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<東京怪談ノベル(シングル)>


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 暑い。目覚めてから開口一番、あたしはそう呟いた。
 視界は真黒い。重い目蓋を開けても何も映らず、目隠しでもされているようだった。目を覆う物など何も無いというのに、目蓋を開けても閉じても何も見えない。それは、あたしに子供の頃感じていた夜の恐怖を思い出させた。
「ぁ‥‥う?」
 目蓋をゆっくりと瞬かせながら、あたしは身動ぎする。
 身体を包む熱気は耐えがたい眠気を与えてきた。まるで真夏に分厚い布団を被せられているような感覚。布団に籠もった熱気があたしの体を浸食し、脳を焼いて永遠に目覚めぬ眠りへと誘おうとする。
 そこまで想像して、あたしは漸く自分の置かれている状況に気付くことが出来た。
 ああ、ここは着ぐるみの中だ。
 遊園地や野球場で見掛ける、人よりも一回り二回りも大きな着ぐるみ。その中は真夏でなくとも暑苦しく、視界は狭くて最悪。目前に壁が迫れば真っ暗闇だ。あたしはこれまで色々なアルバイトをしてきたから、この着心地には慣れている。暑くて、動くたびに段々と眠気を感じて意識を失いそうになる。着ぐるみが重くて夏場にもなれば、もう拷問と言っても過言じゃないと思う。
 だからか、あたしは、あまりこの着ぐるみという物に良い思い出がなかった。
 だって、暑い。重い。動きにくい。遊園地なら子供達に蹴られて抱き付かれて追い掛けられて、転んだり壊れたりと散々な目にあった記憶がある。
「んしょっ、と」
 あたしは腕を動かし、ぱたぱたと固い壁のような物を探り当てた。
 それが床なのだと気付くと、両腕を使って大きな体を持ち上げる。まるで腕立て伏せでもしているかのようだ。唯、この着ぐるみはあまり動きやすいとは言い難いため、腕立て伏せなどしたら三回目ぐらいで倒れてしまいそうだった。
 四苦八苦しながらやっとの思いで立ち上がる。すると、此まで真っ暗闇に閉ざされていた視界が晴れて途端に明るい色に視界が瞬いた。その明るさにしばし目が眩み、痛みが走る。どれくらいの間眠っていたのかは分からないけど、どうやらあたしの目は暗闇に慣れすぎて光に痛みを覚えるほどになっていたらしい。
 目を固く閉じて、ゆっくりと開いていく。着ぐるみの手は大きくて、そして顔が着ぐるみの頭に覆われているため汗を拭うことも出来ない。目に汗が入らないように祈りながら、外の世界に目を向ける。
「ここは、どこ?」
 あたしはぼんやりとした記憶を辿りながら、目の前に広がる光景に目を戸惑った。
 あたしが居たのは、見たこともない豪奢で綺麗な王室のような部屋だった。
 彫刻が施された白い壁。足下には大きな絨毯に天蓋月のレースのカーテンが下がっていて、あたしはそのベッドの上に突っ伏すようにして眠っていた。大きなクッションに顔を埋めていたらしく、クッションには顔の形がクッキリと残っている。
 このベッドの上に眠っていたから、余計に暑く感じてしまったのだろう。開け放たれた窓からはいる風がレースのカーテンを揺らしている。その風に当たりたくて着ぐるみの頭に手を伸ばそうとするが、手はミトンのように親指だけが離され、残りの四指は纏められていた。
 お陰で思うように物を掴むことが出来ず、腕が短く大きな頭を持ち上げることも出来ない。体格が著しく変わったために起き上がるにも手間取ってしまった。
「よいしょっと」
 あたしはベッドから下りて、室内を見渡して首を傾げる。
 綺麗な室内には、やはり綺麗なクローゼットや化粧机が用意されている。そのどれにも見覚えがない。
そんな中、大きな姿見を見つけてよたよたと駆け寄ると、そこには一人のお姫様が立っていた。
「‥‥‥‥これが、あたしなんですかね」
 あたしは鏡に向かって問い掛ける。誰も答える人は居ないけど、たぶん回答は肯定だと思う。だって鏡に映ったあたしは、あたしの動きに合わせてぱたぱたと手を振っている。これであたしでなかったら、一体誰だと言うんだろう。
「これって、お姫様?」
 鏡にもう一度問い掛ける。やはり返答はないけれど、鏡に映ったあたしが小さく頷いたような気がした。
 鏡に映ったあたしは、真っ白い純白のドレスを着ていた。それもフリフリのフリルが付いたウェディングドレスのような可愛らしいドレスだ。元々のあたしの身体よりも一回りも二回りも大きくて、それでいて柔らかい身体。白みがかった肌色は、思わず感嘆の声を漏らしそうな程綺麗でドレスがよく似合っている。
 そして、頭の上には黄金の王冠が被されていた。眠っている間もずっと被ったままだったことを思うと、たぶん、頭の上に接着されているのだろう。
 典型的なお姫様姿に、あたしは戸惑っていた。
 このような格好、これまでに見たことがない、と言うわけではない。大きな遊園地に行けば見掛けるし、子供の頃に一緒に写真を撮ったこともある。アルバイトとして頼まれたこともあった。
 しかし、あたしは当惑する。いくら日頃からアルバイトに精を出しているあたしでも、夏場近いこの時期に着ぐるみを着込むようなアルバイトを予定に入れた覚えはない。いや、そもそもこの着ぐるみを着込んだ記憶など何処にもなかった。
 ここに至るまでの記憶を思い起こそうとしても、記憶が霞掛かっていてはっきりとしない。頭は常にボウッとした眠気を纏っていて、目を閉ざすとそのまま眠ってしまいそう。
「いけないいけない! しっかりして!」
 あたしは自分に言い聞かせ、パンパンと左右から頬を叩く。と言っても、着ぐるみの頬を叩いたところで痛くもなければ目も覚めない。思うように動かない身体に、あたしは焦燥を覚えて室内を歩き回った。
「何も思い出さないし、やっぱり外に‥‥‥‥」
 ここに居ても仕方がない。あたしはそう思い、部屋の扉に目をやった。部屋には、普通の扉よりも一回りも二回りも三回りも大きな木製の扉があった。
 たぶん、大きな着ぐるみでも通れるようにと配慮されているんだろう。でも、それなら、せめて取っ手の部分にも気を遣って欲しかった。扉に付いている丸いノブは、スベスベで指の少なく、そして大きい着ぐるみの手では簡単には掴めない。
 あたしは悪戦苦闘の末に、やっとの思いでノブを回すことに成功した。暑苦しい着ぐるみの中で躍起になって動いたため、身体にまとわりついていた汗がより一層の深みを増して実に気持ちが悪い。
「ふぅ、何でこんな事になったんでしょう」
 あたしは息を切らせながら、部屋の扉から外に出た。
 扉の先は、短い通路になっていた。床には絨毯が敷かれ、壁は白い大理石と木目の彫刻で埋められている。
 お世辞を抜きにしても、凄く綺麗な通路だった。だけど、それに見取れることが出来たのはほんの数秒もなかった。
「ほ、本気ですか?」
 誰に問い掛けるでもない、絶望を交えた言葉が漏れる。
 通路の先は、大きな階段となっていた。着ぐるみのサイズを考慮して設計されていると思うんだけど、それでもあたしは不安を隠せない。着ぐるみを着込んだままで階段を下りて、もしも足を踏み外したら‥‥‥‥?
 その場で壁にぶつかって止まるのなら良いのだけど、階段の下までコロコロと転がっていったら目も当てられない。着ぐるみを着込んでいる分、あたしは痛い思いをしないで済むと思うけど、まだあたしが着ぐるみを着込んでいる理由を誰からも聞いてない。
 あたしは慎重に足を動かし、階段を下り始めた。
 ひらひらのスカートと、ほとんど下を見られない頭部のお陰で、あたしは自分の足を確認できていない。感触からして、たぶん手の平と同じぐらい大きな足になっていると思うんだけど、普段とあまりに感覚が違いすぎて動きにくくて仕方がない。
「う、しょ、ぬ、むぅ!」
 慎重に、慎重に、自分でも危なっかしいと思うぐらいによたよたとした足取りで階段を下りていく。
「あ、扉」
 と、そうして階段を下りていくと、今度は先程の部屋と同じような扉が見えてきた。階段の一番下に一メートルぐらいの通路があり、その先に扉がある。階段はそこまで一直線に伸びていて、視界の悪い着ぐるみの中からでも確認することが出来た。
 つるっ!
「きゃぁぁあ!!」
 その扉に気を取られたのがいけなかったのか、あたしは階段から足を滑らせて転倒した。そして階段の上をコロコロと転がりながら落ちていく。全体的に丸みを帯びたデザインだったからか、階段の上をゆっくりとだが確実に落ちていく感覚に、あたしは目を回して従う以外、為す術を持たなかった。
 どかぁん!
 そしてあたしは、扉に体当たりをして停止した。重い着ぐるみの体当たりに耐えきれなかった扉は吹き飛び、あたしの身体も階段の先に放り出されて目を回す。ぐらぐらと揺れる身体と視界。坂を転がるおむすびの心境とはこんな感じなのだろうか。おむすびもこんなに転がされていては堪らないだろうと、あたしは見当違いな同情をする。
「おお! ひ、姫様! みなも姫様! どうなさいましたか!!」
 目を回して倒れているあたしに、誰かが駆け寄ってくる。
「みな、も、姫?」
「姫! ご自分が何者かをお忘れですか? はっ!? まさか頭を‥‥‥‥衛兵! 医者を呼ぶのだ!」
 自分の名前を反芻したあたしの言葉に動転したのか、駆け寄ってきた誰かは騒々しい声を上げて騒ぎ始める。その大きな言葉は、目を回すあたしの耳に突き刺さり痛みを与えてくる。だけど、その痛みが返ってあたしの意識を揺さ振り目を覚まさせてくれた。
 そうだ。あたしの名前は、海原 みなもだ。
 何故、そんなことも思い出せなかったのだろう。まるで自分のことをど忘れしてしまっていたようで、気恥ずかしい。
「だ、大丈夫です。大丈夫ですから、騒がないで下さい」
 あたしは起き上がりながらそう言った。
 あたしを心配して大騒ぎをしていた誰かが、あたしの顔を覗き込む。その誰かは羊のような顔をした老人で、執事のように黒のタキシードに白いシャツを中に着込んでいた。
「あたしは大丈夫です。少し、転んだだけですから‥‥‥‥あなたは紅茶でも持ってきてください」
「し、しかし‥‥‥‥」
「早くしなさい」
「は、ただいま‥‥!」
 執事風の老人は、あたしの言葉に頷いて駆け出していく。
「‥‥‥‥あたしは、今‥‥‥‥なんて?」
 自然と口を突いて出た台詞に、あたしはしばし呆然としてしまった。
 見ず知らずの人間に、紅茶を要求してしまった。それも、かなり高圧的な口調でだ。普段の自分を思い起こしても、そんな口調で話したことなど一度もなかったというのに‥‥‥‥
「え? あれ?」
 普段の自分?
 普段の自分とは、誰のことだ? 普段の自分はどんなことをしている? どんな口調で話している?
 霞の掛かった記憶は未だにはっきりとはしない。自分の過去も、思うように思い出せない。必要な情報を得られない焦燥感に、あたしは知らず知らずのうちに周囲を見渡し、より多くの情報を得ようと動き回っていた。
 ‥‥‥‥あたしが居たのは、王宮の謁見の間のような場所だった。
 大きく長い青い絨毯が、遠くの扉まで伸びて王座への通路を作っている。あたしが居るのは、その王座の真後ろの階段の前だった。目前には綺麗な宝石と黄金で飾られた王座があって、主が座るのを今か今かと待っている。頭上を見上げれば何十メートルも上にシャンデリアがいくつもぶら下がっていて、下を通ろうとするとハラハラしてしまう。今にも落ちてきてしまいそうだと、嫌な印象ばかりが先立った。壁はやはり真白い大理石と頑強そうな木で作られており、王の間に相応しく大仰な彫刻が彫ってあった。人魚やグリフォン、騎士など、その彫刻の種類は多岐に渡っていて眺めていてもなかなか飽きが来ない。
「姫様。お待たせいたしました」
「ん」
 しばし彫刻を見て回っていたあたしは、背後から掛けられた声に振り返り、再び執事風の老人と相対した。
「ふぅ、申し訳ありません。先程は、強く当たってしまって」
「いえいえ。姫様も、少々お疲れのようですから」
 老人はあたしの言葉に気を悪くした様子もなく、自然とあたしを王座へと導いた。よく見ると、王座の隣にはいつの間にやら小さな丸いテーブルが用意されており、その上にはティーセットが一式用意されていた。
 あたしは違和感も覚えることなく、導かれるままに王座へと座り込んだ。
「えっと‥‥」
「どうかなさいましたか? お姫様」
 座り込んでから、あたしは戸惑った。
 何を座り込んでいるのだ。あたしは姫じゃない。いや、この着ぐるみを着ている以上はその“役”なのかも知れないけど、それでも、あたしは事情も知らずに“姫”なんて大役を引き受けるほど自分に自信を持っていなかった――――――――
「いいえ、何でもないわ。良い香りだと思っただけよ」
「それはそれは。お褒め頂き、ありがとう御座います。香りだけと言わず、味もお気に召して頂ければいいのですが‥‥‥‥」
 老人は、そう微笑みながら言った。
 だけど、あたしはその言葉をほとんど聞いていなかった。
 何かが、何かがおかしい。何がおかしいのかは分からないけど、今、何かを忘れたような気がしてならなかった‥‥‥‥
「‥‥ん、美味しい」
 差し出されたカップを手に取り、あたしは紅茶を啜る。芳ばしい香りと甘苦い味が舌の上に広がり、やがてあたしの全身を駆け巡る。紅茶は熱く、それを飲んだあたしの身体も熱かった。だから着ぐるみの中も一段と暑くなって、あたしの頭がゆらゆらと揺れ始める。
「そうだ、着ぐるみでした‥‥!」
 着ぐるみだ。そのことを訊こうとした。何故、ここに居るのか。何をするために、ここに居るのかを訊かなければならない。
「ぬいぐるみですか? ご要望がありましたら、私の方でご用意させて頂きますが」
「そう? それなら、熊の縫いぐるみを沢山部屋に並べて――――そうじゃなくて」
 話を逸らされた。そう思った時には、もう遅い。あたしは、何を言おうとしていたのかを、完全に忘れてしまっていた。
 直前まで考えていたことが思い出せない。思っていることと、口を突いて出る言葉に齟齬がある。思考と行動が噛み合わず、焦燥と不安に駆られてあたしは老人に目を向ける。
「それでは、明日までにはご用意いたしましょう」
「お願い。でも、出来れば街に出て自分で選んでみたいわ」
「申し訳御座いません。国王様より、それは固く禁じられておりますので」
 老人はそう言って頭を下げる。
 いつもそう。お父様は、いつでもわたしを子供扱いして、城の外には出してくれない。
 わたしは毎日、城の中で過ごしている。その日常には飽き飽きしていて、一度でも良いからお供を付けずに町の中を歩いてみたい――――
「‥‥‥‥お父さん?」
 とは、誰のことだったか‥‥‥‥?
「では、姫様。私は、これより務めが御座いますので」
「ええ、いつものように大人しくしているわ。行ってらっしゃい」
 わたしは突き放すように老人にそう言うと、王座から立ち上がって振り向いた。視線の先には、壁を覆うカーテンに隠されるように佇む“扉”がある。
「あれ?」
 その光景に、あたしは違和感を覚えて踏み出そうとした足を止めてしまった。
「この扉‥‥‥‥」
 この扉は、ここにあっただろうか。違和感の正体が分からず、あたしは“扉のノブを回して”その先にある階段を見上げてみる。
 違和感はない。ここに階段があることは知っていた。この扉の先に自分の私室があることも知っている。
 わたしは、一体何を迷っているのだろうか。
「まったく。今日も退屈な日になりそうね」
 わたしはそう呟きながら、スカートを軽く持ち上げて階段をゆっくりと上っていった‥‥‥‥‥‥‥‥



 出入りが激しい。自分でもそう思う。記憶が断続的に蘇り消えていく。昨日のことが思い出せない。一秒前のことも思い出せない。なのに、何年も前のことを思い出したり忘れたり、あたしはわたしのことが分からない。悪い夢を見ているようだった。
 暑い。苦しい。息苦しい。寒い。重い。自分の身体が自分の身体ではないような気がする。大きな体を起こし毎日老人の入れた紅茶を飲み美味しいお菓子を食べ城内を探検し衛兵を追いかけ回して遊んで暮らす。偶に庭にまで出て、庭園の薔薇を眺めて過ごす。城門の近くまで行って、来客が来て開く城門から外の世界を眺めてみる。
 子供の頃から見続けてきた光景。何一つとして変わらぬ日常。最近日常に加わった勉強や習い事が鬱陶しくて、わたしは習い事から逃げ回ることもあった。
「何をしているんだろう。あたし」
 呟き、あたしは窓から見える光景に溜息をつく。
 あたしの部屋の窓からは、城下町が一望できる。城を出てすぐにある繁華街に学校、中小企業が進出して出来た小さなビル群に見渡す限りの民家の森。あたしが何年間も過ごした町が、家族がそこにある。
 わたしの部屋の窓からは、城下町が一望できる。城を出てすぐにある繁華街に学校、小さなビルの群れに見渡す限りの民家の森。遠くからしか眺めることしかできない世界が、そこにある。
「どうしてなんだろう。わたしは、なんで」
 何で、あの町で生まれなかったのか。
 記憶に矛盾が発生する。違和感に襲われる。何かを思い出そうとする。けど、それも気にならなくなっていた。何日もの間、わたしを蝕み続けていた不安や焦燥も、もう何もかもがどうでも良い。違和感の正体など考えても分からない。最近は意識もはっきりとしてきた。時々夢の中にいるような感覚に陥るけど、それも所詮は夢の中。目を覚ませば、夢の内容は消えてしまう。
 だけど、このお城の中に居ると、堪らなく外の世界が恋しくなる。
 このお城から、離れたい。あの街並みの中に出て行きたい。
 このお城から、離れたい。あの街並みの中に帰りたい。
「‥‥‥‥よし、行っちゃおう!」
 わたしは意を決して準備を始める。
 ベッドのシーツを剥ぎ取り、スカートの中に隠す。わたしのスカートは他の人達のよりも少し大きいから、シーツを畳んで隠していても簡単には分からないだろう。念のため姿見に姿を映し、確認する。
「――――――――あたしは」
 変わってしまった。年相応に若々しくはあるけれど、あたしの肌は以前よりもより白く、だけど以前よりも少し太めに身体が変わっていた。毎日、あたしはこの姿見を眺めている。少しずつあたしの身体は、細く小さくなってるようだった。
「よし、これで問題はないわね」
 わたしは外から見ても外見に不審な点が無いことを確認すると、早々に部屋を出て行った。
 前はこの階段から滑り落ちたりもしたけれど、今では駆け下りても危なっかしい事にはならない。タタタタタと足音を響かせて階段を駆け下り、翻るスカートにだけ注意しながら、わたしは謁見の間にまで降り立った。
「おや、姫様。どちらへ参られるので?」
 と、謁見の間に辿り着いたところで、爺やに出会した。
 わたしを幼い頃から世話してくれていた爺や。その爺やに迷惑を掛けるのは気が引けるけど、でも、ずっと我慢に我慢を積み重ねていたわたしは、自分を押さえることが出来なかった。
「少し、庭を見に行くの」
「こんな時間にですか?」
「夕日に紅く染まっていて綺麗なのよ。あなたも来る?」
「お供いたしたいところですが、これから侍女達の様子を見に行かなければならないのです」
「あら、そうなの? 残念ね」
 勿論本心ではない。これから大脱走をしようと言うのに、付いて来られては堪らない。
「偶に見て回らないと、お喋りして仕事をサボる者が出て来るので‥‥‥‥まったく、これだからあの女達は‥‥‥‥」
「ふふ、頑張ってね」
 わたしはぶつぶつとぼやいている爺やの肩を叩いて、すぐに庭に抜けた。わたしがこの庭を気紛れに散策するのは、城の誰もが知っていることだ。だから、わたしが居ることを見ても不審に思ったりはしないだろう。
 ‥‥‥‥大脱走なんて大層なことを行っても、実のところ、わたしは複雑なことを考えるのが苦手だった。
 だから、わたしの計画なんて至極単純だった。正々堂々、真っ正面から出て行ってしまおう。
「おや、姫様。どういたしました?」
「うふふ、ちょっと、外の世界を見に、ね」
 門番の兵士達に微笑みながら、わたしは兵士の顔を窺っていた。
 お城の門番は、いつも二人で行動している。その二人の顔は、いつもは眠たげだったり楽しげだったりするのだけれど、今日は何時にもなく引き締まっていてピリピリしている。
 それは、姫であるわたしが来たからでも、あたしが来たからでもない。もうすぐここを通る“あるお方”を向かえるため、神経を張り詰めさせていたのだ。
「今日は、わたしもこちらでお父様をお出迎えしたくなりまして、こうして出向いてきてしまいました。御邪魔でなければ、こちらの詰め所で待たせて頂けませんか?」
「それはそれは、国王様もお喜びになりますよ。ささ、こちらへどうぞ」
 兵士は一瞬、お互いに目配せするけど、お姫様であるわたしを相手に嫌だとは言えなかったようだ。わたしは門の傍らにある詰め所に案内され、その中で静かに待つことにした。
(これで、もうもう少しで)
 あたしの世界に変えることが出来る。
 わたしの世界を変えることが出来る。
 チックタックチックタック‥‥‥‥テーブルと椅子しかない、殺風景な詰め所の中で静かに時計が針を刻む。部屋の中にある、高い壁際にある大きな明かり窓は、詰め所からでも外の様子を監視できるようになっているのだろう。高い塀の外側、城下町側を見られるようになっている。
 小さな味気ない部屋で、何をするでもなく時を過ごしていると、まるで世界に唯一人になったような寂しい虚無感に襲われる。
 このまま、ずっとここに座っているのだろうか。誰も来ないのだろうか。何も起きないのだろうか。嫌な想像ばかりはあたしの不安を駆り立てる。これから行おうとしている行いに、“本当にしても良いのか”と心で誰かが問い掛ける。
 ガラガラガラ‥‥‥‥その問いに答える前に、わたしの耳に聞き慣れた馬車の音が聞こえてきた。
「お父様だ」
 そう呟き、わたしは形振り構わずに走り出した。詰め所の前にいた兵士達が門を開き、その傍らに立ち槍を構えて自らの主を迎え入れる。
 カッパラカッパラガラガラガラ。馬の足音と車輪が砂を潰す音が聞こえてくる。それと、大勢の足音も。
 わたしはその騒々しい入場の音に紛れて、スカートに隠していたシーツを取り出した。
「これを、こう結んで‥‥‥‥」
 わたしはシーツを結び合わせて長い紐を作り出した。そしてそれを詰め所の椅子に結び、その椅子を積み重ねる。
 二段、三段。紐を結びつけた椅子を一番上に置いて、わたしはその椅子をよじ登った。
 ガラガラガラ。音が一層近くなる。急がないと。わたしは椅子をよじ登り明かり窓の中に身体を潜り込ませ、そしてその向こう側に顔を出す。
 ‥‥‥‥懐かしいような、しかし始めてみる世界が広がっている。
 あたしはシーツを手繰り寄せると、椅子が窓枠に引っ掛かるように何度も調整してから、紐を手にしてゆっくりと外へと下りていった。明かり窓は、外からではと国高い位置に来るように作られていたらしい。地面までは、たぶん五メートルぐらいはある。落ちたら怪我は確実だろう。紐を用意しておいて本当に良かった。最悪の場合、門番に被せて強行突破しようとも思っていたから、ホッと胸を撫で下ろす。
 ガラガラガラガラ。もう、あまり時間はない。お父様が完全に門の中に入ってしまったら、門番はすぐにわたしを呼ぶだろう。そして居なくなっているのを見れば、外に抜け出したことにもすぐに気が付く。このままここに居ては捕まるだけで抜け出した意味がない。
(せめて、街まで行ってみよう)
 お父様が追っ手を差し向けてくるのは先刻承知。わたしは、その追っ手が来るまでの間、街を見て回りたかった。
 お城から街まで、距離らしい距離なんてほとんど無い。もう、城下町の真ん中にお城が建っているようなものだ。
だから、わたしは走った。すぐに捕まるだろうけど、わたしは街を見ていける。短い時間だけでも、この街の中で生きていたい。
「ふふ、うふふふふふふふ‥‥‥‥」
 見慣れている憧れの街。初めて見る懐かしい街。
 聞き慣れた雑踏の音に聞いたことのない大勢の足音。視線に声に音に街並みに、わたしの胸が満たされていく。
「ふふふふ、ふふふふふふふふ」
街行く人達が奇異なモノを見るように視線を向けてくる。まぁ、街中にドレスを着込んだお姫様が紛れていれば、誰もが驚き目を丸くするだろう。わたしはその視線も何もかもが新しくて懐かしくて恥ずかしくて、頬を紅く染めながら街中を歩いていく。
「ああ、この町に‥‥‥‥」
 漸く、帰ってこられたような気がする。
 あたしは、懐かしい街を歩きながら、眠たい頭を揺り動かす。
「お父様が気が付くまで、そんなに掛かりませんよねぇ」
 時間がない。だけど、ここまで来たのならば、もう焦る必要もないだろう。
 わたしはお父様の追っ手が来るまでの間、いつまででも街を見て回ることにした。
 いつまでも、いつまでも‥‥‥‥いつまでも――――――――――――――――――――




Fin




●●あとがきゅ!(噛んだ)●●

 今回の話にはどうしたものかと唸ったメビオス零です。
 清楚可憐なお姫様‥‥‥‥ぬ、どんなキャラだったか。思えば私が思い描くお姫様って、何故か御転婆系なんですよね。好みの問題なのか偏見なのか、少なくとも、現実的には御転婆系はいないでしょうにねぇ、何ででしょう。
 なるべく文字数を詰めて詰めて凝縮して、結局半端に長くなってしまいました。もう少し詰めて書かないとダメですな。それでいてもっとこう、ホラー風味に出来ぬものかと‥‥‥‥色々読んで勉強して見なきゃ、ですね。
 今回、所々に矛盾した言葉が前後に並ぶように配置されています。
 何処から何処までがみなもさんの意識で何処までがお姫様の意識でしょう! バレバレですけどね!!
 やぁ、参りました。人格の浸食、多重化は難しいですな。これまでの作品を読み返してみようかと思う今日この頃。
 では、今回の後書きはここまでにしておきます。それと、最後に、また納品が遅れてしまい申し訳ありませんでした。


 今回のご発注、誠にありがとう御座います。
 いつもいつもファンレターを送って頂き、誠にありがとう御座います。これからもご意見ご感想ご指摘ご叱責は何時でも歓迎しておりますので、遠慮容赦なく送って頂ければ幸いです。
 では、これからもご満足頂けるように精進して参りますので、よろしければどうかよろしくお願いいたします。(・_・)(._.)