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<東京怪談ノベル(シングル)>


命の雫は雨の如く

 それは、最初から厳しい戦いだった。
 某国の農村でY染色体を媒体とするウィルス性の疫病が発生した。そのウィルスは霊的存在を根源とし、通常の医療行為では治療が不可能だった。そこで、IO2は早急にワクチンを開発し、職員を派遣して治療を行った。
 三島・玲奈もその一人だった。事前に予防接種を受けて農村を訪れた玲奈が目にしたのは、この世の地獄だった。住人達が手を尽くして育ててきた田畑は消毒のために焼き払われ、地面には真っ白な消毒薬が散布され、感染者が出た民家は封鎖されていた。野外病院のテントには患者が溢れていたが、皆、苦しみ抜いて次々に死んでいった。
 今日もまた何人もの男性を看取った玲奈は、涙を拭い、笑顔の練習をしながら子供達を避難させたテントに向かった。これ以上被害を拡大させないために、村の外れに事前に避難させていたのだ。彼らはまだ無事だ、だから懸命に守り抜かなければ。決意を固めながら避難用のテントに入った玲奈は、作りかけていた笑顔を消した。
「この子もか」
 防護服姿の看護士が、諦観と苦痛を交えて呟いた。昨日まで元気だった少年達が、これまでに何度となく見てきた初期症状に苦しんでいた。ひどい発熱と発疹だ。テント中のベッドは満杯で、子供達が二人ずつ横たえられていた。
「このまま生かしておいても、彼らはウィルスの温床になる。いっそ、処分するべきでは」
 末期症状に陥った少年の脈を取っていた医師の言葉に、玲奈は詰め寄った。
「なんてことを言うのよ! そんなこと、許されるわけないじゃない! 最後まで頑張らないでどうするの!」
「しかし、玲奈」
「皆、生きようとしているのよ!? それを簡単に処分だなんて、あなた、それでも医者!?」
 玲奈が医師の胸倉を掴むと、医師は玲奈を押し戻した。
「……すまない。忘れてくれ」
「解ってくれればいいのよ」
 玲奈は医師を解放したが、別の医師が玲奈に声を掛けた。
「玲奈、聞いてくれ」
「今度は何よ。忙しいんだから、手短にね」
「今し方判明したんだが、君のジーンキャリアの抗体とワクチンが競合した結果、変身の過程を目撃されるとストレスによる副作用で二度と人間に戻れなくなってしまうんだ」
「えっ……?」
 玲奈は驚いたが、変身しなければいいのだと思い直した。そうだ、それだけでいいんだ。すると、不意に狼の鋭敏な嗅覚に異臭が過ぎった。消毒薬でも子供達の匂いでもない、忌まわしい霊鬼兵の臭気。
「そこだ!」
 玲奈は瞬時に超精密レーザーを放ち、子供に扮していた霊鬼兵を貫いた。レーザーを浴びた霊鬼兵が崩れ落ちると、途端に子供達の間から悲鳴が上がった。その中の一人が、泣きながら倒れた霊鬼兵を抱き起こした。
「なんで殺したんだよ! 友達なのに! 病気を治してまた一緒に遊ぼうねって約束してたのに!」
「それは敵なのよ、倒さなきゃもっとひどいことに!」
「違う、敵なんかじゃない! 証拠もないくせに!」
 一人が泣き出すと、恐怖と不安ではち切れそうだった子供達が玲奈に非難を浴びせ始めた。
「人殺し!」
「正義の味方なんて嘘っぱちだ!」
 違う、と正そうとしたが、玲奈は子供達の剣幕に気圧された。敵が送り込んできた霊鬼兵は、恐ろしいまでに生身の子供を模倣していたからだ。貫かれた額から流れ出す血の色も、青ざめていく肌も、表情も。
 今は何を言っても言い訳にしかならない。けれど、正しいことをしたんだ。玲奈は歯痒い思いで唇を噛み締めていると、子供達の数が、声が、増えてきた。一体倒されたことを察知した霊鬼兵が、次々に侵入してきたからだ。狼に変身さえ出来れば、なぜ解ったのかも説明出来る。だが、変身してしまえばもう二度とセーラー服を着られない。玲奈は躊躇い、スカーフを握り締めた。
「機械に成れ。さすれば、その苦しみからも」
「うるさい!」
 玲奈はおぞましい言葉を吐いた霊鬼兵を撃ち抜くが、子供達の悲鳴は増大した。
「どうして殺すの……?」
 青ざめて震える少年からの問い掛けに、玲奈は未練を振り払うために答えた。
「それは、私が正義の狼娘だからよ! でもって、そいつらは悪い奴らだからよ!」
 もう、迷っている暇はない。玲奈が覚悟を決めると、スカートが破れ落ちた。翼を開くとセーラーが裂け、スカーフが千切れる。ただの布切れと化したセーラー服に哀切の一瞥をくれてから、玲奈は純白の翼を広げてテントから飛び出し、飛翔した。霊鬼兵の放つ霊気弾を全て避け、急降下してテントを引き裂いた。その中には、医師達が避難させきれなかった子供が一人取り残されており、霊鬼兵の刃が振り下ろされようとしていた。有翼の狼と化した玲奈はすぐさまその子供の襟を銜え、強靱な四肢で地面を力強く蹴り付けて駆け出した。
 敵と味方が入り乱れる農村の中を走り走るうちに、体操着も裂けていった。玲奈の肌を覆うのは水着だけとなったが、全身が獣毛に覆われているのだから羞恥を感じる必要はない。むしろ、開き直れて都合が良いくらいだ。だが、霊鬼兵を振り払うのは容易ではない。数が多すぎる。大量の足音が玲奈を責め立て、とうとう袋小路に追い込まれてしまった。
「怖いよ、殺されるのは嫌だよぉ、死ぬのは嫌だぁ!」
 頭を抱えて怯える少年に、玲奈は場違いなほど優しく語り掛けた。
「お姉さんは良い子の味方よ。自分の命を大切にする子なら、尚更ね」
「無駄な足掻きを!」
 濁った怒声を浴びせてきたのは、袋小路を塞いだ霊鬼兵の一団だった。
「皆、機械に成れば憂いはない!」
 玲奈一人ならば凌げたかもしれないが、子供を守りながらでは。玲奈らを囲む、霊鬼兵の輪が狭められていく。堰を切ったように雪崩れ込んでくる霊鬼兵に、玲奈はせめてこの子だけはと必死に庇った。敵の刃が玲奈の獣毛を切り裂かんとした、その時。
 突如、豪雨が襲い掛かった。農村以外には及ばない、局地的な雨だった。何事かと玲奈は顔を上げ、体毛に染みて肌を伝う雨に親しみを覚えた。それは、戦艦玲奈号が超生産能力で我が身を溶かして作った特効薬の雨だった。だが、その威力は並外れて強かった。常人には何の影響も出ないが、ジーンキャリアとワクチンが戦った影響で綻んでいた玲奈の肉体には厳しかった。けれど、体毛や肌がとろけても苦痛は一切覚えず、むしろ穏やかな気持ちだった。戦艦玲奈号は玲奈自身だからだ。
 豪雨の中、霊鬼兵は溶けながらも玲奈の精神を電脳に摂取しようとするが、嫌よ、と強烈に拒絶した玲奈は魂を肉体から乖離させた。霊鬼兵の電脳体は潰え、寸でのところで魂は逃れられたが、空虚な肉体は緩やかに溶けて消えた。
 雨が上がると、一人、子供だけが取り残されていた。


 後日。不妊の夫婦が娘を授かった。
 その娘は、生まれて間もなく急激に成長した。
 まるで、再びこの世に生まれ直してきたかのように。


「誰、貴方?」
 鍵屋・智子は、研究室を訪れた見慣れない来客を訝しんだ。
「髪を剃ってくれないかしら。改造人間への脳移植をお願いしたいの」
 彼女は真摯な眼差しで、懇願してきた。
「鍵屋さん。あなたなら出来るわよね?」
「出来ないわけないじゃない。……でも、どうして私の名前を知っているのよ?」
 智子は彼女を注視したが、答えは返ってこなかった。
 その代わりのように、窓の外では静かに雨が降り始めていた。
 


 終