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<東京怪談ノベル(シングル)>


夜光虫 1

かつん、と床に足音が響く。
見えない線の上を行くように、硬質な音が一定のリズムを刻む。
ここは自衛隊、特務統合機動課の施設。特殊部隊の中でも公式には存在を認められていない部署である。当然人の行き来など他所に比べればないに等しく、底冷えするような静寂が常であるこの施設を、今、一人の女性が目的地に向かっていた。
そう、女性である。
無機質な通路を行く彼女の姿は、雑踏ならばさぞかし目立ったことだろう。
容貌はもとより、曲線で構成された女性の身体で特に目を惹くのは胸部と脚部――タイトスーツであるにもかかわらず同性異性問わず一瞬は必ず凝視するだろう圧倒的な質量が、まっ先に存在を主張する。
一言で表せばグラマラス。それでいて歩くたびにさほど揺れるわけでもない。見る者が見ればそれが何故かはすぐに理解でき、彼女がただの華ではないのだと見做すだろう。それは歩む彼女の身体の芯に全くぶれがないからであり、一朝一夕で身につく重心の取り方ではないからだ。
視線を下にずらせばそこもまた、一見して女性的魅力を発している。
タイトスカートとは女性の腰から太腿にかけての脚線美を最も引き立たせるように仕立てられたものなのだと、そう言われれば誰もが思わず納得するだけの輪郭がそこにあった。
途切れることのない一本の線で描かれたような流麗な脚部。
ヒップラインから続く側面の磁気ファスナーの端にはスリットが入れられ、そこから肌色より僅かに濃いベージュのストッキングに包まれ降りる脚は、引き締められたふくらはぎを経て、終点で踵の低い黒のパンプスを履いていた。
その足の歩みは、歩幅を常に一定に保っている。
まろやかな造形に隠されたそれらはとりもなおさず、ある種の訓練を受けた存在であることの証左だった。
齢19ながら、外見に似合わぬ鍛錬を積んだ戦闘者。
なんとなれば、水嶋琴美は忍者の血を引く家系に生まれ、またかくあるべしと己自身でそう定めた、現代のくのいちなのだ。
成程、肩口から胸へと滑らかに降り、また背を覆うまっすぐな黒髪は、染めるということも傷むということも知らないかのようなぬばたまの黒だ。揃いの黒の双眸とあいまって、面差しも笑えばさぞかし花が咲きこぼれるようであろうと思わせる。
そんな少女の残り香を漂わせる容貌に対し、首から下はとうに成熟した女性のものだ。本来それらは違和感すら感じさせかねないものであったが、相対すればそのアンバランスこそが蠱惑的。あどけない少女と爛熟した『女』の境界を渡り歩き、己の印象を変幻自在に操ることで、あらゆる場所、あらゆる状況に溶け込み、情報を収集し、命を摘み取る戦闘者。
そんな彼女にとって、肉体とは自身第一の武器である。武器の手入れを怠る戦闘者など二流以下だろう。
彼女の美しさは、即ち彼女の強さの一つであった。
傷なく磨かれた玉鋼の刀、それが水嶋琴美という存在だった。

*

特務統合機動課司令室の机の上は、課の規模から言えば雑然としていた。バインダーや封筒、果ては透明なケースに入った記録媒体がちょっとした山を形成している。いつ来ても、だ。
無秩序に積み上がっている中でそれでもやっていけるのは、机の主には何がどこにあるかきちんと頭に入っているからだろう。
今も顔すら上げず山の一つから書類を取っていく手がある。それにしばらくペンを走らせ、末尾にサインし、別の山の一番上に乗せた所でようやく司令が顔を上げた。
「呼び出しておいて待たせてしまいすまない。姿勢を楽にして聞いてくれ」
「はい」
執務机から数歩離れた所で休めの姿勢で立った琴美は、続く言葉に耳を傾けた。
「今回の君の任務はかねてから調査していた敵施設への潜入、および施設内に潜伏している目標の抹殺だ。目標の名はギルフォード。詳しくは資料にあるが生来の犯罪者とでも言うべき相手で、かなり気まぐれだ。明日にでも行方をくらませる可能性が充分な程に」
――非公式であろうと、琴美がいるのは上官の命令一つで戦場に赴く組織である。任務に対し理由を尋ねたり、また疑問を口にすることは許されない。
「よって所在が明らかな今、好機を逸するわけにはいかん」
速やかに目標を抹殺せよ。
下された命令に、琴美は表情を引き締めて司令に敬礼した。

*

最前までのやりとりを脳裏で再生していた琴美は、自分のロッカーのドアを開けるとタイトスーツの上着をばさりと脱いだ。
そこには彼女だけの戦闘服が待機している。
更衣室の蛍光灯に照らされて、戦場への最初の扉が口をあけている。
ハンガーにかけられているのは、両袖を戦闘用に半袖位までに短くしてある着物とミニのプリーツスカート。着物の内側には半幅帯に近い帯がかけられている。
下には金網状の棚があり、インナーとスパッツがビニール袋の中で鎮座している。隣にあるグローブも、シームレスの下着一式も、床にある網み上げのロングブーツも、全て闇に沈む揃いの黒色。
そして下着から帯に至るまで全ての素材は、彼女のための特殊繊維でできている。緻密に織られ、幾層にも重ねられた布地は、伸張性・吸湿性のみならず衝撃吸収や耐切創性能の高い代物だ。
琴美は現状、これらを上回る自分用の戦闘服はないと思っている。
腕力が男に許された優位なら、素早さは女に許された優位のひとつ。その点、自分の戦闘服は自分の動きを阻害することはない。だから今まで無傷で任務をこなしてこられたのだ。
パンプス、タイトスカート、ブラウスと殻を脱ぐように次々と取り去り、上着同様にハンガーにかけてしまうと、半裸を彩るのはキャミソール、そしてストッキングを吊り下げるガーターベルトまで含めて豪奢なレース地でできた揃いの下着だけ。琴美はそれらも全て身体から外し、かわってビニール袋を手にしては封を破り中身を身につけていく。
身体に密着するインナーが、黒衣の面積が増えるにつれて、ゆっくりと、しかし確実に、意識が塗り替えられていく。
ある種の恍惚に近い高揚が、水位を静かに上げていく。
プリーツスカートを穿き、単衣めいた着物に袖を通して、手馴れた様子で帯を締めてぐるりと後ろに回すと、琴美はロッカーの中で唯一四角いケースに納められたものを取り出した。
中身は彼女の最も愛用する武具。
よく研がれつや消しの黒色に塗られたクナイと、クナイを装備するためのベルトがそこに収められていた。
琴美は大胆に片足を上げると、傍のベンチに足を乗せ、スパッツと肌との境界線近くにクナイを取り付けたそれを巻いていく。
半襦袢も同然な丈のプリーツスカートの裾から、惜しげもなく魅惑的な太腿がさらされる。陽に当たりにくい部位であるが故に他の肌より一段白いそこへ、意外な程に節の目立たない指が絡みつく。
取り付けが終わり、ベンチに座って編み上げのブーツに足を通し靴紐を結び終えた時には、琴美の頭の中でスイッチが入っていた。
グローブをはめたその手で、ロッカーを閉め、鍵をかける。
残響の中、ロッカーのドアに取り付けられたごく小さな鏡に、氷柱の輝きを見せる黒瞳が映る。
冷たく静かな闇の中で、自信と、自負が、花弁を開く。
数瞬、鏡の中の己と向き合っていた琴美は、やがて身をひるがえして更衣室を後にした。
弧を描いてなびく彼女の長い髪が、任務の成功を確信するように踊った。