老が二の足を踏んでいたのはこのためか。危険を冒して人魚姫を取り戻すよりも、イアルを洗脳して手中に収めた方が簡単だったのだろう。
 この際、長老か薬師を拉致して無理矢理解呪させた方が良いのかも知れない‥‥‥‥そんな黒い思考に萌が没頭しそうになった時、イアルがソッと、人魚姫の石像に手を触れた。
「イアル! あぶなっ――――」
「ううん。良いんです。これで」
 イアルはそう言うと、ぺしぺしと石像の頬を軽く叩き、そして寄り添うように体を近付けた。
 ‥‥‥‥カッ!
 途端、石像から光が放たれ、そしてその光がイアルの体にまとわりつく。光に巻かれたイアルの体は瞬く間に石化を始め、逆に石像となっていた人魚姫の体は元の生身に戻っていく。
「イアル!?」
「考えていたんです。私と、本物の人魚姫様‥‥どっちが戻って、里の人達が喜ぶか」
 イアルは静かに、優しげに微笑んでいる。
「やっぱり‥‥本物の方が良いですよね?」
 イアルの表情は、メデューサや人魚姫とは違い、優しげに笑ったままで固まった。
「ばか! なんて事を‥‥!」
 バシィ! 下半身にまで及んだ石化が、萌の言葉を掻き消した。
 人魚がイアルに掛けた、人間を人魚へと変える呪いが、船の呪いに強引に破られて元に戻ったのだ。強力な呪いが掛けられた時、稀にそれまで受けていた呪いが解呪される事がある。膨大な魔力に小さな魔力が押し流され、掻き消えてしまうのだ。
 しかしそんな現象も、慰めにもならない。
 萌はイアルが石化していく様を為す術もなく眺める以外になく、何も出来ない無力感に苛まれる。
 ‥‥‥‥‥‥‥‥そんな無力感に苛まれ、自己嫌悪に押し潰されていたのは、本の短い間だった。
 時間にすれば、数秒とない。僅かそれだけの時間で、イアルは完全な石像へと変貌していたのだ。
「あの、一体何が‥‥‥‥」
 萌の隣で、何も知らない人魚姫が困惑している。
 人魚姫からしてみれば、自分が眠って起きたら、自分そっくりの人間が石像に変わってしまっているのである。人魚姫は里で起こった悲劇も、何も知らず、ただ不安げに困惑してオロオロとするばかり。
「‥‥‥‥‥‥説明してあげるから、協力して」
 萌は冷たい声で、目を伏せたまま、人魚姫に語りかけた‥‥‥‥




 それから数時間後、萌は人魚姫と共にイアルの石像を抱えて里へと戻り、人間へと戻された被害者達を連れて地上へと戻っていった。長老は人魚達から総スカンを食らい、手痛い罰を受ける事になるそうだが、それを見届ける事のない萌にとっては、どうでも良い事である。
 人魚に手伝って貰い、重い石像へと変わり果てたイアルを砂浜まで引き上げ、そして萌は砂の上に倒れ込む。
「‥‥‥‥‥‥ちくしょう‥‥‥‥」
 流れる涙は、何を思っての涙なのか‥‥‥‥萌自身、その正体が分からない。
 再び石像へと変貌したイアルが元の体に戻るのは、それから、まだもう少しだけ先の事となるのだった‥‥‥‥



Fin